大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年10月25日マタイによる福音書13章24~30、36~43節

2015-10-27 10:45:59 | マタイによる福音書

 イエス様は群衆に向かって語っておられました。イエス様はその宣教活動において、日々、肉体的な疲れを覚えながらも、ゆっくりと休息される時間もなかったようです。日々、押し寄せてくる人々に語り続けられました。本日、新約聖書の聖書箇所は、とびとびに読んでいただきました。最初に毒麦のたとえの箇所、そして間を飛ばしてそのたとえ話の説明の箇所を読んでいただきました。主イエスは人々に語りかけ、その人々から離れられたのちは弟子達に語りかけられました。主イエスの地上での生涯における宣教活動の期間はおよそ三年から三年半と言われていますが、その短い期間を、旅をし、多くの人と出会い、語り続けられました。

 その語られたことの核心は天の国の到来ということでした。

 終わりの日の希望といっても良いかもしれません。主イエスはその希望を語り続けられました。ですからイエスさまの時代から2000年後の今日においても、キリストの体である教会の礼拝説教では繰り返し、その終わりの日の希望を語り続けます。

 今日の聖書箇所にも「世の終わり」という言葉が出てきます。「世の終わり」というと、日本語の感覚ですとあまり良い印象に感じられないかもしれません。「終わり」というとどうしてもジ・エンド、<もうあとがない>という感じになります。もう先がなく希望もないというニュアンスが入りがちです。また、「世も末」というような言葉と無意識に混同しそうになるところもあります。ちなみにご存知の方も多いかと思いますが「世も末」というのは仏教から来る言葉で、仏の力が衰えて道徳の乱れた世の中のことを指します。しかし、聖書でいう「世の終わり」はそうではありません。ここで「世の終わり」と訳されています言葉は、むしろ「完成の時」という言葉です。英語で言うとコンプリートということです。神がすべてのことを完成させる成就されるその時のことです。

 イエスキリストの到来と共に、この世は終わりにむかって決定的に進んでいます。すでに終わりの時は始まっているともいえます。しかし、完全な完成はここでいわれている「世の終わりの時」「完成の時」となります。その完成の時までのことが、たとえ話として語られています。

 「毒麦のたとえ話」は、他のたとえ話と同様、聖書を長く読まれている方にはなじみの深い話しです。この「毒麦」という言葉は、語義的には「雑草」という言葉です。おそらく、穀物の生育を阻害するような雑草のことを毒麦と言っているのでしょう。

 たとえ話のなかで、熱心なしもべたちが雑草、つまり毒麦が生えてきたことに驚いて、「行って抜き集めてきましょうか」と主人に申し上げます。しかし、主人は「いや。毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」といって、刈入れまでいっしょにしておけというのです。

 実際、この地域では、雑草すなわち毒麦が生えてきても、その雑草は作物である小麦などよりよほどしっかりと根をはっていますので、下手に抜くと、生育期でまだしっかり根のはっていない穀物まで抜き取ってしまうことになります。したがって、作物の収穫期まであえてそのままにしておき、収穫の時にわけるということが、最近まで行われていたようです。先週、ご一緒にお読みしました「種を蒔く人」のたとえと同様、このたとえも、当時の、ごく普通の農作業のやり方にのっとったたとえ話で、聞いた人々がイメージしやすい話しになっています。

 36節から、主イエスはこのたとえ話を説明なさっています。良い種を蒔く人は主イエスご自身、畑は世界、良い種は御国の子ら、悪い種は悪い者の子ら、そして悪い種を蒔く者は悪魔だとおっしゃっています。

 悪い者の子を終わりの日に燃え盛る炉に投げ込むのは天使たちであって、御国の子ではないというこのたとえ話を、私たちは人を裁いてはいけないという勧告の言葉として受け取ります。裁くのは神の使いに、つまり神に任せないといけない、だから私たちは人を裁いてはいけないととります。人を裁くないう言葉はすでにマタイによる福音書の7章1節からの話に出てまいります。そのような勧告の言葉としてここを読むことは決して間違いではありませんが、私たちは「裁くな」という勧告をここから読み取る時、自分は良い麦であるという立場に無意識のうちに立っています。悪い者は神様が裁いてくださる、終わりの日に悪い者は燃え盛る炉に投げ込んでくださる、だから私たちは裁かなくて良い、と考えます。そして私たちは正義のもとにある善人なので大丈夫、そして最後には水戸黄門のように、悪い者はやっつけられて一件落着であると考えます。いま、水戸黄門といっても若い人にはわからないかもしれませんけれど。

 しかし、そもそも良い麦、毒麦とはなんでしょうか?そして私たちは良い麦でしょうか?

