大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書7章40節~53節

2018-09-17 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年9月16日 大阪東教会主日礼拝 「あなたもガリラヤ出身なのか」吉浦玲子

<対立を生み出す主イエス>

 今日の聖書個所の直前で、主イエスは豊かな招きの言葉、恵みの言葉を語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 だれでも来なさい、だれでもこの水を飲みなさい、日本と違ってどこにも川があり水があるわけではないパレスチナ地方にあって、この豊かな水のイメージは、本来、救い主であるイエス様の恵みの豊かさを感じさせる言葉のはずです。

 しかしその恵みの言葉を聞いた人々は、その言葉によって平安を得たわけでも、喜びを感じたわけでもなく、むしろ人々の間に対立が生じたというのです。それは一般群衆の間でもそうですし、宗教学者権力者の間でもそうだったのです。

 ところで、イザヤ書11章はやがて到来するキリストを預言していると言われます。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとるの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」に始まる部分はクリスマスの時期にもよく読まれます。そして、イザヤ書11章は「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」という究極の平和の光景を記します。肉食動物と草食動物である狼と子羊が、豹と子山羊が共に野に平和に過ごしている、子牛と若いライオンが一緒に育って、それらを小さな子供が導いている、それは弱肉強食で殺し合いが普通である自然界のありようを超えた情景です。究極の平和がそこには描かれています。

 しかし、今日の聖書箇所では、その平和をもたらすはずのキリストが来られたのに、狼と小羊が仲良くするどころか人間の間に対立が生じているのです。もっとも、マタイによる福音書の10章にはこういうことが書かれています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。 人をその父に、/娘を母に/嫁をしゅうとめに」なんとイエス様ご自身が自分は平和ではなく、剣をもたらすために来たとおっしゃっています。ではイザヤの預言は間違いだったのでしょうか。もちろん間違いではないのです。やがて究極の平和はやってくるのです。その平和はキリストが再び来られるときに実現します。

 キリストがふたたび来られるまでの時間、そこではむしろキリストへの人間の態度は分裂し対立するのです。信じる、信じない、ふたつに分かれるのです。親子でも分かれます。群衆の間でも分かれます。キリストと出会った人は、素通りはできないのです。信じるか信じないか、その選択を迫られます。そこに対立が生じます。信じるか信じないかは各人の自由であって、一人一人の選択を互いに尊重したら良いではないか、対立する必要はないではないか、と感じますが、実際に、キリストを前にするとき、そこには対立が起きるのです。

 それは、キリストを前にしたとき、私たちは否応なく、私たちの存在の根幹をゆすぶられるからです。そしてその根幹には罪の問題があるからです。キリストを信じるということは自分の罪を知るということでもあるからです。自らの罪の姿を突きつけられて人間は平静ではいられません。キリストを信じないとき、わたしたちは自らの罪をなかったことにしようとします。そこにさまざまな言い訳が起こってくるのです。

 その言い訳としてキリストそのものを貶める言葉も出てきます。たとえば以前読みましたところには「イエスは学問をしていない」という言葉がありました。つまり学歴がないという貶めでした。あるいは今日の聖書個所にあります「メシアはガリラヤから出るだろうか」という言葉もそうです。理由をつけてメシア、救い主としての主イエスを否定するのです。ガリラヤは田舎であり、イザヤ書などでも「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるように、かつて北イスラエル王国がアッシリアによって滅びたのち、人種的にも宗教的にも他民族と混血した歴史をもっており、南のユダヤの人々からは馬鹿にされている地域でした。田舎で宗教的にもたいしたことのない地域のガリラヤからメシアなど現れないと馬鹿にされているのです。

<かしこいとイエスが見えない>

 同様に権力者の間にも対立が生じます。イエスを捕らえに行った下役たちは結局主イエスを捕らえることなく戻ってきました。なぜ捕らえられなかったのか?それはまだ父なる神の時、十字架の時が来ていなかったからです。父なる神が主イエスが捕らえられないようになさったのです。

実際、主イエスの様子を見た下役たちにも捕らえる気持ちがわかなかったようです。上役たちに命令されて、主イエスのところに行ったものの、その言葉と態度に圧倒されたというか、不思議な気持ちを持ったようです。上役たちの命令は絶対であるにもかかわらず、そしてまたその気になって捕らえようとしたら簡単に捕らえられたはずなのに捕らえる気になれなかったのです。そして「今まで、あの人のように話した人はいません。」と報告するのです。命令に背くことはたいへんなことと知りつつ、どうしても下役たちは主イエスを捕らえることができませんでした。むしろ、下役たちのほうが、ファリサイ派の権力者たちとは全く違う力ある主イエスの言葉にとらえられてしまったのです。

命令に従わなかった下役に対して権力者たちは当然怒ります。「お前たちまでも惑わされたのか」と言います。下役たちは主イエスが何者で何をなさるのかははっきりと理解してはいませんでした。しかし、何かを感じたのです。しかしその何かを感じたことを、権力者たちはいともあっさりと「惑わされた」という言葉で片付けます。「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。」つまり、学問があり、聖書をわきまえている人間はあんな男には惑わされないというのです。そして下役だけでなく、主イエスに対してある種の共感をもっている群集に対しても「呪われている」というのです。学問のない呪われた連中だけがイエスを信じるのだというのです。学問のある、律法をちゃんと理解している者だけが正しい、そして学問のある、律法を理解している人間は主イエスなどには惑わされないのだというのです。近代以降、科学の知識のない愚かな人間が神などを信じるのだというのに少し似ています。加藤常昭牧師はここの部分で、端的に「自分たちが賢いと思っているからイエスが見えなくなる」とおっしゃっています。自分には学問がある、知識がある、聖書を良く知っている、それを誇っているとき、人間はイエスが見えなくなります。

ところで、パウロは人間の誇りについて語っています。かつてファリサイ派としての自分を誇っていたパウロは、ローマの信徒への手紙3章で「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」と語っています。そして誇りが取り去られるのは行いの法則にはよらず信仰の法則によると語っています。行いの法則によって誇りが取り去られるのではない、つまり自分で努力して謙虚になろうと思ってなれるのではなく、信仰によってなのだとパウロは語っています。ただキリストを信じる信仰によってのみ、人間は自らの誇りを取り去ることができる、いえ自分で取り去るのではなく、取り除いていただくのです。

