大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

イザヤ書第40章1~2節

2020-12-20 16:19:50 | イザヤ書

202012月20日大阪東教会主日礼拝説教「涙がぬぐわれる時」吉浦玲子 

【聖書】 

イザヤ書 40章 1~2節 

慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。 

エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。 

 

ヨハネの黙示録21章1~4節 

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 

 

 

【説教】 

<安売りのグラス> 

 「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」 

 国が滅び、遠くバビロンの地に捕囚として連れ去られた人々に預言者イザヤを通して神は語られました。紀元前6世紀のイスラエルの人々に語りかけられた神は、今日も私たちに語りかけておられます。神は慰めてくださるお方なのです。2000年前、慰め主、慰めの主として、慰めてくださる神としてキリストはこの世界にお越しになりました。それがクリスマスの出来事でした。国が滅び、絶望の深い沼のようなところであえいていたイスラエルの人々にも、2020年の現代を生きる私たちにも、この言葉は語られています。 

 しかし改めてお聞きします。あなたは慰めが必要ですか? 

 新型コロナのために困窮している飲食関係者をはじめ事業主にとっては、慰めよりなにより現実的な支援が欲しいでしょう。すべてが変わってしまった日常の中で、ストレスを溜め込み、うつうつと過ごす人々には、以前のような人との交わりや活動が必要でしょう。病の人には癒しを、医療関係者には長期的な展望と早急な人的物質的政策が必要です。では、コロナの禍が去り、すべてが元通りになった時、人びとには慰めは要らないのでしょうか? 

 紀元前6世紀、預言者イザヤを通して神が語りかけられた時、滅んでいた国はのちに再興されました。紀元1世紀、新約聖書の時代、主イエスがお越しなった時代のエルサレムには立派な神殿がたち、ローマの支配下ではありましたが、人々はそれなりの自由を得て生きていました。主イエスの出身地であるガリラヤは自然豊かで、野には美しく花が咲き、湖では魚が獲れ、貧しいながらも人々はつつましく暮らしていました。その新約聖書の時代、主イエスの時代の人々は慰めを必要としていたでしょうか? 

 私自身を振り返りますと、40代になるまで慰めを必要としてはいなかったと思います。さまざまな苦しみや試練はありましたが、自分で乗り越えなければと思っていました。実際は、もちろん乗り越えられず諦めてしまったこと挫折したことも多々ありましたが、そういったことは自分の責任だ、自分の力不足だ、あるいは運が悪かったと納得して生きてきました。 

 しかし、生きていけば生きていくほど、気づかざるを得ませんでした。自分の醜さ、弱さ、みじめさと向き合わざるを得ませんでした。当時は罪という言葉は法律的な犯罪としての罪しか知りませんでした。しかし、自分の中にどうしようもない救いようのないものがあることはぼんやりと感じていました。こういう短歌があります。 

「明るいところへ出れば傷ばかり安売りのグラスと父といふ男と 辰巳泰子」   

 俵万智さんが脚光浴びた二年ほどあとに歌壇デビューした女性歌人の歌です。大阪の十三出身の歌人で俵さんより年下でしたが、陰りのある重厚な短歌を作る人でした。私は同じ短歌結社に属していましたので、その才能には息を飲みました。当時、二十歳そこそこでしたが、美貌で、発言にも迫力のある歌人でした。父親を安売りのグラスのように、明るいところで見たら傷ばかりだと揶揄するような歌は、当時、彼女が若かったゆえ作れたとも言えます。お父さんは十三でかまぼこ屋をしていらしたようです。なんだかお父さんがかわいそうにも思えます。やがて歳月が流れ、明るいところでは安売りのグラスのように傷ばかり、この歌を思い出す時、むしろ、これは自分に向かって言われているように感じるようになりました。明るい光の中できらきら輝くのではなく、むしろ傷ばかりが目立ってしまう。普段はそれなりに取り繕っていても、明るいところに出たら、ぼろがでてしまう。そんなふがいない自分と向き合わざるをえない、辰巳さんのお父さんと自分が重なってしまうのです。そして人には隠していてもみじめな傷は年年歳歳増えていくのです。しかし、まあそれが歳を取っていくということかと、なんだか分かったような気にもなっていました。 

