2018年11月11日 大阪東教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)「良い羊飼い」吉浦玲子
<門はひとつ>
救い主イエス・キリストのことが羊飼いに例えられています。その羊飼いは門を通ってくるのです。あっちの柵を乗り越えたり、こっちの裏口から入ってくることはないというのです。つまり救いはあちらからもやってくるし、こちらからもやってくるということではないのです。自分の羊の名前を知っている羊飼いのようなただお一人の救い主が、正しい門を通って人間のもとに来てくださり、救いへと導き出してくださるのです。
この世界には、人間に喜びを与えるもの、癒しを与えるものがたくさんあります。ここにきたらリラックスできる、これを信じたら幸せになれる、そういったものが世界には満ち満ちています。そしてあちらからもこちらからもそういったものがやってくるのです。テレビのチャンネルをいじっていても、インターネットを見ていてもそうです。これはいいですよ、これはためになりますよ、これをやらなければ幸せになれませんよ、そのような声であふれています。しかし、人間をまことに救ってくださる救い主は、門から入って来られるのです。
このたとえ話は当時のイスラエルの人々にはとても分かりやすいものでした。実際、羊飼いは門を通って羊の群れのところにやってきて、羊を外に連れ出し、牧草を食べさせます。そしてまた門を通って羊たちを安全な柵の中に戻します。もともと野生の羊も群れで行動する性質があり、導くものについていく性質があるそうです。まして家畜として飼われている羊である場合、羊飼いがいなければ食事をすることもできません。羊の命は羊飼いにかかっているのです。羊飼いがいなくては移動するにも迷ってしまいます。<迷える小羊>というのは、世間において、多少茶化すような感じで語られることもある言葉です。そもそも羊は弱い動物です。獰猛な肉食動物に襲われたらひとたまりもありません。そして恐れを感じたらパニックを起こしやすい性質があるそうです。一匹がパニックを起こすと、それが群れ全体に連鎖して、大混乱になるそうです。そのような羊を導く羊飼いの仕事は相当に熟練を要するものだそうです。そして、当時、羊飼いたちは羊一匹一匹の名前を呼んだようです。羊一匹一匹のことを羊飼いはよく知っていたのです。そして一匹一匹の名前を呼んで門の中から出し、また門の中へ入れるのです。神戸の六甲牧場に行きますと、多くの羊が放し飼いされています。一般の人間から見たら、羊はどの羊も同じように見えます。せいぜい体の大きさが少し違うというくらいしか差は分かりません。しかし、羊飼いは一匹一匹を良く知っているのです。その性格も癖も良く知っているのです。そんな羊飼いのように救い主は私たちのことをご存じなのです。一人一人のことをご存じなのです。私たちが自分では気づいていない自分の心も、あるいはすでに忘れ去っているような過去も、その喜びも悲しみも知っておられるのです。
その羊飼いと例えられている救い主が入って来る門はどこなのか、それは教会であり、聖書の言葉です。<羊は羊飼いの声を知っている>と書いてあります。しかし、私たちは羊飼いの声を知っていたでしょうか?私たちは異なる声について行っていたことはなかったでしょうか?私は、長い間、違う声に従って歩んできました。門を知らなかったのです。そして私は門ではないところから入ってくる盗人についていく羊でした。しかしそのような羊をも羊飼いである救い主は安全な柵の中にやがて導いてくださいました。
いまや、すべての人のために救い主が来られたからです。それがクリスマスの出来事でした。その救い主の声を聞きとって、ついていく者は迷わないのです。今日は逝去者記念礼拝です。かつてこの教会に在籍され、いまは神の御許で眠っておられる人々は、門から入って来られる羊飼いである救い主と共に生涯を歩まれました。時に迷いつつ悩みつつも、その長い道のりを、終わりまで羊飼いであるイエス・キリストから離れることなく歩まれたお一人お一人です。キリストにそのすべてを知っていただいていたお一人お一人です。
<救いの門と罪>
さて、7節には「わたしは羊の門である」と主イエスはおっしゃっています。1節からの譬えでは、主イエスご自身が門から入ってくる羊飼いであるというように読めるのですが、ここでは今度はご自身が門であるとおっしゃっています。さらに読み進んでいきますと、主イエスはご自分が良い羊飼いであると語っておられます。「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に私は来たとおっしゃっています。さきほど、門は教会であり、聖書の言葉であると申しました。聖書の言葉とはキリストそのもののことです。聖書という書物、そして聖書に書かれているさまざまな文章は、一般的な物語や詩や歴史書として読むことも可能です。しかし、私たちに神の力が及ぶとき、つまり聖霊の力が及ぶとき、その聖書の言葉はキリストそのものとなります。では教会とは何でしょうか?聖書の内容の講義を受ける場でしょうか?そうではありません。共に礼拝をするとき、まさにキリストがおられる場となるのです。そしてさらに言えば、門は十字架を指します。門を通って私たちは命を受けます。キリストの十字架によって永遠の命を受けます。
良い羊飼いは羊のために命を捨てると主イエスは語られています。つまり良い羊飼いである救い主ご自身が十字架にかかり命をお捨てになる、そう語っておられます。良い羊飼いが命を捨てられるゆえに、十字架におかかりになるゆえに、私たちには命への門が開かれました。十字架こそが命への門だからです。
いまや命への門が開かれましたた、、、、しかし、私たちは思います。現実に、私たちの愛する家族は、そして兄弟姉妹はこの地上から去って行ったことを。私たちは、かたわらでさっきまで感じられていた呼吸が止まり、体からぬくもりが失われていくことを身近に体験しています。死はまぎれなくこの世界にあります。むしろこの世界は死に覆われているといってもよいのです。なぜこの世界は死に満ち満ちているのでしょうか。それは人間の罪のためです。伝道者パウロは「罪の報酬は死」であると言いました。神への背き、神から離れていること、それが罪です。その罪の報酬として死はこの世界に入ってきました。それはアダムとエバの時代からでした。アダムとエバの時代から人間は神から離れ神に背いて来たのです。しかしまた私たちは思うのです。特に日本で生まれ育ったものは、多くの場合、神を知らなかった、と。だから神から離れるも何も、そもそも神を知らないのだから、神から離れることが罪だと言われても困ると。
