2018年12月2日大阪東教会主日礼拝説教 「受胎告知」吉浦玲子
<六ヶ月目>
六ヶ月目に、天使ガブリエルはナザレに遣わされます。それは洗礼者ヨハネの父となるザカリヤのもとにガブリエルが遣わされてから六ヶ月目ということです。どの福音書にもキリストの到来に先立ち、ヨハネという人物が現れたことが記されています。そのヨハネの誕生が予告されて六ヶ月目ということです。三ヶ月目でも七か月目でもない六ヶ月目、なのです。なぜ六ヶ月目なのかは人間には理解できませんが、しかし、この一般には「受胎告知」と言われる出来事は、揺るぎない神のご計画、スケジュールに基づいた出来事であったのです。アブラハムに始まる長い長いイスラエルの歴史のなかで、ダビデの時代でも、バビロン捕囚の時代でもなく、ナザレという町にマリアという女性が生まれ、おとめとして過ごしているそのときに、イエス・キリストがこの地上に来られることが告げられました。マリアは年齢的には14歳くらいではなかったかと言われます。神が人間の救いのために決定的なことをなされる、人間の歴史に鋭く介入される、それが六ヶ月目であったということです。
その決定的な六ヶ月目に起こったことは、ナザレという田舎町のごく普通の少女へ救い主イエス・キリストの誕生がガブリエルによって告られるということでした。しかしそれは、当時、世界を支配していたローマ帝国を揺るがすような事柄ではまったくありませんでした。マリアという一人の少女の上に起きた出来事にすぎません。そもそもイエス・キリストの生涯自体、その誕生から十字架の死にいたるまで、決して現実の世界を揺るがすようなものではありませんでした。今年はルカによる福音書でクリスマスまでご降誕についてみ言葉を聞いていきますが、御子の誕生の場面も、ベツレヘムの動物小屋でひっそりとしたものでした。誕生ののちの活動や十字架での最期も、当時の歴史書に小さく記されているにすぎません。それはローマ帝国の辺境の植民地で起こった出来事にすぎませんでした。たとえば当時のローマ皇帝の動向などと比べればその現実的な影響力はほぼ皆無であったと言えるのです。イエス・キリストの出来事は現実的な世界の歴史、いやイスラエルの歴史すら揺るがさなかった出来事のようにみえます。しかしこの六ヶ月目、神は人間の救いの歴史のただなかに決定的なくさびを打ち込まれました。
<おめでとう>
天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におらえる。」とマリアに言いました。おめでとう、とはギリシャ語では喜びという意味で、特にここは命令形ですから「喜びなさい」となります。恵まれたというところは完了形ですから、「あなたはすでに恵まれているのだから喜びなさい。」とガブリエルは言っているのです。教会に長く来られている方は毎年のようにこの聖書箇所を味わいながら、マリアの身に起こったことが、けっして一般的な意味で「おめでたい」ことではないことをご存知かと思います。ガブリエルはマリアが男の子を生むと告げますが、その男の子はマリアがヨセフと結婚をする前にマリアの身に宿ることになります。当時、いいなづけがいながら、まだ結婚をしていない女性が妊娠をするということは姦淫をしたとみなされます。少し前にお読みしたヨハネによる福音書で姦淫の現行犯で捕らえられた女性の話が出てきましたが、当時、姦淫は石打の刑で殺されるべきことでした。
しかし、そのような死刑のリスクもさりながら、それを逃れたにしても、これから生涯、マリアは、救い主の母であることで、とてつもない体験をすることになります。キリスト誕生ののち、ルカによる福音書の2章で祭司シメオンが「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とマリアに向かって預言したように、マリアはまさに剣で心を刺し貫かれるような過酷な人生を送ることになります。ガブリエルの予告通り身ごもって生んだ子供が十字架刑にあって殺される未来がまっているのです。本来は、ナザレの田舎町で、誠実な男性であるヨセフと結婚し、貧しいながらもおそらく堅実な家庭を築き、苦労はありながらも、静かに人生を送っていくはずだった、その人生は一変するのです。
マリアは「おめでとう」「喜びなさい」という最初のガブリエルの言葉に当惑します。そしてさらに、自分が身ごもること、そして生まれた子供は「父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と聞いて、とてつもないことが自分に起こることを知らされます。マリアは平凡な田舎の少女でしたが、おそらく物事の理解の早い少女であったでしょう。ですからガブリエルの言葉が、けっして自分にとってバラ色の未来を約束するものではないことを理解したでしょう。しかしなお、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」とガブリエルの言葉を受け入れます。神の御心を受け取ったのです。
<主が共におられる>
この場面では、マリアの従順を多くの人が称賛します。自らの身の危険を恐れることなく、そしてまた生涯にわたる苦難を理解しつつ、なお神に従順なマリアの姿に心打たれます。しかし一方で、マリアは単に神様のために自分は辛いことも我慢しますというだけの思いで「お言葉どおりこの身になりますように」と言ったわけではありません。
マリアは、ガブリエルの言った「恵み」を信じたのです。喜びなさい、あなたはすでに恵みを与えられた、そのガブリエルの言葉を、そして神のまことの恵みを信じたのです。ガブリエルは30節で「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」とふたたび「恵み」という言葉を語っています。「恵み」とはなにか?それは「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」と28節にあるように、「主が共におられる」ところに恵みがあるのです。