 私が、そんな安売りのグラスのような、ちまちました傷ばかりのような自分に対して、初めて慰めの言葉を聞いたのは教会においてでした。この世のお日様の光に透かしてみればたしかに傷ばかりかもしれない、でも神の光に透かして見る時、それは違った様相を呈するのだということを知りました。神の光に照らされる時、ちまちました傷どころではない、もっと醜い罪の傷やひどく欠けたところが見えてくるのです。しかしまた、同じ神の光によって、その傷が癒され、欠けたところが修復されていくのです。神の光によって癒され回復され、そのことで深く慰められる自分がありました。 

<要塞を作ってくださるお方> 

 ところで、クルースターという神学者はこの慰めという言葉には「要塞化」という意味もあると著書の中で語っています。つまり苦しみの中にあるとき、難攻不落の要塞を作ってくださり、そのなかで神が守ってくださる、それが慰めだというのです。また、クルースターはルターの有名な讃美歌267番「神はわがやぐら」の<やぐら>という言葉は「慰め」の意味を持っているといいます。ですから「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という言葉は、「神はわがやぐら、わが強き盾」と歌われる神ご自身が、苦しみの中にある民のために難攻不落の要塞、やぐらを立てるとおっしゃっているのです。 

 つまり聖書における慰めというのは単に心情的な同情を示したり、情感的に力づけるということ以上に、神の力の業が表される言葉なのです。英語ではcomfortであり、まさに力を与えるという意味です。倒れて動けなかった人が立ちあがり、心ふさいで希望を失っていた人が希望を持つことができるようになる、その具体的な力が慰めです。 

 ところで、今日、洗礼式において、わたしは「しっかりしなさい」という言葉を受洗者に向かって呼びかけます。その言葉は、福音書の中にある言葉で、慰めという言葉とは違う単語ですが、元気を出しなさいという意味を持ちます。なぜ元気が出せるのでしょうか?しっかりできるのでしょうか?それは私たちの罪が赦されるからです。安売りのグラスのように無数の傷がついていた、罪の傷がついていた、しかし、それを神がぬぐいとってくださるからです。ガラスについた傷は通常は消えません。しかし、神が新しくしてくださるのです。私たちは真新しい、神に造られた美しいグラスとされるのです。神はそんな私たちにさらに要塞を作りやぐらをたて、内側から元気にしてくださる、しっかりさせてくださるお方なのです。 

 そして、その難攻不落の要塞を作るためにこの地上に来られたのが主イエスです。主イエス到来以前の人間は、いわば、要塞もやぐらもない、無防備な状態で、苦しみながら生きていたのです。元気を出せるわけがありません。しっかりできるわけがないのです。人生の風雪の中、無数の傷を受けながら生きるしかありませんでした。なにより大きな傷である罪をどうすることもできなかった。しかし、無防備に罪の奴隷として苦役にあえいでいた人間にたしかな救いが与えられました。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」そうイザヤは預言します。たしかに、私たちの苦役の時は過ぎ去りました。罪は取り去られました。 

<生きている時も死ぬ時も> 

 信仰入門のための信仰問答のひとつであるハイデルベルク信仰問答は、改革長老教会のための信仰問答でしたが、教派を越えて多くの人々に親しまれている信仰問答です。そのたいへん有名な問1は「生きる時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」です。その答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」です。答えはさらに続くのですが、これはとても美しい問答です。私たちには慰めが与えられています。それは生きるときだけではないのです。死ぬ時もそうなのです。永遠の慰めが与えられています。もちろん今、人生における社会における具体的な課題への対処、たとえばコロナ対策は必要です。しかし、コロナの問題が解決できても、さまざまな日々の問題を乗り越えられたとしても、この世界にはやはり人間を傷つける嵐があります。そして私たち自身も罪から逃れることはできません。しかし神の慰めは永遠の慰めです。世界がどのようになろうとも、私がどれほど愚かでみじめであろうとも、神の慰めは変わりません。私たちは自分で自分の罪の贖いをするのではありません。真実な救い主イエス・キリストが到来してくださり償い贖ってくださいました。そこに慰めがあります。 