しかしまた、一方で自分が賢いと考えているとき、つまり自分の誇りにとらわれているとき、私たちはイエスを捕らえることができません。イエスを見えなくなるのです。信仰によって私たちは誇りを取り去られます。一方で自分の誇りに固執するとき信仰は養われません。信仰と人間の誇りには相互の作用があるのです。

<中途半端でも>

 今日の聖書箇所の後半には、ニコデモが出てきます。ニコデモはヨハネによる福音書の3章に出てきたファリサイ派の人でした。主イエスに共感を覚え、教えを乞いにやってきた人ですが、主イエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃることを理解できませんでした。ニコデモは、信仰的に中途半端な人の代表のようによく言われます。信じるか信じないかでいえば信じてはいなかった人といえます。この人がこののち信仰を持ったかどうかはわかりません。聖書にはそののちのことは記載されていません。聖書に記載されている範囲ではニコデモは、イエス様に好感をもち、尊敬の気持ちも持ちながら、今一歩信仰に入っていけなかった人物として描かれています。ニコデモは今一歩、主イエスへの信仰へ入れなかったのは、やはりその賢さが災いしていたのかもしれません。律法の教師としての誇りが邪魔をしたのかもしれません。しかし、他のファリサイ派の人々とは、イエス様へ親近感を持っているという点において異なります。今日の聖書箇所でも、主イエスを侮辱し、主イエスに不思議な力を感じている群衆を「呪われている」と罵る指導者を、ニコデモは諭しています。ニコデモは彼なりの誠実さをもって、主イエスを擁護しているのです。しかし、そのニコデモは「あなたもガリラヤ出身なのか」とかえって馬鹿にされています。ファリサイ派の中で主イエスを擁護することは自身の立場を悪くすることであるのはわかりながら、ニコデモなりに精一杯のことをしたのです。このニコデモは、主イエスが十字架にかかられ亡くなられたのち、没薬などをもって主イエスの葬りのためにイエスの亡骸のもとにやってきます。罪人として十字架にかけられた者のためにやってくるということはニコデモの立場としてはたいへんなことだったと思われます。信仰的に中途半端な人と言われるニコデモですが、弟子たちにもできなかったことを彼は為したといえるのです。

 歴史的に見ますと、信仰者はニコデモのような人々に助けられてきているという側面があります。古くは出エジプトのとき、神はエジプトの人々にイスラエルの人々への好感を植え付けておられましたので、イスラエルの民はエジプトを去るとき、エジプトの人々から贈り物をもらって出て行ったのです。奴隷に過ぎないイスラエルの民に対して、かつモーセを通してイスラエルの神からエジプトに与えらえた災いによって迷惑していたにもかかわらずエジプトの人々は贈り物をしてイスラエルの人々を送り出したのです。その贈り物はそののち荒れ野を旅するとき役だったと思われます。また、あるいは使徒言行録を読みますと、宣教を始めたばかりの初代教会に迫害が始まりますが、ガマリエルというファリサイ派の指導者がその迫害をとめます。このガマリエル自身は主イエスを信じていたわけではないのですが、主イエスを信じる者たちに慎重な態度を取るようにと人々に訴えたのです。主イエスの福音がほんとうに神から来たものであれば、滅ぼすことはできないし、神から来たものでなければどうせそれは勝手に滅びるのだと言います。出エジプトの時のエジプトの民も、ニコデモも、そして使徒言行録出てくるガマリエルも、それぞれに神が備えてくださった助けであり、信仰者にはそのような人々が与えられているのです。

 この大阪東教会周辺の人々にもなにくれとなく親切にしてくださる方がおられます。台風の後片付けを手伝ってくださったり、おりおりに力を貸してくださいます。だからといってその方々が、礼拝に来られるとか聖書に興味を持たれるということは、現時点ではありません。しかし、教会なり信仰者が立っていくことができるのは、そのような助けてくださる方がおられるからだと言えます。そのような人々を神は与えてくださるのです。信仰者の態度として、信じるか信じないかどちらかであると言いました。しかし信じたからと言ってそれは信じない人を見下してよいということではないのです。むしろ、いまは信じてはおられない方々であっても、神がその人々を用いて私たちを助けてくださるということが折々にあるのです。それは私たちが、傲慢になることがないようにという神の配慮でもあるでしょう。

 またマタイによる福音書にはこのようなイエス様の言葉があります。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。10:42」主イエスは自分の弟子、信じる者が、さまざまな試練があるこの地上でどうにか守られるようにと配慮をしてくださいます。弟子だという理由で水の一杯でも飲ませてもらえるようにと切に願ってくださっているのです。親が自分の子供に親切にしてくれる人がたくさんいるようにと願うように主イエスも願っておられます。願うだけでなく実際に助けてくださる人を与えてくださいます。ですからこそ、私たちは信じる者になるのです。信じて歩む道は平坦ではないかもしれません。いえ、平坦な道ではないのです。分裂や対立に巻き込まれたり、試練の中を歩む道です。しかしなお、主イエスの守りの中を歩む道です。困難はあってもかならず守られ希望へとつながる道です。


ヨハネによる福音書7章32〜39節

2018-09-10 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年9月9日 主日礼拝説教 「渇いた人へ」吉浦玲子

<主イエスを見つけられない>

 いよいよユダヤ人の権力者は主イエスを殺そうと具体的に動き始めました。今日の聖書箇所ではイエスを捕らえるために下役たちを遣わしたとあります。しかし、それに対して主イエスは不思議なことをおっしゃいます。「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。」

 探しているときに見つからなかったものが、探すのをあきらめたとき、ひょんなところで見つかるということがあります。イスラエルの人々はずっと神を求めていました。探していました。そして神からの救い主を待っていました。その救い主がとうとうやってこられました。ひょんなところから見つかったというわけではないのです。決定的にやってこられたのです。その救い主は、実際に目の前に来られ、不思議な業をなさり、力ある言葉を語られたのです。救い主は主イエス・キリストとしてやってこられました。しかし、その救い主が来られたというのに人々はその救い主の救い主としての姿をとらえることのができないのです。そのお姿を見、声を聞き、説教を聞いても、それが神から来た救い主であるとは考えられなかったのです。しかも、あろうことか、救い主としてこられた主イエスを殺害しようとする人々すらありました。実際、主イエスは十字架において殺されました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。」