 良い麦は御国の子らであると主イエスはおっしゃっています。だれが御国の子でしょうか?主イエスは「悔い改めよ、天の国はちかづいた」とおっしゃいました。つまり天の国、御国に入る者は悔い改めた者なのです。神の前に悔い改めた者が、つまり自分が罪人であるということを認め、主イエスの十字架の贖いの業を受け入れることを神の前に告白する者が天の国に入ることができるのです。つまり良い麦とされるのです。主イエスによって良い麦とされるのです。

 そもそもが罪人であり、また悔い改めたのちも、日々、罪を犯す者である私たちが、ただ主イエスに赦された者として、この地上に置かれているのです。そのような私たちがそもそも他者を裁くことができるでしょうか。

 そしてまた、そもそも私たちには良い麦か悪い麦か正しく識別することができるでしょうか?作物であれば、これは小麦であり、こちらは雑草である毒麦であると容易に識別できるでしょう。仮に極めて似たような植物であっても、専門家なら判別は容易でしょう。しかし、この世界にあって、なにが良いことで悪いことか、その判別は容易ではありません。しかし、それでも「いや判別できる」と私たちが往々にして思ってしまいます。

 その判別は、自分の正義に基づいてなしています。それは自分の正義であって、神の正義でないということを、私たちはついついどうしても忘れてしまいます。

 これはこの世的な話ではありますが、昔、職場の上司が慰労会の席で部下たちに「人と議論をする時、かならず相手に逃げ道を残しておかないといけない」とおっしゃっていたことを思い出します。いくらこちらが正しいと思っても、勝ち目があると思っても、とことんまで相手を追いつめてはいけないと。それはビジネス上の議論やかけひきにおいての話でしたが、やはりそこには相手への敬意や配慮というものの大事さが語られていたと思います。そしてビジネス上の話であっても、大事なことは勝ち負けではなく、結局、双方にとって一番いい道を見つけることが、双方にとってプラスなのだということを言われていたのだと思います。勝った負けた、とか、こちらが正しくてそちらが間違っているということを明らかにすることは不毛なことで、結果的に、双方が良い方向に向かえるように話をしていくことが大事だということだったと思います。

 しかし、ついつい私たちは正義を振りかざすつもりはなくても、知らず知らずにその自分の正義を絶対のものとしてしまいます。白黒はっきりさせたがります。勝とうとしてしまいます。白か黒かはっきりさせるといいますけれど、神からみたら、みんなグレーなのです。白が正義で黒が悪だとしても、100%白もなければ100%の黒もありません。そしてまたそれぞれに単一の色ではないのです。人間には白っぽいところもあれば黒っぽいところもあるのです。そのようなまだらで真っ白ではない人間が白黒はっきりさせることは困難なのです。

 ただ、悔い改めた罪人として、共に、神の正義を求めていくということは可能です。健全な議論のあり方、隣人とのあり方は、ただただ共に神を見上げて、共に悔い改めながら、神の御心を求めていくということです。

 しかし、いずれにしても、神の完全な正義がなるのは終わりの日です。神がすべてを完成される日です。その完成の日の前を生きる私たちの目には、たくさんの雑草が見えます。

 完全ではない畑、つまりいろんな余計なものが生えているように私たちには見える世界があるのです。そのような自分たちの人生が見えてくるのです。これさえなければいいのに、逆に、これさえあればよかったのに、そのような思いにわたしたちはいくたびも捉えられます。もっと良い畑であれば、もっと私は生き生きと成長することができる、なのに、横に毒麦が生えていて、邪魔をする、そう感じてしまいます。職場で、家庭で、近所づきあいで、私たちは往々にしてそう考えてしまいがちです。

