説教「神なんて知らない」
<赦されたコソ泥>
聞いたことがある方もおられるかもしれませんが、神様の愛についての、おそらく外国のものだと思うのですが、ちょっとした小話があります。コソ泥が盗みをして、カトリックの神父さんのところへ「盗みをしてしまいました」と懺悔をしにいきます。神父さんはコソ泥が反省している様子を見て「キリストの名によってあなたは赦されました」とコソ泥に罪の赦しの宣言をします。しかしまた、コソ泥は盗みをして神父さんのところへ行きます。神父さんは懺悔するコソ泥に「あなたの罪は赦されました」とふたたび宣言します。ところがそれが何回も続きます。コソ泥は盗みをしては懺悔をしに来るのです。七回目になったとき、神父さんはついに腹を立てて、「もうあなたを赦すことはできません、出て行きなさい」と叫びます。コソ泥はびっくりして、これは困ったどうしよう、赦されなければ地獄に落ちると泣きながらおろおろしながら教会から出ようとすると、「私はあなたを赦します」という声が聞こえました。えっと思ってコソ泥が振り返るとそこには十字架にかかったキリストの絵があって、その絵の中のキリストが、つまり十字架につけられ血を流しているキリストが、「あなたを赦します」と語っていたのです。そのとき、コソ泥ははじめて、自分の罪を心から悟りました。そして同時にキリストに赦されたその喜びを感じました。その喜びはずっと続いて、もう二度と、コソ泥は盗みを働くことはなくなりました、そんな話です。これは別にカトリックの神父やざんげのありかたを馬鹿にしているわけではなく、罪の赦しの本質に迫る小話だと思います。神父であれ牧師であれ、聖書に七の七十倍まで人を赦せと書いてあっても、人間である以上、赦すことができないときはあるのです。いやそもそも人間には赦せないのです。そして本当の赦しはただ神から来るものなのだとこの話は語ります。そしてその赦しはただ十字架のキリストから来るのだと語ります。そしてその赦しを知ったとき、本当に人間は自分自身の罪をはじめて知り、そこから新しく生まれ変わることができるのだと言っています。不思議ですが、赦しが先にあって、赦されたとき、私たちは本当に自分の罪を知るのです。逆に言えば罪を本当に知ったとき、すでに私たちは赦されているのです。また別の言い方をするならば、赦されたことを知るということは神の愛を知るということですから、神の愛を感じた時、人間ははじめて自分の罪を知るといえます。先に愛があるのです。その愛によって私たちは自分の罪を知り、悔い改めることができるのです。そしてそのとき新しく生まれ変わることができるのです。人間は反省をしても生まれ変わることはできません。神の愛を知って自分の罪を知ったとき生まれ変わることができるのです。
<神の物語と人間の物語>
さて、今日の聖書箇所は、イエス様の一番弟子であったペトロが主イエスを三回知らないという有名な否認の場面です。この場面に限らず、イエス様の受難の物語を読む時、どうにも苦しくなるようなところがあります。それは人間の罪、愚かさが福音書の他の箇所より、鮮明に描かれているからです。「ホサナ、ホサナ!」と熱狂してイエス様を迎えた群衆が、やがて、「イエスを十字架につけろ!」と叫びだす、その出来事の進行の中に、とてつもない人間の愚かさを見てしまいます。ですからなにか息苦しさのようなものを感じます。今日の聖書箇所にしても、私たちはこのペトロの物語を読んで、これは愚かなシモン・ペトロという男の物語であって、自分とは関係ないとは、はっきりとは思えないのではないでしょうか。もちろん思う深さは人それぞれであるかもしれません。ある人は、このペトロは自分自身だと感じる人もいるでしょう。自分は確かにおくびょうで情けない人間で、このペトロのような裏切りをしてしまう、そんなペトロのような人間だと感じる方もいるかもしれません。そこまでは思えなくても、このペトロの裏切りの場面を読む時、どこか心の底が小さくうずくような人間の世界の悲しみとか辛さを感じる人もいるでしょう。