 主イエスはエルサレムで公然と語られました。大胆に語られました。ユダヤ人-この言葉はエルサレムにおける権力者を指しますが―そのユダヤ人たちに対し、「あなたがたは神の御心を行っていない」とおっしゃいました。「神の御心を行っていないから私がどこからきて、なにをなそうとしているかわからないのだ」と大胆におっしゃいました。ユダヤ人は、ガリラヤからやってきた学問のない男としての主イエスは見つけています。しかし、それが神からの救い主とはわかりません。逮捕に向かった下役もガリラヤから来た主イエスの姿を見ています。

場面はエルサレムの仮庵祭の場面ですが、この祭りにおける主イエスの行動は過激でした。そもそも<イエス様は優しくて柔和な方である>一般的にそういうイメージがあります。それはけっして間違いとばかりは言えません。主イエスご自身、マタイによる福音書の中で、「わたしは柔和で謙遜な者だ」とおっしゃっています。苦しみの中にある人、病の中にある人、孤独な人、そう人々の友となり、ささえてくださるお方です。ヨハネによる福音書でも、今日の聖書個所の少し先にあります場面では、姦淫をした女に対して「あなたを罪に定めない」とおっしゃいます。実際に律法で禁じられている大きな罪を犯した女に対して赦しの言葉を語っておられるのです。

 その一方で、ユダヤ人の権力者に対しては、大変に厳しく、大胆にものをおっしゃられます。もう少し柔らかなものいいをするとか、相手のメンツを立てるような言い方をしたらどうかと、この世的には思います。しかし、主イエスはそうはなさいません。ある意味、たいへんアグレッシブといいますか攻撃的なのです。だからといって、主イエスは、自分にすがってくる弱い人々、社会の弱者には優しく、力ある権力者には厳しいということではありません。主イエスの柔和は、敵を愛し、ご自身を殺そうとする者に対しても父なる神へのとりなしを祈り、ご自身を十字架に差し出すことにおいて示される柔和なのです。しかし、罪は罪とされ、ご自身を神から来た救い主として信じるか信じないかにおいては厳しく問われるのです。信じるのか信じないのか、信仰を告白するのかしないのか、キリストの前にあって、それは<なあなあでいい>ということではないのです。決定的な決断を主イエスは人間に迫られるのです。

 その決断をしない人間に対して、主イエスは「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。」とおっしゃいます。主イエスを信じない人間に主イエスを見つけることはできず、そしてまた、やがて主イエスが父なる神のもとにお帰りになったとき、その場所へ、行くことはできないとおっしゃるのです。それを聞いた人々はその言葉の意味が分かりませんでした。主イエスがユダヤを離れ、どこか別の場所に行って教えるのだろうかという頓珍漢な詮索を人々はしています。

<宗教ではない>

 さてそのようななかで、祭りは最終日を迎えます。この日、祭りは最大のクライマックスを迎えます。7日間の祭りの間、毎朝、祭司を先頭に巡礼者は列をなして、エルサレムの南東のギホンの泉に向かいます。このギホンの泉は、かつて旧約聖書に出てくる偉大な王であるソロモンが油注がれたところであり、古代からあるエルサレムの水源でした。そのギホンの泉で祭司が黄金の水差しに水を汲み、神殿へ向かいます。おそらくその列は、歌いながら、笛などで音楽を奏でながら歩いていくのでしょう。そして神殿に到着したら祭司が祭壇に水を注ぐのです。これはイザヤをはじめ旧約聖書の預言の言葉にある「救いの泉から水を汲む」ということから来ています。救いの喜びをあらわした儀式なのです。水が注がれた瞬間、人々の喜びは爆発したことでしょう。その最終日は同様に水を汲んできて、祭壇を7周するのです。ここで祭りの興奮は最高潮となります。

 その喜びの最高潮のとき、主イエスはおっしゃるのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 この言葉は、言葉としてだけ聞きますと、美しい言葉です。だれでもわたしのところにきて飲みなさい、と人を招いてくださるのです。罪人であろうが、病の中にあろうが、貧しかろうが、皆、わたしのところへ来なさいとおっしゃってくださっているのです。そして、わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる、つまり、単に渇きがいやされるだけではなく、生きた水が川のように流れ出るほどに豊かにされるというのです。

 しかし、先ほど申しました祭りの背景を考えます時、この言葉は、とてつもない言葉なのです。ギホンの泉の水を汲んでも、祭壇にその水をうやうやしく注いでも、そこには救いはない、本当の救いの喜びはないのだ、ただ、わたしのところに来ることによってのみ、本当の救いにあずかることができるのだ、そうおっしゃっているのです。

 祭りのクライマックスの、荘厳な儀式が進む中、そこにいる誰もが素晴らしい儀式を喜び、宗教的興奮に満たされているところへ、まるで、冷や水を浴びせかけるような言葉を主イエスは語られるのです。その宗教儀式には、かつて預言者たちが預言した救いの喜びはないのだ、そう主イエスはおっしゃるのです。エルサレム中が祭りの喜びに沸き立っている中で、決定的な祭りへの否定をなさっているのです。

 ところで19世紀の神学者であり牧師であるブルームハルトはこういう言葉を語りました。「宗教ではない神の国だ」。分かりにくいですが、主イエスによる救いは、いわゆる、一般的な宗教的な満足や安らぎを人々に与えるものではないと言ったのです。一般に考えられている宗教が人に与えるものを聖書の信仰は与えるものではなく、リアルに神の国を体験するのが聖書の示す信仰であり、主イエスを信じることであるというのです。主イエスをかしらとする教会は、神の国の先駆けであり、生きておられるキリストと出会う場であるということなのです。礼拝のことを英語でいうときいくつかの言葉がありますが、そのひとつに「サービス」という言葉があります。神がサービスをされる、それが礼拝なのです。しかし、この言葉を間違ってはいけないのです。礼拝は、神が、あるいは教会が一般的な意味での宗教的サービスを提供するものではないのです。そこでは、まさにキリストと出会い、その出会いのゆえに罪の悔い改めが起こり、罪の赦しが宣言され、命の糧が与えられるのです。そのことが神のサービスなのです。キリスト教会の礼拝がなんとなく厳かな感じや、なんとなく心が静まるような、清められるような感覚を与えてくれる、と感じるとき、それは一般的な宗教的サービスに満足しているということになります。教会の礼拝が、ブルームハルトの言うところの神の国ではなく宗教になっているということになります。