 神様なら、良い麦の根を傷めずに毒麦を抜きとることだって可能ではないか、なのになぜそのままにしておられるのか、そういう疑問もわいてきます。

 しかし、別の観点で考えてみる必要があります。最初に申し上げましたように、私たちは自分を良い麦の立場に置いて考えることもできますが、毒麦、雑草の立場にも置いて考えることもできます。神がすべてを完成されるその日、私たちは自信を持って、御国にいるといえるでしょうか?私などは実のところ、燃え盛る炉に放り込まれるのではないかと恐れたりします。さきほど申し上げたように私たちは完全に白でもなければ黒でもない、つまり良い麦とも言えるし、あるときは悪い麦であるともいえないでしょうか。

 いまこの瞬間、終わりの時がきて、刈り取られたらどうなるでしょうか?私たちは御国で太陽のように輝くと確信が持てますか?燃え盛る炉に投げ込まれ泣きわめき歯ぎしりしていないといえるでしょうか。

 種を蒔く人のたとえの時にも、石だらけの畑も茨の生えた畑も、良い畑になる可能性があると申しました。この現実の世界の畑に生えた実際の雑草はずっと雑草のままで、毒麦はずっと毒麦のままです。しかし、この世界を管理されているのは主イエスです。その主イエスが管理されている世界、つまり畑に生えている毒麦がずっと毒麦であるとは限らないのです。主イエスによって、毒麦が良い麦と変えられることもあるでしょう。

 毒麦を抜かずにそのままにしておられるのは、神の憐れみと忍耐のゆえです。言ってみれば、炉に放り込まれる前の執行猶予期間とも言えるでしょう。一息に抜いてしまうのではなく、毒麦と思えるようなものでも、いつか悔い改めて、主イエスのもとに来る、良い麦となる可能性がある、ですから、その時を神は待っておられます。

 そもそも聖書全体が長い長い神の忍耐の歴史が記されているものです。アダムとエバの時代から、またイスラエルがいくたびも神に背いてきたその時代から、神はとてつもない忍耐をされて、待っておられた、そして、いまも待ってくださっているのです。

 ですから、どうしようもないように見える私たちの周りの畑も、雑草がぼうぼうに生えているように見える畑も、いつまでもそうであるとは限りません。神には不可能はありません。気がつくと、自分の周りは毒麦ばかりだと思っていたのに、豊かに良い麦がたわわに実っている畑になっているということもあります。自分にとって苦しい辛いことがら、まさに毒麦といえるようなことも、振り返ってみる時、実は、自分にとって、かけがえのない助けになるものであると気づくこともあるでしょう。これさえなければと思っていたことがあったがゆえに、逆に豊かに導かれてきたということもあるでしょう。

 神は終わりの日に一本でも多くの毒麦を炉に投げ込もうとされているのではないのです。一本でも多くの良い麦を御国に迎えたいと願われています。一人でも多くの人が悔い改め、そして主イエスの畑で養われ、豊かに実り、天の父の国で太陽にように輝くことを願っておられます。

 この輝くという言葉には、原語では、外へという接頭語がついています、つまり外に向かって輝く、輝きを放つということです。それだけ豊かな者、まぶしい者とされるということです。

 イザヤ書の60章に「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」という言葉があります。私たちは本来罪の闇の中にあるものでした。しかしキリストが私たちを照らしてくださるゆえに、私たちは光を放つものとされます。父なる神の愛と忍耐のゆえにキリストが遣わされ、私たちは輝きを放つものとされました。すでにその輝きは始まっています。そのことこそが神のみこころです。私たちもキリストのゆえに良い麦とされ、終わりの日の希望を持ちつつ、キリストのゆえに、日々輝きを放つ者とされ、終わりの日にも輝きを放つ者とされましょう。


2015年10月18日 マタイによる福音書13章1~23節

2015-10-23 16:10:35 | マタイによる福音書

 「桃栗三年柿八年」ということわざがありますが、最近はこのことわざをあまり耳にしなくなったように感じます。ちなみの桃栗三年柿八年のあとに、ゆずは九年とか、梅は13年とかつづくとか、さまざまに説があるようです。

