大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章43~49節

2024-09-03 17:03:47 | ルカによる福音書
2024年8月25日大阪東教会主日礼拝説教「心からあふれ出るもの」吉浦玲子
<実を見る>
 去年、教会の南側のガレージの脇の花壇にポツンと雑草のようなものが生えました。抜かなくちゃと思いつつ、抜かないままにしばらくすると、やたらどんどんとその草は背が高くなるのです。あれ?これ雑草だっけ?と思って見ると雑草というよりひまわりのようです。確信はなかったのですが、抜かずにそのままにしていたら、本当にひまわりの花が咲きました。最初にそれがひまわりだとは分からなかったのは、その年、その場所にひまわりの種はまいていなかったからです。おそらく、前年か前々年にその場所にあったひまわりの種が自然に落ちて芽吹いたものだったのでしょう。教会の庭には種を蒔いたり球根や苗を植えたりして成長している植物もありますが、よく分からない知らないうちに生えているものもあります。鳥などの動物がどこからか種を持って来て、それが根付くこともあるようです。見慣れない植物を調べると毒性のある植物であったり、他の植物を駆逐する危険な外来種であることもあります。植物の専門家であれば、すぐにそういうのは見分けられるのでしょうが、植物に疎い私などはひまわりですら、花が咲くまでよく分からなかったりします。最近はスマホで植物を写すと植物名を教えてくれるアプリもありますが、そのアプリも写す場所や向きによって違う植物名を言ったりします。完ぺきに植物を確定してくれるわけでもありません。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」こう主イエスはおっしゃいます。主イエスは、この前の聖書箇所になりますが、敵を愛しなさい、とおっしゃり、また、人を裁いてはいけません、とおっしゃった、そのあとにこの言葉を語っておられます。私たちは、ひとときであれば、敵を愛するふりをすることはできるかもしれません。心の中で相手のことを「あんな奴ダメだ」と裁いていながら、それを口には出さないこともできます。でも私たちが本当に敵を愛したり、人を裁かない人間になっているか、そして神から喜ばれる人間になっているかどうかは、結局、私たちが実らせる実によって分かるのだとおっしゃるのです。私たちが茨なのかいちじくなのか野ばらなのかぶどうなのか、それは実る実によって分かるとおっしゃいます。植物に疎くて、それがどんな種類の植物か分からなくても、アプリでも判別できなくても、実によって分かるのです。逆に言いますと判別には時間がかかるということです。
 でもこれは少し恐ろしい言葉でもあります。私たちが長く生きていきながら、私たちが本当に神に喜ばれるような生き方をしているのか?私たちがその人生において、豊かな実を結ぶ生き方をしているのか、それはぱっと見では、短期間では、自分にも人にも分からないということです。自分ではおいしいぶどうの実のつもりが、なんだか苦い嫌な感じの実を結んでしまうということもあるということです。人生の終わりになって、あなたの生き方は間違っていましたねと神様に言われるのは困ってしまいます。
<良い言葉悪い言葉>
 しかし、人生の終わりまで行かなくても、判別できることはあると主イエスはおっしゃっています。それは言葉によってです。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と主イエスはおっしゃいます。

