大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書1章26~38節

2018-12-06 18:03:50 | ルカによる福音書

2018年12月2日大阪東教会主日礼拝説教 「受胎告知」吉浦玲子

<六ヶ月目>

 六ヶ月目に、天使ガブリエルはナザレに遣わされます。それは洗礼者ヨハネの父となるザカリヤのもとにガブリエルが遣わされてから六ヶ月目ということです。どの福音書にもキリストの到来に先立ち、ヨハネという人物が現れたことが記されています。そのヨハネの誕生が予告されて六ヶ月目ということです。三ヶ月目でも七か月目でもない六ヶ月目、なのです。なぜ六ヶ月目なのかは人間には理解できませんが、しかし、この一般には「受胎告知」と言われる出来事は、揺るぎない神のご計画、スケジュールに基づいた出来事であったのです。アブラハムに始まる長い長いイスラエルの歴史のなかで、ダビデの時代でも、バビロン捕囚の時代でもなく、ナザレという町にマリアという女性が生まれ、おとめとして過ごしているそのときに、イエス・キリストがこの地上に来られることが告げられました。マリアは年齢的には14歳くらいではなかったかと言われます。神が人間の救いのために決定的なことをなされる、人間の歴史に鋭く介入される、それが六ヶ月目であったということです。

 その決定的な六ヶ月目に起こったことは、ナザレという田舎町のごく普通の少女へ救い主イエス・キリストの誕生がガブリエルによって告られるということでした。しかしそれは、当時、世界を支配していたローマ帝国を揺るがすような事柄ではまったくありませんでした。マリアという一人の少女の上に起きた出来事にすぎません。そもそもイエス・キリストの生涯自体、その誕生から十字架の死にいたるまで、決して現実の世界を揺るがすようなものではありませんでした。今年はルカによる福音書でクリスマスまでご降誕についてみ言葉を聞いていきますが、御子の誕生の場面も、ベツレヘムの動物小屋でひっそりとしたものでした。誕生ののちの活動や十字架での最期も、当時の歴史書に小さく記されているにすぎません。それはローマ帝国の辺境の植民地で起こった出来事にすぎませんでした。たとえば当時のローマ皇帝の動向などと比べればその現実的な影響力はほぼ皆無であったと言えるのです。イエス・キリストの出来事は現実的な世界の歴史、いやイスラエルの歴史すら揺るがさなかった出来事のようにみえます。しかしこの六ヶ月目、神は人間の救いの歴史のただなかに決定的なくさびを打ち込まれました。

<おめでとう>

 天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におらえる。」とマリアに言いました。おめでとう、とはギリシャ語では喜びという意味で、特にここは命令形ですから「喜びなさい」となります。恵まれたというところは完了形ですから、「あなたはすでに恵まれているのだから喜びなさい。」とガブリエルは言っているのです。教会に長く来られている方は毎年のようにこの聖書箇所を味わいながら、マリアの身に起こったことが、けっして一般的な意味で「おめでたい」ことではないことをご存知かと思います。ガブリエルはマリアが男の子を生むと告げますが、その男の子はマリアがヨセフと結婚をする前にマリアの身に宿ることになります。当時、いいなづけがいながら、まだ結婚をしていない女性が妊娠をするということは姦淫をしたとみなされます。少し前にお読みしたヨハネによる福音書で姦淫の現行犯で捕らえられた女性の話が出てきましたが、当時、姦淫は石打の刑で殺されるべきことでした。

 しかし、そのような死刑のリスクもさりながら、それを逃れたにしても、これから生涯、マリアは、救い主の母であることで、とてつもない体験をすることになります。キリスト誕生ののち、ルカによる福音書の2章で祭司シメオンが「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とマリアに向かって預言したように、マリアはまさに剣で心を刺し貫かれるような過酷な人生を送ることになります。ガブリエルの予告通り身ごもって生んだ子供が十字架刑にあって殺される未来がまっているのです。本来は、ナザレの田舎町で、誠実な男性であるヨセフと結婚し、貧しいながらもおそらく堅実な家庭を築き、苦労はありながらも、静かに人生を送っていくはずだった、その人生は一変するのです。