そんなペトロの物語ですが冒頭に、ペトロは外にいて中庭に座っていたとあります。先週お読みしました58節にペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事のなりゆきを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていたとありました。大祭司のもとで救い主であるイエス・キリストの裁判が行われている、これは神の救いの物語、十字架への物語が進んでいるということです。単なるキリストが不正な裁判を受けたということだけではなく、旧約聖書から続く、大きな神の救いの歴史の一大転換の場面であるということです。その壮大の物語の外で、今日お読みしたペトロの物語があります。庭の内側と外側で神の壮大な物語と一人の人間の愚かな物語が並行して進んでいます。しかし考えてみればこれは神の出来事は、一人一人の人間の生身の生、人生と深くかかわって行くということでもあります。私たちの毎日毎日が、神の物語、黙示録へと進んでいく神のご計画と鋭く交わりながら並行して進んでいくということでもあります。
<弱さはあきらかにされる>
さて、いったん逃げたペトロですが、それでもイエス様のことが気になったのでしょう。遠く離れてイエスに従って、裁判が行われている大祭司の屋敷の中庭にまでついてきたのです。ここには精一杯のペトロの誠意があります。イエス様を思う気持ちがあります。しかし、もちろんイエス様を見捨てて逃げたことには違いありません。遠く離れて従った、というのも小心者で臆病者です。それでも彼なりの精一杯であったと思われます。
そんな精一杯だった彼が見たものは、裁判で偽証する者のまえで黙っておられるイエス様です。死刑が宣告されて唾を吐かれ、殴られ、侮辱されているイエス様です。多くの奇跡を起こされ、力強く語っておられたイエス様はどうなさったのか?ペトロはこの事のなりゆきに驚き動転したと思います。
その動転の中、大祭司の中庭まで主イエスに従ってきたペトロの精一杯は、やがてもろく崩れていきます。女中のひとりが、ペトロがイエスの一味であることに気づきます。そして近寄ってきて言います。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。」すぐそばにいた人が「あっ」と気づいたわけではないのです。少し離れたところにいた女中が気づいてわざわざ近寄ってきて言ったのです。それほどガリラヤの漁師であったペトロの風貌はエルサレムの人々からしたら特徴的だったということかもしれません。ペトロはどきっとしたでしょう。そしてペトロの本当の姿があらわになっていきます。神はあらわになさるのです。あらわにするために、わざわざ近づいてきてペトロの心を揺さぶるのです。「何のことを言っているのかわたしにはわからない」おそらく動転しながら、うちけし、それでも平静を装いながら門の方へ向かいました。するとまた別の女中からも言われます。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」。周りの人に聞こえるように言われたのです。さらにペトロは動揺したと思います。「そんな人は知らない」と誓って打ち消したとありますが、強く否定したということです。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」別の人々も言いだします。言葉遣いでというところから、ペトロにはガリラヤの人らしい言葉の訛りがあったのでしょう。さらに言えば、最初の女中が「ガリラヤの」といい次の女中が「ナザレのイエス」と言っているところにはガリラヤやナザレへの侮蔑のニュアンスも含まれています。そんな悪意をも含んだ言葉に対してペトロは「そんな人は知らない」と呪いの言葉さえ口にしながら誓いだしたのです。これは「そんな人を知っていたとしたら自分は呪われてもいい、誓ってそんな人などは知らない」と徹底的にペトロはイエス様のことを否定したのです。ここでついにペトロの本当の姿があらわにされました。
ここで、裏切り者で弱いペトロの本当の姿を、ペトロ自身の言葉によってあらわにしてしまったのです。「イエス様なんて知らない」「そんなものを知っているとしたら呪われてもいい」そこまで激しくイエスなんて知らないと自分がイエス様を否定するときが来るとはペトロも思っていなかったでしょう。
するとすぐ鶏が鳴いた。そのときペトロは思い出すのです。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と最後の晩餐の席で主イエスがおっしゃった言葉を。その言葉を思い出したとき、ペトロは激しく泣いた、とあります。激しくという言葉は痛切にということです。身を切るように泣いたのです。そしてまた、苦く泣いたとも言えます。ペトロは自分の本当の姿を知って苦く泣いたのです。
<すでに愛されていたペトロ>
