大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第8章4~15節

2024-10-08 17:58:21 | ヨハネによる福音書
2024年10月6日大阪東教会主日礼拝説教「誰が種を蒔くのか」吉浦玲子
<覆いを取る>
 今、聖書研究祈祷会や聖書を読む会で「ヨハネの黙示録」を読んでいます。「ヨハネの黙示録」はたいへん分かりにくく、神学者によっても解釈が大きく異なったりする書物です。「ヨハネの黙示録」を読まれる時、多くの方はもう少しスカッと分かりやすく書かれていればいいのにと思われるのではないでしょうか。しかし、「ヨハネの黙示録」は神の終末の時までのご計画が書かれている書物であり、そもそも神のご計画というのは人間の理性や思いをはるかに越えたものです。何月何日にどこそこにこういうことが起こりますよ、というように人間が知りえるものではありません。本来人間が知りえない事柄を、不可思議なイメージなどを駆使して語られたものが黙示録です。そもそも黙示という言葉の原語には、「覆いを取る」という意味があります。隠されたものが明らかにされるという意味です。ギリシャ語の原語では啓示と訳される言葉と同じ意味です。黙示は啓示の中で特に終末について語られたことを指すことが多いようです。
 神の出来事や神の国については、神御自身が覆いを取ってくださらなければ人間には分かりません。今日の聖書箇所に「たとえ」を用いる理由を主イエスが語られています。9節で「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」と主イエスはおっしゃっています。あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている、と主イエスは弟子たちにおっしゃいますが、「悟り」というと修行したり、いろいろと励んで、悟りの境地に達するような感じがありますが、聖書の神の事柄についてはそうではありません。神の方から「覆いをとって」示してくださるから悟ることができるのです。
 私たちは今日これから、聖餐にあずかりますが、今、聖餐のパンとぶどうジュースは今はまだ布と器の中に隠されています。これは埃をかぶらないようにするためとか、荘厳なイメージ出すために、こうしているのではありません。パンとぶどうジュースによって示されるイエス・キリストの死と救いの出来事、つまり聖餐式に起ころうとする神の出来事が今はまだ隠されているということです。聖霊によって聖餐式が導かれる時、覆いがとられ、神によって主イエスの死と救いの出来事が示されるのです。
<耳ある者は聞きなさい>
 主イエスが弟子たちにおっしゃっているのは、弟子たちには神の国の秘密が隠されていないということです。もちろん隠されていないといっても、弟子たちとて、すべてのことを知らされるわけではありません。しかし、主イエスご自身が覆いを取って示してくださるということです。
 福音書には、多くの人々に対して主イエスが語られている言葉もあれば、弟子たちに対して語られている言葉もあります。どうして弟子たちにだけお話になる話があるのでしょうか。弟子たちは伝道のための奉仕をしてくれるから特別待遇だったということではありません。弟子たちは主イエスと共に生きようと決め、実際、主イエスと歩みを共にしているのです。主イエスに心を向けているのです。その弟子たちに対して主イエスは覆いをとって神の国のことを語ってくださるのです。
 一方、主イエスに心を向けていない権力者たちや、病気を治してもらったらもうそれで結構という人々に対しては覆いはかかったままなのです。それは主イエスが人によって態度を変えるとかケチだということではないのです。心を向けていない人に無理に神の国のことを語っても、それは反発や憎しみを買うからです。神の国の出来事は、冒頭で申し上げた『ヨハネの黙示録』のように、人間には本来理解できない事柄です。人間の常識を超えたことです。安息日に腕の不自由な女性を癒しただけで主イエスは命を狙われるほど権力者から憎まれました。そのような主イエスのある意味、当時の常識から外れた業の向こうに神を感じることができる人にのみ主イエスは覆いを取ってくださるのです。8節で主イエスは「耳ある者は聞きなさい」と大声でおっしゃっています。肉体の耳はあって音や言葉を聞きとる聴力はあっても、主イエスのお語りになる言葉を神の言葉として聞けない者は耳はないのです。主イエスは大きな声で耳ある者へご自身の言葉を届けようとなさいました。そして耳ある者に対して覆いをとってくださるのです。