 贖いという言葉はもともと借金を負って返済できず身売りして奴隷となった人がお金によって買い戻され自由にされるという意味です。私たちはキリストによって買い取られたのです。ですから私たちはキリストのものなのです。「体も魂も、生きる時も死ぬ時も、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの」なのです。私たちはもうすでに自分のものではないのです。キリストのものなのです。自分が自分のものではなく、キリストのものであるということは不自由なことでしょうか?そうではありません。人間は自分のものであっても、ときどき粗末な扱いをすることがあります。子供が自分のおもちゃに飽きて雑に扱ったり、大人だって自分のものをだいじにしないことがあります。しかし、真実な救い主である主イエスは、ご自分のものに対して永遠の愛を注ぎ、守ってくださいます。私たちのために要塞を作り、やぐらを作り、生きる時も死ぬ時も守ってくださいます。 

 今日は礼拝の最後に讃美歌109番「きよしこの夜」を歌います。この曲はとても有名で、クリスチャンになる前、子供のころから私も歌っていました。子供心に、美しく静かな聖なる夜に、貴いかわいらしい赤ちゃんが眠っている、そんなイメージを持っていました。この世の多くの人々もそうでしょう。イエス・キリストという名前は知っていても、それがどういう人なのか良く知らない。ただ何となくきれいな聖なる夜、静かな夜というイメージを持っておられることでしょう。しかしこの静かな夜は、やがてこのみどりごが成長し、私たちのために十字架において救いを成就してくださること、そして永遠の慰めを与えてくださることのさきぶれです。聖なる夜の静けさはキリストの十字架での死を秘めた静けさでもあります。私たちに、生きる時も死ぬ時も慰めがあたえられることゆえの平和と静けさでもあります。 

 考えれば不思議なことです。私たちは今、かつて飼い葉桶の小さな貧しい赤ん坊としてこの世界に来てくださったお方のものとされています。生きる時も死ぬ時も、共にいてくださる神のものとされています。クリスマスはそのことを祝います。そしてまたその神は再び来られます。黙示録に言葉がありました。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。ふたたび来られるキリストは、その光の中で、永遠から永遠に渡って、私たちの涙をぬぐい、完全な慰めを与えてくださいます。今、社会全体が闇のような世界かもしれません。しかしなお、私たちは力を与えられ希望を与えれ、神の明るい光の中を貴い器とされて歩んで言います。 

 

 

 

  

  

  


イザヤ書11章1~10節

2017-08-07 19:00:00 | イザヤ書

2017年8月6日 主日礼拝(平和主日)説教 「平和を実現する人」 吉浦玲子

<この世の「平和」>

 イザヤ書の11章1節に出て来ますエッサイはダビデ王の父親です。クリスマスのころに歌われる讃美歌にもその名前は出て来ます。エッサイの株からひとつの芽が萌えいでて、さらにその根からひとつの若枝が育った、その若枝こそがイエス・キリストなのだとイザヤは語ります。もちろん旧約聖書の時代ですから、「イエス」という名前は直接出て来ません。しかし、この箇所は、旧約聖書の中でもイエス・キリスト預言がされている箇所として、たいへん有名なものの一つです。この預言は、約七百年の時を隔てて、成就します。

 この預言が為された時代は、アッシリアという大国が周辺の国々を牛耳っていました。イスラエルは北王国と南王国に分裂をし、おそらくこの預言の時期には北王国はアッシリアによって滅んでいたと考えられます。南王国はかろうじてアッシリアに従属的な位置に甘んじて、その国家としての体裁を保っていました。イスラエルだけでなく、当時、アッシリアの圧倒的な軍事力によって、周辺国家はおとなしくせざるを得なかった、アッシリアの強大さのゆえに、その地域の均衡が保たれていたともいえます。つまり、言ってみれば、当時の世界は「アッシリアの平和」ともいえる皮肉な状態でありました。アッシリアという強大な国の支配によって、見かけ上、世界に平和が保たれているように見えた時代です。「アッシリアの平和」という言葉はおそらく「ローマの平和」という言葉を応用して語られているのでしょう。主イエスの時代は、のちの歴史家によって「パクス・ロマーナ」つまり「ローマの平和」と言われていました。だいたい主イエスのお生まれになる少し前から2世紀後半までの約200年くらいのことです。「パクス・ロマーナ」とはローマ帝国がもっとも強大で安定していた時代のことでした。ローマに支配されていた地域はローマの強大さゆえにはむかうことができず、一見、当時の世界は安定していたのです。支配されていた地域の人々は決して幸せではなかったでしょう。主イエスの時代のイスラエルもローマの支配から解放されることを望んでいました。そんな「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」でしたが、やがて徐々にローマ帝国の力が弱まり出すと今度はあちこちで紛争が起こりだしました。「パクス・ロマーナ」が壊れて行ったのです。大国の強大さのゆえに、一見、国際間の秩序が保たれている、しかし、大国の力が衰えるとバランスが崩れ、あちこちで紛争が起き、一触即発の状態となる、そういうことはいつの時代にもありました。20世紀の米ソ冷戦の時代もそうであったかもしれません。現代においてもそうでしょう。米国やロシア、中国といった諸国がそれぞれにやぶにらみの状態でかろうじて均衡を保っているといえます。もっとも現代は、絶え間なく紛争やテロはあり、多くの人々が犠牲になっている現実はあります。ですから「平和」という状況とは程遠いともいえます。

