2020年12月20日大阪東教会主日礼拝説教「涙がぬぐわれる時」吉浦玲子
【聖書】
イザヤ書 40章 1~2節
慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
ヨハネの黙示録21章1~4節
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
【説教】
<安売りのグラス>
「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」
国が滅び、遠くバビロンの地に捕囚として連れ去られた人々に預言者イザヤを通して神は語られました。紀元前6世紀のイスラエルの人々に語りかけられた神は、今日も私たちに語りかけておられます。神は慰めてくださるお方なのです。2000年前、慰め主、慰めの主として、慰めてくださる神としてキリストはこの世界にお越しになりました。それがクリスマスの出来事でした。国が滅び、絶望の深い沼のようなところであえいていたイスラエルの人々にも、2020年の現代を生きる私たちにも、この言葉は語られています。
しかし改めてお聞きします。あなたは慰めが必要ですか?
新型コロナのために困窮している飲食関係者をはじめ事業主にとっては、慰めよりなにより現実的な支援が欲しいでしょう。すべてが変わってしまった日常の中で、ストレスを溜め込み、うつうつと過ごす人々には、以前のような人との交わりや活動が必要でしょう。病の人には癒しを、医療関係者には長期的な展望と早急な人的物質的政策が必要です。では、コロナの禍が去り、すべてが元通りになった時、人びとには慰めは要らないのでしょうか?
紀元前6世紀、預言者イザヤを通して神が語りかけられた時、滅んでいた国はのちに再興されました。紀元1世紀、新約聖書の時代、主イエスがお越しなった時代のエルサレムには立派な神殿がたち、ローマの支配下ではありましたが、人々はそれなりの自由を得て生きていました。主イエスの出身地であるガリラヤは自然豊かで、野には美しく花が咲き、湖では魚が獲れ、貧しいながらも人々はつつましく暮らしていました。その新約聖書の時代、主イエスの時代の人々は慰めを必要としていたでしょうか?
私自身を振り返りますと、40代になるまで慰めを必要としてはいなかったと思います。さまざまな苦しみや試練はありましたが、自分で乗り越えなければと思っていました。実際は、もちろん乗り越えられず諦めてしまったこと挫折したことも多々ありましたが、そういったことは自分の責任だ、自分の力不足だ、あるいは運が悪かったと納得して生きてきました。
しかし、生きていけば生きていくほど、気づかざるを得ませんでした。自分の醜さ、弱さ、みじめさと向き合わざるを得ませんでした。当時は罪という言葉は法律的な犯罪としての罪しか知りませんでした。しかし、自分の中にどうしようもない救いようのないものがあることはぼんやりと感じていました。こういう短歌があります。
「明るいところへ出れば傷ばかり安売りのグラスと父といふ男と 辰巳泰子」
俵万智さんが脚光浴びた二年ほどあとに歌壇デビューした女性歌人の歌です。大阪の十三出身の歌人で俵さんより年下でしたが、陰りのある重厚な短歌を作る人でした。私は同じ短歌結社に属していましたので、その才能には息を飲みました。当時、二十歳そこそこでしたが、美貌で、発言にも迫力のある歌人でした。父親を安売りのグラスのように、明るいところで見たら傷ばかりだと揶揄するような歌は、当時、彼女が若かったゆえ作れたとも言えます。お父さんは十三でかまぼこ屋をしていらしたようです。なんだかお父さんがかわいそうにも思えます。やがて歳月が流れ、明るいところでは安売りのグラスのように傷ばかり、この歌を思い出す時、むしろ、これは自分に向かって言われているように感じるようになりました。明るい光の中できらきら輝くのではなく、むしろ傷ばかりが目立ってしまう。普段はそれなりに取り繕っていても、明るいところに出たら、ぼろがでてしまう。そんなふがいない自分と向き合わざるをえない、辰巳さんのお父さんと自分が重なってしまうのです。そして人には隠していてもみじめな傷は年年歳歳増えていくのです。しかし、まあそれが歳を取っていくということかと、なんだか分かったような気にもなっていました。
私が、そんな安売りのグラスのような、ちまちました傷ばかりのような自分に対して、初めて慰めの言葉を聞いたのは教会においてでした。この世のお日様の光に透かしてみればたしかに傷ばかりかもしれない、でも神の光に透かして見る時、それは違った様相を呈するのだということを知りました。神の光に照らされる時、ちまちました傷どころではない、もっと醜い罪の傷やひどく欠けたところが見えてくるのです。しかしまた、同じ神の光によって、その傷が癒され、欠けたところが修復されていくのです。神の光によって癒され回復され、そのことで深く慰められる自分がありました。
<要塞を作ってくださるお方>
ところで、クルースターという神学者はこの慰めという言葉には「要塞化」という意味もあると著書の中で語っています。つまり苦しみの中にあるとき、難攻不落の要塞を作ってくださり、そのなかで神が守ってくださる、それが慰めだというのです。また、クルースターはルターの有名な讃美歌267番「神はわがやぐら」の<やぐら>という言葉は「慰め」の意味を持っているといいます。ですから「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という言葉は、「神はわがやぐら、わが強き盾」と歌われる神ご自身が、苦しみの中にある民のために難攻不落の要塞、やぐらを立てるとおっしゃっているのです。