 ところで、「ありがとうございます」とか「すみませんでした」「申し訳ありませんでした」という言葉をあまり言わない方が時々おられます。信仰歴の長いクリスチャンであっても、たまにおられます。相手はその人に別に感謝されたいと思ってやっているわけではないことであっても、やったことに対して「ありがとう」という言葉がなければ、こちらがやったことがむしろ相手に不快な感じを持たせたのかと心配になったりします。あるいはやってもらって当然だと相手は思っているのかと感じたりします。また小さなことでもあってもちょっと迷惑をかけられたとき「すみません」「ごめんなさい」の一言がなければ、いったいどういうことなんだと思ってしまいます。そういうことが続きますと、結局、その人の心には感謝とか申し訳ないという思いが、そもそもないのだと考えざるを得なくなってきます。
 よく、昔は、男性は寡黙な方が良くて、たとえば、夫婦関係でも夫は妻への感謝の言葉は言わないということがあったかもしれません。もちろんそれはご夫婦ごとの関係であって、一概にそれが悪い良いという話ではありません。口には出さなくても、それぞれに相手のことを思いやっていて、そのことを双方が分かっているという場合もあるでしょう。ただ、言葉によって、相手の気持ちが分かる方がやはり良いと言えば良いのです。感謝しているのか、申し訳なく思っているのか、それは相手にわかる形であらわすべきなのです。心の中で感謝しているとか申し訳なく思っているというのは、結局のところ、感謝や申し訳ない思いそのものが大きくはないということなのです。
 ありがとうやごめんなさい、だけでなく、やはりその人の言葉というのはその人の心を表します。そう自分で申し上げつつ、普段の自分の言葉を思う時、冷や汗が出る様な思いもあります。一方で、口ではありがとうと言っておられるのですけど、なんとなくその思いが伝わってこない場合もありますし、別に悪いことはおっしゃってはいなくても、なんとなく冷たさを感じることもあります。でも、こういったからといって「じゃあしゃべり方に気をつけましょう」ということではありません。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」そもそもあなたたちの心の中に何があるのか?と主イエスは問うておられます。口先だけでありがとうございますとか感謝していますと言っても、あるいは優しそうな話し方をしても、心の中に良いものがなければ、口から出る言葉も良いものにならないとおっしゃるのです。
 これはさきほどの植物の実の話と同様、ノウハウ的にどうにかなるものではありません。こうすれば、人生で豊かな実が結べますとか、こういう風に話しましょうということではありません。そもそも聖書の言葉そのものが、直接的に、悩みにこたえるとか、生き方を指南するということではないからです。むしろ聖書は私たちに問いかけて来るのです。あなたはどんな植物なのか?あなたの心には何があるのか?と。その問いに答えつつ生きるということが御言葉に生きるということです。表面的なしゃべり方や人との接し方を良くして済む問題ではありませんし、自分の悩み事に適切な言葉でヒントを与えてもらうというものでもありません。もっと深いところから私たちは聖書において神から問われるのです。それは表面的な態度や言葉の問題ではありません。もちろん、ありがとうやすみませんはちゃんと言った方が良いですが。私たち自身が御言葉を聞き、神から問われ、その問いに答える形で変わる、いえ、変えられていくものなのです。

<土台>
 そのような神からの問いに答えつつ生きるということが、御言葉に生きるということです。聖書を単なる生き方指南書、お悩み解決ツール、癒しの言葉集としているときは、御言葉に生きるということはできていません。聖書の話をたくさん知っていても、神学をたくさん学んでいても、御言葉に生きているかというと必ずしもそうではありません。主イエスは「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃいます。「主よ、主よ」と呼ぶということは、表面的な宗教的儀礼として神を呼ぶということです。現代で言えば、普段はまったく神のことを思うことなく、日曜日に教会に来て、なんとなく清らかな癒されたような気持になって月曜からはまったく神のことを思わずに過ごすということです。
 旧約聖書の時代、特に紀元前6世紀にイスラエルが滅びる前、神の言葉を聞き、行う人はほとんどいなくなりました。でも神殿に人々は行き、それなりに礼拝や祭儀はしていたのです。「主よ、主よ」と人々は神を呼んでいたのです。しかし、神を第一とする行いはまったくありませんでした。その結果、国は滅びました。それは現代の一人一人においてもそうです。どれほど聖書を勉強しても熱心に教会の奉仕をしても、御言葉を行わないならば、それはとてもあやうい生き方になるのです。
 しかし、御言葉を行う人はそうではないと主イエスはおっしゃいます。主イエスは御言葉を行う人はどういう人に似ているか示そうと語られます。それは「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」つまり御言葉を行う人は、土台のしっかりした家のようだとおっしゃるのです。
 今、日本には台風が近づいてきています。場合によると大阪にも大きな影響を与えるかもしれません。今朝は大阪市にも大雨警報が出ていました。一方、少し前には日向灘での地震を契機に南海トラフが近づいているというような発表もありました。そもそも、日本は自然災害の多い国です。神を信じていても、自然災害は襲ってきますし、被害にあうこともあります。2018年の台風21号を思い出しても、教会庭のミモザの木が根元から倒れ、物置が倒壊し、会堂の屋根瓦が飛びました。台風だ、南海トラフだと考えているとだんだんと怖くなってきます。災害だけではなく、人生にはさまざまな危機があります。しかし、どのようなことがあっても、御言葉を行う人は土台から崩れることはないと主イエスはおっしゃいます。