 翻って私たちは毎週礼拝で御言葉を聞きます。あるいはいろいろな集会で御言葉と接したり、またそれぞれに日々御言葉と接して神からの恵みを受けています。もちろん、聖書が語る救いについての基本的なことや歴史的背景を理解していたら、聖書を読みやすくなるという側面はあります。でも本当に御言葉が私たちに語りかける神の言葉となるのは聖霊なる神の導きであり、神御自身が御言葉の奥にある真理を、覆いを取ってくださって私たちに示してくださるからです。そして今日、私たちに与えられている御言葉は聖書に親しんでおられる方にはなじみぶかい「種を蒔く人」の話です。この話が今覆いを取られて私たちに神の国を示してくださるようにと願います。
<私はどんな土地>
 このたとえ話で「種を蒔く人」とは神のことです。神が種を蒔かれるのです。この種は御言葉、福音を指します。しかし、ある種は道端に落ちてしまった。またある種は石地におちてしまった。さらに茨の中に落ちた種もあります。しかし、良い土地に蒔かれた種もあります。11節以降で、このたとえ話の解説を主イエスご自身がなさっています。道端に落ちた種は悪魔によって奪われてしまって、御言葉を信じて救われることがない場合を指します。石地に落ちた種は根が出なくて、最初は御言葉を受け入れてもすぐに身を引いてしまう場合、そして茨の中に落ちた種は人生の思い煩いやさまざまな誘惑に覆いかぶされて実を結ぶことがない場合だと語られています。そして良い土地落ちた種は御言葉を聞き忍耐して実を結ぶ場合だと言われます。
 このたとえ話は、話自体は分かりやすいものですが、日本人の感覚では少し違和感もあります。現代の農業を考えますと、道端や石地、そして茨の中に種は蒔かないからです。しかし、主イエスの時代、どうも種まきはおおざっぱなものだったと言われます。道端や石地にこぼれてしまうような種もあったようです。ですからこの話を聞いていた主イエスの時代の人々にとってはたいへんリアルな話だったのです。
 ところで大阪東教会の戦中戦後の牧師であった久保喜美豊先生は、植物を育てることがとても上手だったそうです。「どうしたらそのように植物をうまく育てられるのか」とある人が久保先生に聞いたら「植物をじっと見ていたら、どのようにしてほしいか分かるんだ。植物がしてほしいようにしたら良いんだ」と答えられたそうです。久保先生はそのようにしてうまく植物を育てられたようですが、実際のところ、久保先生以外の者には、土に種を蒔いても、花を咲かして実を実らせるまで育てるのはなかなか難しいことです。教会の庭でもいろいろ蒔いたりしていますが、けっこう失敗することがあります。一方で、雑草はやたらと繁茂します。雑草におされて、せっかく蒔いた種が成長できない、まさに茨に覆われたところに蒔かれた種のようになります。
 そのような現実の植物の話を思い浮かべつつ、この話を土地の側の問題として読みますと、自分は良い土地になって立派な心をもって御言葉を聞き、実を結びたいと願います。一方で、思い煩いばかりしている私は茨の覆う土地ではないのか、なかなか信仰が成長しない私は石地ではないのかと思ったりもします。
<たった一粒でも>
 しかし、大事なことは種を蒔いてくださるのは神だということです。私たちが整えられた土地になって初めて神が種を蒔いてくださるのではありません。石だらけであろうが茨や雑草が生い茂っていようが、神は種を蒔いてくださるのです。気前よくばんばんと蒔いてくださる。逆に私たちがどれほどがんばって良い土地になったとしても神が種を蒔いてくださらなければ、実は結びません。しかし、神が蒔いてくださらないということはないのです。どんどんと蒔いてくださる、大盤振る舞いをしてくださるのです。そして神が覆いをとってくださるとき、私たちが真実を見えるようになるように、神御自身のご計画によって育てていただくのです。