 さて、イザヤ書の時代、「アッシリアの平和」の中で、もちろん、イスラエルの民族感情としては、アッシリアに従属することは本意ではありませんでした。当時のイスラエルの中には、他国と軍事同盟をむすび、アッシリアへ対抗しようという考えもありました。それはいかにも当然なことであります。国家が国家として、民族が民族として生き延びていくために、政治的政策、外交的方策、さらには軍事的手段を取ろうとすること自体は当然のことです。

<預言者の語る「平和」>

 しかし、イザヤは<アッシリアの平和>と言える時代にあって、また、アッシリアに対抗しようという<反アッシリアの平和>をめざす人々の中にあって、人々が考えるのとはまったく異なる平和を語った人でありました。神の造り出す平和を語りました。まず、今日の聖書箇所の冒頭、「エッサイの株から」とあります。新共同訳ではエッサイの株と訳されていますが、多くの翻訳では「切り株」と訳されています。つまりエッサイの株はいったん切り落とされることをイザヤは語っているのです。つまり若枝が育つその前に、裁きがあることをイザヤは語っています。

 いまはまだ国家として命脈を保っているイスラエルが切り落とされる日が来る、そのことをイザヤは語っています。実際、かつて栄華を誇ったダビデ王そしてソロモン王から続いたこの国は廃墟と化します。しかしなお、イスラエルで最も大いなる王とされたダビデの子孫から平和の王が生まれる、それはダビデの父のエッサイの切り株から生まれるのだと言います。切り落とされた株から小さな芽が萌え出でる、とても美しい比喩です。しかし、芽ですから、ほんとうに小さなものです。芽が出たことを気づかれることもないでしょう。その芽が育ち、根が広がっていく、根ですから、土の中にあり、その姿は人間の目には見えません。その肉眼では確認できない根から、やがて出てくる若枝が主イエスであるとイザヤは語ります。そのイエスこそが平和の王であるのだと語ります。イエスが神の平和を作り出すのだと語ります。

さらに時代をくだって、かろうじて存続していた南王国も滅び、生き残った人々もバビロン捕囚としてバビロニアへ連れて行かれるような時代背景の中で預言をした預言者にエレミヤがいます。エレミヤも周囲の人々と異なる平和を目指した点において同様でした。エレミヤの呼びかける平和は、当時の敵のバビロンに投降して、捕囚となってバビロンに行くことでした。エルサレムは包囲され、人々は闘っていました、国を挙げて皆が命がけで戦っているその状況の中で、戦うな捕虜になれとエレミヤは語りました。当然、人々は聞く耳は持ちません。すぐ目の前に敵がいるその戦争状態の中で、戦争を否定するような人間はその国家にとって、また共同体にとって、言ってみれば敵に等しいわけです。当然、エレミヤの言葉に人は耳を貸しませんでしたが、結果的には、エレミヤの預言通りになったのです。しかし、エレミヤ自身、単に、捕囚になって命を長らえることで神の平和が終わるとは考えていませんでした。イザヤと同じく、やがてくる神の平和をエレミヤもまた語ったのです。ふたたび新しく神のもとに皆が集い神を賛美するときがくる、その神の究極の平和をエレミヤは語りました。その究極のビジョンがあったからこそ、ひととき、バビロン捕囚という試練をも甘んじて受けることができるとエレミヤは考えていたのです。バビロン捕囚はまさに今日の聖書箇所で語られているエッサイの株が切り取られた時代のことでした。

<真の平和の王>

 その切り株の根から出た主イエスはまことの平和の王となられます。「そのうえに主の霊がとどまる」とあります。主イエスはまさに神の霊を受けて王となられます。まことの知恵を持ったお方となります。その知恵の根源はなにより「神を畏れる」ことにあります。神を畏れ、正しい裁きを行う王であります。5節までの平和の王、弱い人貧しい人を助ける主イエスの姿には私たちは心慰められます。

