大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙12章9~21節

2017-11-27 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年11月26日 大阪東教会主日礼拝説教 「燃える炭火を積む」 吉浦玲子

<偽りのない愛は無理>

 「愛には偽りがあってはなりません。」とても美しい言葉です。しかし、この言葉を聞くと不思議な気もします。「愛には偽りがあってはなりません」というけれど、逆に偽りのある愛というのがあるのでしょうか?「愛に偽りがあってはなりません」とは「愛に偽善があってはならない」ともいえる言葉です。そもそも、偽善、取り繕った偽りの行為と愛は結びつくものでしょうか?偽善の混じった愛というものが存在するのでしょうか?

 パウロはここでキリストにある共同体のあり方を語っています。そこにはまことの愛が必要であると語っています。「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」ここで、さらに愛というものを悪や善と関連づけて語っています。つまり悪を憎むことなく、善から離れて、愛はあり得ないとパウロは語っています。私たちはここをなかなか理解できません。さきほど、偽りのある愛というのもがあるでしょうかと問いました。さらっと聞くと、愛には偽りがないのは当たり前だと私たちは思うのです。偽りのある愛なんてありえないと感じます。

 しかし、そう感じる一方で、私たちは、悪とか善という倫理的なことがらと愛を切り離して考えてしまうのです。愛するゆえの嘘、愛する人のためなら悪だって行う、そういうことが、美しい言葉で語られがちです。しかし、そこで語られているる愛の本質は往々にしてセンチメンタルなものであって、聖書で語られる愛とずれている場合が多いのです。聖書で語られる愛は情感的なもの、気分的なものではありません。人間の世界では愛と倫理が切り離されてしまいがちですが、聖書の語る愛は情感的なものではなく倫理と結びつきます。神は正しい方、義なる方であるからです。そもそも善をなすということは先週お読みした2節にある「何が神の御心であるか」をわきまえて生きるということです。聖書における愛は神の御心と結びついているのです。み心をわきまえて歩む時、悪を憎み、善から離れず、まことに愛し合うことができるようになります。そのとき、愛には偽りがないのです。偽りのない愛があるとき「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思」うことができます。同時にこれは神によって与えらえた共同体を尊重するということでもあります。私たちは血族としての親子関係、家族関係を自分で選択することはできません。一方で、教会という共同体には選択の自由があります。しかし、この共同体もまた神に与えられた神の家族なのです。だから私たちは家族のように仲良くしなければなりませんとパウロは語っているのではありません。神に与えられた、神が造られた共同体ということを尊重した態度をとりなさいということです。そのとき、互いに相手への尊敬というものがおのずと生じるのです。

 ところで、愛ということでいえば、パウロには愛の讃歌と呼ばれるたいへん有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙Ⅰの13章にある言葉です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」愛がなければ、どんなに人間の貴い行いも、すぐれた実績も、あるいは信仰すら意味はないのだとパウロは語ります。

 さらに「愛は忍耐強い。愛は情け深い。・・」と言葉は続いていきます。私たちはこの聖書箇所を読むとき、この「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、、、」というところで、自分にはとても無理だと感じます。実際、人間にとって、無理なことをパウロは語っているといってもいいのです。

 ローマの信徒への手紙の本日の聖書箇所も、愛の本質ということから考えますと、人間にとってはとても困難なことが語られています。聖書で語られている愛の本質を考える時、人間には偽りのない愛も、共同体の中で互いに心から尊敬しあうことも、困難だと思われます。

 ところで、パウロという人は文章を読んでいますと、かなり気性の激しい人だったようにも感じられます。異端とは徹底的に戦いましたし、教会の中の共同体を乱す者にはきわめてきびしく接しました。まさに悪を憎み、善から離れなかった、そのパウロが求めた愛、それこそ偽りがない愛なのです。偽りがない愛を貫く時、偽りに対して徹底した態度をとらざるを得ないのです。

 そんなパウロには反対者も多かったのです。実際そうでしょう。こんな厳しい、偽りのない愛を徹底した人が共同体の中にいたら、ある意味、煙たかったと思います。パウロの言う愛は、表面的に、人々を甘い気持ちにしたり、和やかにする種類のものではなかったようです。でもパウロの激しさは、見ようによっては、パウロは忍耐強くなくて、情け深くないのではないか?先ほどの愛の讃歌とは合わないのではないかとも感じるものです。敵対者に厳しく接するパウロの姿は、むしろイエス様の時代のファリサイ派と一緒とまでは言わないけど似ているのではないか?パウロの言う愛はイエス様のおっしゃる愛とは違うのはないか?そんな疑問がわいてきます。しかし、パウロの言う愛はやはり主イエスの愛に根ざしているのです。それはセンチメンタルな愛ではなく、神の御心に従う愛なのです。しかし、多くの人間にとってパウロの語る愛はやはり困難なことです。

<たゆまず祈る>

 困難だからこそ、パウロはなお語ります。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」情感的な愛ではないからこそ、私たちは怠らず励むのです。しかし、自分で努力するのではなく、霊に燃えるのです。れに燃やしていただくのです。つまり聖霊によって、神の力によって燃やしていただくのです。自分の力で偽りのない愛を全うすることは到底できません。兄弟愛を持つことはできません。そして愛は御心を行うことと結びついていると申し上げましたが、そしてまたおのずと主に仕えるということと結びついています。さらに、愛の実践には祈りを伴うものです。困難だからこそ、祈りを必要とするのです。絶え間ない祈りがなくては、人間は偽りのない愛を実践ができません。