そしてもう一つ注意したいのはこの土地は一つの畑だということです。イスラエルの土地には多くの石があり畑を作る時もすべてを取り除くことは出来ませんでした。また当時のイスラエルの畑は灌漑を行っていませんから、深く耕すと水が蒸発してしまうので浅くしか耕せず、根の深い茨などが生えやすかったのです。ですから一つの畑の中に石が多くあったり、茨が生えていたりする場所もあったのです。私たちの心や日々もまた、一様ではありません。信仰に熱く御言葉を求める心もあれば、思い煩ったり、他のことに心を奪われたりもします。そんなさまざまな部分を持っている私たちに神はどんどんと種を蒔いてくださるのです。
 そのように神が蒔き、神が育ててくださるのです。その種は私たちがどれほど茨や石まみれであっても、ほんの少しの良い土地に蒔かれたら、主イエスに耳を傾けるほんの少しの心があれば、その種は芽を出し、育ちます。たった一粒でも育ちます。その育つ、たった一粒の種のために、神は蒔き続けてくださるのです。そしてまた、私たちはいつまでも石まみれ、茨だらけではありません。神が良い土地へと変えてくださるのです。神は良い土地を広げてくださいます。土地は広がっていくのです。ですから道端に落ちることも少なくなります。
<命を与える種>
ところで、種は、聖書の時代、土の中で死んでいると思われていました。その死んでいた種が芽を出し成長をするということは、人々にはたいへん神秘的なことでした。主イエスはヨハネによる福音書のなかで、御自身が十字架にかけられて死ぬことを一粒の種にたとえておられました。一粒の種は土に蒔かれ、土の中でひとたび死ぬからこそ、多くの実を結ぶのだと主イエスはおっしゃいました。主イエスご自身が特別な貴いたった一粒の種でした。その種が死んでくださったので、私たちの心にとてつもなく多くの種が蒔かれるようになりました。その蒔かれた種によって、私たちに新しい命を与えてくださいました。どんなに石ころだらけでも茨だらけでも蒔いていただき、わずかに出た芽を大事に育ててくださいました。
私たちはこれから聖餐にあずかりますが、主イエスが私たちのために一粒の種として死んでくださり、それゆえに私たちに多くの種が蒔かれたことを感謝しましょう。その種は百倍の実を結ぶ、と語られています。この百倍は当時の農業の常識からすると、とてつもない数です。常識外れの収穫です。今年、たくさんのぶどうが教会で実りました。感謝なことでした。でも、主イエスが蒔いてくださる種は、私たちの中で、あのぶどう棚のぶどうの何百倍、何千倍も、常識はずれなほどに、私たちの中で豊かに実るのです。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第8章1~3節

2024-10-01 15:08:18 | ヨハネによる福音書
2024年9月29日大阪東教会主日礼拝説教「感謝ゆえの奉仕」吉浦玲子
<感謝して目立たぬ仕事をする>
 今日はルカによる福音書の短い部分を読みました。主イエスが宣教をなさって町から町、旅から旅の生活をなさっていた、その一行の中には主イエスが特別にお選びになった12人の弟子たちもいれば、そのほかの多くの男性の弟子たちもいました。そしてさらに女性たちもいました。聖書の時代は今とは比べ物にならないほどの男尊女卑でしたから、記録の中に、女性の名前が残っているということだけでも驚くべきことです。聖書がどれほど女性を大事に考えているかということがこういう箇所を読むと分かります。