 マリアは「おめでとう」「喜びなさい」という最初のガブリエルの言葉に当惑します。そしてさらに、自分が身ごもること、そして生まれた子供は「父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と聞いて、とてつもないことが自分に起こることを知らされます。マリアは平凡な田舎の少女でしたが、おそらく物事の理解の早い少女であったでしょう。ですからガブリエルの言葉が、けっして自分にとってバラ色の未来を約束するものではないことを理解したでしょう。しかしなお、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」とガブリエルの言葉を受け入れます。神の御心を受け取ったのです。

<主が共におられる>

 この場面では、マリアの従順を多くの人が称賛します。自らの身の危険を恐れることなく、そしてまた生涯にわたる苦難を理解しつつ、なお神に従順なマリアの姿に心打たれます。しかし一方で、マリアは単に神様のために自分は辛いことも我慢しますというだけの思いで「お言葉どおりこの身になりますように」と言ったわけではありません。

 マリアは、ガブリエルの言った「恵み」を信じたのです。喜びなさい、あなたはすでに恵みを与えられた、そのガブリエルの言葉を、そして神のまことの恵みを信じたのです。ガブリエルは30節で「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」とふたたび「恵み」という言葉を語っています。「恵み」とはなにか?それは「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」と28節にあるように、「主が共におられる」ところに恵みがあるのです。

 「主が共におられる」と聞きますと、これはたしかに心強い言葉です。恵み深く響く言葉です。ボディガードのように、重要人物を警護するSPのように神が共にいてくださったらなんとうれしいことでしょう。しかし、ある説教者はこう語っています。主が共におられるということは、<あなたを用いられる主が共におられる>ということだ、と。たしかにまさに神はマリアの体を用いて、その御子をこの地上に誕生させようとされていました。主が共にいてマリアを用いられたのです。マリアはそのことを喜びと感じました。そもそも、人間にとって自分がだれかの、あるいは何かの役に立つことはうれしいことです。逆に、自分なんかは誰の役にも立たない人間だと感じるとき生きる気力を失います。仮に何不自由ない生活をしていたとしても誰も自分を必要としていないと感じるとき、人間は絶望します。それに対して、自分が誰かの役に立つ、ましてマリアの場合、神が用いてくださるのです。それが喜びでないはずはありません。

 マリアだけではありません、共にいてくださる神は、人間を用いてくださる神なのです。もちろんボディガードのように守ってもくださいます、だから安心して神の使命を担って神に身を差し出して、一人一人新しく歩みだしなさいとおっしゃるのです。

 六ヶ月目、マリアに告げられたことは、30年ほどのち、イエス・キリストの弟子たちにも形を変えて告げられました。「全世界に出て行って福音を宣べつたえよ」と。弟子たちと共に復活のイエス・キリストがいてくださり、新しい使命を与えられたのです。2000年後、私たちにも主が共にいてくださり、新しく使命を与えてくださいます。神は特別な才能や力を持った人間を用いられるのではありません。そもそも用いられるというと、奉仕をしたり特別なことをしないといけないのかとも思います。そうではないのです。いまあるがままの自分を神に差し出すとき、神は不思議なやり方で用いてくださるのです。たとえ、ベッドで寝たきりの状態であったとしても、神はなおそのままでその人を用いてくださいます。

<すべてを差し出す>

 神に用いていただくことは喜びではありますが、しかしまたそれは勇気を要することでもあります。決断を要することでもあります。といいますのは、私たちは神に条件を提示することはできないからです。これこれに用いてくださるのはいいのですが、こういうことは困ります、とは言えないのです。マリアは「わたしは主のはしためです。」と言いました。はしためとは女奴隷のことです。奴隷には仕事の自由はありません。マリアはどうぞ神の自由にわたしを用いてくださいと言ったのです。私はこれが得意なので、こっち方面のことで用いてください、ではないのです。神ご自身が自由に用いられるのです。もちろん神様は私たちにそれぞれに賜物を与えてくださいます。そしてその賜物を用いてくださいます。しかしその賜物は必ずしも自分が思っている自分の得意なことや、やりたいこととは一致しない場合もあるのです。

 しかし、だからこそ、なお神に用いられることには大いなる喜びがあるのです。自分が自分の得意な所や好きなところで力を発揮したとしても、もちろん喜びはあると思いますが、神がなさってくださったという驚きはありません。しかし、自分にとっては意外なところで、主が使命を与えられて、用いられるときには新しい発見があるのです。逆にいますと自分には取り柄がない、そう思っていても神が用いられるとき、大いなる働きをなすことができます。ただただ自分をそのままですべて差し出していくとき、神が用いてくださり、自分自身が変えられていくのです。