 しかし、そうはいっても、私自身、教会に行き始めたころ、やはり、ブルームハルトが批判する、一般的な宗教的サービスの部分に安らぎを感じていたと思うのです。普段とは違う場所で、違う雰囲気のなかにいて、日々の疲れが癒され、心が平安になる、そのような感覚を持ちました。さらに正直に言えば、まだ教会に行く前、神社や寺に行った時でも、それなりに厳かな気持ちになったり、その場所に神聖さを感じたりしたものです。

 私は人間がそのように自然に感じる宗教的雰囲気での喜びや、安らぎを、すべて否定する必要はないのではないかと思います。疲れた日々の中で会堂の椅子に座ってほっとする、讃美歌を聞いて安らぐ、そのような気持ちはだれにでもあるものだと思います。

 しかし、そこにのみとどまってはいけないのです。

 主イエスは「わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃっています。私たちはキリストのもとに行くのです。プロテスタントの教会には美しい像も絵もありません。築50年のこの会堂は文化財になるような壮麗な建築物でもありません。私たちはいたってシンプルな木造の会堂でいたってシンプルな礼拝をお捧げしています。しかし、ここにはキリストがおられます。わたしたちがみ言葉に聞くとき、私たちはそこに人間の言葉ではなく、キリストの言葉、神の言葉を聞きます。一般的に考えられる宗教というものを超えた神の国がそこにあります。

<聖霊によって>

 しかし、今日の聖書箇所では、実際にキリストがそこにおられ、語っておられ、「わたしのところに来なさい」といっても人々は行かなかったのです。それはなぜでしょうか。ギホンの水ではないほんとうの救いの水がある、そう聞いて主イエスのもとに多くの人々は行かなかったです。

 そもそもこの水はなにかというと“霊”なのだと主イエスはおっしゃっています。つまり神の霊、聖霊のことなのです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」とあります。ヨハネによる福音書において、十字架の出来事は栄光と書かれています。つまりまだ主イエスは十字架におかかりになっておられなかったので、人々に“霊”が降っていなかったということです。聖霊、神の霊は、人間の罪によって、父なる神と人間の間に断絶があるとき、降っては来ないのです。主イエスが十字架によって、人間の罪を贖ってくださってはじめて父なる神と人間の間の断絶が取り除かれ、聖霊が与えられます。聖霊を与えられたとき、人間は、父なる神と、そして神の国とつながることができます。主イエスは「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」とおっしゃいました。聖霊によらなければ、私たちは主イエスの救い主としてのお姿を捉えることはできないのです。仮に、2000年前に目の前に主イエスを見ていたとしても、そのお方が神からの救い主とはわからないのです。探しても見つけることができないのです。「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」とも主イエスはおっしゃいました。本来、罪ゆえに、行くことのできなかった主イエスのおられるところ、神の国へ、主イエスの十字架のゆえに私たちは行くことができるようになりました。このことはヨハネによる福音書14章で、十字架にいよいよかかられる前に主イエスが語られます。「わたしは父に至る道」であると。十字架のゆえに、私たちは、主イエスが行かれる所にいけるようになったのです。

 すぐる週、激しい台風がこの国を縦断していきました。めったに台風で大きな被害のでないこの大阪にもたいへんな被害がありました。この教会にも被害がありました。その台風から間をあけず北海道で最高震度7を記録する地震がありました。この日本という国はどうなっているのだろうかと感じます。大阪という地域だけで考えても、6月の地震から先週の台風となにか不穏な感じが続きました。何とも言えない不安感があります。これから何が起こるのかと思います。もちろん、どのようなときでも人間には明日のことはわからないのです。しかし、いまわたしたちは、いっそう、明日の不確かさのなかに放り出されているような感覚を持ちます。

 主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」とおっしゃいました。つまり、だれでもわたしのところへ来て、神の霊を受けなさいとおっしゃっています。神の霊によってのみ、満たされる渇きが人間にはあるのです。肉体は水でうるおされ、心の渇きであってもさまざまなことでうるおされます。しかし、人間の根源的な渇きは神の霊によってしかうるおされません。仮庵祭で喜びに満ち溢れていた人々は心は満たされていました。誰も自分が渇いているとは思っていなかったのです。しかし、祭りが終われば、ひとときの非日常が終われば、心も渇いていきます。それはもっと奥のところが渇いているからです。聖霊によって満たされなければ癒されない渇きがあるのです。

 キリスト者は洗礼によって聖霊をいただきました。キリストの十字架のゆえに降った聖霊をいただきました。しかし、聖霊をいただいても、その聖霊の働きを信じなければ、聖霊の働きは阻害されます。私たちは内なる聖霊を信じ、なお豊かに聖霊に満たされなければなりません。そのとき私たちは力を得ます。存在の根源からうるおされます。

 芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」と近代人の不安を語りました。しかし、私たちの日々にはもっと明確に不安があります。それは差し迫った不安であるかもしれません。しかしだからこそ、聖霊を求めなければなりません。ただ神の霊によってのみ成就される奇跡を求めなければなりません。そしてそれは必ず与えられるのです。「だれでも来なさい」と主イエスは招いておられるのですから。神と人間を隔てるものはすでに取り除かれました。台風のあと、多くのがれきや飛来物で道がふさがれました。そのように神と私たちを隔てていたものはなくなりました。だからだれでも行けるのです。そして聖霊でみたしていただくのです。信じて聖霊に満たされるとき、その働きは私たちの内側だけにとどまりません。私たち自身が根源からうるおされるのみならず、その神の霊の流れは川となって流れ出るのです。私たち自身から、神の愛と知恵と力が流れ出て、この不安な世界にあって、隣人の渇きをも癒す者とされるのです。

 


ヨハネによる福音書7章10~31節

2018-09-03 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年9月2日大阪東教会週日礼拝説教 「人間の無知」吉浦玲子

<祭りで語られる主イエス>

 主イエスは、今日の聖書個所の直前のところで、兄弟たちが仮庵祭の時、エルサレムに行きなさいと勧めたのに対し、「まだ自分の時は来ていない」とおっしゃり、「あなたたちだけで行きなさい」と答えられました。にもかかわらず、今日の聖書個所では、イエス様は仮庵祭におられます。人目を避けて仮庵祭に行かれたのです。あれ?イエス様、わたしは行かないとおっしゃっていたのに前言撤回ですか?と問いたくなるところです。