 しかし、6節から語られる、その王の造り出す平和は、私たちの目からは、いかにもおとぎ話のようなものに見えます。<狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す>このようなことは現実にはありえないことです。<子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く>子牛といっても大きいものですから、小さい子供にはとうてい導けません。ましてや若獅子などと子供を一緒になどできません。ありえないユートピアのような世界です。

 そもそも、6節からの世界は、創世記で語られた天地創造の時代と同様なものとして世界が造り直されることを現しています。そもそも神は天地創造において、この世界を良いものとして造られました。創世記の第1章に創造されたその世界は「見よ、それは極めて良かった」と記されています。その極めて良かった世界が壊れたのは罪が世界に入って来たからです。きわめて良かった世界は罪のために壊れてしまったのです。しかし、ふたたび、きわめて良い世界として、この世界が造り直される、その再び造り直された世界をイザヤは今日の聖書箇所で語っています。そもそも、狼と小羊が共に宿ることのできなくなったのは、ノアの時代の大洪水のあとからでした。天地創造の最初の時代、実は動物はみな、草食だったと聖書では語られています。しかし、ノアの時代の洪水ののち、神は動物が動物の肉を食べることをゆるされました。その時代から、動物同士が殺し合いをする世界となったのです。動物の血が流される世界となったのです。それは神が罪の世界を忍耐されることを決意された、その決意のなかで、ひととき赦される流血でした。

 しかし、その動物の血が流される世界がやがて、初めの時のように造り替えられる。狼と小羊が共に宿るようになる、これはいま壮年婦人会で読んでいるヨハネの黙示録で語られている終わりの日のことでもあります。

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 では私たちは、その終わりの日まで、狼と小羊が共に宿るその日まで、この暗い、平和のない世界で忍耐をしないといけないのでしょうか?それはたしかに半分はそうです。私たちは、この罪によって壊れた世界で、戦争に怯え、不条理に耐えつつ、菜食主義者でなければ、他の動物の命をいただきながら生きていきます。

 しかし、エッサイの若枝たるキリストはすでに来られたのです。2000年前に。しかし、この2000年間、おびただしい悲惨がこの世界にありました。世界大戦も、原爆も、テロも、原発の事故もありました。ホロコーストもありました。若枝たるキリスト到来ののちも何一つ世界は変わっていない、いやむしろ時代が進めば進むほど、もっと悪くなっているのではないか、そのような現実があります。しかし、それは神の現実でもあります。終わりの日へと、確実に向かう神の現実がこの世界に及んでいるということです。終わりの日は最後の裁きの日です。しかし、それは破滅の日ではありません。神が再び世界を完全に造り直される時です。その時の前に、世界には苦難が満ちていくのです。それはヨハネの黙示録に語られていることです。世界に、そして私たちの日々にも苦難、困難が満ちていきます。信仰の目で見る時、ある面、世界には一層の苦難が満ちているのです。

 しかし、一方で、信仰の目で見る時、すでにイザヤの言う平和は実現しているのです。暗い世界の中に、たしかに、若枝たるキリストの平和は芽生えているのです。その平和は人間が造るのではありません。神が作り出される平和です。平和の主イエス・キリストの力による平和です。それはこの世の力とは異なる力です。平和の主であるキリストは「敵を愛せ」とおっしゃいました。これはクリスチャンでなくても知っている有名な言葉です。そしてクリスチャンであれノンクリスチャンであれ、これがとても難しいことであることを知っています。しかしこの言葉は崇高な理念を語った言葉ではありまえん。難しいかもしれないが、がんばって実践すべき努力項目でもありません。すでにキリストによって実現されたことなのです。そもそも人間は罪によって神の敵となっていました。その神の敵である人間を愛された方がイエス・キリストでした。みずからを十字架につける人々をも愛したお方でした。その愛は、いま、私たちにも注がれています。けっして敵を愛することのできない、いや、味方ですら十全には愛することのできない、愛において無力な私たちの上になお平和の主であるキリストの力はすでに及んでいます。そのキリストの愛のゆえに平和の奇跡はいまこのときの地上においても起きるのです。