 そしてまた用いられるということは、能動的な行動を伴わないこともあります。さきほど寝たきりの方でも用いられると申しました。寝たきりでなくても、気が付かないうちに自分が神に用いられていたということもあります。意外なことが用いられることがあります。

 マリアは「お言葉どおり、この身になりますように。」と今日の聖書箇所の最後で言っています。お言葉通りというのは、ガブリエルの「神にできないことは何一つない」という言葉を受けています。これは新共同訳の聖書ではわかりにくいのですが、「神にできないことは何一つない」というなかの「できないこと」とは「できない言葉」「できない約束」というニュアンスをもった言葉です。つまりガブリエルは神の言葉で成就しない言葉はないと言ったのです。それに対してマリアは、ギリシャ語で同じ「言葉」という単語を使って、「お言葉通り、この身になりますように。」「約束通り、この身になりますように。」と答えたのです。

 神は人間の自由意思を尊重されます。ですから実のところ、マリアは拒否することもできたのです。しかし、「お言葉どおり、この身になりますように。」とマリアは自分自身を差し出しました。自分の全存在を神に差し出したのです。14歳の少女が大いなる決断をしたのです。神の言葉は必ず成就する、神の大いなるご計画は必ず成就する、それを信じ、自分自身を差し出しました。自分自身を通して神の言葉が実現することを願ったのです。

 この六ヶ月目の、マリアの決断は、ローマ帝国を揺るがすようなものではありませんでした。しかし、最初に申し上げましたように、このとき、たしかに神は人間の歴史の中に救いのくさびを打ち込まれたのです。やがて、打ち込まれたくさびは固い岩を砕きました。マリアの身に宿って誕生したイエス・キリストによって砕かれたのです。人間を覆っていた罪の岩が砕かれたのです。そして新しい世界が出現したのです。一人の田舎町の少女の決断が世界を変えたのです。

私たちにはそんなだいそれたことはできないでしょうか?そんなことはありません。私たちも「お言葉通り、この身に成りますように」と身を差し出すとき、神の言葉がなるのです。神の約束がなるのです。私たちの身の上に起こるのです。

 アドベントはイエス・キリストの降誕を待ち望む季節です。それは昔々どこか遠いところで起こったことを振り返る季節ではありません。私たちの身の上に起こる新しいことを期待して待つ季節です。神に期待して、どうぞわたしを用いてくださいと身を差し出す決意をする季節です。神の言葉は成るのです。神の約束は成るのです。ほかならぬ私たち一人一人の上でそのことは起こるのです。大いに期待をしましょう。大いなる期待を持つことができることを大いに喜びましょう。


