大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年12月6日主日礼拝説教 詩編51編

2015-12-08 18:45:04 | 詩編「

説教「新しい創造」吉浦玲子

 主イエスは、地上における歩みの中で、普通の人間と同様のさまざまな喜怒哀楽を味わわれました。共に親しい人と交わる喜びもあれば、裏切られる痛み悲しみも味わわれました。肉体的な飢えや乾き、衰弱も経験されました。神の御子でありながら人間と同じような経験をなさいました。ですから主イエスは私たちの痛みも苦しみもよくよくわかってくださる方だと私たちは信じています。

 しかし、受洗して間もないころでしたが、わたしはある時思ったのです。たしかに主イエスは一般の人間と同じように喜びも苦しみも悲しみも味わわれたかもしれません。でも、ひとつだけ味わっておられないことがある、と。それは罪を犯したことの後悔の念は味わっておられない、まったく罪を犯されなかったのですから、なんで自分はあんなことをしてしまったのかという後悔や、ああなんてことをしてしまったんだろうという自責の念はご存じないのではないか、そういう苦しみはご存じではないのではないか、そう考えました。

 人間の人生の中で、だれかのせいで自分が苦しみを受けるということももちろん耐えがたいのですが、自分自身が誤りを犯してしまう、場合によって人を傷つけてしまう。その自責の念、後悔、その苦しみも大きなものです。イエス様はそういう思いはご存じないのではないかと思いました。

 そのことを洗礼を授かった牧師にお聞きしましたら、「後悔という点ではそうかもしれないねと」おっしゃいました。「しかし、後悔というのは罪という本質的なものの影のようなものです。罪が神と切り離されるものであるなら、その結果の影のようなものの一つとして後悔や自責の念があるのだ」とおっしゃいました。主イエスは、十字架の上で、罪人として神と切り離されるという苦しみを受けられました。十字架の上で「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」と叫ばれた、神よどうしてお見捨てになったのかと主イエスは叫ばれました。これはまさに主イエスが罪の報いとして神と切り離されたときの言葉です。罪なきイエスが人間の罪を負って神に罰せられた、神から切り離されたのです。それこそが霊肉共に最大の苦痛なのです。ですから主イエスは罪に起因する苦しみをすべてお受けになったといえるのです。こういう話をいたしますと、いま待降節で、クリスマスの前の時期なのに、少し季節がずれているのではないか、なぜ罪とか後悔とか十字架の話をしているのかとお思いになるかもしれません。

 しかし、罪と十字架のことを抜きにしては、キリストの降誕の出来事はやはり語れないのです。

 本日、詩編51編をお読みしました。悔い改めの詩編として名高い詩編です。ダビデはイスラエルの歴代の王の中では、もっとも神に忠実に歩んだ王であったといえます。しかし、ダビデといえど人間ですから、どんなに神に忠実であったとしても、完全に罪なき人生を送ったわけではありません。大きな罪、小さな罪をいくつもやはり犯したのです。

 本日、お読みした詩編51編は、ダビデがその人生でもっとも大きな罪のひとつを犯した出来事に関わっています。1節にはバト・シェバの名前が見えます。長く教会に来られている方はこのバト・シェバの名前を良くご存知の方もおられるでしょう。バト・シェバはウリヤの妻でした。ウリヤはダビデの部下でした。ウリヤの妻であったにもかかわらずダビデはバト・シェバを自分のものとし、さらにバト・シェバが妊娠した後は策略を使ってウリヤを殺してしまいました。それは人間として赦しがたいことです。人間として赦しがたいことのみならず、権力者が権力を使って部下を殺してしまうという点に置いて、権力者の罪としても大きな出来事でした。その出来事を下敷きにして作られた詩編です。

 さきほども申し上げましたように、ダビデは歴代のイスラエルの王の中でもっとも神に忠実であったとされています。救い主はダビデの血筋から現れるというのも、ダビデという存在がとても大きなものであったことを示します。しかし、人の妻を盗みその夫を殺すような、そのような罪を犯すダビデが本当に神に忠実であったといえるのでしょうか。実際、あるクリスチャンの小説家は、このダビデの不倫と殺人の問題を考えると詩編51編なんて赦せないと、その著書の中に書いておられました。けがらわしい王の悔い改めの詩を良いとは到底思えないとその方はおっしゃっていました。

 しかし、その小説家がなんといおうとこの詩編51編は、詩編のなかで23編などと並んで、世界中で愛されているもののひとつです。多くの教会の礼拝で悔い改めの交読文として読まれることも多いのです。それは、この51編にはやはり神の前で赦しを求める人間のまことの姿が描かれているからです。