 主イエスの一行は総勢で百名ほどではなかったかと考えられます。それらの人々の衣食住を旅から旅の生活の中で賄っていく必要がありました。2009年に日本プロテスタント宣教開始150周年を記念して、「ウォークウィズジーザス」という取り組みがありました。東京の日本橋から京都まで、昔で言うところの東海道53次を歩いてトラクトを配って伝道するというものでした。一か月ほどかけて毎日20キロほど歩く取り組みで、全体参加のメンバーが十数名で、部分部分するメンバーが数十名ありました。当時私は会社員をしていたので当然全体には参加できませんでしたが、休みを利用して部分的に何回か参加しました。私が参加した時もだいたい40名から50名の人がいたように思います。東京から京都まで歩きながら日々沿線の教会でその数十名分の食事や泊まる場所を提供してもらうものでした。東京を出発した時、すべての旅程での宿泊先教会が決まっていたわけではなく、今日は野宿かもしれないと思っていたら夕方に急に、うちの教会に泊まってくださいという連絡がくることもありました。そのイベントのリーダーたちは日々かなり苦労されたと思います。主イエスの宣教の旅も日々、どこに泊まるか、どこで食事を入手するか、そういった泥臭い心配があったと思います。そして主イエスの旅は、一か月限定のイベントではなく、共に旅をする人々にとって、それまでの生活を投げうった人生をかけた旅でした。そのように集ってきた人々の衣食住を賄うことはほんとうにたいへんであったと思われます。
私たちは今、別に町々を巡りながら伝道をしていませんが、やはり伝道においては福音を語る、ということのために、備えないといけない泥臭いことが多くあります。私たちの教会では、道端で道行く人に語りかける路傍伝道はしていません。福音を聞いていただくための場所としての会堂やその他の施設を持って伝道をしています。先々週、長老方がかなり時間をかけて庭の手入れをしてくださいましたが、会堂および諸施設、そして敷地の整備が伝道のためには必要ですし、会堂内でも礼拝をするためにさまざまな機材、道具も要ります。町々を巡り歩いていなくても、福音を語るという時、そのために必要な泥臭い仕事がたくさんあり、そのための奉仕が多くあります。
良く申し上げることですが、信仰というのは、良い心がけで生きるとか、教理をしっかり理解すると言った頭や精神の問題だけではなく、教会の敷地の草を抜くとか、会堂の電気が切れた交換するとか、全体的な活動全般に関わるのです。そういった活動を信仰の本質とは違うけれど、伝道のためにやらなければならないから仕方なくやる、ということではなく、むしろ個人でも教会でも日々の活動全般に関わることこそが信仰を支えるという側面があります。精神や観念・理念だけで、私たちの信仰は深まってはいかないのです。信仰というのは全体的なものなのです。
そのような奉仕を女性たちが担ったと今日の聖書箇所に書かれています。この女性たちは、男性の弟子たちの配偶者や家族というより、個々に主イエスを信じ、奉仕に身を投じていたと考えられます。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの女性たち」とあります。悪霊は、現代においては分かりづらいものですが、神から人間を引き離し、人間を苦しめる存在です。おそらく悪霊に取りつかれたと言われていた人々は、日常の生活もできないような苦しみの中にあったと考えられます。その悪霊を追い出して、健やかにしていただいた女性たちが、その感謝の気持ちゆえに、弟子たちの一行に加わったのです。
しかし、主イエスが宣教をなさっていたこの当時、悪霊を追い出していただいたり、病を癒されたり、さまざまな悩みを解決していただいた人々は多くいたのです。ですから、主イエスをいつも大群衆が追いかけていました。しかし、主イエスによって癒された大部分の人々は、主イエスの弟子となってついてくることはありませんでした。ルカによる福音書の別の箇所で十人の病の人が癒されて、主イエスのもとに来て感謝をしたのは一人だけだったと場面があります。癒された十人のうち九人は奉仕どころか、感謝の言葉さえなかったのです。苦しみから解放されても、主イエスに感謝したり、主イエスの語る神の国のことを信じる人々は少なかったのです。
しかし、いくばくかの人々は主イエスに感謝し、弟子として歩みました。主イエスについていくために、それまでの生活を捨てたのです。男性の弟子であるペトロたちが漁師の仕事を捨てて主イエスに従ったように、女性たちもまた、多くのものを捨てて、主イエスに従いました。