ヨハネによる福音書11章1~16節

2018-12-06 17:58:26 | ヨハネによる福音書

2018年11月25日大阪東教会主日礼拝説教「彼を起こす」吉浦玲子

<遅れるイエス様>
 病人がいました。おそらくまだ若い人です。ラザロという名の男性でした。病状はひっ迫していました。その姉妹たちは、主イエスに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と使いの人をやりました。姉妹たちは、かなり主イエスと親しかったようです。病人であるラザロもまた、「あなたの愛しておられる者」と姉妹がラザロのことを指して主イエスに伝えているように、特別に主イエスと親しい関係であったようです。しかし、主イエスはすぐにラザロのもとに行こうとはなさいませんでした。マリアとマルタの姉妹、そしてラザロの住んでいた村は、ベタニアでした。エルサレムからさほど遠くない、ほんの数キロ程度のところにありました。
 ヨハネによる福音書のこれまでのところで、主イエスには危機が迫っていることが記されていました。エルサレムの権力者たちは主イエスへ殺意を抱いていました。直前の場面では主イエスは石打にあいそうになったのです。そのエルサレムの権力者たちのもとから主イエスは去って、ヨルダン川の向こう側にいって宣教をなさっておられました。その主イエスのもとに、エルサレムにほど近いベタニアからのラザロの病を知らせる便りが届いたのです。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」とありますように、主イエスがラザロのもとに向かわれたのは、使いの人が来て二日たってからでした。すぐにベタニアに行かれなかったのは、自分を石で打ち殺そうとした権力者たちがいる地域を恐れておられたからでしょうか。実際、今日の聖書箇所の最後のところでは、主イエスがベタニアに行こうとされるのに対して、ディディモと呼ばれるトマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っています。ベタニアのあるユダヤ地方に行くということは、このときの弟子たちにとって、死を覚悟するということでした。その覚悟をするために、いってみれば腹をくくるために、主イエスには二日間が必要だったのでしょうか。
 主イエスは4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」とおっしゃっています。つまり、自分の身に危険がある、そういうことは主イエスにとって重要な問題ではなかったのです。ただ、主イエスのお心にあったことは「神の栄光」であり、「神の子が栄光を受ける」ことだったのです。主イエスがことに愛しておられたマリアとマルタ、そしてラザロを通じて神の栄光が現れる、それを主イエスは考えておられたのです。死を覚悟なさったのではなく、<死では終わらない>素晴らしいことを考えておいででした。<神の栄光のため>の業がなされることを考えておいででした。その素晴らしいことのために二日間が必要だったのです。
 今日の聖書箇所につづく17節以降を読みますと、イエス様がベタニアにお着きになったとき、すでにラザロは死んで墓に葬られて四日たっていたことが分かります。そういう意味では二日早く出発していたとしても、主イエスがお着きになったとき、すでにラザロが亡くなっているということにおいては変わりはなかったのです。しかし、神の栄光のためには、二日間、主イエスはヨルダン川の向こうで滞在しておくことが必要だったのです。

<栄光の現される時>
 この世では、「善は急げ」といいます。「今日やれることを明日やるな」とも言います。しかし、神の出来事には急いでも仕方のないこと、さらに言えば、急げないことがあるのです。むしろ事をなさず、その場に留まっておくべき時もあるのです。もちろんそれは、ものごとをなんでも先送りしたらよいということではありません。神の栄光があらわされるには神の時があるということです。それは人間の時間感覚から言ったらあるときは遅いと感じられ、またある時は逆に早すぎると感じられるのです。ラザロが死んで四日後にお越しになった主イエスに対して、マリアとマルタの姉妹は、間接的な表現ながら、「遅かったではないですか」と非難をします。たしかに、人間から見たら、神のなさることは早いことよりも遅いことがどちらかというと多いかもしれません。なぜ私がこのように困っているのに、神はすぐに助けに来てくださらないのか、そう感じることが多いでしょう。詩編にも多くの詩人が苦難の中で神に対して「いつまで待てばあなたは救ってくださるのですか?」と嘆きの言葉をうたっています。「いつまで、主よ、隠れておられるのですか(89:47)」「いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか(13:3)」「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。(13:2)」
 しかし、遅いからといって、それは神が人間を忘れておられるというわけでも、懲らしめておられるわけでもありません。神はどのようなときでも愛してくださっています。今日の聖書箇所にも「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書いてあります。愛しておられるゆえに、神の栄光をお見せになるのです。もっとも良い時に、ふさわしい時に神はその栄光を私たちに見せてくださるのです。私たち一人一人の人生に神の最も良い時に栄光を現してくださいます。そしてこの大阪東教会にも現してくださいます。少し前の聖書箇所でお読みしました、生まれつき目の見えなかった人の目を主イエスが開けられた物語で、主イエスはその人が生まれつき目が見えなかったのは、その人が罪を犯したわけでもその両親が罪を犯したわけでもない、神の栄光がこの人の上に現れるためだとおっしゃいました。理不尽なこと、不幸なこと、さまざまなことがあったからといって、それは神が愛することをおやめになったというしるしではないのです。神の栄光が現されるためなのです。人間の側からしたら、神も仏もないのかというような苦しみの中にあったとしても、そこにも神の愛は注がれています。すでに神の栄光の御手は働いているのです。