 まだクリスチャンになる前のことですが、雑誌に載っていたある映画の紹介の言葉が印象に残っています。映画の主人公の恋人の女性が病になります。命も危ない状態で恋人は病院のベッドに横たわっています。恋人の体にはたくさんのチューブがつなげられ、意識はありません。傍らで主人公はなすすべもなく、ただ恋人の回復を祈っています。雑誌のその映画の紹介に、「危篤の恋人の傍らにいる主人公の姿に、人間の究極の愛の姿は祈りになることを知った」とありました。当時、私にとって祈りというのは、困った時の神頼み的なものでしかありませんでした。自分でどうしようもないことを、神や仏に寄りすがる、いってみれば弱い人間の姿勢だと感じていました。祈りに愛の姿を重ねることはなかったので、その記事はとても印象に残りました。もちろん、クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、大事な人、愛する人が死の淵にいる時、それはもう祈るような気持ちで傍らにいるしかないのです。そのようなとき、人間はなりふりかまっていられません。弱いといわれようが祈って助けてもらえるならいくらでも祈るのです。しかし、その映画を見たのですが、その場面に、主人公の弱さは感じませんでした。雑誌の紹介の記事のように、恋人の傍らにいる主人公の姿は愛に満ちていました。憔悴した姿ではありましたが、祈る姿はむしろ強かったのです。そのとき、愛の究極の姿は祈りとなるという言葉は本当だと思いました。

 愛を全うするには、そしてまた人間が偽りのない愛を実践するには祈りが必要です。祈りによって強められなければ人間は愛することはできません。そして逆に愛するとき、そこにはおのずと祈りが伴うのです。

<敵に燃える炭火を、天に徳を>

 祈りつつ愛の実践をしていくとき、なお、キリスト者には困難があります。パウロもキリストもその歩みは戦いのうちにありました。共同体の内にも外にも戦いがありました。裏切りがあり、迫害がありました。これは2000年前の聖書の時代のことだけではありません。現代における私たちも教会も、同様です。この世界にキリスト者としてあるとき、おのずと苦難や迫害があります。私たちが祈りをもって偽りのない愛を実践しようとしても、悪と対峙する事態が起こります。そのとき、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」とパウロは語ります。14節からのちの言葉は、主イエスが語られた「敵を愛しなさい」という言葉と同様、悪を憎みながら、その悪をなす人間を憎んではならないということが語られています。これは聖書の中でも、私たちは最も困難と感じられる教えでもあります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とパウロは言います。そしてまた「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」とあります。今日、最初にお読みいただいた旧約聖書の箇所でも、うまく攻略した敵を、ここぞとばかりに攻めて全滅させるのではなく、宴会を開いてもてなし帰したということが書かれています。古代であっても、現実の戦争の場面でこのようなことがあったのかと驚くような話ですが、その敵はそののち二度とイスラエルを襲ってこなかったと書かれていました。

ローマの信徒への手紙でパウロが「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」といっているのは、エジプトなどでの習慣のようで、悔い改めを迫るために行うことのようです。日本で言うお灸をすえるということと少し似ているのかもしれません。戦争でもてなしをうけた敵は実際に燃える炭火を頭に積まれたといえます。

 しかし実際には、自分たちに悪をなす者に善をおこなったとしても、炭火を摘むことにはならないことも多いように思います。むしろ恩をあだでかえすようなことがまかり通るのがこの世の中ではないでしょうか。ですから、この世界には争いが絶えません。それは人間同士でも、家族同士でも、国家間でも同様です。

 しかし、悪をなす者に悪を返したり、復讐しても、それはあらたな悪を引き起こすことでしかありません。これは私たちは歴史を振り返るときにも思いますし、そしてまた現代における、紛争やテロの現実を見ていれば容易にわかることです。憎しみと憎しみがとめどなくループしているのが人間の世界です。

 そのループを断ち切って、私たちは生きていかねばいけないとパウロは語ります。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善をおこなうように心がけなさい」とパウロは語ります。投げられた悪を投げ返さない。それは何か自分だけ割を食うような、打たれ損のような気持がします。

 しかし、現実にとてつもない人間の悪を受け取って、投げ返されなかったのはイエス・キリストです。十字架において、私たち人間すべての悪を引き取られました。私たちの悪に悪を返さずただお一人背負われました。そして父なる神の復讐をお受けになりました。父なる神は悪を憎まれる方です。その神の憎しみをイエス・キリストはお受けになりました。十字架によって私たち自身への神の復讐は既に終わっています。私たち自身の悪への神の憎しみは十字架のキリストに向けられました。

 神からの復讐を免れさせていただいた私たちは十字架のキリストのゆえに、私たちに悪をなす者へ悪を返さないのです。私たちが偽りのない愛を全うする歩みの内に、悪をなす者へ善をなします。キリストの十字架を思っても、もちろんこれは難しいことです。難しいことのゆえに、一層の祈りが必要です。

 来週からアドベントが始まります。キリストの降誕を祝い、再臨を待ち望むクリスマスへの備えをなす季節です。そしてまた教会歴で言うと、教会の一年はアドベントから始まります。そういう意味では今日は、教会の一年の最後の礼拝ということになります。この一年、私たちは愛を実践できたでしょうか?十分に実践できたと胸をはれる方はおそらく私を含めておられないでしょう。だからこそ、なお祈りましょう。祈りの内に、十字架へと向かわれるためにこの世界に来られたキリストを覚えましょう。アドベントは悔い改めの季節です。悔い改めつつ、完全な愛なる方、キリストを待ち望み、愛に欠けたわたしたちに愛を、キリストのゆえに、増し加えていただきましょう。