<さまざまな女性たち>
 従った女性たちはさまざまな境遇の女性でした。「マグダラのマリア」という名前は非常に有名で、絵画にもよく描かれています。福音書では、復活の第一の証人として登場します。このマグダラのマリアと7章に出て来た罪深い女を同一人物とする考えも古くからありますが、実際のところはよく分かりません。ただ家柄などが書かれていないので、上流階級の出身ではないようです。それに対してヘロデの家令クザの妻は、ガリラヤの領主ヘロデの側近として取り立てられている人物の妻でした。教養もある上流階級の女性であったと考えられます。
 本来ならば、マグダラのマリアとヘロデの家令クサの妻が共に生活をするなどということは当時としてはありえないことだったでしょう。単に共に礼拝を捧げていただけではありません。最初にお話ししましたように、日々の衣食住に関わる泥臭い奉仕をマグダラのマリアもヘロデの家令クサの妻も共に担ったのです。教会とは本来そういうところです。さまざまな出自の人、立場の人が共に奉仕を担うのが教会です。そしてまた、信仰において、社会的な立場や貧富の差を離れて一致するのが教会です。
<女性はサポート役か>
しかし、今日の箇所に書かれていることに、ややモヤモヤした気持ちもあります。書かれていることは、女性たちが奉仕をしたということであって、一人一人についての細かいエピソードなどはありません。ペトロやヨハネ、ヤコブのような信仰に関わるエピソードは書かれていません。うがった読み方をしますと、「神様は女性もちゃんと用いてくださるんですよ、ですから女性も頑張って教会のために働いてくださいね」というおすすめのようにも読めてしまいます。女性は泥臭い裏方でがんばってね、と言われているようにも思います。
 実際、日本の多くの教会では女性の方が男性より人数が多いことが普通ですし、教会の様々な働きや特別なイベントを行っていくとき、こまごまとした裏方の仕事は女性が支えていることが多かったと言えます。それに対して、長老や役員といった、ある意味、表の部分の役割には男性が充てられることが多かったと思います。教会全体の男女比率からすると長老会・役員会の男女比率は不自然に男性が高かったのです。男性が重要な意思決定や表に立つところを担い、女性は裏方でサポートという構図があったと言えます。ただその裏方こそが、特にコロナ前のさまざまに集会があったころは重要で、そこに女性たちの働きがなければ教会は回っていかなったというのも事実でした。
 昔は多くの教会で婦人会というものがありました。これは原則的に既婚女性で構成されていました。青年会の若い女性が結婚をしたら自動的に婦人会に入るという流れがありました。この婦人会が多くのこまごまとした教会の働きを担っているというのが多くの教会の実情でした。その婦人会は教会を支える良き働きをし、また教会の信仰の要のようなパワーも担っていました。しかし逆に、婦人会が、教会の中で大きな力をもってしまい、影の長老会のような存在になってしまうようなこともありました。「婦人会を制する者が教会を制する」という言葉も昔はあったくらいです。これは非常に不健全なことです。いま、多くの教会で婦人会というものはなくなりつつあります。晩婚化が進み、独身の女性が増え、また結婚しても働き続ける女性が多くなり、昔は主として平日に活動することが多かった婦人会の活動がこれまでのようにはできなくなってきたからです。そして何より、性別や結婚しているかしていないかといったことでの括りが時代にそぐわなくなってきたからです。大阪東教会も、性別や既婚未婚でくくる活動はしない方針です。そのような現代の状況の中で、今日の聖書箇所はどのように読むべきでしょうか。
<持ち物を出し合って>