<主イエスに残された時間>
 さて、二日間とどまられたのち、主イエスはユダヤに向かうことを弟子たちに告げられます。当然、弟子たちは危険だと止めようとします。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」それに対して、主イエスは「昼間は12時間あるではないか。」とやや意味の取りにくいことをおっしゃっています。これはイエス様に残された時間が少ないということです。その残された時間ののち、やがて闇がやってくる、主イエスがこの地上での宣教活動をおやめになるときが来る、それまでの時間、主イエスはこの地上でできる限りのことをするのだとおっしゃっています。ヨハネによる福音書では、カナの婚礼の奇跡の出来事が最初のしるしとされています。婚礼の席で水をぶどう酒に変えられた、それが最初のしるしでした。いまや主イエスは七つ目のしるし、そして十字架のまえの最後のしるしへと向かおうとされています。7つのしるしの中で最大のしるしともいうべきラザロをよみがえらせるというしるしに向かっていかれます。そしてまたそれは最大限に主イエスご自身に危険が降りかかる出来事でもありました。弟子たちはまだこの場面で、主イエスが実際何をなさるのか分かっていませんでした。主イエスはラザロを起こしに行く、とおっしゃいました。しかし、ラザロはもう死んでいるともおっしゃっています。弟子たちには何が何だか分からなかったかもしれません。しかしなにかただならぬことのために、主イエスが危険なユダヤ地方に向かわれる、そう感じたことでしょう。最初にも引用しましたように、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と最後の場面で言っています。イエス様が愛されていたラザロが死んだ、いまさらそこへ向かったとてどうなるわけでもない、しかしなお、危険を冒してまで主イエスはそこへ向かおうとされている、そのただならぬ主イエスの行動に戸惑いながらも、トマスは、「一緒に死のうではないか」と言い、誠実に最後まで主イエスの弟子としてついていこうと決意をしています。このトマスはイエス様の十字架刑と復活ののち、復活を信じなかったことから一般に「疑い深いトマス」と言われている弟子です。しかし、この場面での発言を見るとき、このトマスの精いっぱいの誠実さが感じられます。
 生きるか死ぬか、その場面で、「私は主イエスについていきます」とトマスは言っているのです。これは人間としては立派なことだと思います。もちろん実際にはトマスは主イエスが捕まったとき逃げてしまいます。なんだ結局トマスも口だけではないか、そういって、私たちはトマスを責めることはできません。そもそも普通の人間は、なんだかんだと理由をつけて、ユダヤには行かないと思います。いやそれ以前に、もうこの時点で、多くの人々がイエスのもとから離れ去っていたのです。人間は、自分も命を落とすかもしれない、そんなリスクを負うことは通常はできません。もともと多くの人間は負け戦には加担しません。泥舟からは誰よりも早く脱出したいのです。ですからトマスをはじめ、このとき、主イエスに従っていた弟子たちは、人間としては最大限に誠実な人たちだったと考えられます。それぞれに宗教家として立派な態度を取ったと言えるのです。もちろん限界はあります。最終的に皆、逃げ去ったのです。
 一方、人間の歴史から言えば、この弟子たちよりももっと勇敢な人々は多くいたと思います。死を恐れず、最後まで勇敢に戦った人々は多くいたでしょう。死を恐れず、危険な仕事を使命感を持ってなされている方々もおられます。戦場や特殊な任務においてだけでなく、病で亡くなる時でも、最後まで立派な態度で死を迎えられる方は多くおられます。だれにでも訪れる死を勇気をもって迎える人々はたくさんおられます。