ローマの信徒への手紙12章1~8節

2017-11-20 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年11月19日 大阪東教会主日礼拝説教 「主にあるひとつの体」吉浦玲子

<聖なるいけにえ>

 これまでパウロは信仰によって義とされるという信仰義認について、そしてまた救いに関する神の大いなるご計画について語って来ました。11章までがパウロによる信仰の理論的な説明であったと言えます。それに対して12章からは、神に救われた人間の新しい生き方について書かれています。実践編ともいえます。聖書の信仰はただ頭で理解したり悟っておしまいというものではなく、現実の世界に生きていくことそのものと関わっているからです。神の愛と憐みによって、罪赦され、救われた者として、そして神によって恵みをいただいた者として、現実にどのように生きていくのかということをパウロは語っています。

 繰り返して申し上げることですが、このような箇所を読む時、注意しないといけないのは、どのように生きれば神に救われるのか愛されるのかと語られているのではありません。これから語られる生活のあり方は救いの条件ではありません。すでに救われている者としてのあり方をパウロは語っています。

「こういうわけで、「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。」」とパウロは語りはじめます。こういうわけで、ということは、これまでローマの信徒への手紙で語られてきた神の愛のご計画を踏まえているということです。「神の憐みによって」というのはすでに神の憐みの中にあるあなたがたに、ということです。すでに神によって、キリストの十字架によって、救われた者として、恵みにある者として、このように生きることができるはずだとパウロは語っています。

 まず語られていることは、自分の体を聖なるいけにえとしてささげなさいということです。いけにえというと、聞き様によってはおどろおどろしく聞こえます。宗教的な儀式とむすびつけられて、いけにえという言葉は良く聞きます。パウロは、私たちは生きたささげものとして自分をささげるのだ、と語っています。そしてそれこそが礼拝なのだとパウロは語っています。旧約聖書の時代から、人々は神殿に動物をもってやってきました。動物をいけにえとしてささげたのです。律法にはたいへん細かく動物の捧げ方の規定が記されています。多動物は人間の罪の贖いのため、また神との和解のために捧げられました。

 しかし、いま、私たちは動物を教会に持ってくる必要はありません。御子キリストご自身が、私たちの罪の贖いのためのささげものとして十字架によって、すでに捧げられたからです。私たちは罪赦された者として、神を礼拝するために教会にきます。そして、かつてキリストがご自身を捧げられたように、私たちもまた、自分を捧げます。日曜日の朝、それぞれの場所での働き、活動をやめて、教会に集います。自分の力と時間と労力を捧げて神を礼拝をするのです。まさに自分の体をささげるのです。聖書の神を信じる信仰は、単に心の中で神を思ったり、頭の中で神のことを考えるのではなく、自分たちの現実の体、肉体を伴うものです。現実の生活の中で、生きていく日々の時間の中で、礼拝に、自分自身の肉体をもって出席するのです。

<自分を変えられる>

 そしてその礼拝は形式的な儀式ではありません。もちろん、礼拝を捧げる中で、なんとなく荘厳な気持ちになったり、心清められる気持ちになることは、ごく自然なこととしてあるでしょう。でも礼拝はなんとなくありがたい儀式ではなく、なんとなく心清められるような時間であるだけではないのです。あるいはまたそこでなにか良いお話をきく、人生をゆたかにするような時間を得るということでもありません。「心を新たにして自分を変えていただき」とパウロは語っています。私たちは礼拝において自分を変えていただくのです。礼拝において自分になにかプラスをするとか、なにかを良いものを持ち帰るというより、自分自身が変えられるのが礼拝です。もちろん毎週毎週、会堂に入ってきたときとは別人のようになって会堂から出ていくということはないでしょう。でも、礼拝では、神の御前に御言葉を聞き、聖霊によって、自分を変えていただくのです。とはいえ礼拝に出たからと言って劇的に変わったと自覚をすることはほとんどないかもしれません。しかし、礼拝に招かれながら礼拝生活を続けていくうちに、確実に、どなたも変えられていきます。性格が変わったり、考え方が根本的に変わったりすることはないかもしれません。しかし、生き方の根本にかかわる部分がいつのまにか変えられていくのです。ある日、ふと気付くと、自分でもそういえば何となく変わったなあと感じることがあるでしょうし、周囲の人から「変わった」と思われることもあるでしょう。いま、何となくと申し上げましたが、実際のところは誰でも、「劇的」に変えられているのです。情感的な共感や理知的な理解を越えて、自分が変えられていく、それが礼拝です。自分をささげ、素直に神の御前に立つ時、神ご自身が、私たちを変えてくださいます。

 ところで、そもそも、私たちは、どこまでいっても罪人です。神の御前で自分自身を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」だなどと、私たちは胸をはって言えるでしょうか?神ご自身が私たちを変えてくださらなければ、私たちは「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」にはなり得ないのです。いまここで、自分自身を礼拝において神の御前に捧げさせていただいていること、そのこと自体が、すでに神の憐みによって実現しているのです。私たちを「聖なる」ものとして喜んで受け取ってくださる方がおられる、日々、多くの罪を犯し、聖なる者などとは到底言えないものを、なお喜んで受け取ってくださる方がおられる、その憐み深い神ゆえに捧げることができるのが礼拝です。

