説教「心を高くあげよ!」
<剣をさやに納めなさい>
いよいよ事が起こりました。主イエスがまだ話しておられると、と書いてありますので、突然、多くの人々が迫ってきたのです。それまでの静かな祈りの場面が、一気に物々しい状況になります。剣や棒を携えた人々が主イエスと弟子達を取り囲みます。夜ですから、たいまつのような明かりも人々は持っていたでしょう。現代と違い、当時夜は深い闇に包まれていた時代です。しかも、人家があるような場所ではなく、オリーブの園です。その夜の暗闇の中に多くの赤い光が揺れ、取り囲まれた弟子達はたいへん面食らったことだと思います。恐怖に捕らえられたかもしれません。
主イエスを裏切ろうとしているイスカリオテのユダはぬかりなく祭司長たちと合図を決めていました。他の弟子達はどうでもいい、人々にあらぬ力をふるっている主イエスを、間違いなく捕らえないといけない、そう考えていたのです。その主イエスを指し示す合図が、親愛の情をしめす接吻であるというのは残酷なことです。「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」とユダは言います。最初の行、47節に12人の一人であるユダが、とありますが、これはほかでもない、主イエスの弟子の中でもっとも重要な弟子であった12弟子のうちから裏切り者が出たのだということが強調されています。
そのユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻をしたとあります。これは一般的な挨拶の言葉です。言葉の意味としては「先生、よろこびなさい」というような意味です。当時の慣用的な挨拶の言葉とはいえ「よろこべ」という言葉でユダが主イエスを裏切ったのは皮肉です。そしてまたここでユダが主イエスに「先生」つまり「ラビ」と語りかけているのは象徴的です。他の弟子達は、過ぎ越しの食事の場面でも、主イエスに「主よ」と語りかけているのですが、ユダだけは「先生」なのです。つまり、ユダにとっては主イエスは「主」という特別な人ではなくなったということなのです。一般的な教師としての呼び名であるラビという言葉でユダは呼びかけています。そして実にあっさりとユダは主イエスに接吻をするのです。この場面でユダには迷いはなく実にスマートと言っても良い言動です。
そして主イエスは実にあっさりと人々に捕らえられます。それに対して、イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかり耳を切り落としたとあります。この剣を抜いた弟子はヨハネによる福音書ではペトロと名を記されています。ペトロであるとするなら「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と26章35節で言っていたように、ペトロはたしかに勇敢にふるまおうとしたといえます。
しかし、主イエスはこうおっしゃいます。「剣をさやに納めなさい。」主イエスを裏切ったユダに対しては「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われているのに主イエスを守ろうとしたペトロに対しては、しようとしていることを制止されました。
主イエスはさらに言われます。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」これは単なる暴力に対する無抵抗主義、平和主義を唱えられているわけではありません。主イエスにとって重要なのは「聖書の言葉が実現すること」でした。それは先週お読みした箇所にある「御心が行われる」ことでした。救いの成就でした。
つまり、父なる神の御心ではなく、自分の力、自分の剣に頼る者は滅びるのだとおっしゃっています。主イエスは群衆に対してもこうおっしゃっています。「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」
56節に<このとき>、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とあります。最初、剣を抜いたペトロも逃げてしまった。それは多勢に無勢で叶わないと諦めたり、恐れをなして逃げたというよりも、むしろ、「聖書に書いてあることが実現する」とおっしゃる主イエスの言葉や、「預言者たちの書いていたことが実現する」という言葉になにがなんだかわからなくなってしまったからではないでしょうか。ですから、「このとき」弟子たちは逃げて行ったのです。
主イエスが、ユダの裏切りを断罪したり、祭司長たちの不当逮捕を非難しているのであれば、弟子たちは主イエスのために、あるいはもっと闘ったかもしれません。しかし、主イエスはただこのことが「御心がなるため」だとおっしゃった。そのことのゆえに、混乱して、ちりじりに逃げてしまったとも考えられます。
<恐れるから剣をふりまわす>
私たちもまた神の前で剣を振りかざす者です。神に委ねるのではなく、御心を問うのではなく、自らの力を頼りに戦おうとします。私たちは今日のこの場面のように剣や棒を持った人々に取り囲まれることはないかもしれません。しかし、困難なことが起こったとき、私たちは自分の剣を抜いて立ち向かいます。一方で、クリスチャンであれば、まず神に委ねる、御心を問うということが大事だということは、良く良く聞いていることです。でも私たちは、それを知りながら、神の前でやはり自分の剣を振り回すのです。
この場面でペトロと推測される弟子の一人が剣を抜いたことに関して、さきほどその弟子なりに、勇敢に振る舞おうとしたのではないかと申しましたが、彼はむしろ恐れのあまり、剣を振り回したのだと解釈する人もいます。ペトロは恐怖に駆られて剣を振り回した、それも人間の心理としては良くわかることです。
一見、勇敢なようであれ、恐れに取りつかれていたのであれ、私たちは神の力を信じていない時、自分の剣を振り回します。