 しかし、今日の聖書個所を読んでおわかりになるように、今日の聖書個所では、兄弟たちが祭りの時に皆の前で奇跡を起こして、メシアとして宣言をして、しかるべき地位や力を得なさいと勧めたこととはずいぶんと違うエルサレムでの様子が描かれています。ある学者は、むしろ、この場面は、主イエスがなぜ十字架にかけられて殺されたかということが明確にされた場面であるとおっしゃっています。

 そのエルサレムに祭りで来ていた人々には主イエスのうわさを聞いていたり、あるいはかつて主イエスの奇跡や説教に接した人々もいたりしたのでしょう。いろいろと主イエスのことがささやかれていたと書かれています。そしてユダヤ人たちは「あの男はどこにいるのか」と捜していたとあります。ここでいうユダヤ人とは明確に主イエスへ悪意を持った人々のことです。主イエスの兄弟たちと同様、主イエスがことを起こすならこの祭りの時だと考えてやってくるかもしれない、その時こそ尻尾を捕まえてやろう、逮捕して殺してやろうと思っている人々がいたでしょう。しかし、多くの一般群衆は、主イエスに対して明確な判断はできかねていたようです。「良い人」だという人もいれば、「いや、群衆を惑わしている」という人もいたと書かれているとおりです。しかし、一般群衆はここでユダヤ人と書かれているユダヤにおいて力を持った人々を恐れていました。ですから、主イエスについて「ささやき」はしても、公然とは語らなかったのです。権力者階級の人々からにらまれては困るからです。つまり、祭りの巡礼者でにぎわうエルサレムには、祭りの喜びの主旋律のかげに、公然とではない声、公然とではないからこそある種の不穏な感じをかもしだすささやき声が、通奏低音として響いていました。

その祭りの半ばごろ、1週間続く祭りですから、3日目とか4日目ごろ、主イエスは神殿で聖書を教え始められました。これは律法の教師たちがやっていたことで、主イエスも同じようになさったのです。兄弟たちは奇跡を起こしてしかるべき地位を手に入れなさいと勧めましたが、主イエスは奇跡を起こされず、聖書を解き明かされたのです。それに対してユダヤ人は驚嘆したのです。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」という驚きの言葉を口にしました。他の福音書には、主イエスは「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」と記されています。当時の聖書といいますと、現代のキリスト教の教会でいいますところの旧約聖書です。モーセ五書や預言書などです。それらの聖書の言葉を、権威ある者として語られたのです。聖書に限らず、ある事柄を権威ある者として語るというのは、その教えを単なる知識の伝達ではなく、知識を超えた何かを伝えることができる者として語るということです。人の生き方や存在の根幹に影響を与えるようなことが語られるということです。たとえば立派な大学の有名な学者であるとか、どこかの組織の責任ある地位にある人であるとか、そういうこの世的な権威によって語られる言葉も、聞く側はこの人は立派な人だと思って聞きますから、それなりに影響力を持つかもしれません。しかし、そのようなこの世的な権威に依存することなく語られた言葉が、なお権威をもって語られる、聞かれる、ということは語られた言葉そのものに力があったということです。主イエスの言葉には力があったのです。

<この教えはどこから来たものか>

 その力ある言葉を聞いたユダヤ人は、「この人は、学問をしたわけでもないのに」という言葉を言います。ある学者は、これは今でいうところの「学歴もないくせに」という言葉に等しいと言っています。力ある言葉に感嘆して賛美するのではなく、なぜこの学歴もない、出自も卑しいものがこんなに堂々としゃべっているのか、という不信感と敵意がそこにはあります。

 伝道者のパウロが、自分のことを紹介するとき、自分はヘブライ人中のヘブライ人であり、かつてファリサイ派であったことを繰り返し語っています。使徒言行録のなかにあるパウロの自己紹介の中で、「わたしはガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けた」と語っています。ガマリエルというのは当時のファリサイ派の有力な学者でした。パウロが主イエスを信じる前、つまり回心前の、学問的そして信仰的根拠はガマリエルに学んだこと、そして正統的なガマリエルの流れを汲んでいるということにありました。現代の学問の世界でも、そういうことはまだあるのかもしれません。一匹オオカミの学者が成功することはむずかしく、やはり学会やら派閥のなかで力ある人にひっぱってもらわなければ成功できない面があるようです。誰それ先生の門下生ということが大事なところがあります。当時もまた、自分の先生はだれである、自分はだれだれの学問の系譜にあるということが大事だったわけです。しかし、主イエスは、ガリラヤの田舎の大工の息子であり、当時のイスラエルの家庭の庶民としての宗教教育、律法の学びはしたかもしれませんが、だれそれからきちんと聖書を学んだということはありませんでした。

 主イエスが、さきほどのパウロの師匠であったガマリエルなり、だれか著名な学者の系譜で出てくるならいいのです。そのような自分たちの理解できる権威のもとで語られているのならユダヤ人は安心できるのです。しかし、自分たちの理解できない権威のもとで語られる言葉をユダヤ人は聞くことができませんでした。

 人間はそもそも、この世的な権威に弱いものです。この世的な権威に惑わされます。そしてまたまさにその権威側にいる者にとって、自分たちが知っている権威以外のところからくる者に対しては排他的になります。敵意すら持つのです。

それに対して、主イエスは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」とユダヤ人たちにお答えになりました。主イエスは、自分は自分の教えではなく、自分を遣わされた方の教え、つまり神の教えを語っているとおっしゃっています。そしてさらに痛烈なことをおっしゃっています。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」わたしが神から遣わされ、神の言葉を語っている、ということは、ユダヤ人からしたら、とんでもない神への冒涜に聞こえたと思います。たしかに普通の人間が、自分は神から遣わされた者で、神の教えを語っているなどというのは、自分を神と言っていることで、まさに神を冒涜しています。実際、主イエスは神を冒涜したということで、のちに死刑の判決を受けることになります。今日の場面では、何を根拠に自分が神から遣わされたなどというのか、なにをもって自分の言葉が神の言葉と言えるのか、ということに対して、「あなたがたが神の御心を行おうとしているならば分かるはずだ」と主イエスはおっしゃるのです。自分の言葉がほんとうに神から出たかどうかは、神の御心を行おうとする者にはわかるのだとおっしゃるのです。これは極めて端的に、あなたがたは神の御心を行っていないから、わたしが神から遣わされ、神の教えを語っていることが分からないのだとおっしゃっているのです。人間はこの世の権威に惑わされたり、古い宗教概念にとらわれることはあるでしょう。そうであっても、その人がほんとうに神の御心を行おうとする気持ちがあるのならば、神からきた言葉とそうでないものを判別できるのだと、主イエスはおっしゃいます。つまり「あなたがたは神の御心を行っていないから私が神から遣わされたものであることがわからないのだ」と主イエスはおっしゃっています。聖書のことはよく知っている、しかしそれは頭で理解しているだけで、そこで語られている神の御心を実践していないではないか、そう主イエスはおっしゃっています。