<この世に倣わない>

 そして「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」とパウロは続けます。世に倣うというのは世の価値観、この世界のあり方に従うということです。しかし、これは個人においても教会においてもきわめて難しいことなのです。なぜならば、私たち一人一人も、教会もこの世の中にあるからです。私たちは修道院のような世界から隔絶された場所で生活をするわけではありません。いえ修道院であっても、この世の中で立っています。この世と全く関わりを持たずに立っていくことはできません。この世界に生きる時、切実なことがあります。生活をしていかなくてはいけませんし、生活のために必要なものを得なければいけません。それは生半可なことではありません。その切実さのなかにあって、なお私たちは世に倣うことなく生きていくというのは、ある意味、とても困難に思えることです。実際、困難なことなのです。しかし、一見、困難な生き方のようでありながら、世に倣わない生き方は、ほんとうのところは、自分自身をまことに生かす生き方でもあります。

 世に倣う生き方は、人間中心の価値観に生きる生き方です。その価値観は単に生活のためにあくせくするということではなく、よりよく生きたいという人間の願いに基づいたものでもあります。自分の夢を追うとか、自己実現をするという言葉に代表されるような価値観も含みます。自分の夢をかなえる生き方、自分の本当にやりたいことを見つけて自己実現をしていく生き方、それはとても素晴らしいことのように思えます。夢が現実にはかなわなくても、それでも夢を追いかけつづける姿は美しいことのように考えられます。そのような美しい物語をテレビなどのメディアは流しています。それを見て多くの人は感動をします。実際、自己実現のために努力をする姿はすばらしいことのように思われます。

 しかし、私たちは世に倣って生きている時、実は本当の自分の夢や実現すべきことというものは見えていないのです。自分自身の思いにいっぱいいっぱいになって、私たちは見果てぬ夢を見つづけるか、どこまでいっても実現できない自分の本来のあり方を見つけるために無限にさまようことになります。

 神に「心を新たにして自分を変えていただいた」とき、はじめてわたしたちは、本当の自分のあり方を見つけることができるのです。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」私たちは礼拝において、あるいは日々の祈りにおいて、神の御心を聞き、また問います。もちろんそこで示されることもあります。しかしなにより、神ご自身が、私たちを変えてくださることによって、私たちが神の御心や神が善しとされることを理解できるようにしてくださるのです。そして、この世に倣うのではなく、神に自分を変えていただき、御心を知るとき、私たちはほんとうにあるべき自分の姿で生き始めることができるのです。

<慎み深く>

 その新しい生き方をはじめた人間にパウロが勧めているのは「自分を過大評価してはなりません」ということです。私たちはよほどうぬぼれの強い人間でなければ、自分を過大評価などはあまりしないのではないでしょうか?もちろんしらずしらずのうちにうぬぼれていることは往々にしてありますが。しかし、ここでいう過大評価というのは、神が一人一人に与えられている賜物、能力をあたかも自分自身の資質であったり力であるかのように思うことを指します。そしてまた「過大評価してはならない」ということは神から与えられた恵みに対して必要以上に舞い上がってはいけないということでもあります。おそらくパウロの時代の教会の中にも、さまざまにがんばって教会のために働く人がいたのでしょう。そういう人たちは信仰に熱くなりすぎて熱心になりすぎて、猪突猛進してしまうようなところもあったのでしょう。結果的に自分はこんなにやっていると舞い上がってしまうような人々に対して言っているのでしょう、

 ですからパウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価」しなさいと語っています。ここで「信仰の度合い」という「度合い」というのは、原語でははかり、メジャーという言葉です。人によってはこの箇所を信仰の力量に応じてと解釈をされている方もいます。結局、それはどういうことかというと、信仰によって判断をしなさいと言うことです。この世的な判断をしてはいけないということです。たとえば、多くの人にはできないすばらしい賜物、才能やスキルをもって、教会に仕える人がいたとして、その人が、特別な才能をその才能の高さのゆえに、この世的な評価ゆえに誇っているとしたらそれは思い上がっているということです。慎み深い評価ではないということです。しかし教会に中においても往々にしてそれは起こり得ることです。特別な才能を持った人に対して「あの人はすごいね」と羨望の的になったりします。この世的な評価でもてはやします。逆にその陰で自分なんて大した才能もなくだめだと思ってしまう人が出てくるなどということが起きてきます。

 昔、ニューヨークの教会に出席していた方から聞いた話です。その教会に聖歌隊があったそうなのですが、その聖歌隊にはアメリカでも著名なソプラノ歌手が所属していたそうです。でも、その方自身も、また周囲の方も、そのソプラノ歌手である聖歌隊員を特別な存在として扱ってはいなかったそうです。特別にその方がソロを歌うとか、他の人を指導をするということはなく、淡々と一聖歌隊員として奉仕をされていたそうです。この世のその歌手への評価によってその歌手自身も教会も舞い上がっていくことはなかったのです。しかしなかなか、そのようなことは難しいことです。どうしてもこの世的な評価に揺れ動いてしまいます。

<一つの体>

 そしてそのことは教会という共同体のあり方とも根本的にかかわっています。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」教会につながる人々は一つの体を形成しているという言葉は、なにか教会の一体感を現す心地よい言葉のようにも聞こえます。そして互いに部分であって、それぞれに神から与えられた賜物を生かして、お互いを尊重して役割分担をしてやっていきましょうということのように思えます。

 しかし、ここで大事なことは、むしろ、それぞれが部分である、ということをわきまえるということです。それぞれが部分以上のものではないということです。つまり「信仰の度合いに応じて慎み深く自分を評価することを徹底する」ということです。