 サムエル記11章~12章にダビデとバト・シェバの顛末は出てきます。ウリヤを殺したあともダビデはその罪に気づいていませんでした。預言者ナタンに叱責されてはじめて気づいたのでした。サムエル記には、ナタンが裕福な男が貧しい男のたった一匹の羊を奪ったたとえ話をして、ダビデがウリヤの妻を奪いウリヤを殺したことの罪に気づかせた話が出ています。そして、ようやく自分の罪に気づいたダビデはこう言います。「わたしは主に罪を犯した。」と。

 ウリヤに罪を犯したとか、王としてあるまじき誤りを犯したというのではなく、神に罪を犯したとダビデは言っているのです。

 ちなみに日本であれば、大きな悪事がばれた場合、「世間をお騒がせしてしまった」とか「被害者に申し訳ない」ということが第一に出てくるでしょう。

 しかし、ダビデは、罪というものの本質を良く分かっていたのです。もちろんウリヤに対して、たしかにとりかえしのつかないことをしました。しかし、その罪の本質は、なにより神に刃向った、神と断絶をしたということです。ですからダビデは「わたしは主に罪を犯した」と言ったのです。

 主に罪を犯した、という言葉からも分かるように、神という絶対の存在がなければ、本質的に罪は存在しません。本質的な罪がなければ、バレさえしなければ何をしても良いということになります。せいぜい人間対人間が心地よく暮らせるように相互に欲望をコントロールしてルールを決めて生活をしていく、そのルールから逸脱したものを罰すればよい、そのようなことになります。しかし、聖書の言う罪はそうではありません。ダビデの認識した罪も第一に神に対しての罪でした。

 詩編51編6節に「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御眼に悪事と見られることをしました」とあります。神がなければ罪はないのです。罪がなければ人間だけが心地よく暮らせればよいのです。

 クリスマス商戦がたけなわのこの12月、多くの人はまことの神と神の御子のことを知らず過ごしておられます。もちろん神を知らなくても多くの人はそれぞれに良心に従って実直に誠実に、家族や友人を大事にして生きていかれています。神を知らなくとも人間として誠実に充実した日々を送ることは可能のように見えます。私自身、人生の大半をそのようにして過ごして来ました。

 しかし、罪という問題を本当に解決しなければ、私たちはまことの平安を得ることができないのです。それをこの詩編51編は教えてくれています。ダビデはたいへん力のある王でしたからバト・シェバのことでただちに失脚するようなことはなかったでしょう。しかし、ダビデは悔い改めました。それは罪というものを抱えては人間は本来は健やかに生きていけないからです。神と断絶したままで、まことに生きていくことはできないことをダビデは知っていたのです。

 殺人というような犯罪を多くの人は犯しません。しかし、言葉で人の心を殺すことはあります。痛めつけることはあります。社会的に、抹殺することもできます。普段の付き合いの中でシカトすることもできます。一方で、心の中で姦淫をすることもあります。よからぬことを考えることがあります。私たちは、日々、神に背き、神を悲しませる罪を犯します。その罪をそのままにしているとき私たちの日々はまことの健やかさを得ることはできません。澱のように罪は沈殿していき、私たちを苦しみの中へいざなっていきます。最初に申しました後悔や自責の念が私たちを苦しめます。

 しかし、その罪を神の前に告白する時、私たちは新しく神との関係をやり直すことができます。キリストのゆえに私たちはその罪を払ってもらえます。ヒソプの枝ではらっていただき、私たちはきよいものとされます。キリストのゆえに私たちは自らの咎をぬぐわれ、神はそんな私たちの罪をご覧になりません。

 罪、罪というと心が暗くなるような気がしますが、本当に罪を神の前に告白する時、それはむしろ神の恵みを体験する出来事となります。最初に言いました後悔や自責の念とはまったくそれは違う次元のことなのです。むしろ心の重荷、心の底にたまっていた澱を消していただくことができます。

 「わたしは神に罪を犯しました」そう心から告白する時、私たちは罪の縄目から解き放たれ、まことに自由にされるのです。それは地獄に行かないですむというような問題ではありません。

 「デッドマンウォーキング」という映画がありました。若いカップルを暴行して殺した殺人の罪を問われている青年と、その青年のために奔走するシスターの物語です。共犯のもう一人の青年は有力者の息子で、終身刑になり、もう一人の青年だけが死刑を言い渡されるという状況でした。死刑を言い渡された青年は自分はやっていないとシスターに主張します。しかし、結果的に、その青年は死刑になりました。でも、その青年はシスターとの会話の中で、ようやく自分の犯した罪を認識したのです。最後に彼は罪を告白します。そして被害者の家族に謝罪をして、シスターに「愛をありがとう」と言い残して死刑になります。

