2018年9月16日 大阪東教会主日礼拝 「あなたもガリラヤ出身なのか」吉浦玲子
<対立を生み出す主イエス>
今日の聖書個所の直前で、主イエスは豊かな招きの言葉、恵みの言葉を語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
だれでも来なさい、だれでもこの水を飲みなさい、日本と違ってどこにも川があり水があるわけではないパレスチナ地方にあって、この豊かな水のイメージは、本来、救い主であるイエス様の恵みの豊かさを感じさせる言葉のはずです。
しかしその恵みの言葉を聞いた人々は、その言葉によって平安を得たわけでも、喜びを感じたわけでもなく、むしろ人々の間に対立が生じたというのです。それは一般群衆の間でもそうですし、宗教学者権力者の間でもそうだったのです。
ところで、イザヤ書11章はやがて到来するキリストを預言していると言われます。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとるの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」に始まる部分はクリスマスの時期にもよく読まれます。そして、イザヤ書11章は「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」という究極の平和の光景を記します。肉食動物と草食動物である狼と子羊が、豹と子山羊が共に野に平和に過ごしている、子牛と若いライオンが一緒に育って、それらを小さな子供が導いている、それは弱肉強食で殺し合いが普通である自然界のありようを超えた情景です。究極の平和がそこには描かれています。
しかし、今日の聖書箇所では、その平和をもたらすはずのキリストが来られたのに、狼と小羊が仲良くするどころか人間の間に対立が生じているのです。もっとも、マタイによる福音書の10章にはこういうことが書かれています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。 人をその父に、/娘を母に/嫁をしゅうとめに」なんとイエス様ご自身が自分は平和ではなく、剣をもたらすために来たとおっしゃっています。ではイザヤの預言は間違いだったのでしょうか。もちろん間違いではないのです。やがて究極の平和はやってくるのです。その平和はキリストが再び来られるときに実現します。
キリストがふたたび来られるまでの時間、そこではむしろキリストへの人間の態度は分裂し対立するのです。信じる、信じない、ふたつに分かれるのです。親子でも分かれます。群衆の間でも分かれます。キリストと出会った人は、素通りはできないのです。信じるか信じないか、その選択を迫られます。そこに対立が生じます。信じるか信じないかは各人の自由であって、一人一人の選択を互いに尊重したら良いではないか、対立する必要はないではないか、と感じますが、実際に、キリストを前にするとき、そこには対立が起きるのです。
それは、キリストを前にしたとき、私たちは否応なく、私たちの存在の根幹をゆすぶられるからです。そしてその根幹には罪の問題があるからです。キリストを信じるということは自分の罪を知るということでもあるからです。自らの罪の姿を突きつけられて人間は平静ではいられません。キリストを信じないとき、わたしたちは自らの罪をなかったことにしようとします。そこにさまざまな言い訳が起こってくるのです。
その言い訳としてキリストそのものを貶める言葉も出てきます。たとえば以前読みましたところには「イエスは学問をしていない」という言葉がありました。つまり学歴がないという貶めでした。あるいは今日の聖書個所にあります「メシアはガリラヤから出るだろうか」という言葉もそうです。理由をつけてメシア、救い主としての主イエスを否定するのです。ガリラヤは田舎であり、イザヤ書などでも「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるように、かつて北イスラエル王国がアッシリアによって滅びたのち、人種的にも宗教的にも他民族と混血した歴史をもっており、南のユダヤの人々からは馬鹿にされている地域でした。田舎で宗教的にもたいしたことのない地域のガリラヤからメシアなど現れないと馬鹿にされているのです。
<かしこいとイエスが見えない>
同様に権力者の間にも対立が生じます。イエスを捕らえに行った下役たちは結局主イエスを捕らえることなく戻ってきました。なぜ捕らえられなかったのか?それはまだ父なる神の時、十字架の時が来ていなかったからです。父なる神が主イエスが捕らえられないようになさったのです。
実際、主イエスの様子を見た下役たちにも捕らえる気持ちがわかなかったようです。上役たちに命令されて、主イエスのところに行ったものの、その言葉と態度に圧倒されたというか、不思議な気持ちを持ったようです。上役たちの命令は絶対であるにもかかわらず、そしてまたその気になって捕らえようとしたら簡単に捕らえられたはずなのに捕らえる気になれなかったのです。そして「今まで、あの人のように話した人はいません。」と報告するのです。命令に背くことはたいへんなことと知りつつ、どうしても下役たちは主イエスを捕らえることができませんでした。むしろ、下役たちのほうが、ファリサイ派の権力者たちとは全く違う力ある主イエスの言葉にとらえられてしまったのです。
命令に従わなかった下役に対して権力者たちは当然怒ります。「お前たちまでも惑わされたのか」と言います。下役たちは主イエスが何者で何をなさるのかははっきりと理解してはいませんでした。しかし、何かを感じたのです。しかしその何かを感じたことを、権力者たちはいともあっさりと「惑わされた」という言葉で片付けます。「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。」つまり、学問があり、聖書をわきまえている人間はあんな男には惑わされないというのです。そして下役だけでなく、主イエスに対してある種の共感をもっている群集に対しても「呪われている」というのです。学問のない呪われた連中だけがイエスを信じるのだというのです。学問のある、律法をちゃんと理解している者だけが正しい、そして学問のある、律法を理解している人間は主イエスなどには惑わされないのだというのです。近代以降、科学の知識のない愚かな人間が神などを信じるのだというのに少し似ています。加藤常昭牧師はここの部分で、端的に「自分たちが賢いと思っているからイエスが見えなくなる」とおっしゃっています。自分には学問がある、知識がある、聖書を良く知っている、それを誇っているとき、人間はイエスが見えなくなります。
