2021年8月月29日日大阪東教会主日礼拝説教「帰ってきたあなたへ」吉浦玲子
<不当な苦しみを望まれる神?>
今日の聖書箇所で語られています召し使いとは、奴隷のことです。ここでいう奴隷と
は、戦争で捕らえられた捕虜が、家に連れて来られてその家の奴隷として仕えることになった人々を指すようです。当時、ローマ帝国には6000万人くらい奴隷がいたようです。キリスト者の中にも奴隷が多かったと考えられます。ある神学者はペトロの手紙の中でこの部分が一番熱心に読まれたのではないかと語っています。今日の私たちからすると召し使いとか奴隷と言われるとピンとこないのですが、この手紙が書かれたころはむしろ切実に読むキリスト者が多かった部分のようです。ペトロは、その奴隷たちに主人に仕えなさいと説きます。それも上っ面ではなく心からおそれ敬って主人に従いなさいと言うのです。戦争捕虜であったのであれば、奴隷の中には、かつては身分の高かった人、学識のある人もいたでしょう。そういう人々に、場合によって自分より明らかに学識や能力的に劣る主人もあったでしょう。その場合でもその主人に心からおそれ敬って従いなさいというのは厳しい言葉であったと思います。ましてや「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」というのはたいへんな難題だと思います。
ところで、現在、私たちは、戦争捕虜でも奴隷でもありません。様々な制約やしがらみの中で生きていますが奴隷ではありません。今日でいうところのブラック企業に勤め、パワハラ上司のもとで酷使されていたとしても、奴隷ではありません。ですから、ペトロが奴隷たちに語った言葉は、現代の私たちには関係がないことのようにも思えます。当時の社会制度の中、奴隷は奴隷として生きるしかなかったのです。良い主人であれ、無慈悲な主人であれ、奴隷は主人に従って生きるしかなかったのです。従わなければひどい目に遭わされたでしょう。いや従ったとしても、不当な苦しみを受けることも実際あったでしょう。その状況で、「心からおそれ敬って」主人に従いなさいと語られているのです。
しかし一方で思うのです。私たちは身分としては奴隷ではありませんが、やはりまた、どうしても抗えない、不当な苦しみを受けることがあります。不当な苦しみというのは、因果応報ではない苦しみです。悪事を働いて報いを受け、苦しむのは不当ではありません。しかし、こちらに何の原因もないのに受ける苦しみは不当な苦しみです。あるいは、こちらにまったく非がないわけではないけれど、起こってしまう苦しみというのもあります。できるだけ健康に気を付けようと思っても、つい不摂生をしてしまう、不摂生せざるをえない環境の中に置かれることもあります。そのために病気になってしまうこともあります。自業自得と言われればそうかもしれませんが、世の中には、不摂生をしても元気で長生きする人もいます。もともとの体質や環境など複雑な要因もからみます。そこまでの不摂生はしてないのに、なぜ自分は病気になって、もっと不摂生をしているあの人はなぜぴんぴんしているのか、そう考えていくと、やはりそこには因果応報とはいえない苦しみがあります。苦しみというのは、ある意味、受ける者にとっては、すべて不当な苦しみともいえます。
<御心に適う苦しみ?>
さらにいえば、この世界には人間の罪が満ちています。その罪の世界のゆえに、不当な苦しみは生じるともいえます。私たちは理不尽な社会や組織や人間関係のゆえに苦しみを受けることもあります。私の友人の息子さんが新型コロナ感染症に感染し、現在の医療崩壊の事態の中で医療も受けられない状態です。息子さんは一人暮らしで、現時点では発熱はありますが、重症化はしていないそうです。しかし、一人で自宅で療養する日々はとても不安であろうと思います。未知のウィルスへの対応は想定外のことが多く、簡単なことではありませんが、現在の日本の医療の状況には人災的な側面が大いにあると考えられます。その状況の中で数万人もの人々が苦しんでいます。そこにはもちろん病自体の苦しみもありますが医療を受けられない不安恐怖というものがあります。コロナによってこの世界の罪の現実が明らかにされている側面があります。私たちはまさにそのような世界に生きています。そういうことを考えますと、私たちは今日のペトロの言葉は奴隷でもない私たちにも大いに関係する言葉として聞き取ることができます。
しかしまた、自分に関わる言葉として聞く時、その不当な苦しみということについて納得できないところもあります。「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」こうペトロは語ります。神が人間が苦しむことをお望みだなどということはあまり信じたくないことです。そして苦痛を耐えることが御心に適うことというのも解せない気がします。神は人間を愛しておられるのではないか?なのに人間に苦痛を耐えさせ、それが御心に適うというのは、愛なる神のなさることとは思えないとも感じます。
そもそも私たちは、ご利益を求めて信仰に入ったわけではありません。キリスト教はご利益信仰ではないということは繰り返し言われることです。しかし、だからといって、苦しむこと、それも不当な苦しみを耐えることが神の御心だと言われるとどうにもやり切れません。私たちはお金持ちになりたいとか長生きしたいと思って主イエスを信じているわけではありませんが、日々に平安や希望を持ちたいと思います。また切実な願いを神に聞いていただきたいとも思います。