 ストーリーだけを語るとたいへん暗い映画ですが、しかし、その罪を犯した青年がはじめて罪を自覚して、そしてなお「愛をありがとう」という言葉を発することができたということは、真に罪を自覚し告白をするということは、心の縄目が解かれ、まことに自由になるということを示しています。その青年の中にあった憎しみや怯え、死への恐怖、すべてを越える愛を知って自由を得たということです。その青年は死刑になりましたが、神の赦しのまなざしの中でヒソプの枝で洗われきよくされたのです。

 しかし罪の赦しは単に、罪をきよくされた、ということにとどまりません。マイナスがゼロになったということではありません。

 「神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください」とあります。まことに悔いあらためた時、それは必然的に新しい心が創造されるのです。そこが単なる反省や後悔と違うところです。この清い心を創造し、というときの創造という言葉は創世記の1章1節に出てくる創造とヘブライ語の原語でも同じです。バーラーという言葉です。英語で言うとcreationです。

 本来なら罪によって神の死刑判決を受けないといけない人間が、神に罪を告白する時、キリストのゆえにゆるされます。そしてそれは必然的に新しい創造へと向かいます。赦されてめでたしめでたしでは終わらないのです。新しい始まりとなるのです。

 今日もう一か所お読みしました新約聖書のヨハネによる福音書の1~5節は、創世記の1章を踏まえ、キリストの到来について記された箇所です。創世記1章の最初の創造の時から御子イエスは父なる神と共におられました。言葉がキリストであり、その言葉は父なる神と共にあったのです。そしてキリストはこの世界に人間の体を伴って来られました。

 私たちが、罪に死んで、ふたたび新しい命に生きるため、生き生きとした命に生きるため、キリストは来られました。

 私たちが新しく創造されるためです。

 まったく新しくされるためです。ヒソプの枝で清められ、雪よりも白くなるためです。詩編の14節に自由の霊によってささえてくださいとあります。私たちは自分の罪のため砕かれますが、しかし、そこには大いなる喜びがあるのです。単に罪を糾弾され懲らしめられただけでは、うつむいて生きるしかありません。しかし、私たちは真の自由を得るのです。奴隷ではなく、神の前で喜んで新しい生活を始めることができるのです。

 そのはじまりがキリストの到来でした。キリストのゆえに私たちは新しく創造され、まことの自由を得ます。

 私たちはこの季節、神から自由の霊をいただき、自由に神の意思を行う者として、喜び踊りながら過ごしたいと思います。


2015年11月29日マタイによる福音書22~36節

2015-12-08 18:21:02 | マタイによる福音書

説教「安心しなさい」吉浦玲子

 本日の聖書箇所の最初のところで、イエス様は弟子達を強いて船に乗せ向こう岸に行かせ群衆を解散させたとあります。「強いて」という言葉には、不思議な印象を持ちます。なぜ、主イエスは弟子達に強いたのでしょうか?一刻も早くご自分が独りになって祈りたかったのでしょうか。

 そしてそののち、イエス様がお一人でおられるとき、強いて船に乗せられた弟子達は難儀をしていました。船が逆風にあって弟子達は悩まされていたとあります。弟子達の中には漁師もいたのですが、その舟のプロを持っても難儀するような逆風だったのです。イエス様は言ってみれば、その逆風の中に弟子達を送り込まれたのです。強いて送り込まれました。少し弟子達を苦労させて鍛えてやろうと考えられたのでしょうか?

 そうではないでしょう。今お読みしています章は洗礼者ヨハネの斬首というおぞましい記事から始まっています。人間の欲と悪に極みのような出来事、主イエスの道ぞなえをした偉大なヨハネを殺すようなこの世のおぞましい現実が記されていました。その一方で今日の聖書箇所で弟子達は逆風の中で行き惑っているのです。この世界は暗く、かつ人間の個々の人生、日々の歩みも試練の中にある、そのようなことを感じさせられます。

 暗澹たる世界のかたすみで弟子達も夜の湖で試練にあっていました、しかし、夜が明ける頃、主イエスが湖の上を歩いて弟子達のところへ行かれたのです。主イエスがまだ日は昇らない頃、この時刻設定は正確には夜の第4時という単位なんですが、それはだいたい午前3時~6時です。まだ真っ暗であったか、うすら明かりがあったかわかりませんが、朝が近づいたころ、主イエスは湖の上を歩いてこられたのです。

 しかし、その主イエスと出会うことは、弟子達にとっては恐怖の出来事でした。主イエスが来られたというのに、「幽霊だ」と叫んだのです。しかし、常識的に考えますと、たしかに恐怖の出来事です。人間が湖の上を歩いているのですから。しかも夜明け前の、波の激しい中の出来事です。ただでさえ死の恐怖の中にいた弟子達に心理的に追い打ちをかけるようなことであったでしょう。死の恐怖の中にあった弟子達に「幽霊」という言葉は自然に出てきたのでしょう。