 アメリカの黒人差別の歴史の中で、公民権運動のリーダーであったキング牧師は、その運動の日々、絶え間ない脅迫を受けていました。自分や家族の命が奪われる危険を覚えながら、なお、神の奇跡を信じ歩んだ人でした。非暴力を貫き、敵であった白人層からも共感を得て、支持を取り込みつつ歩んだ方でした。しかし、いよいよ黒人の権利が守られる公民権法が制定される前夜、キング牧師の置かれた状況はけっして良いものではありませんでした。むしろ運動が頓挫しそうな意気消沈するような状況でした。しかし、公民権法は制定されました。それはキング牧師の見た奇跡でした。そのキング牧須はその後、暗殺される直前の演説でこのように語っています。

<…前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。皆さんと同じように、私も長生きがしたい。長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。>これは出エジプトの民を率いて40年旅をしてきたモーセが、最晩年、神から約束の地に入ることをゆるされず、しかし、ネボ山の上から約束の地を見せていただいたと記されている申命記を下敷きにした言葉です。キング牧師は、道の途中で暗殺をされました。モーセのように自らは約束の地へはいることはできなかったといえます。しかし、彼はそれを見たのだと暗殺の前夜語ったのです。キング牧師は約束の地を、そして狼と小羊が共に宿るその日を信仰によって見ていた方でした。その終わりの日のビジョンから突き動かされた方であったといえます。平和の主キリストの力によって突き動かされた方でした。人間の目から見たらキング牧師は道の途上で倒れた方かもしれません。しかし、キング牧師を通じて働いたキリストの力はこの地上に平和の奇跡を起こしたのです。

 私たちにもすでに平和の主キリストの力は及んでいます。愛において無力であるはずの私たちもまたキリストによって私たちの日々に平和を造りだす者とされます。この世へと愛を注ぎだす者とされます。


2014年7月6日 マタイによる福音書5章4節

2014-07-09 14:26:46 | イザヤ書

大阪東教会 2014年7月6日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章4節
イザヤ書25章6~10節
「涙はぬぐわれる」  吉浦玲子伝道師