今日の聖書箇所はペトロのこの号泣で終わっています。自分の本当の姿を知らされたペトロが打ちのめされている、後悔している、そこには救いがないように思います。ただ愚かでみじめなペトロの姿で終わっているようにも見えます。しかしそうではないでしょう。ペトロは門の外に出て、とありますが、実際はすでに彼は救いの戸口に立っていたのです。ペトロは思い出したのです。イエス様の言葉を。
イエス様はご存じであった。ペトロが、やがて自分を裏切り、呪いの言葉すら口にして<イエスなんて知らない>ということになる自分をご存じであった。知っているということはそれは愛であります。愛する人のことは知っているのです。愛する相手のことは本人すら知らないことも知っているのです。イエス様は、「そんな弱いお前だから呪われるのだ」とはおっしゃっていなかった。そんな弱いペトロであることを知りながら、イエス様は愛をもって受け入れておられたことをペトロは知ったのです。
そもそも弱い弱いと申し上げて来ましたけれど、イエス様が逮捕されるときペトロはいったんは剣を抜いたと考えられます。今日の場面では、人に気づかれないと思っていることが愚かではありますが、心配して大祭司の中庭までついてきているのです。ペトロには弟子たちのリーダーとしての責任感もあったでしょう。ある意味、彼は充分に強いのです。ペトロは十分に強い人なのです。一人の大人として、できる限りの責任を果たそうとして生きてきた人です。そしてまたすべてを捨ててイエスに従うだけの強さがあった人です。人間として見たら十分に強くて愛すべき人物です。
しかし、イエス様はペトロにおっしゃるのです。もう強くなくていい、と。「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないという」その言葉は断罪の言葉ではありません。非難の言葉ではありません。愛に満ちた言葉でした。人間の強さは神の弱さより弱い。人間の強さなどはいらない。わたしは三度わたしを知らないというあなたの弱さを知っている、その弱さのままでわたしと共に生きよう、そうおっしゃっているのです。その言葉を思い出した時、ペトロは泣くことができた。涙をこらえて強くなるのではなく、自分の弱さの中で身を切るように苦く泣くことができた。強くなろう、しっかりしようとしていた自分、そこにこそ自分の愚かさがあったことに気づいたのです。
そしてペトロは涙を流しました。大の男が激しく泣いたのです。そして、すでにペトロは救いへと向かっていたのです。イエス様の言葉のゆえに。イエス様の言葉の内に自分がとらえられていたことに気づいたがゆえにペトロは救われます。イエス様に愛されていることを知ったがゆえにペトロは自分の強さを捨て、その弱さのままで新しく生き始めるのです。
冒頭に語りましたコソ泥の小話でもコソ泥はおそらく懺悔をしたときは、「もう盗みをすまい」と心から思っていたでしょう。どうにか盗みをしない自分になろうと思っていたことでしょう。しかし自分でこうあろうとする自分になろうとしてもなれないのです。自分の力で自分を変えることはできないのです。もちろん人を変えることもできません。ただ神だけが変えてくださる。十字架にかかられた主イエスだけが人間を変えてくださるのです。
ペトロはやがて大伝道者となります。このおくびょうだったペトロはおそらく最後は殉教したと考えられます。ペトロは反省して強くなって大伝道者になったのではありません。自分の弱さを知ったから、そして苦い涙を流したから立ち直ることができたのです。自分が強くなるのではなく力は神から与えられることを知ったのです。イエス様の愛のゆえに自分の弱さを知ることができた、本当の罪を知ることができた、そして涙を流すことができた、だからイエス様によって変えていただいたのです。変えていただくと言っても、まるっきり別の人間になるわけでも、二度と失敗をしない人間になるわけでもありません。実際、使徒言行録などを読みますとその後のペトロもパウロに非難されるような失敗をしています。しかし、苦い涙を流したペトロは強くあろうとしたかつてのペトロとは違うのです。その個性はそのままに弱さもそのままに新しくされたのです。
わたしたちも試みにあいます。一度だけではない、三度も試されます。ペトロのように繰り返し揺さぶられます。近くにやってきて心臓を掴まれるように、罪をあらわにされます。しかし、そこに愛があります。十字架にかかられたイエスの愛があります。イエスの愛によって私たちは罪を知らされ、そして赦されます。心から涙を流し、神の前で泣くことができ、そしてイエスの十字架の愛に向かって歩んでいきます。