 神が、超越的な神として、人間をはるかに超えた存在として、たとえば湖の上を歩く存在として突然現れた時、それはやはり人間にとっては恐怖なのです。実際、旧約聖書の時代の人々は神の顔を見たら死ぬと信じていました。それほどに神と接することは恐ろしいことでした。それは当然なのです。本来、人間がかたわらによることもできない、きよいお方であり、絶対者だからです。しかし、その神は御子として主イエスをお遣わしになりました。主イエスは、言葉なる神です。人間の言葉で語りかけてくださる神です。父なる神は、御子イエス・キリストによって私たちと交わりを、関係を持ってくださる神です。

 主イエスは弟子たちに声をかけられます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 旧約聖書出エジプト記において、シナイ山で神は雷鳴と稲妻と厚い雲のなかに現れました。当然、人々は震えました。神が現れる、神の顕現というのは本来このようなものなのです。しかし今、主イエスは「安心しなさい、わたしだ」と声をかけておられます。この「わたしだ」という言葉は、原語では「わたしである」と「わたし」を強調した特殊な言い方です。エゴーエイミーという言葉です。これはモーセに神がその名前をあらわされた「あってあるもの」という言葉をギリシャ語にしたものになります。つまりイエスさまが「わたしだ」とおっしゃっているのは、出エジプト記で神がモーセにご自身の名をあかされたと同じ意味があるのです。つまり「わたしだ」という言葉は、主イエスがご自身が神からきたものであることを示されたということです。

 わたしだ、わたしがここにいる、だから安心しなさい、主イエスはそうおっしゃっているのです。ほかの誰でもない、「あってあるもの」モーセにその名を示された神から遣わされた、そして神そのものである私がいまここにいる、だから安心しなさい、と主イエスはおっしゃっています。

 ところで、わたしの洗礼式のとき、その冒頭で「吉浦玲子、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた」と司式者がおっしゃったと記憶していました。ずっとそう思っていたんですが、洗礼を授かった牧師によくよく確認させていただきましたら、実際におっしゃっていたのは、「吉浦玲子、父子聖霊の名によって洗礼を授ける、子よ、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた」だったとのことでした。<子よ、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた>は、マタイによる福音書の9章2節の口語訳です。これは教団の洗礼式の式文にはない文言です。ただ、いずれにせよ、この「しっかりしなさい」と言われたことがとても印象に残っていたのです。「吉浦玲子、しっかりしなさい」、なにかことさらに私がよろよろしていたり、おろおろしていたのかというとそうではありません。もちろん緊張はしていたのですが。今、考えますとどなたにもその先生は、「しっかりしなさい」とおっしゃっていたのです。その「しっかりしなさい」という言葉は印象的でした。ちなみにマタイによる福音書の9章2節の新共同訳は「元気をだしなさい」です。

 今日の新共同訳の聖書箇所には「しっかりしなさい」という言葉は出てきません。しかし、27節に「安心しなさい」という言葉があります。これは、口語訳では「しっかりするのだ」と訳されています。つまりこの「安心しなさい」という言葉は、「しっかりしなさい」なのです。この言葉は、元気を出しなさい、勇気を出しなさい、というニュアンスのある言葉なのです。

 でも、私たちは意気消沈しているときに「しっかりしなさい」とか「元気を出しなさい」と言われても、すぐにはしっかりできません。しっかりできないからこそ、元気が出ない状況だからこそ、意気消沈しているのですから。しっかりもできないし、安心もできません。逆風の中で命の危険に怯えている時、しっかりはできないのです。

 しかし主イエスはおっしゃるのです。「しっかりしなさい」「安心しなさい」と。「元気を出しなさい」と。

 なぜなら私がいるから、主イエスがそばにいるから。しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされたのだから。

 だからあなたはしっかりできるのだ、安心できるのだ、そう主イエスはおっしゃっています。まだ夜が明けていなくても、波が強くとも、あなたはしっかりできる、元気を出せる、もう罪は赦されるのだから。もっとも人生で大切な罪の問題はもう大丈夫なのだ、だから波も試練ももう大丈夫だ。そうイエス様はおっしゃっています。私が来たのだから、夜の明ける前にあなたのもとへ歩いてきたのだから。

 その「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という言葉を聞いて、ペトロはがぜん元気になります。教会学校などでは、<少しおっちょこちょいなペトロさん>といったニュアンスでユーモラスに話をされることの多い場面ですが、ペトロは自分も湖の上を歩こうとします。主イエスが命令してくださったら湖の上を歩けると思ったのです。そして命じてくださいとお願いします。これは主イエスの力を信じたペトロの信仰的な言葉です。実際、ペトロは湖の上を歩くのです。しかし、強い風が吹いて来ると怖くなって沈みかけてしまいます。