つまり聖書における慰めというのは単に心情的な同情を示したり、情感的に力づけるということ以上に、神の力の業が表される言葉なのです。英語ではcomfortであり、まさに力を与えるという意味です。倒れて動けなかった人が立ちあがり、心ふさいで希望を失っていた人が希望を持つことができるようになる、その具体的な力が慰めです。
ところで、今日、洗礼式において、わたしは「しっかりしなさい」という言葉を受洗者に向かって呼びかけます。その言葉は、福音書の中にある言葉で、慰めという言葉とは違う単語ですが、元気を出しなさいという意味を持ちます。なぜ元気が出せるのでしょうか?しっかりできるのでしょうか?それは私たちの罪が赦されるからです。安売りのグラスのように無数の傷がついていた、罪の傷がついていた、しかし、それを神がぬぐいとってくださるからです。ガラスについた傷は通常は消えません。しかし、神が新しくしてくださるのです。私たちは真新しい、神に造られた美しいグラスとされるのです。神はそんな私たちにさらに要塞を作りやぐらをたて、内側から元気にしてくださる、しっかりさせてくださるお方なのです。
そして、その難攻不落の要塞を作るためにこの地上に来られたのが主イエスです。主イエス到来以前の人間は、いわば、要塞もやぐらもない、無防備な状態で、苦しみながら生きていたのです。元気を出せるわけがありません。しっかりできるわけがないのです。人生の風雪の中、無数の傷を受けながら生きるしかありませんでした。なにより大きな傷である罪をどうすることもできなかった。しかし、無防備に罪の奴隷として苦役にあえいでいた人間にたしかな救いが与えられました。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」そうイザヤは預言します。たしかに、私たちの苦役の時は過ぎ去りました。罪は取り去られました。
<生きている時も死ぬ時も>
信仰入門のための信仰問答のひとつであるハイデルベルク信仰問答は、改革長老教会のための信仰問答でしたが、教派を越えて多くの人々に親しまれている信仰問答です。そのたいへん有名な問1は「生きる時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」です。その答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」です。答えはさらに続くのですが、これはとても美しい問答です。私たちには慰めが与えられています。それは生きるときだけではないのです。死ぬ時もそうなのです。永遠の慰めが与えられています。もちろん今、人生における社会における具体的な課題への対処、たとえばコロナ対策は必要です。しかし、コロナの問題が解決できても、さまざまな日々の問題を乗り越えられたとしても、この世界にはやはり人間を傷つける嵐があります。そして私たち自身も罪から逃れることはできません。しかし神の慰めは永遠の慰めです。世界がどのようになろうとも、私がどれほど愚かでみじめであろうとも、神の慰めは変わりません。私たちは自分で自分の罪の贖いをするのではありません。真実な救い主イエス・キリストが到来してくださり償い贖ってくださいました。そこに慰めがあります。
贖いという言葉はもともと借金を負って返済できず身売りして奴隷となった人がお金によって買い戻され自由にされるという意味です。私たちはキリストによって買い取られたのです。ですから私たちはキリストのものなのです。「体も魂も、生きる時も死ぬ時も、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの」なのです。私たちはもうすでに自分のものではないのです。キリストのものなのです。自分が自分のものではなく、キリストのものであるということは不自由なことでしょうか?そうではありません。人間は自分のものであっても、ときどき粗末な扱いをすることがあります。子供が自分のおもちゃに飽きて雑に扱ったり、大人だって自分のものをだいじにしないことがあります。しかし、真実な救い主である主イエスは、ご自分のものに対して永遠の愛を注ぎ、守ってくださいます。私たちのために要塞を作り、やぐらを作り、生きる時も死ぬ時も守ってくださいます。
今日は礼拝の最後に讃美歌109番「きよしこの夜」を歌います。この曲はとても有名で、クリスチャンになる前、子供のころから私も歌っていました。子供心に、美しく静かな聖なる夜に、貴いかわいらしい赤ちゃんが眠っている、そんなイメージを持っていました。この世の多くの人々もそうでしょう。イエス・キリストという名前は知っていても、それがどういう人なのか良く知らない。ただ何となくきれいな聖なる夜、静かな夜というイメージを持っておられることでしょう。しかしこの静かな夜は、やがてこのみどりごが成長し、私たちのために十字架において救いを成就してくださること、そして永遠の慰めを与えてくださることのさきぶれです。聖なる夜の静けさはキリストの十字架での死を秘めた静けさでもあります。私たちに、生きる時も死ぬ時も慰めがあたえられることゆえの平和と静けさでもあります。
考えれば不思議なことです。私たちは今、かつて飼い葉桶の小さな貧しい赤ん坊としてこの世界に来てくださったお方のものとされています。生きる時も死ぬ時も、共にいてくださる神のものとされています。クリスマスはそのことを祝います。そしてまたその神は再び来られます。黙示録に言葉がありました。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。ふたたび来られるキリストは、その光の中で、永遠から永遠に渡って、私たちの涙をぬぐい、完全な慰めを与えてくださいます。今、社会全体が闇のような世界かもしれません。しかしなお、私たちは力を与えられ希望を与えれ、神の明るい光の中を貴い器とされて歩んで言います。