 このことわざは、ご存知のように、ものごとには相応の時間が必要だということです。しかし、最近は効率化とかスピード重視で、すぐに成果が要求される風潮のせいなのか、桃栗3年柿8年なんて悠長なことは言いにくいのかもしれません。また家の庭などにこのように実のなる木が植えられていることが以前より減ってしまって、感覚的になじみがないということもあるでしょう。

 さて、果物や木の実だけではなく、信仰は、実るものです。実らせていただきます。神が実りを与えてくださる。桃や栗が一ヶ月や二カ月で実らないように、信仰の実りにもやはり相応の時間が必要です。神の御栄光も相応の時間とやり方を経てあらわされるものです。

 イエス・キリストは人間の歴史からすると長い長い時間をかけて到来されました。天地創造に始まる旧約の時代を経て、預言者の預言から数百年をへて成就したように、神のご計画の成就のためには相応の時間が必要です。神のなさることが遅いのではなく、神の最適な時間ややり方というのは、人間には場合によっては随分と時間がかかるように感じるのです。せっかちな現代人ならずとも、神のなさることに対して、人間の感覚とは往々にして相いれないものです。

 今日は少し長い聖書箇所を読んでいただきました。教会学校などでも話しされることの多い種まきのたとえの箇所です。ある種は道端に落ち、ある種は石だらけのところに落ちた、また茨の中に落ちた種もある、それらの種はみなだめになってしまったけれど、良い土地に落ちた種は実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍あるものは三十倍にもなった。そしてそのたとえについて主イエスご自身が解説されているのが18節からになります。

 この聖書箇所を読むとき、なんとなく不安になる方も多いのではないでしょうか。端的に言って、ひとりひとりの信仰のあり方が土地を比喩としてあげられているのです。自分は御言葉を聞いて悟る良い土地だろうか、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉をふさぐ茨の生えた土地だろうか、そんなことを考えられるのではないでしょうか。多くの人は、自分は良い土地だなんて思えないのではないでしょうか。私は茨が生えてる土地だとか、石だらけだとか思ってしまうのではないでしょうか。

 そのようなことを反省して、みなさん、御言葉を聞いて悟る良い土地のようなしっかりとした良い信仰者になりましょうという勧めの言葉をここに聞くことはけっして悪いことではありません。しかし、ここで語られていることはそこでとどまりません。

 そもそもこの土地は、別々の土地ではないのだと多くの解釈者は語っています。

 この土地はひとつの畑なのだと考えられます。当時のイスラエルの畑は、今日的な農業とはことなり、畑全体がきちんと整えられていたわけではないようです。イスラエルはそれほど土地に恵まれていませんでした。そのなかで畑にできそうな比較的豊かな土地を畑にするのです。それでもそ、の畑の中には石がころがっているところもあったでしょう。そのすべての石を取り除くことは不可能だったのです。また畑の中に人が通るための道も作られました。場合によっては茨などの雑草が生い茂ることもあったのです。灌漑などをおこなわなかった当時の土地のやり方では、深いところに根をはる茨などはどうしてもとりのぞけなかったようです。そのような畑で、わりとおおざっぱなやり方で農業はなされていたようです。つまり、当時、種は、ぱぱっとまかれたようです。ですから、道の部分に種がこぼれることも、石の上に種が蒔かれることも、あったのです。種をまいたあとに茨が生えてきてしまうこともあったのです。道に蒔かれた種は鳥に食べられたりもしたでしょう。石の上に蒔かれた種は根が出ても干からびてしまいます。

 ですからイエスさまの種まきのたとえは、当時の畑の様子ととてもよくあっていたのです。聞いた人は皆、はっきりとイメージを持つことができたのです。

 そしてこの畑の例えは私たちの心の比喩として語られています。

 私たちの心の中には良い土地もあれば悪い土地もあります。すべて良い土地ということもなければ、どこもかしこも石だらけということもないのです。すくすくと御言葉を受けいれて信仰が養われる良い部分もあれば、石ころもある、あるいは最初は良い土地だったのに、あとから茨が生えてくることもあるのです。ですから、私たちは私たちの心の中の石を頑張って取り除き、茨を根絶やしにしましょう、しっかりと畑全体を良く耕しましょう良い土地にしましょうということではないのです。