 ここで信仰が揺らいだのです。信仰というのは二心がないということです。ひとつの心を持つということです。主イエスのお顔だけを見て歩いていた時、ペトロは沈むことがありませんでした。でも心が風に気を取られてしまった。主イエスのお顔と風、二つのことに心が別れてしまった。二つに心が分裂してしまった。そのときペトロは沈み出したのです。ペトロはすぐに「主よ、助けてください」と助けを求めます。すると主イエスはすぐに腕を伸ばして捕まえてくださいました。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいます。最初に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と苦言を呈したあとに、腕を伸ばされたのではありません。ペトロがぶくぶく沈んでから、腕を伸ばされたのではなく、すぐに手を伸ばされた。助けを求める者を主イエスはすぐに腕を伸ばして助けてくださるのです。旧約聖書においても神の救いのイメージとして神が腕を伸ばすという、御手を伸ばしてという表現がありますが、まさに主イエスもまたご自身を呼ぶ者を腕を伸ばして助けてくださいます。

 そののち「信仰の薄い者よ」とお語りになります。「信仰が薄い」という言葉はこれまでマタイによる福音書に何度か出てまいりましたが「信仰が小さい」ということです。ペトロの信仰は薄かったのです。小さかったのです。主イエスだけを見ることができなかった。

 私たちの信仰もまたそうです。主イエスだけを見続けることができない、そしてよく沈みそうになります。しかし、沈みそうな私たちのすぐそばに主イエスはおられます。助けを求める声を聞かれ、腕を伸ばしてくださる方がおられます。

 主イエスは信仰の薄い私たちを助けてくださる方です。信仰を養ってくださるのも主イエスです。いままだ信仰は薄く小さい、だからだめなんだということではないのです。信仰が小さいゆえ、疑いやすいゆえ、沈みそうになる都度、助けてと叫びなさいと主イエスはおっしゃっています。この位、信仰が大きくなったら助けましょうということではないのです。小さな信仰、からし種程の信仰でも大きくしてくださる神は、救いを求める者を助けてくださる神です。信仰の薄い弱い私たちを腕を伸ばして助けてくださる方です。

 32節で二人が船に乗り込むと、風は静まりました。そののち弟子達は、「本当にあなたは神の子です」といってイエスを拝んだとあります。弟子達はこの直前には男だけで5000人に食事を与えられた奇跡を見ています。さらにその前にも多くの奇跡を見てきたはずです。なのになぜここで弟子達は「あなたは神の子です」と言ってイエスを拝しているのでしょうか。これは「安心しなさい、わたしだ」という主イエスの言葉と呼応しているといえます。主イエスが、神からきたものであることを宣言された言葉、その言葉と対応して弟子達は主イエスを拝しました。そしてこの箇所は、なにより、教会を現わした物語として記されています。主イエスがのっている舟が教会なのです。ですから主イエスを拝する、礼拝をするのです。教会は主イエスがおられる船です。

 しかしその舟は時として逆風にあおられます。教会は、明るい光の中だけではなく、暗い夜の湖の上もゆきます。しかし、その舟には主イエスが共におられます。「安心しなさい、わたしだ」とおっしゃる方が、教会の舟の中に共におられます。信仰の弱い私たちを助けてくださいます。

 もちろん、私たち一人一人の人生の舟にも主イエスはおられます。共に航海をしてくださいます。信仰が薄く、沈みそうな時もその手をしっかりと捕まえてくださいます。

 ところで、今日、お読みした旧約聖書はルツ記でした。ルツはモアブという、イスラエルの人々からはさげずまれていた外国人でした。しかし、謙遜な心やさしい女性でした。みずからのイスラエル人の夫を失った後、未亡人になった後も、しゅうとめのイスラエル人のナオミに仕えました。そしてやがて、イエス・キリストに連なる血筋の夫を得て子供を産みます。その子供はマタイによる福音書1章のイエス様の系図に乗ります。ルツ自身の名も異邦人でありながら、しかも、当時、いまよりももっと男尊女卑の時代であったにもかかわらず女性であるルツの名が福音書に記されることになりました。ここにも深い神のご計画と愛の配慮を見ることができます。神はルツと共にいてくださった、貧しい異邦人の女性の上にも目を注がれました。救いの腕を伸ばされました。その愛のご計画の中に、その愛の歴史の中に、主イエスはこの地上へと来られました。今日からアドベントです。主イエスの御降誕を覚え、再臨を待ち望み、降誕日に備える季節です。マタイによる福音書の1章にあるように、神の気の遠くなるような長い長い年月をかけたご計画を覚えたいと思います。