 当時の宗教的指導者たちに対して、単刀直入に「あなたがたは神の御心を行っていない」とおっしゃっているのです。大胆です。挑戦的です。「あなたたちはモーセの律法を守っていないではないか」とも指摘しています。「なぜわたしを殺そうとしてするのか」ともおっしゃっています。これはもう完全にユダヤ人に喧嘩を売っているともいえる言葉です。もちろん主イエスは好んで争いを起こそうとなさっているわけではありません。しかし、誤ったことに対しては大胆に指摘をされるのです。

「学問をしたわけでもない」男、つまり学歴のない男、に対して敵意を持っているユダヤ人のその敵意の核の部分には殺意があることも主イエスはご存知でした。聞いていた群衆にも、自分たちの宗教指導者に対してここまで挑戦的に言うこの男に対して「あなたは悪霊に取りつかれている」という者もありました。

 私たちは主イエスが神の御子であることを知っています。ですから主イエスが見事に聖書を読み解かれてもそれは当たり前だと思います。しかし、私たち自身も、往々にして、この世の権威に惑わされます。私たちは、日々、いろんな人と接して、いろんな意見を聞きます。いろんなことが起こり、さまざまに判断をしないといけないことがあります。それが御心にかなったことか、自分の勝手な望みなのか、判断するのは難しいことです。そのとき、私たちの耳には、主イエスの言葉が響くのです。耳に痛く響くのです。「神の御心を行おうとする者は、神から出たことかそうでないかがわかる」という言葉を聞くのです。クリスチャンであっても、神から出たことではないことを神から来たものだと思って成してしまうことがあります。しかし、私たちが、それが神から出たことなのか人間から出たことなのか分からないとしたら、それは私たちが御心を行おうとしていないからだと主イエスはおっしゃるのです。信仰がただ知識だけにとどまり、頭だけの信仰であるならば、わたしたちはわたしたちがいま聞いている言葉や直面している状況が神からのものかそうでないのかわからないのです。御心を行おうとしないとき、愛の言葉を悪意にとらえたり、逆に人間的ななれ合いの言葉を正しい愛の言葉と捉えてしまうのです。御心よりも自分の知恵や経験や思い、あるいはこの世の権威や常識を優先させて生きるとき、当然、自分の周りに起こる事柄のなかの神の業を見ることはできません。神から来たことか、人間から来たのか、さらに言えばサタンから来たことか見分けがつきません。

そしてまた、今日の聖書の後半21節には、「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。」とあります。これは、主イエスがメシア、救い主かどうか議論する流れの中で語られています。メシアはどこからとは知れないところから現れるはずではないかという思いが人々の中にあったのです。その気持ちは分からなくはありません。神から来られた方は、ある日突然現れるような神秘性があると思われていたのです。田舎の大工の息子が神から来たメシアであるはずがない、その感覚はなんとなく理解ができます。

 わたしたちはロマンチックに、貧しい飼い葉おけに寝かされた神の御子を賛美する讃美歌を歌います。メルヘンのような羊飼いたちに現れる天使の物語や動物小屋の場面は受け入れられても、現実に、学歴のない貧しい身なりの男が神から来たものであるとは到底受け入れられないのが人間です。逆に言いますと、神が人間のお姿になってこの世界に来られるということの神秘がそこにあります。突然どこからか、光り輝く王の姿で現れられるわけではないのです。来られたのは大工の息子としてのお姿でなのです。神は人間がこうあってほしいと願う姿で来られるわけではありません。そしてまた貧しい人間としてこられたゆえに、主イエスは人間の痛み苦しみをこの地上で味わい尽くされたのです。私たちの痛み苦しみを共に担うためです。輝かしいお姿ではなく貧しいお姿で主イエスは来られました。

 しかしその主イエスを人々は憎みました。自分たちの望む姿ではなく、自分たちの信じる権威に従うわけでもない主イエスを憎み殺しました。これが人間の罪の姿です。人間は主イエスを殺すのです。仮庵祭は神が奴隷であったイスラエルの民を導かれたことを記念する祭りでした。荒れ野を旅した民を守り導かれた神に感謝するその祭りにおいて、貧しいお姿で人間と共に歩まれた主イエスを殺そうとする思いが決定的になったということは皮肉なことです。人間は自分の思い通りにならない神を殺すのです。神から来た言葉を聞けないのです。しかし、神を殺す行為は本当は自分自身を殺す行為です。私たちは罪の中で滅びに向かっていました。そのことに気が付かず自分で自分を殺そうとしていたのです。しかし、私たちではなく、主イエスが殺されました。私たちが生きるためです。殺す、殺すと物騒な言葉を繰り返しました。聖書は慰めの書ではありますが、その慰めの本質は、突き詰めると、神が死ぬか人間が死ぬかというところにかかっているのです。

 神は死んでくださいました。私たちが永遠の命に生きるためです。神の死は、主イエスの死はそれで終わりではありませんでした。復活の命がありました。これから季節は秋に向かいます。今日の聖書箇所の仮庵祭も秋の祭りでした。実りの秋は、冷たい受難の冬を越して春へと向かいます。命の湧き出でる春へと向かいます。旧約の時代、イスラエルの民が荒れ野を仮庵、仮の小屋を建てて旅をして、やがて約束の地に入ったように、私たちもこの地上を旅人として歩みながら、キリストのゆえに約束の地へ入ります。出エジプトの民の多くは実際は約束の地へ入れませんでしたが、私たちは入るのです。聖霊によって神から来た言葉を神から来た言葉として聞かせていただきながら、キリストとともにとこしえの命の春を目指していきます。