 アメリカの聖公会に所属するある説教者は、この聖書箇所をまさに「種をまく人」の物語だと語っています。私たちは、ついつい種を蒔かれる土地の方へ注意を向けてしまいますが、これは「種を蒔く人」の話なのだというのです。たしかに新共同訳のタイトルも「良い土地悪い土地のたとえ」ではなく「種を蒔く人のたとえ」となっています。

 種を蒔く人とはどなたでしょうか。

 神です。

 神が蒔かれるのです。良い土地にも悪い土地にも神は種を蒔かれるのです。農業の効率からいうと極めて効率の悪いことを神はなさるのです。出来る限り良い土地の部分を選んで種を蒔けば種が無駄になることはありません。でも神は種をまかれます、石の上にも道端にも、茨の根が残っているかもしれないところにも惜しげもなく蒔かれるのです。豊かに蒔かれるのです。

 人間の目から見たらたいへんナンセンスな、いまはやりの言葉でいえばコストパフォーマンスの悪い、コスパの悪いやり方をなさるのです。きびしく成果を問われる事業のやり方から見たらありえないやり方です。また細かく効率を問う経済の観点から見たら、無駄そのもののようなことをなさるのです。

 一方で、良い土地に蒔かれた種は実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったとあります。この百倍、三十倍というのはたいへん大げさな数字です。当時の農業のやり方では十倍になったら万々歳なのです。ですから三十倍もとてつもない数字です。まして100倍なんて考えられないことです。その考えられないことをなさるのが神であると主イエスはこのたとえ話で語っておられるのです。人間が効率や成果を計算して、こまごまとやっていくことと、神のやり方は違うということです。神の恵みはそのようなものではないということです。人間が一生懸命この世にあって効率や成果を考えることが自体が悪いということではありません。しかし、神のやり方はそうではない、神のなさることは全く次元の違うことだということを主イエスは語っておられます。しかし、神はあえて効率が悪いことをなさっているわけではないのです。無駄をなさっているわけではありません。人間の目にはそうみえるということなのです。もっとも百倍の実りが得られるのであれば、少々種が無駄になっても逆にコストパフォーマンスはいいのではないか、そう思われるかもしれませんが、そういうことでもありません。神は仮にすべての種が無駄になったとしても種を蒔くことをやめられない方なのです。蒔き続けられる方なのです。

 神が種を蒔かれるとき、私たちの心の土地は神の御業のなる土地とされます。蒔かれる土地もまた、変わっていくのです。変えられていくのです。石ころだらけだったところが豊かにされるのです。いつのまにか茨がなくなっているということも起こるのです。それは人間があれこれ考えて努力してやっていくことではないのです。神の御業が私たちのうちになされていく、その神の御業によって変えられていくのです。そこには相応の時間がかかるかもしれません。何年信仰生活をしてても私は石ころだらけだと自分で自分のことをがっくりくることもあるかもしれません。わたしなどもいつまでたっても、茨でぐちゃぐちゃのような気がしています。しかしなお神はそんな私たちの内なる土地に今日も豊かに種を蒔かれ続けています。神の御業はすでに始まっています。

 ところで、本日の聖書箇所からあとの部分には多くの主イエスが語られたたとえ話が記述されています。毒麦のたとえ、からしだねのたとえ、迷い出た羊のたとえ、どれも聖書に親しんでいる人にはなじみのあるたとえです。ここで、主イエスがたとえ話で神の国のこと、信仰のことを語られた、ということについて、少し考えてみたいと思います。なぜ主イエスはたとえ話を語られたのか。それにはいくつかの理由があります。