 マタイによる福音書の本日読みました最初のところに弟子達を強いて船に乗せたとあります。これもまた愛の配慮でした。神のご計画でした。主イエスの「安心しなさい、わたしだ」という言葉を弟子達に聞かせるためでした。沈みそうな弟子を腕を伸ばして救う神であることを知らせるためでした。弟子達はこの後、もっと大きな苦難に会います。主イエスの逮捕、死刑、復活、聖霊降臨ののちも、弟子達の宣教には大きな迫害がありました。しかし、そのときも、「安心しなさい、わたしだ」「しっかりしなさい、わたしがいる」その言葉に、弟子達がたち帰ることができるように、恵みの計画として、主イエスは弟子達を逆風の湖へと送られました。どのような試練の中でも、主イエスに叫び求める時、助けがあることを主は弟子達にしらせられました。

 私たちのもとにもすでに夜明け前に歩いてこられた主イエスがおられます。安心しなさい、わたしはここにいる、わたしだ、しっかりしなさい、そうおっしゃってくださる方が来られたことを覚え、助けを求めることのできる方がいることを覚え、このアドベントを祈りのうちに歩みたいと思います。

 


2015年11月22日主日礼拝マタイによる福音書14章13~21節

2015-12-08 18:01:46 | マタイによる福音書

説教「あなたが与えなさい」吉浦玲子

 先週、ご一緒にお読みしました洗礼者ヨハネの死ののち、主イエスはひとりで人里離れたところに退かれました。退かれた、この言葉は、まさに引っ込んだということです。目立たないところへと向かわれたのです。これは洗礼者ヨハネに続いて自分の身に危険が迫っていることを感じられたということでありますが、単にご自分の身を守るため、臆病風に吹かれて逃げられたというのではありません。主イエスには十字架への道がありました、人々のために罪人として、贖罪のために、命を捧げるというご自分の道がありました。その十字架の時は、神の時です。神の時間です。しかし、神の時間はこのとき、まだ来ていなかったのです。ですから、主イエスはいま死ぬわけにはいかなかったのです。ですから、十字架の時までご自身の身を守られました。

 少し横道にそれますが、身を守る、自分の身辺を管理し整えることは、私たちに神から求められていることです。神を信じていたら安全だ何のトラブルもないと、あまり安易には考えてはならないのです。暗い夜道を歩いていても、神様が守ってくださるから暴漢には襲われないとか、暴漢が襲ってきても神様がいつも助けてくださると安易に考えてはならないのです。暗い夜道ではなく街灯のついた道を歩く、できるなら夜間の一人歩きはしない、そんな当然のことはしっかりやらねばならないのです。私たちの体や生活は神から私たちに与えられています。それをしっかり管理し守る責任が私たちにはあります。私たちには神から自由と同時に管理責任を与えられているのです。神様は身勝手な私たちのボディーガードではないのです。しっかりと自分を管理しながら神に仕えていく、その過程において神は私たちを守ってくださいます。神のみこころ、ご計画において用いてくださいます。

 主イエスもいったん退き、神のご計画に忠実に歩みを進めていかれました。

 しかし、その退かれた主イエスを多くの人々が追いかけてきました。主イエスは舟に乗って行かれたのですが、人々は陸路歩いて主イエスのあとを追ったのです。ここには人々の必死さが感じられます。貧しい人々がなんとしても主イエスに会いたいと後を追った、切実さがあります。主イエスはその人々を見て憐れまれたのです。前にも申しましたようにこの憐れみという言葉は<はらわたよじる>という言葉です。主イエスは表面的に<ああ可哀そうに>と思われたのではなく、ご自身の内臓が引きちぎられるような思いで人々をご覧になったのです。

 先週お読みした箇所では、洗礼者ヨハネは偉大な人物だったにもかかわらず、権力者ヘロデの宴会の余興のために、残忍に殺されました。愚かな権力者に、貧しい力ない人々が踏みにじられているのが神に背いた世界の現実です。正しい人が宴会の余興に殺される、不条理で深く病んだ世界です。悪と、苦しみと、死が、陰鬱におおっている世界で呻いている多くの人々を見て、主イエスは、心に、体全体に痛みを覚えられたのです。

 その憐れみ、はらわたよじる思いのゆえに、主イエスは人々の病を癒されました。

 その癒しの業は、主イエスの十字架への道に連なっていました。まずそれは、主イエスを良く思わない権力者のねたみを買う行動でした。いっぽうで、人々へも誤解を与えました。人々は主イエスの奇跡的な行いを見れば見るほど、主イエスがイスラエルの王になってくださると考えました。しかし、やがて人々は十字架の時、つまり神の時が近づいた時、主イエスがイスラエルの王、この世の王になることないということに気づきます。そのとき、人々の主イエスへの賛辞は、逆に期待を裏切られた落胆から、一気に憎しみと変わることになるのです。「十字架に付けろ」という叫びになるのです。