 私は、現代短歌を書いています。57577です。書いていました、というのが正確かもしれません。短歌といえば、俵万智さんのサラダ記念日以降、短歌のポップな面というか、元気で明るい側面も照らしだされていますが、基本的に明治以降の現代短歌は「悲しみの器」と言われます。同じ日本の伝統詩型であります俳句の575は、ある種、言葉のアクロバットと言いますか、言葉が凝縮されていまして、切れが要求されます。が、少し長い短歌は、良くも悪くも人間の感情・情動というのが入りやすいのです。そこに入ってくる感情というのは基本的には「悲しみ」なのです。一見、明るい短歌であっても、そこにはやはり人間の悲劇や世界の喪失感みたいなものが盛られていることが多いのです。そんな短歌の二大絶唱と言いますと、挽歌と相聞です。挽歌、死者を悼む歌と、相聞、恋愛の歌ということになります。恋愛の歌も、うまくいっててハッピーというより、別れやうまくいかないゆき違いのような心理を歌った者の方が人の心に響きやすい傾向があります。つまり短歌という器は悲しみと響き合いやすい生理を持っているのです。そしてその生理は、日本人的な情感と非常によく合うのです。
 「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」
 今日の聖書箇所にも悲しみが出てきます。
 私たちの日々にはいうまでもなく、様々な悲しみがあります。取り組んでいたことの挫折による悲しみ。失ってしまった若さや可能性を思う時の悲しみ。信頼していた人からの裏切り、あるいは人から理解されないことの悲しみ。人との別れ。もっとも大きな別れは死による別れです。短歌になるような出来事というのは身の回りにたくさんあります。もっとも悲しみがあまりに大きすぎると言葉にもできない、一種の失語症のような状態になる、そのようなこともあります。
 私は数年前、自分の母親が認知症になってしまった時、本当に悲しかった。身内の方のことで、御経験された方もおられると思いますが。私の母は、その後、召されました。しかし、今振り返って考えましても、その召された時も悲しかったですが、認知症になった母と対した時の方が悲しみが大きかった。前にもお話しさせていただきましたが、私は母とあまり仲が良くなかった、いつか和解したかった。その和解の前に、母は認知症になってしまった。二度とこの世界で母と意志を疎通させること、気持ちを通じさせることができなくなってしまった、そのときのショックはとても大きかったです。人間である以上、いつかこの世界での別れはあります。しかしせめてこの世界で和解をしたかった。それが適わなかった悲しみというのは今でも癒えません。
 詩編56:9に「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」このような言葉があります。この詩のように、わたしたちの人生には嘆き悲しみ、神に訴える日々があります。<あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください>という言葉は、けっしてセンチメンタルな上っ面の言葉ではないことを、悲しみを経験してきた人はわかると思います。日本に限らず、また時代に関わらず、人々は多く悲しみ嘆いてきたのです。
 一方で詩編はおさめられている個々の詩はさまざまな時代に作られて伝えられてきたものであろうと思われますが、詩編という書物として編集されたのはイスラエルが滅んだあとバビロン捕囚を経たあとであろうと言われています。ですから詩編の詩の悲しみには詩の作者の悲しみと同時に、詩編を編集した人の悲しみ、つまり国家滅亡という国家レヴェルの悲しみも二重になっていると言えます。
 そのような悲しみがあるのなか、しかし、今日の聖書箇所では、その悲しむ人々は幸いであると言っています。なぜならば、その人々は慰められるからだ、というのです。
 でも私たちの悲しむ悲しみというものは、すべてが慰められるものでしょうか?たとえばヨブ記という書物の中でヨブは、子供を全員を失います。その後、神によって新しく子供たちを与えられるのですが、失った子供の倍の数の子供を与えられたからといって、失った子供のことが忘れられるでしょうか。悲しみをすっかり忘れ去ってしまうことができるでしょうか。それは、できません。
 失ったものの代わりに別のもので補うことによって癒されるような悲しみばかりがこの世界にあるわけではありません。ある程度、癒されても、時々、胸の底に疼くような悲しみがあるのです。
 ところで、この聖書箇所の慰められる、という言葉は未来を指しているのです。先週、読みました「貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」というときの天の国はその人たちの者である、という言葉は現在形です。
 そう考えます時、今日の聖書箇所は、私たちはすでに天の国にいる、しかしながら悲しみがある、その悲しみの中にありながら私たちは祝福されている、将来においてその悲しみが完全に慰められるから、と読むことができます。
 なんだ、いま慰められないのか、とがっかりされるかもしれません。
 信仰を持てば、すぐに元気いっぱいにしてもらえるということにはならないようです。しかし、なお、幸いな者とされているのです。ある方がおっしゃいました、「信仰を持つとは安心して悩めるようになること、安心して悲しめるようになること」と。
 私たちはすでに天の国の者、つまり神の支配のもとにある者、神と共に生きるものとされながら、なおふたたび主イエスキリストが来られる日まで、この世界は完全ではありません。その世界の中にあって、私たちは罪の中に生きていきます。わたしたちの悲しみは根源的にいえば、その罪から発したものでもあります。最初に短歌の話をしました。短歌で描かれるように、日本人は、情感的に物事をとらえるところがあります。それ自体は悪いことではありません。しかし、聖書に聞く時、私たちはもう一度、悲しみというものを、聖書の言葉として、神の視点から聞く必要があります。神の視点で見る時。悲しみというのは罪と関連があるのです。この世界にはアダムとイブ以降、厳然と罪がありました。神から離れる罪。神と無関係に生きる罪。そのためにこの世界は壊れてしまいました。いまなお私たちも罪を犯します。そのように、この世界にあって、罪があり、その対価として死があります。別れがあります。失うものがあるのです。罪の表れとして人間の裏切りや無理解があるのです。