<命に向かっている>
 ところで、ここで弟子たちが知らなかったことがあります。それは主イエスが人間に命を与えに来られていたことです。主イエスはいくたびも<永遠の命>ということをおっしゃっていました。自分が<命のパン>であるともおっしゃっていました。イエス・キリストは人間に死ではなく命を与えに来られたのです。十字架と復活を除けば、最大のしるしであるラザロのよみがえりにおいて、主イエスは、死に打ち勝つ命ということを人々にお見せになることになります。トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。しかし、主イエスについていくとき、その先にあるのは「死」ではない、そのことを主イエスは知らせようとされたのです。トマスが未来に見ていたのは、悲劇的な、あるいは英雄的な死でした。しかし、主イエスは弟子たちに一緒に死んでほしいなどとはつゆほども思っておられませんでした。そうではない、あなたたちはわたしに従って生きていくとき、命に向かうのだとおっしゃっているのです。もちろん肉体の死はあります。しかし、私たちは死で終わりになるむなしい日々を送るのではないのです。いつの日か肉体は滅びます、しかし、それで終わりではない、わたしに従う者には永遠の命が続くのだと主イエスは7つ目のしるしで示そうとされています。
 自分自身を思うとき、おそらく自分が死を迎えるとき、私はそれほど立派な態度はとれないと感じています。牧師のくせにといわれるような死に方をするかもしれません。一方で、さきほども申し上げましたように、クリスチャンでなくても立派に死を恐れず最後まで生きて行かれる方、死を迎える方もおられます。でも自分にはそれは無理だろうと感じます。しかし、主イエスはそれでいいのだとおっしゃっています。「一緒に死のうではないか」そんな勇ましさは持たなくても良いのだとおっしゃっているのです。結局、イエス様を放り出して逃げ去った弟子たちに「それでいい」とおっしゃっているのです。ひとたびは剣を振り上げ抵抗を試みたペトロに対して「剣をおさめなさい」とおっしゃいます。危険に飛び込んでいく勇敢さや立派に戦う力は不要なのです。
 死を恐れず立派に戦うことができなくてもいい、<肉体が滅びることは怖い、肉体の死は恐ろしい>正直に素直に感じていいんだと、主イエスはおっしゃってくださるのです。いやむしろ、弱いままで自分についてきなさい、そう主イエスはおっしゃいます。あなたたちは弱い羊で良いのだとおっしゃっています。羊飼いである私があなたたちを守るとおっしゃっています。そもそも人間がとことん強くならねば生きていけない社会というのはゆがんだ社会です。何でもかんでも自己責任を問われ、失敗や間違いを許されない社会は病んだ社会です。勇気を奮い起さないと生きていけない日々は緊張の日々です。
しかしそのような社会、そのような日々に生きる人間のもとに主イエスは来てくださいました。人間がありのままの弱さのなかに、主イエスと共に生きる、そこにこそ本当の平安があるのです。ベタニアは危険な土地でした。私たちもまた、人生においてベタニアに行かねばならないときがあります。怖い、しんどい、いやだ、そんな思いでベタニアに向かわねばならないときもあります。しかし、その道には主イエスが共におられます。ですから私たちが勇気を奮い起して歩むのではありません。その道は主イエスと共に死へ向かう道ではありません。永遠の命に続いていく道です。ですから安心して歩んでいくのです。ありのままの弱さのままで主イエスと共に歩みます。イエスと共にあるとき、その道は必ず命に繋がっているからです。


ヨハネによる福音書10章22~42節

2018-12-06 17:51:36 | ヨハネによる福音書

2018年11月18日大阪東教会主日礼拝説教 「あなたを強くするもの」吉浦玲子

<冬の祭り>
 「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」
 このように今日の聖書箇所は始まります。7章から話題に上がっていた仮庵祭は秋の祭りでした。季節は巡り、冬になったのです。神殿奉献記念祭は、紀元前2世紀から行われていた祭りで、ユダヤの三大祭りのひとつです。紀元前2世紀当時、シリアにイスラエルは支配されていました。そしてシリアによって激しい宗教弾圧が行われました。神殿で律法に従った祭儀を行うことが禁じられ、ゼウスの偶像が神殿に置かれました。また律法で汚れているとされている豚を神殿に捧げるように強制されました。それに反対する者は容赦なく処刑されました。そこでユダ・マカバイという人が立ち上がり、シリアに反旗を翻し、民族の独立を勝ち取りました。そして異教によって汚された神殿を清めたことが、この神殿奉献記念祭の起源でした。ですからこの祭りの時、いやがをでも、民族意識は高揚しました。主イエスの時代は、イスラエルはローマに支配されていましたから、この祭りの間は国が解放されるようにという解放への願いが高まっていました。
そして「冬であった」と書かれています。その祭りは冬に行われたのです。暗く寒い季節に祭りを行うというのは、欝々とした人間の気分を発散させるのに良いようです。日本をはじめキリスト教国ではない国でも、冬の季節にクリスマスを祝うのは商業主義的な背景もありますが、暗い季節における人間の心理的に発散したい潜在意識とマッチしているという側面も見逃せません。実際、クリスマスが12月になったのは、キリストが12月にお生まれになったからではなく、もともとローマではこの時期に太陽神の祭りをしていたからです。ローマの国教がキリスト教になったとき、この太陽神の祭りがキリストの降誕を祝うという名目に入れ替わったのがクリスマスの起源です。
 この冬ののち主イエスが十字架にかかられることになる過ぎ越し祭は春の祭りです。今日の場面は、十字架へと向かう暗い季節であることが示されています。主イエスの宣教活動が一つの終わりを迎える季節でもあります。人間の罪が満ちていく闇が象徴される季節です。しかし、皮肉なことに神殿奉献記念祭自体は光の祭りと言われたそうです。祭りの間中、家々に灯りが灯されたのです。まるで現代のクリスマスの季節の光景のようです。人間の灯したかりそめの灯りが人間の闇をかき消すようにともっている冬なのです。その冬の季節、イエスを巡る状況はより危機的に、深刻になっています。