 そういうことは主イエスはもちろんわかっておられました。わかりながらなお、主イエスは憐れみのゆえに、人々を癒されました。ご自身の業の一つ一つがご自身を死に向かわせるものでもあることを知りつつ、なお、傷ついた葦を折らず、消えそうな灯心を消すことなく主イエスは宣教の業をなさいました。

 今日の場面では大変な数の人々が来て、主イエスに癒していただいたのですから、かなりの時間を要したと考えられます。夕暮れになって、弟子達はイエスさまに申し上げます。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 弟子達は日が落ちることを思いながら、じりじり、そわそわしていたかもしれません。時間のことなど全く気にしていないかのように、人々のために働かれるイエス様。夕方になって食べ物の心配をしないといけないのに、全く頓着されていないその姿に、少し焦っていたかもしれません。日暮れが迫ってくる、この大群衆が夜になってお腹を空かせて路頭に迷ったらどうしよう、そしてまたイエス様ご自身も大変お疲れなのではないか、イエス様と自分たちの食糧だって確保しないといけない、これからの段取りのことで弟子達の頭の中は一杯だったことでしょう。

 そんな弟子達に主イエスは驚くべき言葉をお返しになります。

 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

 聞いた弟子達は唖然としたことでしょう。自分たちが食べるものでさえないのに、この大群衆に食べ物を与えることなどできるわけがない、そう彼らが思うのも当然です。

 「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」

 そう正直に弟子達は申し上げます。

 男だけで5000人ほどの大群衆です。この近くにあります大阪城ホールでコンサートをするときの収容人員が10000人くらいらしいですが、弟子達の前には、その大阪城ホールくらいかもっと多くの人間がいたと思われます。大阪城ホールいっぱい人々に対して、パン5つと魚2匹です。どう考えても話になりません。大阪東教会の昼食会の材料としたって足りません。

 弟子達が「パン5つと魚2匹しか、ありません」と「しか」と言ったのは当然のことです。しかし、弟子達の前におられたのはどなたでしょうか?神のひとり子である、主イエスです。人間の常識での「しか」、人間の感覚で捉えられるスケールでの「しか」という言葉は主イエスに対して当てはまりません、神の業に対して筋違いも良いところです。

 むかし、ある日本の小説家の書いた聖書物語を読んだことがあります。「人間イエス」として主イエスを描いた小説でした。それはまったく信仰的な本ではありませんでした。信仰のない人はこういうことを書くのだなと感じて読みました。その小説ではこの5000人の給食の場面は、影にパトロンのような人がいて、こっそりと食料を人々に配って、イエスの奇跡物語として作り上げたというような展開になっていました。だから何なんだというような話なのですが、しかし、人間はそのような話なら、理屈で理解できます。パン5つと魚2匹で大阪城ホールいっぱいの群衆が満腹したという話より、よほど筋が通っているからです。

 しかし、神の出来事というのは人間にとって筋が通るかどうかということが大事なのではありません。そのようなものは意味がありません。なんの救いにもなりません。その小説のように、人間が人間の力で人を救う、パトロンがこっそりパンを配る、そのこと自体は悪いことではないでしょう。10000人の人々のために財力を持った人が、2万個のパンと1万匹の魚を手配した、慈善活動としては素晴らしいことです。しかし、それは救いの出来事ではありません。その素晴らしい慈善の話はただ10000人が一食分の食事を得たというだけの話です。

 しかし、主イエスが与えられた食事は、肉体が満たされたということにとどまりません。いえ現実的にはここにいた多くの人にとっても、結局はお腹がみたされたというだけの話だったでしょう。しかし、この話を教会は語り継いできました。その伝えてきたことは10000人がお腹を満たされたすごいですね、イエス様の力はすごいですね、ということにとどまりません。このことは主イエスが共におられるとき、私たちには言葉なる神であるイエス・キリストを霊の糧として頂くと共に、肉体の糧もいただくということを語っています。人はパンのみにいくるに非ずと聖書は教えます。わたしたちはまず第一に神の言葉によって生きます。しかし神の言葉によって生きながら、なお、私たちには肉体の糧が必要です。その必要を神は満たしてくださるということをここで聖書は語っています。私たちの肉体的な飢え、痛み、苦しみも分かってくださる神が、主イエスを通して必要をあたえてくださるということです。主の祈りの「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」とありますが、その糧を与えてくださるということです。