 今日の聖書箇所の最後に「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。さりげない一文です。女性たちは、経済的にも共同体を支えていたのです。しかし、女性の中には、貧しい人たちもいたでしょう。そんな女性たちもやはり「自分の持ち物を出し」たのです。自分の賜物や労力を一行のために差し出したのです。以前いた教会で、手芸の得意な女性がいて、彼女は教会で用いるクッションや、布製の飾り物を多く作ってくださいました。自分の出来ることで信仰共同体に奉仕をしていくのです。当然、これは女性だけでなく男性にも求められることです。やはり以前いた教会には建物関係の仕事をしていた男性がいて、修繕などのこまごまとしたことをしてくださっていました。その方はいつも作業服に長靴という姿で教会におられて、教会の周りを暇さえあれば点検して、あれこれ作業をしておられました。初めて教会に来た人はその作業服で長靴の男性のことを出入りの業者さんだと大抵勘違いされたりします。
<かならず報われる愛の業>
 ところで、さきほど、「精神や観念・理念だけで、私たちの信仰は深まってはいかないのです。信仰というのは全体的なものなのです。」と申しました。でも、ともすれば私たちは、クッションを作ったり、集会室の台所の水漏れを修繕することは信仰とは直接関わらないことと考えてしまいます。主イエスの弟子たち一行の食事の準備をすることもたいしたことではないと考える人もいたかもしれません。逆男女差別的な発言をすれば、個人差はありますが、おおむね男性の方がどうしても観念に傾きやすい傾向があるのではないでしょうか。
 繰り返し申し上げていることに愛は労力を伴うということがあります。聖書で語られる愛は情感や観念ではありません。愛のために私たちは「持てる物」を差し出します。それがクッション造りであったり、水漏れの修繕であったりするのです。泥臭い、地味な働きです。そのような愛で形作られるのが教会であり、信仰共同体であり、一人一人の信仰生活です。
 そして、その泥臭い、地味な愛の働きをこそ、神は祝福してくださるのです。これからのち起こる十字架の場面で最後まで主イエスの十字架を見守ったのはほとんど女性たちでした。男性は女性よりも逮捕される危険が高かったこともあり、皆、逃げていました。ヨハネによる福音書に「愛する弟子」と呼ばれる一人の男性が十字架の傍らにいたことが記されている以外は、十字架を目撃したのは女性だったと記されています。十字架を担い、ヴィアドロローサを歩く主イエスを追い、生身を十字架に打ち付けられた主イエスを見上げたのは女性たちでした。それまでたくさんの奉仕をしてきた彼女たちは、十字架の場面では何もすることはできませんでした。ただ恐れ、嘆きました。主のために恐れ、嘆くこともまた彼女たちの愛の業でした。はたからみたら、何の役にも立たない行為です。泣いて嘆いたところで、主イエスが十字架から解放されることはないのですから。
 しかし、そのような女性たちが、復活の第一の証人となります。すべての福音書において、復活なさった主イエスの空の墓の第一発見者は女性です。復活の最初の目撃者は主イエスの側近として一番側にいたはずの12弟子たちではありませんでした。かつ、それどころか主イエスが復活なさったと言う女性の言葉を男性の弟子たちは最初否定しました。もちろん女性たちも墓に向かったとき、復活のことを分かっていたわけではありません。ただただ主イエスのなきがらに香油を塗ってさしあげたい、ちゃんと葬りをしてさしあげたいという、現実的な願いによって主イエスの墓に向かったのです。女性たちはどこまでも現実的で、泥臭い働きをします。その女性たちに復活の主イエスは最初に現れてくださいました。泥臭い、表には出ない、愛の業のうえに復活の主は愛の言葉をかけてくださるのです。私たちはこの週もささやかな愛の業を為していきます。しかし、その業はだれも見ていなくても神はご覧になっています。神が見ているんだからしっかりしなくちゃ、ということではなく、私たちのすべては神のあいのまなざしの内にあります。だから安心して日々の業を為していきます。そのような私たちをご覧くださる神は、私たちに偉大なことを見せてくださるのです。女性たちが十字架と復活の目撃者となったように、私たちも偉大な神の奇跡を目撃する者とされます。