ヨハネによる福音書7章1〜9節

2018-09-02 15:21:27 | ヨハネによる福音書

2018年8月26日大阪東教会主日礼拝説教 「主イエスの時」吉浦玲子

<主イエスの時間軸>

 昔読んだSFのショートショートに周りの人と異なった時間軸、といいますか、異なった時間の速度で生きる男の話がありました。どういう理由でかは忘れたのですが、同じ世界に住みながら、ある時から主人公の男には時間がとてつもなくゆっくりと進むようになりました。周囲の世界の様子は、男にとっては静止しているように見えます。一方、周囲の人から見たら、男の動きはとてつもなく早くて、その存在を確認することができないのです。男がだれかにぶつかってゆっくりと歩き去ったとしても、ぶつかられた相手からは、男が近寄ってきて去っていくまでが瞬間的なことなので、男の姿を認識できません。まるで透明人間にぶつかられたように感じるのです。その男は最終的には悲劇的な最期を迎えます。

 主イエスは、ヨハネによる福音書における最初の奇跡の物語のカナの婚礼の場面でも母マリアに「わたしの時はまだきていません」とお話になっていました。今日の聖書個所でもそうです。自分を諭しに来た兄弟たちに「わたしの時はまだきていません」とお答えになっています。

 その言葉を聞いた母マリアも兄弟たちも主イエスのおっしゃる「わたしの時」ということが何なのか理解できなかったことでしょう。さきほどお話ししたSFに出てくる男のように、主イエスはなにか普通の人々とは異なる時間の中に生きておられたようにも感じられます。

 さて、1節を読みますと、ユダヤ人がご自分を殺そうと狙っていたので、ユダヤを避けて、ガリラヤを巡っておられたことがわかります。これは主イエスが殺されることを恐れて怯えてお逃げになっていたということではなく、やはりまだ「自分の時」が来ていないから、いまはまだユダヤに行かないということなのです。ご自分の時と、主イエスがおっしゃられる「時」というのは父なる神が決定的にこの地上に働きかけられる「時」のことです。端的に言って、それは十字架の時です。ヨハネによる福音書においては、それは栄光の時です。メシア、救い主としてのご自身をいよいよはっきりと顕される時です。しかしまだ、その時ではない、今つかまっても、十字架ではなく、別のやり方で殺される可能性もある、しかし、人間の救いは、ただ十字架の死によってのみ成就されると主イエスは知っておられたのです。そしてなにより、まだ十字架の時は来ていない、父なる神が定められたその時は来ていない、全人類の救いの業の為される時は来ていない、ですから主イエスはユダヤを避けて、ガリラヤを巡っておられました。

 つまりご自分の故郷の地域を巡っておられたのですから、主イエスのなさっていることは、故郷の家族にも伝わっていたでしょう。いろいろな評判、うわさがいやでも家族には伝えられたと考えられます。おそらく主イエスの家族や親族は、貧しくもつましいガリラヤ地方の一般的な庶民として生活していたことでしょう。その家庭の長男たる主イエスが、突然、不思議な業を次々となし、人々の前でとんでもない説教をしている、家族にとっては驚くべきことだったでしょう。

 そのような兄弟たちが、主イエスに向かって、「仮庵祭でユダヤに行ってあなたの力を見せてやりなさい」と語っています。ここで「兄弟たち」という言葉は、学者によっては、純粋に同じ親から生まれた兄弟というより範囲が広く、いとこくらいまで含むのではないかとも考えられています。つまり、比較的年の近い親族たちが、「あなたの力を見せてやりなさい」と言っているということです。ここで、兄弟たちは、主イエスの業に素直に驚き、すごいものだと感心しているようです。一族からすごい者が出てきたと思っているようです。ですから、それをもっと大々的に皆に見せてやったらどうかというのです。

 兄弟たちには、伝統的な、そして世俗的なイスラエルにおけるメシアの概念があったのかもしれません。メシアは、都エルサレムで公然とその奇跡の業を示して、来るべき救い主として宣言して、その地位に即位するものだと考えていたのでしょう。

 そこには悪意はなかったかもしれません。自分たちの一族からメシアが出る、それは大きな喜びであり、名誉です。それなのに、イエスは、辺鄙なガリラヤ地方にとどまっているのはどうしたわけなのか理解に苦しんでいるのです。さらにいえば、「わたしは天から降ってきたパン」などと言って、それまでいた多くの弟子たちが去ってしまったとも聞いていて、兄弟たちからしたら歯がゆく感じられていたのかもしれません。「あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」という言葉の「弟子」のなかには、去っていった弟子たちも含んでいるかもしれません。「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。」兄弟たちにしてみたら、せっかく数々の奇跡を起こしながら、さっさとしかるべき地位に就こうとしない、得られるはずの名誉や力を手に入れようとしないイエスのあり方にじりじりしていたのでしょう。

 ちょうど、仮庵祭が近づいていたと聖書にはあります。仮庵祭とは、ユダヤの三大祭りの一つです。新約聖書においてなじみが深いのは、主イエスが十字架におかかりになった過越祭だと感じる方も多いかもしれません。その過越祭が春の祭りであるのに対して、仮庵祭は秋の収穫の頃の祭りでした。収穫祭を兼ねていると言っていいでしょう。この仮庵祭では、出エジプトの出来事を覚えて、出エジプトの民が40年の旅の間、天幕と呼ばれるテント暮らしであったことを記念します。小さな小屋を作って7日間そこで生活をするというものです。仮庵祭はスコトといいますが、スコトとは小屋のことです。家の屋上や中庭や玄関前などに人々は小屋を作ったようです。この小屋は植物の枝や葉で作られたようで、材木などは使わなかったようです。出エジプトの民は、材木を使った建物は作らなかったであろうということによるものです。その小屋で生活する7日ののち、盛大なフィナーレである祭りがあります。祭りの規模としては、むしろ、仮庵祭は過越祭よりも大きなものだったともいいます。その一年で最大の祭りは、兄である主イエスにとって最大のアピールの場ではないかと考えられたのです。兄弟たちにとって、主イエスの素晴らしい業は権力や地位を得るにふさわしいものに思えました。こんなガリラヤでうろうろしていないで、その祭りで一大プレゼンテーションを行って、自分の力を皆に認めてもらえ、そう兄弟たちは勧めているのです。さきほども言いましたように、そこには悪意はなく、むしろ、人間として、また家族の情としては、無理からぬことだったかもしれません。

 しかし、5節には厳しい言葉が書かれています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」むしろ、兄弟たちは、無邪気に主イエスの力に感嘆していたのです。これはすごいと思っていたのです。ある意味、主イエスを信じていたとすら言えるでしょう。しかし、なお、福音書の著者は、「イエスを信じていなかった」と記しています。ここで、わたしたちは、「信じる」、ことに「主イエスを信じる」ということはどういうことかということに突き当たります。