 そしてまた、共に食事をする共同体としての教会の原点がここにあります。主イエスが共にある食事は「魚が2匹しかない」という「しかない」というような食事ではないということを語り継いできたのです。それはいつも豊かなものなのだということです。先週読みました領主ヘロデの誕生日の祝いの席の食事は、食事そのものとしては豪華だったであろうと思います。ヘロデの力を現わす、当時のその地域で食されるものとしては最高のものだったと思います。それに対して、今日の食事はお腹いっぱいになったといっても、結局それはパンと魚だけの食事です。しかし、領主ヘロデの食事は、人間の悪行のただ中にある食事でした。洗礼者ヨハネの首を盆にのせて楽しむような、人間の罪の極みの中での宴でした。そこには人間の欲望やへつらいや残虐さが満ちていたことでしょう。

 しかし、今日の5000人の食事は主イエスの憐れみと癒しのまなざしの中にある食事でした。病人たちは癒され、その喜びの中にある食事でした。主イエスが人間ひとりひとりを顧み、その痛みや悲しみをご自分のこととして痛み、悲しんでくださる、はらわたよじってくださる、そのお方のまなざしの中で、信仰共同体は共に食事をするのです。

 聖書の少し先に今度は4000人の食事の場面があります。やはりこの場面にも先だって癒しの話があります。つまり信仰共同体の食事は主イエスの憐れみと癒しに密接に結びついているということです。教会での食事しながらのまじわりのことを愛餐会と呼ぶ場合があります。主イエスの憐れみと癒し、その愛の中での食事ということです。教会での食事の原点はここにあります。

 そしてもうひとつ今日の聖書箇所で私たちが思いめぐらしたいと願うのは、主イエスが「群衆を解散させてください」という弟子達に「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」とお答えになっているところです。

 「あなたがたが食べる物を与えなさい」とおっしゃっているのです。原語で「あなたがた」という言葉が入っているのですが、通常、ギリシャ語では主語によって動詞が変化しますので、動詞だけで意味が通じるのです。「食べる物を与えなさい」というとき、「与えなさい」の変化形で、あなたがたに対して言われていることは通じるのです。しかし、ここではあえて「あなたがた」というギリシャ語が原文に入っています。これは「あなたがた」ということを強調しているということです。あの人々が食べ物を買いに行くのではなく、「あなたがた」が与えるのだ、「あなたがたこそ」が与えるのです、とイエス様はおっしゃっているのです。

 御救いにあずかり、主イエスと共に歩むとき、私たちも言われるのです。「あなたが」それをやりなさい。「あなたが」この人のためにこうしなさい。そのとき往々にして私たちは答えます。「わたしには無理です。私にはこれこれこういうものしか、ありません。」5個のパンと2匹の魚「しかない」と答えた弟子達のように、私たちもまた、私にはこれだけのものしかないと思うのです。しかし、私たちがたったこれっぽっちと思っている、たったこれだけしかない、ということを神は用いられます。用いてくださいます。そしてそれは大きな業になります。

 私たちは大阪城ホールいっぱいの人々を相手に何かをすることはないかもしれません。しかし、たったこれだけしかないと思っている私たちを用いて神は大きな業をなさいます。たとえば、寝たきりの人を用いてさえ神は大きな業をなさいます。そしてそれは人々に命を与える業です。自分には豪華なディナーを御馳走はできないかもしれないけれど、誰かを孤独の縁から救うささやかな何かはできるかもしれない。自分は無愛想で気が聞かなくてと思っていても、見せかけの愛想ではない応対に心解かれる人もいるかもしれない。病の人をお見舞いに行ったつもりが、かえってそのベットの中にいる人に逆に自分が励まされて帰ってくることもあるでしょう。すべて神が用いてくださるのです。

 ヨハネによる福音書に最初に記されている奇跡は婚礼の席で葡萄酒が足りなくなったとき、主イエスが水をぶどう酒に変えたという奇跡でした。主イエスに命じられた人々は水を甕に汲んで、運んだだけです。彼らが水をぶどう酒に変えたのではありません。主イエスが変えられたのです。水しかない、それも大事な婚礼の席に水しかない、しかし、水を運ぶ人がいました。主イエスに従って運ばれた水はぶどう酒になりました。

 わたしたちもまた、主イエスに従って歩むとき、手に持っているものは、パン5つ魚二匹くらいのものかもしれません。自分は日々水を運ぶような虚しいことをしているように思うこともあるかもしれません。しかし、「あなたが」それをするのだと主イエスがおっしゃるとき、そしてその言葉に従う時、私たちは私たちの中の小さなものをとてつもなく大きなものにして頂くのです。

 それこそが喜びの愛の業となるのです。