 ひとつには、危険が迫っていたからです。主イエスに対して敵対する勢力があったからです。イエス様はこれまで読んできたマタイによる福音書の箇所では、安息日論争の時もベルゼブル論争の時も、はっきりとものをおっしゃっていました。「人の子は安息日の主である」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」そのようなことをはっきりとおっしゃっていたのです。しかし明確に主イエスに敵対する力が強くなってきました。したがって直接的には敵対者からはわかりにくい、たとえ話という方法で話の核心の部分を包んだ形で主イエスは語るようになられたのです。良い例ではありませんが、言論弾圧みたいなことがある世の中では直接に権力者を批判はできません、そのかわり風刺画であるとか、こっけいな音楽とかでぼかして批判をするようになります。短歌や俳句で花鳥風月を描いているように見せて、痛烈な皮肉を込めたりする場合もあります。それに似ています。

 しかし、たとえ話を使われた理由はそれだけではありません。イエスさまのたとえ話は、当時のイスラエルの人々にはとても情景のわかりやすい話だったと言われます。さきほど申しましたように種を蒔く人のたとえも、当時の農業の状況を良く知っている人からしたら、種まきの光景がはっきりと目にうかぶ生き生きとした話だったのです。当時のイスラエルの生活、自然そういうものを取り入れて、難しい言葉もなく、とても親しみやすい話を主イエスはされたのです。

 しかし、そのたとえ話で、種まきのたとえでいえば、種まきの光景は生き生きと目に浮かびながら、その話の真意、イエスさまが伝えようとなさった神の業は、けっしてわかりやすくはありません。現に、そのたとえ話をイエス様ご自身が解説をなさっているのです。たとえ話の光景は生き生きと理解できても、その話がそもそも何を語っているのかはけっして分かりやすいものではありませんでした。

 それには二つに理由があります。ひとつ目はそもそも神の国の真理というのはわかりやすいものではないというところから来ています。正確にいえば論理的に説明ができるものではないということです。神の業というのは論理的に論文に書いて説明ができるようなものではないのです。論文に書いて説明できるようなものではないものを伝える時、それは物語の言葉になったり、詩、ポエムの言葉になります。神の恵みというのはこれこれの大きさでこのくらいの頻度で顕れてという論文に書くような論理的な説明はできません。ですから、畑にまかれた種が百倍にも三十倍にもなるという豊かなイメージをともなったたとえ話で語られるのです。豊かに実った種のイメージには、説明の言葉で伝えられない者を伝える力があるのです。植物の生命力のイメージによって神の力が力に満ちあふれたものであることも伝えることができます、また実りの光景は明るく豊かな神の国の様子を伝えます。

 信仰の出来事はそもそも論理では理解ができないからです。論理で考えると、種を無駄にばらまいておられるように見える神様の御心を理解することができないからです。ですから、イエスさまのたとえ話というのは一見わかりやすいようでわかりにくく感じます。しかし、それは神に国の現実を伝えるにはとても有効なのです。ですからイエス様はたとえ話で語られたのです。

 でも、もっと本質的な問題があります。それが、たとえ話を理解できない二つ目の理由です。主イエスは9節で「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃっています。

 つまりもっとも大事なことは、聞く側の態度なのです。主イエスに敵対している人々、主イエスを信じようとしない人々には主イエスはたとえ話をされました。主イエスに従っている弟子達には丁寧にそのたとえ話の解説を主イエスはなさいました。しかし、主イエスがどのようにお話しになろうとも、どんなに丁寧に解説をなさろうとも聞く耳がない者には何の意味もないということです。

 だいじなことは、私たちが努力をして自分たちの畑から石を取り除いたり、耕したりすることではないのです。聞くということです。心素直に神の言葉を聞くということです。私たちは礼拝において、御言葉を聞く前に、聖霊の導きを祈り求めます。神の言葉を聞くことは自分たちの力ではできないことだからです。

 そもそも私たちの心には、せっかく言葉を100%素直には聞けないものがあります。人間の言葉であっても、語っている相手が嫌いだとか、過去に確執のあった内容についてだとしたら素直には聞けません。それが神の御言葉であってもやはり自分たちの先入観や、自分の抱えている心の痛みや、過去の経験に引きずられてどうしても素直には聞けないところがあります。神の言葉を神の言葉として聞くことは私たちの力では困難なのです。だから祈るのです。まっすぐに神の言葉が聞けるように。まっすぐに神が蒔いてくださる種を受け取ることができるように。私たちは何にもましてそのことを祈り願うのです。聞くことができるように。その祈りを神はかならずかなえてくださいます。そしてかならず三十倍の六十倍の百倍の恵みを与えてくださいます。相応の時間は必要ですが、それは必ず与えられるのです。相応の時間は神の時間です。それは今日かもしれないし三年後かも知れない。しかしすでに神の業は始まっています。喜びの種はすでに蒔かれています。神に聞きながら、人間が与えるものではなく神が与えてくださるものを私たちは喜びながら受け取るのです。