ところで、わたしの愛唱讃美歌のひとつは讃美歌21の18番です。はじめて教会の扉を開けて礼拝に行くようになって三回目くらい日曜の礼拝に歌われました。当時は当然、毎週どの讃美歌も初めて聞く讃美歌でしたが、その「心を高く上げよ」は印象的でした。特に二番の歌詞を聞いた時、なぜか涙があふれてきました。「霧のようなうれいも、やみのような恐れも、みなうしろに投げすて、こころを高くあげよう。」別にどうということのない歌詞と言えばそうなのですが、なぜかこの歌詞を聞いたとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。最初なんで涙がでるのか自分でもわかりませんでした。ものすごく感動的な歌詞というわけではありません。「霧のようなうれいも、やみのような恐れも、みなうしろに投げすて、こころを高くあげよう。」思い起こしますと、当時、子供が不登校でした。もちろんそのことをとても心配して、いろいろ専門機関に相談したりしていましたが、一方で自分自身の仕事もあり日々忙しく、毎日、ものすごく落ち込んでふさぎこんでいたというわけではありませんでした。やるべきことは多く落ち込んでいる暇はありませんでした。でも、この「心を高く上げよ」の歌詞を聞いたとき、自分が霧のようなうれいや、やみのような恐れを心の中に持っていることに気が付きました。それは単に、子供のことや、自分自身のそのほかの悩み事といった事柄を越えたものでした。私自身のなかに、もやもやと渦をなすように、うれいやおそれがたしかにあった、その自分自身の中のもやもやとしたうれいやおそれにたしかに響き合う言葉だったのです。
でも、当時、私はそれを自分自身の力で、いってみれば自分の剣でなんとかしよう、どうにかしようと何年も何年も頑張ってきていた、そのことに気づきました。でも、それらを皆うしろに投げ捨て心を高く上げよ!つまり神を見上げようと、この歌は言っていました。投げ捨てるなんて言葉はいかにも無造作で無責任なニュアンスがあります。いろいろな問題や責任をしっかりと自分で受け止めて、自分で戦っていくことこそほんとうの大人の姿であると当時私は思っていましたし、それは一般的にも考えられていることです。でも「皆後ろに投げ捨て、心を高く上げよ」とこの歌は言います。
涙を流しながらも、そのときはまだ、投げ捨てることができないから人生はたいへんなんじゃないかという気持ちを持っていました。投げ捨てられたらどんなにいいか。どうして自分の剣を捨てて生きていくことができるのか。ペトロのように負け戦であっても、霧のようなうれいややみのような恐れの中で自分の力で、自分の剣で戦っていくしかないではないか、そういう思いも持っていました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」そうです。たしかに、きりのようなうれいや闇のようなおそれを持ちながら自分の剣を振り回していた私は滅びへの道を歩んでいたのです。
<剣を取らずに戦われたイエス>
一方で、「剣をさやに納める」これはまた神の意志、主イエスの意志でもありました。「お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」そう主イエスはおっしゃっています。かつて主イエスが地上に降誕なさったとき、ルカによる福音書では、羊飼いたちがみていると、天使と天の大軍が賛美をしたことが記されています。お願いすれば、たしかにまた天の大軍は来たでしょう。そして、いま主イエスと弟子たちを取り囲んでいる祭司長や群衆などひとたまりもなくやっつけることはできるでしょう、しかしそれをしない、そう決められたのは父なる神であり、御子イエス・キリストでした。聖書の言葉が実現するために、預言者たちの書いたことが実現するために。神ご自身が、罪人である人間を打たないと決められたのです。御自身の方を向くことなく、ただ自分の虚しい剣を振り回し罪のための滅びへとむかっている人間を、裁くことなく、剣をむけることなく救うと決められたのです。そしてまた主イエスご自身が剣をさやに納めて、これからのちの十字架への戦いへと向かわれるのです。自分の剣で滅びへと向かっている人間を救うために、ご自身が剣をさやに納め、御自身の体を人間の剣やむちへと捧げ、一人の戦いに赴いていかれます。
へんなたとえになりますが、この世のヒーロー映画で、ヒーローが一人で敵に向かっていく場面があります。私は女性ですから、そういうヒーローものを好んでは観ませんけれども、古いところでは、シルベスタースタローンとかシュワルツネガーといった俳優が演じるヒーローが並み居る敵を一人でやっつけるような映画はある種のそう快感があります。しかし、主イエスはそんな恰好のいいヒーローにはおなりになりませんでした。悪い祭司長や、律法学者をぎゃふんと言わせるように叩きのめすヒーローにはなられませんでした。
ただご自身の身を十字架に捧げ、みじめな死をとげられました。罪人として死なれました。自分の剣を振り回そうとして、結局、滅びへと向かっている私たちのために十字架で死んでくださり復活なさいました。主イエスを捕えようと剣や棒をもってやってきた人々のためにも十字架で死んでくださり復活してくださいました。それこそがまことの愛でした。その愛はいまも私たちに注がれています。
私たちは自分の手にある剣の虚しさを気付かない限り、私たちの剣を振り回し続けるのです。その剣の虚しさに気づくのは、神の愛の業を知る時です。私自身が、がんばって剣を奮って戦っていたつもりであった、しかし、本当に働いてくださっていたのは神だった。私を愛して神ご自身が愛の業をなしてくださっていた、そのことに気づく時、私たちがどれほど虚しく自らの剣を振り回していたかに気づくのです。そしてその剣をさやに納めることができるのです。十字架と復活によって示された神の愛によって私たちは憂いやおそれを投げ捨てることができます。そして自らの剣ではなく愛によって生きていく者とされます。