<あなたはメシアか?>
 さて、主イエスは神殿の中を歩いておいででした。ソロモンの回廊とありますが、紀元前10世紀にソロモンが建てた最初の神殿は、紀元前6世紀にイスラエルを滅ぼしたバビロニアによって破壊されました。そののちバビロン捕囚から帰ってきた人々によって神殿は再建され、さらに紀元前1世紀にヘロデ大王によって大拡張が行われました。破壊と再建、大改築を経た神殿にあって、このソロモンの回廊はソロモン王が神殿を建てたときから残っている回廊だと言われていたようです。言ってみれば主イエスの時代から1000年も前からイスラエルが神に特別に選ばれ、祝福されたことを記念する回廊といえます。その場で、ユダヤ人は主イエスを取り囲んで詰問をします。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」人々は救い主であるメシアを待ち望んでいました。先ほども申しましたように神殿奉献記念祭のとき、さらにその思いは高まっていたのです。あなたがメシアならそろそろはっきり宣言したらどうだ?そうユダヤ人は問うているのです。
 イエス様はこれまでサマリアの女であるとか、生まれながらに目の見えなかった人には、はっきりとご自身が神のもとから来た救い主であることを語っておられます。しかし、権力者であるユダヤ人にははっきりとは語っておられません。10章の最初からあるように、羊飼いや門の譬えを使って話をされています。その理由の一つは、人々が考えていたのは民族独立を実現するような政治的な救い主メシアであったからです。つまり、かつてのユダ・マカバイのようなリーダーを求めていたのです。しかし、主イエスはそのような政治的な独立を実現するようなメシアではありませんから、あえてメシア救い主という言葉を避けておられたということがあります。
 今日の聖書箇所でも「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」と遠回しなお答えをなさっています。わたしはたしかに自分がメシアであることを言ったけれど、あなたたちは信じないではないか、そもそもわたしのやったことを見たらわたしが何者か分かるだろう、そうおっしゃっています。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」<わたしの羊ではない>、このイエス様の言葉はドキッとする言葉です。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」そうイエス様はおっしゃいます。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける、しかし、イエス様の羊でない羊はイエス様の声を聞き分けることができないと主イエスはおっしゃいます。イエス様の声を聞きわけない者は、そのなさることを見ても信じることはできない、そもそも、そういう羊は自分の羊ではないとおっしゃるのです。
 ここで大事なことは、イエス様の言葉を聞き分けることができるから、その羊はイエス様の羊だということではないのです。イエス様の羊であれば、おのずとイエス様の言葉を聞き分けることができると、主イエスはおっしゃっているのです。こういう言葉を聞きますと、自分はイエス様の言葉を聞き分けているだろうか?そういう不安を持つかもしれません。いや不安を持っておられる方はまだよいのです。私はしっかり主イエスの言葉を聞き分けていると自信のある人のほうがむしろ痛ましいのです。自分の勝手な思いでイエス様の言葉を聞いている、そして自分は聞き分けていると思い込んでいる、そうであるならば、それほど痛ましいことはありません。
 ユダヤ人は「あなたがメシアなら、はっきり言いなさい」そう主イエスに言ったのです。それは自分の願いをかなえるメシアであることが前提なのです。あなたはユダ・マカバイのような人なのか?そうユダヤ人たちは聞いたのです。しかし、私たちもまた救い主に言うのです。あなたはわたしの願うような救い主であるのか?と。わたしの声を聞いて、わたしの願いをかなえるメシアなのかと私たちはメシアに問うのです。私たちは往々にして羊飼いの声を聞き分ける羊ではなく、羊飼いに問いただし、自分に従わせようとする羊です。
 なぜ私たちは主イエスの言葉を聞き分ける羊ではないのでしょうか?それは私たちが強いからです。自分をかよわい羊、迷える羊とは思っていないからです。前にもお話ししましたように、羊は羊飼いなしでは生きられない動物です。自分の命をすべて羊飼いに委ねているのが羊飼いの羊です。だから羊飼いの羊は羊飼いの声を聞き分けるのです。聞き分けることが、自分の命にかかわることだからです。しかし、私たちは自分の力で生きていけると思っています。神様は、せいぜいちょっと困ったときだけ助けてくれればいい、そう考えてしまいがちです。ですから羊飼いである主イエスの言葉が聞き分けられないのです。