2015年10月4日 マタイによる福音書12章46~50節

2015-10-09 14:38:31 | マタイによる福音書

 今日の聖書箇所は、イエスさまの家族がイエス様を訪ねてくる場面です。ここを読みますと、イエス様は、ご自身の家族に対してちょっと冷たいなと感じる方もおられるのではないでしょうか。イエスさまの母と家族が外に立っておられるのです。家族はイエス様と話したいと人づてに頼んでいます。でもその家族のところにイエス様は飛んで行って話をされるわけではありません。

 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」

と取り次ぎを頼まれた人に対してお答えになります。このすげない態度が母マリアや兄弟たちに直接知らされたのかどうかは福音書の記述だけでは分かりません。あるいは母や兄弟にも聞こえるように主イエスはおっしゃったかもしれません。いずれにせよ、自分の腹を痛めた息子にこんなことを言われたら、母としてはたまらないでしょう。家族としてもやり切れない思いがあるでしょう。しかも、おそらく家族は一家の長男であるイエス様のことを心配してやってきたのです。今日の聖書箇所は、ずっとお読みしていますイエス様とファリサイ派との対立の流れの中にあります。悪霊を追い出されたイエス様のことを「悪霊の頭ベルゼブルにたよっている」といって非難している人々へのイエス様の言葉のその締めくくりとしてあります。

 同じ場面がマルコによる福音書では少し違った形で記されています。マルコによる福音書の3章21節に身内の人たちがイエスのことを聞いて取り押さえに来たとあります。「あの男は気が変になっている」と言われたからである、と記されています。すぐる週に申し上げましたように、イエス様の周りには、徴税人や娼婦といった、言ってみれば当時の社会の鼻つまみ者が集まっていたのです。単に鼻つまみ者ではなく、当時のユダヤの信仰からしたら、罪人とされていた人々でした。律法に違反した人々です。神から離れたような、神から見放されたような人々の真ん中に主イエスはおられたのです。

 それに対して、一般の人々からは、とても信仰深くて、聖書の専門家と思われ、模範とされていたのがファリサイ人や律法学者たちでした。その信仰深い、社会の指導的な立場にある人たちが、主イエスのことをベルゼブルに取りつかれている、気が変になっている、といっているのです。身内や家族が心配しないわけがありません。主イエスがお生まれになった時の話を皆さんはお聞きになったことがあるかと思います。受胎告知において母マリアが神に従順だったこと、また父ヨセフもまじめな神を畏れる人であったことが聖書を読むとわかります。ナザレの田舎の純真素朴な、つつましい、堅実な、神を信じる家族だったのです。そんな家族にしてみれば、信仰深いと思われている律法学者にたてついているような息子のことを、まともな状態とは感じられなかったでしょう。

 言ってみれば、一家の長男が、奇妙な新興宗教の教祖になっている、そんな感覚に近いものを身うちの人々が持っていたのではないかと思われます。とにかくイエスはおかしくなっているから、連れて帰らないといけない、一族の恥である、どうにか正気を取り戻させたい、そういう思いで身内の者がやってきて、らちが明かなった、だから、とうとう母や兄弟たちが直接やってきたのでしょう。やってきてみると、たいへんな群衆の中に主イエスはおられました。ごったがえしているのです。家族からすると経験したことのないような異様な雰囲気の中にイエス様がおられ、直接話をすることもできないのです。家族としてはその様子を目の当たりにして、いっそう混乱と不安のなかにあったと思います。