「主が共におられる」と聞きますと、これはたしかに心強い言葉です。恵み深く響く言葉です。ボディガードのように、重要人物を警護するSPのように神が共にいてくださったらなんとうれしいことでしょう。しかし、ある説教者はこう語っています。主が共におられるということは、<あなたを用いられる主が共におられる>ということだ、と。たしかにまさに神はマリアの体を用いて、その御子をこの地上に誕生させようとされていました。主が共にいてマリアを用いられたのです。マリアはそのことを喜びと感じました。そもそも、人間にとって自分がだれかの、あるいは何かの役に立つことはうれしいことです。逆に、自分なんかは誰の役にも立たない人間だと感じるとき生きる気力を失います。仮に何不自由ない生活をしていたとしても誰も自分を必要としていないと感じるとき、人間は絶望します。それに対して、自分が誰かの役に立つ、ましてマリアの場合、神が用いてくださるのです。それが喜びでないはずはありません。
マリアだけではありません、共にいてくださる神は、人間を用いてくださる神なのです。もちろんボディガードのように守ってもくださいます、だから安心して神の使命を担って神に身を差し出して、一人一人新しく歩みだしなさいとおっしゃるのです。
六ヶ月目、マリアに告げられたことは、30年ほどのち、イエス・キリストの弟子たちにも形を変えて告げられました。「全世界に出て行って福音を宣べつたえよ」と。弟子たちと共に復活のイエス・キリストがいてくださり、新しい使命を与えられたのです。2000年後、私たちにも主が共にいてくださり、新しく使命を与えてくださいます。神は特別な才能や力を持った人間を用いられるのではありません。そもそも用いられるというと、奉仕をしたり特別なことをしないといけないのかとも思います。そうではないのです。いまあるがままの自分を神に差し出すとき、神は不思議なやり方で用いてくださるのです。たとえ、ベッドで寝たきりの状態であったとしても、神はなおそのままでその人を用いてくださいます。
<すべてを差し出す>
神に用いていただくことは喜びではありますが、しかしまたそれは勇気を要することでもあります。決断を要することでもあります。といいますのは、私たちは神に条件を提示することはできないからです。これこれに用いてくださるのはいいのですが、こういうことは困ります、とは言えないのです。マリアは「わたしは主のはしためです。」と言いました。はしためとは女奴隷のことです。奴隷には仕事の自由はありません。マリアはどうぞ神の自由にわたしを用いてくださいと言ったのです。私はこれが得意なので、こっち方面のことで用いてください、ではないのです。神ご自身が自由に用いられるのです。もちろん神様は私たちにそれぞれに賜物を与えてくださいます。そしてその賜物を用いてくださいます。しかしその賜物は必ずしも自分が思っている自分の得意なことや、やりたいこととは一致しない場合もあるのです。
しかし、だからこそ、なお神に用いられることには大いなる喜びがあるのです。自分が自分の得意な所や好きなところで力を発揮したとしても、もちろん喜びはあると思いますが、神がなさってくださったという驚きはありません。しかし、自分にとっては意外なところで、主が使命を与えられて、用いられるときには新しい発見があるのです。逆にいますと自分には取り柄がない、そう思っていても神が用いられるとき、大いなる働きをなすことができます。ただただ自分をそのままですべて差し出していくとき、神が用いてくださり、自分自身が変えられていくのです。
そしてまた用いられるということは、能動的な行動を伴わないこともあります。さきほど寝たきりの方でも用いられると申しました。寝たきりでなくても、気が付かないうちに自分が神に用いられていたということもあります。意外なことが用いられることがあります。
マリアは「お言葉どおり、この身になりますように。」と今日の聖書箇所の最後で言っています。お言葉通りというのは、ガブリエルの「神にできないことは何一つない」という言葉を受けています。これは新共同訳の聖書ではわかりにくいのですが、「神にできないことは何一つない」というなかの「できないこと」とは「できない言葉」「できない約束」というニュアンスをもった言葉です。つまりガブリエルは神の言葉で成就しない言葉はないと言ったのです。それに対してマリアは、ギリシャ語で同じ「言葉」という単語を使って、「お言葉通り、この身になりますように。」「約束通り、この身になりますように。」と答えたのです。
神は人間の自由意思を尊重されます。ですから実のところ、マリアは拒否することもできたのです。しかし、「お言葉どおり、この身になりますように。」とマリアは自分自身を差し出しました。自分の全存在を神に差し出したのです。14歳の少女が大いなる決断をしたのです。神の言葉は必ず成就する、神の大いなるご計画は必ず成就する、それを信じ、自分自身を差し出しました。自分自身を通して神の言葉が実現することを願ったのです。
この六ヶ月目の、マリアの決断は、ローマ帝国を揺るがすようなものではありませんでした。しかし、最初に申し上げましたように、このとき、たしかに神は人間の歴史の中に救いのくさびを打ち込まれたのです。やがて、打ち込まれたくさびは固い岩を砕きました。マリアの身に宿って誕生したイエス・キリストによって砕かれたのです。人間を覆っていた罪の岩が砕かれたのです。そして新しい世界が出現したのです。一人の田舎町の少女の決断が世界を変えたのです。
私たちにはそんなだいそれたことはできないでしょうか?そんなことはありません。私たちも「お言葉通り、この身に成りますように」と身を差し出すとき、神の言葉がなるのです。神の約束がなるのです。私たちの身の上に起こるのです。
アドベントはイエス・キリストの降誕を待ち望む季節です。それは昔々どこか遠いところで起こったことを振り返る季節ではありません。私たちの身の上に起こる新しいことを期待して待つ季節です。神に期待して、どうぞわたしを用いてくださいと身を差し出す決意をする季節です。神の言葉は成るのです。神の約束は成るのです。ほかならぬ私たち一人一人の上でそのことは起こるのです。大いに期待をしましょう。大いなる期待を持つことができることを大いに喜びましょう。