<選びと恵み>
 では私たちは主イエスの羊ではないのでしょうか?主イエスの羊であれば、あのずと主イエスの言葉を聞き分けることができるのであれば、主イエスの声が聞き取れないことのある人間は主イエスの羊と言えないのでしょうか?
 ここで少し硬い言葉で言いますと「神の選び」ということが言われています。神の選びと言いますと、私は選ばれているのか選ばれていないのかということが気になります。そしてまた選ばれる人と選ばれない人がいるならば、神は不公平だとも感じます。しかし、神の選びというのは、すべてのことが神の側に委ねられているということなのです。この世界では、人間は選ばれるように努力する存在です。試験でもスポーツ競技でも職場の役職でも実績を上げたり勝ち抜いたり、相応の力があることを示すことによって、選ばれます。しかし、神の選びはそうではないのです。人間の側の要件は不要なのです。ただ、十字架と復活のイエス・キリストを信じさえすればいい、そしてその信じる信仰すら神によって与えられるのです。神の選びということはすべてが恵みだということです。その恵みは神からの一方的な恵みなのです。私たちはただ安らかに神のなさることを感謝して歩んでいけばいいのです。
 こんな小話があります。天国に行った人が、案内人に天国を案内してもらいます。そうしたら巨大な倉庫が見えました。案内人はそこは素通りしようとします。でも天国に来た人はどうしてもその倉庫の中が見たくてたまりません。案内人に「あれは何ですか」と聞いても答えてくれません。で、その人は、案内人を振り切って走って行って倉庫の中に勝手に入ります。案内人は慌ててその人を追いかけてきて「その中を見てはいけない」と叫びます。でもその人は倉庫の中に入っていきます。そして愕然とします。それは人間が生きている間、神様がその人に渡そうとして受け取られなかった恵みが入れてあったのです。その人は自分の名前が書かれた棚を見つけます。その棚にはおびただしい数の恵みが受け取られないままに置かれていました。たしかに自分が要らないと言った恵みもあれば、気づかなかった恵みもあります。ああ神様はこんなに素晴らしいものをたくさんくださろうとしていたのに、私はなんてことをしていたのだ、その人は膝を折って崩れ落ち、号泣します。案内人がようやく追いついてきて言います。「だからこの倉庫の中は見ない方が良いと言ったのに」
 私たちは自分たちが力ある者だと思っているとき、神の恵みを受け取ることができません。あふれるほどに与えてくださる方へ顔を向けていなければ、与えてくださっていることが分かりません。ただ子供のように無邪気に何をもらえるかなあと期待をして神に顔を向けているとき、私たちはあふれるほどのものをいただくのです。「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」そう主イエスはおっしゃっています。恵みの中にある羊は、安全なのです。この世のあらゆることから守られているのです。死からすら守られています。死によってすら、主イエスの羊は奪われることはないのです。
 神にあなたは何者か?あなたはわたしに何をしてくださるのかと問うことをやめたとき、私たちには神の声が聞こえてきます。あなたはわたしを選ぶのか選ばないのかどっちなのだと問うことをやめたとき、すでに神の恵みの業が自分に及んでいることが見えてきます。
 伝道者パウロに神はおっしゃいました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ。」私たちは自分たちの弱さを誇っていいのです。信仰の弱さすら誇っていいのです。神が与えてくださるからです。弱いところを強め、欠けたところを満たしてくださる、その神に期待をします。季節は冬に向かっています。しかし、暗く寒いところに神のあたたかな光がさします。私たちが暗くて寒いときに、まさに神の救いの光が注がれます。