しかしまた一方で感じるのではないでしょうか?クリスチャンホームで育った方も、わたしのように身近にクリスチャンがいない環境で育った者も、心の中に、どうしようもない渇きのような、満たされないような思いがあることを。順風満帆なときも心のどこかに不安があります。まして困難な時、挫折したとき、孤独な時、私たちの心の奥には渇きがあります。私たちは迷える小羊ではなく、自分で道を歩み、自分で生きてきた、そう思おうとします。しかし一方で、心の奥にはなにか不安がありました。希望がついえるようなときがありました。絶望とまでは言えなくても、満たされない思いがありました。私たちは自分は迷える小羊などではないと考えようとしてきましたが、やはり迷っていたのです。私たちは自分だけで完結できない、完ぺきではないことを知っていました。まだ神と出会う前、良き羊飼いと出会う前から知っていたのです。完ぺきではない、それは私たちの内側に潜在する罪によって私たちには欠けたところがあった、そのかけたところをどうにかして埋めたい、そういう願いを無意識のうちに持っていたのです。
私たちは気づいていないようでぼんやりと気づいていたのです。自分たちのうちに罪があることを。罪という言葉では知らなかったかもしれません。しかしまた、ぼんやりとは気づいていても、キリストと出会わなければ、永遠にはっきりと気づくことはなかったのです。漠然と感じてはいても自分たちのなかの欠けたところを、それが罪の故であると、知ることはなかったのです。そして迷いながら歩んでいたのです。
しかし、キリストは私たちと出会ってくださいました。私は門である、命への門である、豊かに命を与えるとおっしゃっています。この門はあっちにもあるこっちにもあるという門ではありません、ただ一つの門です。そしてまたこれは気休めの言葉ではありません。なぜなら2000年前、たしかに十字架の出来事は起こったからです。歴史的事実として主イエスは十字架にかかられました。そして三日目に復活をなさいました。キリストは肉体を持って復活されました。もちろん2000年後の私たちは、肉体を持って復活されたキリストを肉眼で見ることはできません。しかし、出会うことはできるのです。信仰において出会うのです。信仰において出会うということは単なる思い込みや心の中での思い出として出会うというようなことではありません。私たちは確かに出会うのです。はっきりと生きておられる復活のキリストと出会うのです。まだこの中には出会ったことのない方がおられるかもしれません。しかし必ず出会えます。
なぜなら良い羊飼いは自分の羊を知っているからです。そしてまだ出会っていない、つまり囲いに入っていない羊をも導く、そうおっしゃっているからです。ですから、まだ出会っておられない方も、必ず出会うのです。必ず、その救いの囲いの中に入れていただけるのです。救いとは罪の赦しでありました。十字架によって私たちの罪は赦されました。キリストが私たちの代わりに罪の罰を父なる神から受けてくださったからです。それが十字架でした。十字架の門を入って私たちはいま憩いのうちにあります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と詩編23編にありましたが、羊飼いに飼われる羊である私たちは、内側も外側もいまや欠けることがないのです。
<あふれる恵みは死を超える>
すでにこの地上を去られた兄弟姉妹もその欠けることのない恵みのうちにありました。しかしそれは、ただ生きているときの心の安らぎや支えであったということではありません。キリストは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とおっしゃいました。ここで語られている<豊か>とはありあまるほどの豊かさをあらわします。あふれている状態なのです。そのあふれる豊かさ、ありあまるほどの豊かさとは、良き時も悪い時も変わらぬ豊かさです。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。」そう詩編にありました。死の陰と思えるようなところを歩むときも、羊飼いに導かれるならば恐れることはない、困難の時、苦しみの時もなお注がれる豊かさがあるからです。
ところで、多くの教会が長く親しんできました信仰問答というものがあります。問答の形で信仰の教えが書かれたものです。そのひとつにハイデルベルク信仰問答があります。129の問答からなっています。その最初の問いが、「生きるときも死ぬ時もあなたのただひとつの慰めは何ですか?」です。慰めについてはいくたびか語ってきたことですが、日本語のニュアンスでは「慰めなんていらない」というように消極的な感じです。しかし、この問答でいう慰めはもっと強いものです。力を与えるというニュアンスがあります。生きているときも死ぬ時も、私たちに力を与えるもの、それは私たちがキリストのものとされているという事実だと信仰問答は答えます。つまり私たちが羊飼いのものとされている羊であるということがほんとうの慰めであるというのです。キリストの羊であることが、私たちの力の源であるというのです。死の陰の谷を行くような危機の時も本当に力になる、それがキリストと共にあること、キリストのものとされていることなのです。キリストが門であり、門であると同時に、最後の砦でもあるからです。
今年は関西も地震があり台風がありました。これからも大きな自然災害が来るかもしれません。そしてまた世界はどうなっていくのかそれもわかりません。しかし、どのようなときでもキリストはただ一つの門であり、最後の砦なのです。私たちが生きるときも死ぬ時も砦なのです。それはキリストが死を超えて復活をなさったからです。良き羊飼いは死を超えて私たちを招かれます。今日も招かれます。永遠の命へと開かれた門へ私たちは入っていきます。