 そもそも神によって変えられ、本当の自分の賜物、恵みに気づいた者がそれぞれの賜物を生かして生活をしていくとき、この世的な評価は入り込んできません。この世的な評価から自由に、しかし本当に豊かな者として私たちは用いられていきます。そして自然な形で共同体の中でも役割を果たしていくことができます。そのとき、私たちはキリストに結ばれた者としてさらに豊かにされ、共同体にも喜びが満ちあふれます。


ヨハネによる福音書 17章1~5節

2017-11-13 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2017年11月12日 大阪東教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)

             「永遠の命を生きる」 吉浦玲子

<時が来ました>

 「父よ、時が来ました。」

 と、主イエスは祈り始められました。決定的な<時>が来たのです。これは神が定めたれた<時>です。人間の都合によって、どうにかできるような<時>ではありません。神の御子である主イエスであっても、ご自分の<時>をご自分で定められたわけではなく、父なる神の定めた<時>に従われました。

 私たちもまた決定的な<時>を体験します。それは、この地上でふたたびあいまみえることのできない<肉体の死>による人との別れです。ある程度、覚悟をしてその<時>を迎える場合もあれば、突然その<時>が来ることもあります。いずれの<時>も別れも、それぞれに特別なものです。すべての<時>が、神によって定められた<特別な時>における出来事だからです。

 本日の聖書箇所の1節にある、この<時>は、<十字架の時>を指しています。イエス様が十字架に向かわれる<時>が来たのでした。それはイエスという歴史上たしかに存在をした一人の三十歳ほどの男性の<肉体の死の時>であると同時に、父なる神と主イエスの決定的な<勝利の時>でもありました。主イエスのこの<十字架の時>によって、決定的にすべてが変わりました。そののち2000年に渡り、主イエスを信じて、それぞれに<肉体の死>を迎えたすべての人々にとっての<死の時>の意味が全く変えられたのです。父なる神と主イエスの勝利のゆえに、人間の死の意味が根本から変わってしまったのです。

  「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。」その勝利の時、御子である主イエスが神ご自身の栄光を現わす者となるように、みずからに栄光を与えてくださいと主は祈っておられます。しかし、ここで主イエスは父なる神に祈り求めながら、すでにそれが成就することを確信しておいででした。すでにその<時>は来ていたからです。神が定められた時はすでに来ている、父なる神の定められた時が来た以上、すべては成し遂げられるのです。ご自身が父なる神の栄光を現わす者とされることを御子である主イエスはすでに知っておられました。父なる神との親しい交わりの中で、確信をもって祈っておいでだったのです。

<栄光と永遠の命>

 しかし、ここで語られている栄光とは何でしょうか?一般的には栄光とは、誉れであり、称賛を受けるべきことであり、輝かしいことです。しかし、十字架という死刑による死を普通に考える時、そこには栄光のかけらも見えません。さまざまな死刑のやり方がある中で最も残酷で惨めな刑が十字架でした。そこに見えるのは、むしろ決定的な敗北の姿でした。かつて人々から熱狂的に迎えられた主イエスは、その民衆からも侮蔑され、弟子達からも裏切られ、惨めな姿をさらして死を迎えました。その死を現実に見た者は、そこに一時期もてはやされた愚かな男の敗北と悲惨を感じたことでしょう。人によっては嫌悪感を覚える者もあったことでしょう。誉れや称賛や輝かしさから最も遠い出来事が十字架の出来事でした。

 しかしながら、今祈られている主イエスは、その十字架による死の現実を充分にご存じでありながら、むしろ、その十字架そのものが栄光を現わすものと考えておられます。その十字架において、これから栄光を受ける者として確信をもって主イエスは祈っておられます。

 それはなぜかというと、十字架が「永遠の命」と結びついているものだからです。さきほど、「使徒信条」を私たちは礼拝の中で告白をいたしました。その最後に、「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」とありました。その最後の「とこしえの命」が今日の聖書箇所でいう「永遠の命」です。その永遠の命とはなんでしょうか?不死、死なないということでしょうか?身体機能が若いままで健康ならば、私たちは死なないで永遠に生きていたいでしょうか?健康であっても、その永遠の長い長い日々が、苦労に満ちた日々であれば、それこそそれは、むしろ地獄のようなものでしょう。

 じゃあ何の苦労もない日々であれば、私たちは永遠に生きていたいでしょうか?これはこれでまた難しい問題です。不老不死は人類の太古からの憧れのようでありながら、一方で不死ということに関しては芸術作品などでは否定的な描かれ方をすることもありました。苦労もない代わりに、退屈な長い長い時間を持て余しながら死なずに生きることが幸せかという問いがあります。退屈ではない毎日毎日楽しくてたまらないというような永遠がほんとうにあるのか、それも疑問です。また一方で、永遠の命というのを、肉体的には滅んだあと天国と呼ばれる場所で平安に暮らすという意味に感じることも多いでしょう。しかし、この地上で死なないで生きるにしろ、天国というような別の場所で過ごすにしろ、それが単に死なないというだけであるならば、それだけでは、けっして喜ばしい状態でないであろうということはある程度、想像ができます。ここで言われている永遠というのは、時間の長さではなく、むしろその生きていく日々の<質>が問題とするものなのです。

 3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られています。「知ること」というのは聖書においては、単に知識として知るということにとどまりません。これは深い交わりを意味します。旧約聖書の創世記で「アダムはエバを知った」と記されていますが、これは男女の深い交わりを表す言葉でした。

 ですからここで主イエスがおっしゃっていることは、父なる神と、そして主イエスとの人格的な深い交わりを示します。父なる神と、主イエスと共に生きていくということです。それも愛と信頼で結ばれて生きていくということです。