ところで、パウロは人間の誇りについて語っています。かつてファリサイ派としての自分を誇っていたパウロは、ローマの信徒への手紙3章で「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」と語っています。そして誇りが取り去られるのは行いの法則にはよらず信仰の法則によると語っています。行いの法則によって誇りが取り去られるのではない、つまり自分で努力して謙虚になろうと思ってなれるのではなく、信仰によってなのだとパウロは語っています。ただキリストを信じる信仰によってのみ、人間は自らの誇りを取り去ることができる、いえ自分で取り去るのではなく、取り除いていただくのです。
しかしまた、一方で自分が賢いと考えているとき、つまり自分の誇りにとらわれているとき、私たちはイエスを捕らえることができません。イエスを見えなくなるのです。信仰によって私たちは誇りを取り去られます。一方で自分の誇りに固執するとき信仰は養われません。信仰と人間の誇りには相互の作用があるのです。
<中途半端でも>
今日の聖書箇所の後半には、ニコデモが出てきます。ニコデモはヨハネによる福音書の3章に出てきたファリサイ派の人でした。主イエスに共感を覚え、教えを乞いにやってきた人ですが、主イエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃることを理解できませんでした。ニコデモは、信仰的に中途半端な人の代表のようによく言われます。信じるか信じないかでいえば信じてはいなかった人といえます。この人がこののち信仰を持ったかどうかはわかりません。聖書にはそののちのことは記載されていません。聖書に記載されている範囲ではニコデモは、イエス様に好感をもち、尊敬の気持ちも持ちながら、今一歩信仰に入っていけなかった人物として描かれています。ニコデモは今一歩、主イエスへの信仰へ入れなかったのは、やはりその賢さが災いしていたのかもしれません。律法の教師としての誇りが邪魔をしたのかもしれません。しかし、他のファリサイ派の人々とは、イエス様へ親近感を持っているという点において異なります。今日の聖書箇所でも、主イエスを侮辱し、主イエスに不思議な力を感じている群衆を「呪われている」と罵る指導者を、ニコデモは諭しています。ニコデモは彼なりの誠実さをもって、主イエスを擁護しているのです。しかし、そのニコデモは「あなたもガリラヤ出身なのか」とかえって馬鹿にされています。ファリサイ派の中で主イエスを擁護することは自身の立場を悪くすることであるのはわかりながら、ニコデモなりに精一杯のことをしたのです。このニコデモは、主イエスが十字架にかかられ亡くなられたのち、没薬などをもって主イエスの葬りのためにイエスの亡骸のもとにやってきます。罪人として十字架にかけられた者のためにやってくるということはニコデモの立場としてはたいへんなことだったと思われます。信仰的に中途半端な人と言われるニコデモですが、弟子たちにもできなかったことを彼は為したといえるのです。
歴史的に見ますと、信仰者はニコデモのような人々に助けられてきているという側面があります。古くは出エジプトのとき、神はエジプトの人々にイスラエルの人々への好感を植え付けておられましたので、イスラエルの民はエジプトを去るとき、エジプトの人々から贈り物をもらって出て行ったのです。奴隷に過ぎないイスラエルの民に対して、かつモーセを通してイスラエルの神からエジプトに与えらえた災いによって迷惑していたにもかかわらずエジプトの人々は贈り物をしてイスラエルの人々を送り出したのです。その贈り物はそののち荒れ野を旅するとき役だったと思われます。また、あるいは使徒言行録を読みますと、宣教を始めたばかりの初代教会に迫害が始まりますが、ガマリエルというファリサイ派の指導者がその迫害をとめます。このガマリエル自身は主イエスを信じていたわけではないのですが、主イエスを信じる者たちに慎重な態度を取るようにと人々に訴えたのです。主イエスの福音がほんとうに神から来たものであれば、滅ぼすことはできないし、神から来たものでなければどうせそれは勝手に滅びるのだと言います。出エジプトの時のエジプトの民も、ニコデモも、そして使徒言行録出てくるガマリエルも、それぞれに神が備えてくださった助けであり、信仰者にはそのような人々が与えられているのです。
この大阪東教会周辺の人々にもなにくれとなく親切にしてくださる方がおられます。台風の後片付けを手伝ってくださったり、おりおりに力を貸してくださいます。だからといってその方々が、礼拝に来られるとか聖書に興味を持たれるということは、現時点ではありません。しかし、教会なり信仰者が立っていくことができるのは、そのような助けてくださる方がおられるからだと言えます。そのような人々を神は与えてくださるのです。信仰者の態度として、信じるか信じないかどちらかであると言いました。しかし信じたからと言ってそれは信じない人を見下してよいということではないのです。むしろ、いまは信じてはおられない方々であっても、神がその人々を用いて私たちを助けてくださるということが折々にあるのです。それは私たちが、傲慢になることがないようにという神の配慮でもあるでしょう。
またマタイによる福音書にはこのようなイエス様の言葉があります。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。10:42」主イエスは自分の弟子、信じる者が、さまざまな試練があるこの地上でどうにか守られるようにと配慮をしてくださいます。弟子だという理由で水の一杯でも飲ませてもらえるようにと切に願ってくださっているのです。親が自分の子供に親切にしてくれる人がたくさんいるようにと願うように主イエスも願っておられます。願うだけでなく実際に助けてくださる人を与えてくださいます。ですからこそ、私たちは信じる者になるのです。信じて歩む道は平坦ではないかもしれません。いえ、平坦な道ではないのです。分裂や対立に巻き込まれたり、試練の中を歩む道です。しかしなお、主イエスの守りの中を歩む道です。困難はあってもかならず守られ希望へとつながる道です。