 大阪東教会で用いている讃美歌集には載っていない曲で、大阪東教会ではほとんど歌うことのない曲ですが「遠き国や」という讃美歌があります。これは1923年の関東大震災の時、来日していたマーティン宣教師によって作られた讃美歌です。関東大震災は死者行方不明者が十万人という明治以降の地震としては最大規模の被害を出しました。その震災の折につくられました。「遠き国や/海の果て/いずこにすむ/民も見よ/慰めもて変わらざる/主の十字架はかがやけり/慰めもて/汝がために/慰めもて/汝がために/揺れ動く地に立ちて/なお十字架は輝けり」という歌詞です。当時、震災の被災者が明治学院の校庭に避難していましたが、まだまだ余震が続いていました。そのたいへん不安な状況の明治学園の校庭の蚊帳のなかに被災者は避難していたのですが、夜、その蚊帳の中に灯されていたろうそくの灯が、マーティン宣教師には十字架に見えたそうなのです。それでマーティン宣教師はこの讃美歌を作ったのです。どれほど地が揺れ動いても十字架は輝いている、どれほど地が揺れ動いても十字架からの慰めはかわることはない、そうマーティン宣教師は歌ったのです。
 たしかに私たちの生きるこの地上は、物理的に地面が大きく揺れることがあります。また人生においても、生きる土台が揺れる様なこともあります。台風で倒れたミモザのように根っこから倒されるようなことも人生の中にはあります。私たちは自分の足で踏ん張って、倒れないようにがんばるのではありません。私たちが倒れようとも、引っこ抜かれようとも、それでも十字架は輝いているのです。その十字架からたしかな慰めと、新しい力と命が与えられるのです。私たち自身も、この世界も不確かで変動します。でも十字架は変わりません。その変わらざるものを自分の中心としていきていくとき、私たちは時に倒れても、人生の土台は揺るぎません。物理的に建物は倒れても、私たちの生活の根幹が揺らいでも、そして私たちが落胆し絶望しようとも、十字架に照らされている私たちの土台は揺るがず、信仰の家はけっして崩れません。十字架による恵みによって守られているのです。

<御言葉を行う>
 ここでもう一度、御言葉を行うということについて考えてみます。さきほど神からの問いに答えて生きる、と申し上げました。神の問いに答えるためには神を見上げて生きていないと、その神の問いの言葉も聞こえません。神を見上げるということは熱心に祈るということではありません。祈りはどちらかというと私たちの思いを神に伝えることです。そうではなく、静まって神からの言葉を聞くことが神を見上げることです。神の言葉を勉強や解釈ではなく、自分に語られている言葉として聞くということです。そのようにして私たちは日々、神を見上げて歩みます。神を見上げる時、そこに十字架の輝きも見えるのです。ご自分の命を捧げて死んでくださったキリストの愛が見えてきます。その十字架の輝きはさきほども申し上げましたように、どのような時も変わりません。キリストの愛は変わらないのです。その愛を受けて、心から感謝して生きていくとき、私たちの心には良いものが満たされていきます。私たちの生きる土台はしっかりとしたものになります。
 「ありがとう」「ごめんさい」を言うということを申し上げましたが、私たちが心がけて良い言葉を言おうとしたり、しっかり生きていくということではありません。御言葉を行うというと、私たちの行いが問題とされているように感じますがそうではないのです。良いことをしなさいということではないのです。私たちが神を本当に見上げているならば、そこに十字架の輝き、キリストの愛が見えるはずです。そして心には感謝の思いが自然と豊かにあふれてくるのです。そのあふれ出た感謝が、私たちの言葉となり、行いになるのです。逆に言えば、私たちが自分で頑張って生きていくことや、立派な言葉を語ったり、良い行いをすることにとどまっているならば、私たちの心には神への感謝の思いはあふれません。感謝をしようと心がけていても感謝の心は絶対生まれてこないのです。自分ががんばったり心がけていると、むしろ私たちの心は貧しくなるのです。自分がしっかり生きているか、さらには他人がしっかりとやっているか、チェックしてしまう。そして自分や人を「こんなことするなんて自分はだめだ」と裁いたり、ぎすぎすした嫌な言葉しか語れなくなります。
 御言葉を行うということは聖霊によって神の言葉を聞くということであるともいえます。聖霊によって神の言葉を聞くならば、おのずと神の愛、神の恵みを知らされるのです。神の愛、神の恵みが私たちの心の中に豊かに蓄えられるのです。私たちが私たちの力で私たちの心に良いものを蓄えようとしてもぜったいにできません。私たちの心掛けで良いものを心に満たすことはできないのです。ただ聖霊によって御言葉を聞くとき、私たちの心に良いものが満たされ、その満たされたものはおのずとあふれ出るのです。そのあふれ出たものは、良い言葉となり、愛の行いとなっていきます。この一週間もそしてこれからの人生においても、私たちの心に良いものを神が満たしてくださいますように。神が良いものを満たしてくださることを信じ、大いに期待をして、歩んでいきましょう。


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