 逆に、父なる神と、そして主イエスと共に生きていない日々であるならば、それがどんなに長い時間であっても、本当の意味ので喜びの少ない日々であるということです。

<知ってくださる神>

 しかし、私たちは目に見ることのできない父なる神と、そしてまた主イエスとどのようにして愛と信頼で結ばれるのでしょうか?ルカによる福音書に「放蕩息子の帰還」という話があります。長く教会に来られている方は幾度かお聞きになったことがあるかと思います。父親の財産を、まだ父親が生きているにもかかわらず、当時の慣習としても異例な形で、生前分与として、半分受け取って、父親のもとを去った息子の話です。息子は放蕩の限りを尽くして、財産を失って、食べるものにも困って父親のもとに帰ってきます。その物語の最後で息子が帰ってくる場面で印象的な場面があります。財産の生前分与という、それだけでも父親に対して失礼な親不孝なことをして、かつその財産を使い果たして戻ってきた息子を、父親は遠くから見つけて駆け寄ります。聖書に「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。息子は食べるものも食べられないぼろぼろの状態でした。しかしそれは言ってみれば息子の自業自得のゆえでした。しかし、父親はその息子を遠くから見つけて憐れに思い駆け寄って首を抱き接吻したのです。普通に思うと、なんて子供を甘やかすだめな父親なんだ、そんなことだから、息子はダメな人間に育ったんだとも考えられる場面ですが、しかし、この父親こそ神を現しています。この一見、どうしようもない甘い父親、それが私たちの神です。

 神は、遠くから、私たちを見て、駆け寄ってきてくださる方なのです。私たちが神を見つけて、主イエスを見つけて駆け寄ったのではありません。神の方から私たちを見つけてくださり、その両腕で私たちを抱いてくださったのです。

 今この会堂におられる方は、ひとりひとり、すでに神に見つけられ、神に抱かれておられます。すでにその神の言葉を聞いておられます。

 言ってみれば、私たちは私たちの方から、父なる神と主イエスを知ったのではありません。父なる神と主イエスの方から、私たちを見つけてくださった、知ってくださったのです。私たちは、すでに父なる神と主イエスに知られている存在なのです。神は単に知識として私たちの存在を知っておられるだけでなく、駆け寄ってきてくださる方、つまり私たちと交わってくださる方、愛してくださる方です。私たちの方が神から遠く離れているつもりでも神の方から見つけて駆け寄り抱きしめていただいている存在なのです。

 そしてまた、私たちはすでに神に知られている存在であるゆえに、神を知ることができるのです。私たちが神を知るということは、すでに神に愛されているということを知る、ということでもあります。神の愛は、何者によっても奪われたり、壊されたりはしません。病によっても、肉体の死によっても、失われません。神に愛されていることを知る、それこそが永遠の命なのです。

 <主イエスを知ること>

 ところで、主イエスは、「まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」とご自身のことを言っておられます。父なる神だけでなく、御自分を知ることについて語られています。

 イエス・キリストを知る、それは十字架を知る、ということです。十字架に示された神の愛を知るということです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」ここでいう業は十字架のことです。

 最初の方でも申しましたように、最も悲惨でみじめな十字架の出来事が、神の栄光を現す業であることを主イエスは語っておられます。十字架こそが、人間の罪を取り除くための業であるからです。私たちすべての罪をキリストは担って、罪人として死んでくださいました。犠牲となってくださいました。そのことによって、私たちの罪は赦されました。罪深く裁かれなければならなかった私たちの代わりにイエスキリストが裁かれました。そのイエス・キリストの十字架の業のゆえに罪が赦されました。そして単に罪が赦されただけではありません、そのことのゆえに父なる神との交わりに入れられる者となったのです。アダムとエバがその罪によって神の前から追放されたように、私たちもまた、自らの罪によって神との交わりに入ることができなかったのです。

 しかし、いまや私たちは神との交わりを回復することができました。それは、神を知ることができるようになったということです。キリストの十字架を知るとき、私たちは、父なる神とのまことの愛の交わりに入ることができるのです。そのことこそが十字架の勝利でした。神と人間が交わることができるようになった、そして永遠の命に生きることができるようになった。キリストは十字架の死ののち、復活をされました。それが勝利の証です。そしてその勝利は、その後に続く主イエスの信じる者の死においても同様です。死は、地上での別れという悲しみの時ではありますが、それはまた永遠の命を証する勝利の時でもあります。

<神に知られている者としての交わりへ>

 本日は逝去者記念礼拝として礼拝をお捧げしています。135年の歴史のなかで多くの人々が神に愛され、そしてまた神を愛して、神との愛の交わりのうちに、地上での命を終えられました。そして永遠の命の中にいまおられます。大阪東教会は、1945年の大阪空襲によって会堂を焼失しました。そのために、その長い歴史における、特に戦前の逝去者の記録は多く失われています。しかし、いま、私たちが名前を知ることのできない方々も含め、多くの先達たちが、神に知られ、愛され、永遠の命の中におられることを覚えます。

 最初に、神の時ということを申し上げました。ここにおられる逝去者のご親族のみなさまは、それぞれに神の時において、愛する方との別れを迎えられました。しかし、ふたたび<時>は来ます。ふたたび<神の時>は来るのです。キリストが再び来られる<時>です。<復活の時>です。私たちはその時、新しく知るのです。今は会いまみえることのできない人々を知るのです。そして新しい愛の交わりに入るのです。