<神の時を信じる信仰>

 主イエスはおっしゃいます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」すべてを支配される父なる神の御子であれば、むしろ、時間をも支配されるのではないかと普通には感じます。しかし、主イエスは「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃるのです。それに対して、「あなたがたの時はいつも備えられている」と主イエスはおっしゃいます。これは不思議なことです。私たちの人生は、自分の思い通りにはいかないことの連続です。あの時、あのことに気が付いていればよかった、そうしたらそれから後の人生は変わっていただろう、ほんのちょっとしたタイミングのずれでチャンスを失ってしまった、そういうことが多々あります。そしてなにより、私たちにとって時間は不可逆のものです。やり直すこともできません。もちろん、今がつらいから早送りしてほしいと思ってもできません。時間ほど、自分でコントロールできないものはないともいえます。コントロールできないからこそ、私たちは躍起になるのです。いまこそチャンスだ、あとがない、と感じて事を起こすことがあります。あるいは逆に今は雌伏して時を待とうと思ったりします。本当はコントロールできない時間をどうにか自分の手で捕まえようとするのです。主イエスの兄弟たちも言うのです。さあ祭りだ、いまこそユダヤに行き、あなたの力を示すのだ。チャンスをつかむのだ。

<チーズはどこへ消えた>

 昔、会社で「チーズはどこへ消えた」という本を読まされた記憶があります。社員教育のための課題図書みたいに決まっていたわけではなかったのですが、なんとなく読まないといけないような雰囲気があって読みました。当時、ベストセラーになった本でご存知の方もおられるかもしれません。多くの企業で推奨されたビジネス本です。ビジネス本ですが、論文調の内容ではなく、二匹のネズミや二人の小人が登場して寓話的なストーリー仕立てになっていました。その二匹のねずみと二匹の小人はおいしいチーズを発見したのですが、ある日突然チーズがなくなってしまいます。ねずみたちはすぐに新しいチーズを探しに飛び出していくのですが、ねずみより賢い小人たちは、チーズがなくなった原因を分析したり、またチーズが戻ってくるかもしれないと考えたりして、なかなか行動を起こそうとしません。でもようやく、一人の小人が新しいチーズを探しに旅立つ決心をします、そんなストーリーでした。チーズは、財産とか生きがいとか仕事といった価値あるものの象徴でした。しかし、チーズはいつも同じところに同じようにあるのではない、新しいチーズを常に探しに行く、それが新しい生き方だということなのです。要は状況の変化に対応することが大切だという内容だったと記憶しています。古いことに固執せず新しいことに挑戦せよというようなことだったと思います。言わんとすることは理解はできましたし、ビジネスにおいてもっともだなと感じるところもありました。でも私自身は、どちらかというと反感をもった記憶があります。古くても良いものは良いではないか、とも感じたのです。それに新しいチーズを探す旅人になろう、勇気をもって新しい生き方に旅立とうというとなんだか格好良さそうだけど、結局、ただただ、状況に右往左往していくあり方ではないかとも感じたのです。

 ただビジネスの世界でなくても、私たちは、現代において、どこか新しいチーズを探そうとしていく者かもしれません。くるくると変化していく状況の中で、もっと良いチーズ、もっとおいしいチーズを探そうとしているのではないでしょうか。時代に取り残され、新しいチーズをもう手に入れられないことを恥じたりします。でも私たちは心の底で、いつもいつも新しいチーズを探して旅立つことはできないことも知っています。そしてまた今手にしているチーズがなくなってしまうかもしれないという不安も感じつつ生きているようです。状況に対応すると言いながら、本当は私たちは状況を、そして<私たちの時>をコントロールすることはできないのです。でも、私たちは、主イエスの兄弟たちが「さあ祭りだ、今こそユダヤに行くのだ」と言ったように、状況や時をコントロールすることができると感じてしまう、そのような人間のあり方に対して、「あなたがたの時はいつも備えられている」と主イエスはおっしゃいました。いつでも自分で自由に決定できる時を私たちは持っていると主イエスはおっしゃるのです。しかし、主イエスは、父なる神の時に従うのだとおっしゃっています。

<神の時を信じて歩む>

 「あなたがたの時はいつも備えられている」という言葉にはもう一つの厳しい意味があります。「世はあなた方を憎むことができないが、わたしを憎んでいる。」という言葉があります。憎むという言葉もまた厳しい言葉です。「わたしが、世の行っている業は悪いと証しているからだ」と続きます。主イエスは、この世の罪を罪ととして証されるお方です。たとえば、主イエスは、ヨハネによる福音書2章において、神殿から商人を追い出されました。主イエスは、罪を、そして罪からおこる悪は悪であると証される方なのです。罪の中にあるこの世からしたら、罪を指摘する者は憎まれるのです。その憎しみの先にあるのは殺意です。こいつさえいなくなったらいいという思いです。実際、この世は、主イエスを憎んで、十字架につけて殺しました。つまり、私たちが殺したのです。

 しかしまた、主イエスは、単に悲劇の最期をとげる正義のヒーローであるだけはありませんでした。罪の世から憎まれ殺されながら、復活をなさいました。父なる神が、御子である主イエスを憎んだ世を愛されたからです。世を愛された神が、神の御子を憎んだ世が、主イエスの時を知るようになるために十字架の時を備えられました。私たちが神の時を知るようになるためです。状況に右往左往して、しかしなお、自分で時をつかもうとしてあくせくする私たちが、神ご自身の時を知るようになるためです。神の時を知るとき、私たちは自分の本当の姿を知ります。罪の姿を知ります。そのとき、新しく信仰が始まります。「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」とありましたが、この時点で、兄弟たちは神の時を知らなかったのです。神の時を知る、それが神を信じるということです。自分の時を手放すということです。主イエスの時、それはまず第一に十字架の時であると申し上げました。十字架は世に憎まれ殺された敗北の象徴ではありません。キリストを憎んだ世を罪から救う栄光の業でした。そこから新しい世界が始まりした。私たちが自分で時をはかって旅立つのではありません。神が神の時において成し遂げてくださいました。私たちはその神の時を信じて歩んでいきます。いま私たちに働きかけられる神の時を信じて歩むとき、私たちはまことに平安に喜びにあふれて生きて行くのです。