しかし、聖書を読みますと、不当な苦しみに遭う人々が多く出てきます。代表的な人はヨブ記のヨブでしょう。なんの悪いところもない、正しい人、義人と言われるヨブが、子供を奪われ財産も奪われ、自分自身もひどい病にかかってしまいます。そのヨブの言葉に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というものがあります。主は与えられ、主は奪われる。その主はほめたたえられなければならないというのです。私にとって良いものを与えてくださるから神をほめ、賛美するのではない、私にとって大事なものを奪われたとしても、神はほめたたえられるべきお方なのだとヨブは語るのです。しかし、そう語ったヨブも見舞いに来た友人たちと口論になり、その議論の流れの中で、ついに神に叫びます。自分には非はないのに自分は不当な目に遭っていると叫ぶのです。ヨブ記の最後のところで、神と出会ったヨブは神のなさることの意味を人間には悟ることができないことを理解します。しかしそこには因果応報的な明確な答えはありません。そういう意味でヨブ記は難解な書物といえます。
しかし実際、人間には自分がいま遭っている不当な苦しみの理由を知ることはできません。しかし、その苦しみが起こることをゆるされているのは神であり、その神に対して人間は叫び怒りを発することができるのです。逆に言えば、だから苦しみを耐えることができるのです。苦しみの理由は自分から考えると不当で不条理であっても、それは神がゆるされたことなのです。神の手のうちにある苦しみなのです。私たちは苦しみの中にあっても一人ではありません。神の手の内、神のまなざしの内にあるのです。
何より、もっとも不当な苦しみをお受けになったのは主イエスでした。主イエスは「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のに、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とペトロが語るように、不当な苦しみを耐え忍ぶということにおいて、模範となられました。
<すでに癒されている>
しかしそのイエス・キリストの苦しみはただ私たちの模範であるだけではありません。キリストの苦しみのゆえに私たちは救われました。私たちは身分の上で奴隷ではありませんでしたが、罪の奴隷でした。罪の泥沼の中にいて、そこから自分の力では抜け出すことができませんでした。罪は振り払っても振り払っても私たちに絡みついてきました。しかし、その罪を十字架において主イエスは担ってくださり、私たちは罪に対して死にました。そして新しく義によって生きるようになりました。キリストのお苦しみのゆえに。
私たちは飼い主のない羊のようにさまよっていました。そもそも羊は単独では生きられないものです。目も悪いと言います。飼い主のない羊、はぐれた羊は、道に迷い死ぬしかないのです。そのような羊のようであった私たちはいま飼い主、良い牧者のもとに庇護されています。自分の罪ゆえ、牧者の声を聞きとることができずに迷う出でていた私たちは戻ってきました。そして今や安心してキリストのもとに憩っています。迷い出ていた時、茨や荒れ野で傷めた傷も癒していただいています。私たちは既にもっとも苦しい苦しみからは癒されているのです。
そして「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」とあるように、すでに良き監督者のもとに私たちは置かれているのですから、この罪の世において与えられる苦しみにも耐えられるのです。いや実際は耐え難く、弱音を吐くことはあるかもしれません。ヨブのように神に叫ぶかもしれません。神への信頼が揺らぐときもあるかもしれません。しかしなおそこでキリストと出会います。私たちは苦しみの中でキリストと出会うのです。幸せな時、喜びの時もキリストと出会いますが、苦しみの時こそ、私たちはキリストと出会います。キリストの十字架を見上げるのです。皆さんも、これまでを振り返る時、たしかにそうではなかったでしょうか。
「ベン・ハー」という1959年に封切られた古い映画があります。主人公のユダヤ人のベンは、もともとは幼馴染であったローマの司令官に疎まれ、無実であるにもかかわらず罪を負わされ、奴隷の身分に落とされます。家族も捕らえられ、地下牢に入れられます。まさに奴隷として不正な苦しみを受けるのです。ベンは移送されますが、長い道のりを歩ませられるときも、司令官の差し金で、他の囚人たちは水を飲むことがゆるされているのに、ベンだけは水すら与えられません。激しい渇きの中で、ついにベンは意識を失って倒れたます。その時、何者かが、ベンを助け起こし水を飲ませます。ローマ兵はそれを制止しようとしますが、ベンに水を飲ませている人物を見て、なぜか引き下がります。その人物の姿ははっきりとは描かれていませんが、キリストでした。
詩編37編24節に「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」という言葉があります。まさに倒れたベンの手をとらえてくださった方がありました。私たちはもちろん、いつも元気で自分の足で歩けたら良いと思います。力強く人生を歩みたいと思います。しかしなお、この罪の世にあって、私たちは苦しみを受けることがあります。そして倒れることもあります。しかしなお、私たちはすでに魂の牧者、監督者のもとにあります。倒れても打ち捨てられるのではないのです。かならず私たちの手をとっていてくださる方があります。
私たちの信頼と平安はそこにこそあります。自分たちの望みがかなえられ、順風満帆な人生を送るために神があるならば、自分たちの思い通りの人生を歩めなければ神などはいないということになります。そして苦しみの中で、虚無的に生きていくことになります。しかし、どのようなときでも打ち捨てられることなく、手を取っていただける方がおられます。だから私たちはこの罪に満ちた世界を平安に生きていくことができます。苦しみの中にあって、なお、希望を持つことができます。むしろ苦しみのなかでキリストと出会い、キリストの十字架の恵みを覚え、神への信頼を増し加えていただきます。