 その神の時まで、私たちはこの地上を歩みながら、神との豊かな交わりに生きます。それはすでに永遠の命を生き始めているということでもあります。永遠の命の内に神と人を知り、その愛の交わりの中で、私たちはこの地上を歩んでいきます。


ローマの信徒への手紙 11章25~36節

2017-11-06 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年11月5日 主日礼拝説教 「すべては神から」 説教 吉浦玲子

 私たちは祈りがきかれないとき、願いが叶わない時、それが神のご計画なのだ、あるいはまだそれが成就するにふさわしい神の時ではないのだと考えます。そう考えることはけっして間違いではないと思います。ただ、私たちが祈りをあきらめるための方便になっていないかということには注意をしないといけません。どうせ神様は祈ってもこのことは叶えてくださらないのだとあきらめる言い訳として神のご計画とか御心ということを思うのは、ある意味、傲慢なことです。そもそも、私たちには神のご計画も御心もすべては分らないからです。9章からパウロはずっとイスラエルの民と異邦人について書いて来ました。今日の聖書箇所のその最後の部分にあたります。その最後は神のご計画の究め難さを讃える形でパウロは語っています。9章からのひとまとまりは、なにげなく私たちが考える神のご計画とか御旨ということをはるかに超えた神についての賛美で終えられています。その部分を共に読んでいきたいと思います。

 9章から、パウロは現時点では、イスラエルから神の救いは離れ、異邦人に救いが与えられていると繰り返し語っています。しかし、パウロは一方で今日お読みしました聖書箇所の前の部分、9章11節で、そのイスラエル、ユダヤ人は今は救いから離れているからといって、完全に神から見捨てられたわけではないと語っています。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。」そう語っていました。

 今日の聖書箇所では、さらに具体的にイスラエルの救いについて言及されています。25節には「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり」と時間的な神の救いの順序が語られています。ちなみに異邦人全体が救いに達するというのは異邦人全員が、ということではありません。救いに定められている人々が救いに達するまでの時間ということです。そののちに全イスラエルが救われるのだとパウロは語っています。

 28節に「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています」とあるように、いまは神に敵対しているイスラエルであっても、神の愛が失われているわけではないと語られています。あなたがたのために、というのは異邦人キリスト者のためにということで、イスラエルは異邦人が救われるために逆に今は神に敵対しているということです。ここで「先祖たちのお陰で」というのは、アブラハム、イサク、ヤコブといった彼らのはるかな父祖たちへの神の約束のゆえであって、日本的な意味での、<先祖の信仰によって子孫が繁栄する>と言ったことようなご先祖信仰ではありません。そもそもアブラハム、イサク、ヤコブといったイスラエルの父祖たち自身も、けっして素晴らしい信仰者であったとはいえません。それぞれに罪を犯し、欠点の多い人間でありました。しかし、神ご自身が恵みによって彼らを選ばれ、イスラエルに対して祝福の約束をされた、その約束ゆえに、現時点では多くの救われていないイスラエルが、やがて救いに入れられるのだ、と語られています。

 パウロは「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」つまり、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された神の約束は取り消されないのです。ここで語られているのはイスラエルの救いですが、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と語る言葉は、現代を生きる異邦人キリスト者である私たちにとっても心強い言葉です。いま、異邦人である私たちは、イスラエルの不信仰のゆえに、神に招かれ、その豊かな賜物をいただいています。私たちに対しても、やはりその賜物と招きは取り消されないのです。今後、神のご計画によって、イスラエルが救われることになろうとも、じゃあ異邦人から救いを取り去りましょうということではありません。すでに救いを得ている者の救いは神の側からは取り消されないのです。

 神の賜物と招きは取り消されないという言葉の少し前の行に「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信仰を遠ざける」というイザヤ書59章の言葉が引用されています。しかし、実は、このパウロの引用は新共同訳のイザヤ書59章の言葉とは少し違います。これはパウロが間違って引用したわけではありません。もともと今日、旧約聖書と呼ばれている部分は基本的にヘブライ語で書かれていました。いま、世界の各国での翻訳も、基本的にヘブライ語聖書を原典として翻訳がなされています。新共同訳もそうです。ところが、イエス様の時代、イエス様自身もヘブライ語ではなく、アラム語という言葉を使っていたと言われています。さらにパレスチナや地中海沿岸地域に多くの人々が離散していました。ですから、イエス様の時代やパウロの時代、ヘブライ語を理解できないイスラエルの人々が多くいたのです。ですから、当時のパレスチナ地中海地域での標準的な言葉であったギリシャ語に旧約聖書は翻訳されて読まれていました。パウロが読んでいたのも、70人訳と言われるギリシャ語で書かれた旧約聖書でした。そのギリシャ語の70人訳旧約聖書の中のイザヤ書の引用が今日の聖書箇所に記されています。つまり当時、パウロたちが読んで理解されていた聖書の言葉がここに書かれているのです。この二つの聖書の解釈の違いについて、ある先生が興味深く説明をされていました。新共同訳では同じ箇所は「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」となっています。つまりここでは罪の赦しを受ける者は悔い改めた者であるということになります。それに対してパウロが引用しているギリシャ語聖書のイザヤ書では、「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける」となっています。新共同訳といいますか、ヘブライ語聖書では、悔い改めた者が救われることになっていますが、70人訳聖書では、神ご自身が「不信心を遠ざける」というのです。人間の悔い改めという行為が救いの前提にあるのではなく、神ご自身がそもそも頑なで神に心を開かず、罪の中にある人間の罪を取り除いてくださるというのです。ここで着目すべきことは、聖書の解釈の違いではなく、パウロが理解していた福音の本質があらわれているということです。ここにパウロの神の恵みを見つめるまなざしがあります。人間が、神に心を開くのも、閉ざすのも、神の自由な選びと恵みのゆえなのだということなのです。不従順な者が憐れみによって不信心を遠ざけていただくのです。それが恵みなのだというのです。それこそが福音なのだとパウロは語っているのです。