ただここで、間違っていただきたくないのは、なにか悲しむべきことがあるのは、つまり不幸なことがあるのは、その人が直接的に罪を犯したから罰があたったというわけではありません。良く大きな自然災害が起こった時、天の裁きだといったりする人がありますが、災害で亡くなった方が罪の罰で亡くなったわけではもちろんありません。
ただし、わたしたちの悲しみということを考える時、根源的には、この世界が罪によって壊れていること、私たち自身も罪の中にあることを考えなくてはいけません。
そのような世界の中に、私たちの悲しみがあります。
聖書に聞く時、悲しみというのは、さきほど言いましたように、人間の悲しみは人間の罪ということと切り離せないということです。
 そしてこの悲しみをもっとも悲しまれた方は、主イエス・キリストです。主イエスは、罪とはまったく関係のない方でした。しかしなお、まつぶさに悲しみを悲しまれた方でありました。罪のない主イエスが、もっとも極悪な罪を犯した者がかかる十字架刑にかかられました。私たちの身代わりとして罪人となられました。かつて主イエスをほめ、ヒーローとして持ちあげていた人々は手のひらを返したように去りました。寝食を共にした弟子たちにも捨てられました。鞭うたれ、あざけられ、孤独の中で死に向かわれました。それは壮絶な悲しみであったと思います。
 その壮絶な悲しみを悲しまれた方が、よみがえられました。ここに希望があります。
 さきほど、慰められるのは未来形である、といいました。しかし、その未来は確実な未来です。主イエスが十字架においてすでに私たちのこの世界の罪をあがなってくださいました。いま、肉の目で見る時、なお世界にも私たちにも罪があります、死があります。悲しみがあります。しかし、それはやがて完全に回復されるものなのです。完全な回復です。中途半端なものではありません。
 ところで、3.11の大震災のあと、さまざまな支援活動がありましたが、そのなかに、「思い出の回復」というものがありました。これは津波の被害にあい、汚れてしまった写真の洗浄をし、もとのように見える状態にする働きだそうです、写真をスキャンしてパソコンにデジタルデータとして取り込んで、できるかぎり、データを調整してもとの形に戻すということのするようです。物質的な回復だけでなく人間の心に寄り添った、大事な思い出を修復するという、被災された方を根底から支えるボランティアだと思います。
 そのような回復作業が私たちにも起こります。それも写真だけではなく、私たちのすべての悲しみからの回復作業、それがやがて私たちのにも起こるのです。
 私たちのすべての悲しみが慰められる、そのようなときが来るのです。それはたしかに未来のことではありますが、天の国がすでに成就している、そのことを考える時、自分たちとは関係のない、遠いことではもうないのです。
 電気屋さんに新しいテレビを注文して、それが明日入荷することになっている、明日配達に来るとします。しかし、ひょっとしたらメーカーの生産ラインで突然トラブルがおこるかもしれません。配送業者の間違いがあるかもしれない、本当に明日配達があるかどうか100%は安心できません。しかし、主イエスのおっしゃる未来は、必ず来る未来です。私たちの上に必ず起こる未来です。私たちの慰めはすでに確実に天の父に予約され、まちがいなく私たちに届けられます。だから私たちはいま、安心して悲しむことができるのです。
 その未来に必ず起こる慰めとはどのようなものでしょうか。
 慰めとはギリシャ語でパラクレーシス、英語ではコンフォートと言います。日本人は慰めという言葉を聞くとあまりいい印象をもちません。表面的に撫でさするような同情のように感じてしまう場合が多いようです。しかし、comfortは、もっと積極的な意味です。Comという言葉とfortという言葉に分けられ、comは十分にということです。Fortは力づけるということです。つまり十分に力づけるという言葉になります。表面的な同情といったこととはまったく違います。
 またギリシャ語でパラクレーシスという時、さまざまな意味がありますが、いまいいましたように力づけるということと同時に、「傍らに呼ぶ」という意味もあります。
 つまり私たちは呼ばれるのです。もちろんイエスさまからです。
 主イエスが私たちをすぐそばに呼んでくださる、そして顔と顔を合わせて私たちの涙をぬぐってくださるのです。今は目に見えない主イエスが、私たちの目から手ずから涙をぬぐってくださる、すべての悲しみから回復させてくださるのです。
 今日、もう一か所お読みしました、イザヤ書の場面があります。これはイザヤの描いた、主の回復の業の様子です。ここにはその回復の様子を神が開かれる祝宴のイメージとして描かれています。良い肉と古い酒が供されるとあります。これは脂肪ののった最上級の肉とおりのある上質のワインということです。最高のものが与えられるということです。7節に「すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布をほろぼし死を永遠に滅ぼしてくださる」とあります。この布は死者を覆っていた布も暗示しています。つまり、すべての悲しみ、死の痛みから回復されるということが書かれているのです。さらに「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」とあります。
 主なる神が私たち一人一人を傍らに呼んでくださり涙をぬぐってくださるのです。自分の罪も、失敗も果たせなかったことも、すべてすべてぬぐいさって回復してくださる。
 これはさきほども言いましたように、すでに神のご計画の中で確定されたことです。
 だから安心して悲しむことができます。いえ悲しんでいるときは、もちろん本当は安心などできません。それでも私たちは希望を持つことができます。その確実な希望のゆえに私たちは現在も幸いなものとされているのです。