 ところで、今日の聖書箇所の冒頭に「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」とパウロは語っています。11章20節でも異邦人キリスト者に対して「思い上がってはなりません」とパウロは語っていました。思いあがってはなりません、また、うぬぼれないように、としつこく感じられるくらいにパウロは語っています。それはイスラエル人であれ異邦人であれ、人間はうぬぼれる者だからです。イスラエルは自分たちが神に選ばれた民であること律法を与えられた民であることにうぬぼれていました。聖書について誰よりも詳しいことを誇っていました。一方で異邦人キリスト者は、イスラエル人は聖書の知識はあっても救い主への信仰がなく、救いを知らないと見下していました。ある方はうぬぼれは劣等感の裏返しと語っておられましたが、たしかにイスラエル人と異邦人キリスト者はある意味、双方に相手に対する劣等感があったのです。

 しかし、いずれにしても神の大いなる計画の前では愚かなことだとパウロは言うのです。誰一人として自分の力で救いにあずかった者はいないのです。皆が不従順であった、もちろん人間自身が、自分の意志として不順順であったのです。しかし、その不従順な状態から自分の力で出ることはできないということをパウロは32節で「すべての人を不従順の状態に閉じ込めた」と表現しています。しかし、その不従順な人間に神の憐れみが注がれたのだとパウロは語ります。神の憐れみは人間の側の条件に左右されないからです。さきほど、うぬぼれは劣等感の裏返しと申しましたが、一方で、無知の表れでもあります。無知というのは学問がないとか知識がないということではありません。神に対する知識がないということです。神に対する知識というのは聖書の知識とか神学の知識ということではありません。神の憐れみの深さを知らないということです。そしてその憐れみがほかでもないこの自分に注がれていることを知らないということです。自分自身が憐れみを受けなければならないほど惨めな人間であることを知らないということです。神の憐みを知らなければ神の恵みも感じられないのです。

 前後しますが、冒頭、パウロは「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と語ります。秘められたという言葉はミステーリオンという言葉で、ミステリーの語源となった言葉だそうです。口語訳では奥義と訳されていた言葉です。この原語のもともとの意味には「閉ざす」というニュアンスがあるようです。奥義というと、人間が修業をしたり悟ったりして「閉ざされたもの」を自分で開いていかないといけないような感覚があります。しかし、いま私たちに求められているのはそういうことではありません。この秘められた計画、奥義は、キリストによって開かれたからです。啓示という言葉がありますが、神の秘められた計画は啓示されたと言っても良いのです。

 もちろん完全に神の奥義を私たちはいま知らされているわけではありません。現時点で知らされていることはおぼろなことであり、部分的なことです。しかし、神がただ憐みにより、私たちを選び救われること、そしてその賜物と招きが取り消されないことはたしかなことです。そしてそれゆえにその神の計画は福音として知らされているのです。

 今日の聖書箇所の後半は9章から11章までのひとまとまりの部分の最後に当たります。その最後の部分を語り出す33節でパウロは「ああ」と神を賛美し始めます。「ああ」と訳されているギリシャ語は、実際に感嘆詞であり、英語では「Oh」と訳される言葉です。パウロは口述筆記をしてもらっていたのですが、パウロが実際に「ああ」というのを筆記者は聞き、それをそのまま記述したと思われます。実際にパウロはここからの言葉は高揚して語っていたと思われます。

 いまはおぼろげにしか知らないにしてもそこから覗き見る神のご計画の素晴らしさをパウロは讃えています。その言葉の中に34節からはヨブ記が引用されています。

 ヨブ記といいますと、正しい人であったヨブが理不尽な不幸にあうという物語で、むしろ神のわからなさを感じることが多いかもしれません。パウロが神をほめたたえる文章のなかで引用していることに少し違和感を感じる人もおられるかもしれません。ヨブ記では、正しい人であったヨブが理不尽にも子供やら財産すべてを奪われ、自分自身も酷い病にかかるという物語です。そもそもなぜヨブが酷い目に遭わなければいけなかったのか、そこに疑問をどうしてももってしまいます。ヨブ自身納得していませんでした。ですからヨブは神に向かって叫び、神に異議申し立てをしたのです。ヨブは神に向かって、私は悪くない、はっきりとそう言ったのです。そのヨブに神は答えられました。その答えは全体としてとても長いものですが、つきつめれば34、35節にパウロが引用していることです。神は神である、人間には神の心はわからないということです。

 理不尽な不幸の中にあるヨブに対して、その神の言いようはさらに理不尽にも感じます。しかし、その神との対話によってヨブは目を開かれたのです。神への知識を得たのです。自分の惨めさのなかで、ヨブは神の摂理を知ったのです。

 私たちはヨブのように父なる神の声を直接聞くことはできません。しかし、キリストを通して神を知ることができます。私たちはキリストの名によって祈るとき、神と交わることができます。もちろん神のすべては到底知り得ませんが、祈りを通して、折々に神のご計画の素晴らしさを知らされます。神のご計画は人類全体の救いということでもあると同時に、私自身の救い、私への神の素晴らしい計画ということでもあります。その神のご計画の中にある素晴らしさを賛美をしながらこの一週間も生きていきます。