 そんな家族や親族に対して本日の聖書箇所の主イエスの態度は思いやりがない、そう感じられるかもしれません。しかし、ここで主イエスが示されているのは、救い主であるイエスさまが到来されたその後にあって何が一番大切なのかということです。イエスに聞き、イエスに従っていくということがなにより大事なのだとおっしゃっているのです。マタイによる福音書10章34節を少し前にお読みしました。ここに「平和ではなく剣を」と題されている箇所です。ここでイエス様がおっしゃっているのは、主イエスを信じる信仰において、そこには一人一人の選択があるのだということです。

 主イエスを信じるか信じないか、従うか従わないかという二者択一があるのです。真ん中はないのです。その選択の結果、家族の中に亀裂が入ることもあるのです。それが平和ではなく剣なのです。今日の聖書箇所では、母や兄弟は、外に立っていたとあります。中に入ってきていないのです。つまり家族は主イエスの言葉を聞いてはなかったのです。それに対して、中にいる人々は主イエスの言葉を聞いていたのです。中の人と、外にいた家族には明確な差があるのです。ですからこの場面は、主イエスご自身が、母や兄弟たちに対しても剣を差し出した場面とも言えます。

 もっとも主イエスの家族がずっと主イエスの言葉を聞かないものであったとは言えないようです。今日の聖書箇所では外に立っていたとありますが、母マリアは主イエスが十字架におかかりになる時にはそばにいたことが聖書に記載されています。主イエスが十字架におかかりになる頃は、母マリアは弟子達と行動を共にしていたようです。またヤコブの手紙という新約聖書の中の書簡がありますが、この著者はひょっとするとイエス様の兄弟のヤコブではないかという説もあります。それは定かではありませんが、少なくとも、く主イエスの家族、身内の中にもやがて主イエスを信じる人が起こされていったようです。けっしてそのような家族、身内に対して、主イエスが一概に冷たかったとは言えないのです。

 さて、今日の場面では、家族に対して剣を出した主イエスは、弟子達に向かっては、こうおっしゃいます。「みなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と。ちなみにここで「わたしの母」と主イエスはおっしゃっています。主イエスに従って来た弟子達、その群れの中には女性もたくさんいたようです。さまざまに彼女たちは奉仕をしたのです。その人々に向かって「わたしの母」とおっしゃったのです。聖書の時代は、現代よりもはるかに女性蔑視の時代でした。蔑視という生易しいものではなく、女性は数のうちに入れられない時代でした。その時代に、主イエスの言葉として「わたしの母」、あるいは「姉妹」という言葉があるということは画期的なことです。神の救い、恵みの業は男性だけでなく女性にも向けられている-今考えると当たり前のようですが-2000年前には、考えられない言葉だったのです。

 身分の上下、職業、性別に関わらず、天の父の御心を行う人が主イエスの家族である、神の家族である、と主イエスはおっしゃっています。ところで、今日の説教題は「神の家族となるために」ですが、主イエスはすでにご自分に従って来た人々を家族とみなされています。繰り返し申し上げることですが、主イエスに従って来たと言っても、特に選ばれて宣教にいった12人をはじめ、皆、まだ主イエスの救いの御業のことはわかっていなかったのです。しかも、その家族と言われた人々はやがてイエスを裏切り、逃げていくのです。そのような人々に主イエスは母であり、兄弟であるとおっしゃっているのです。ただご自分の側にいる人々に、あなたがたは家族なのだとおっしゃっています。

 そして、主イエスが「みなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」とおっしゃっているその言葉は、いまここにいる私たちにも語られています。あなたはわたしの母である、あなたは兄弟である、あなたは姉妹である、と。私たちは弱く、何もできない、なかなか主イエスに忠実にはしたがっていけない、それでも、こうして今、御言葉を聞こうとしている、そんな一人一人に「あなたは母である。あなたは兄である、弟である、姉である、妹である」と主イエスは語っておられます。

 天地の造り主であり絶対者である神のものとから来られ、そしてまた神そのものである主イエスが、神に造られた者に過ぎないわたしたち、罪にまみれたひとりひとりを、母であり、兄弟であり、姉妹である、とおっしゃられる。そして交わりをもってくださる、親しくしてくださる、それはそれまでのイスラエルにおいて考えられないことでした。旧約聖書の時代、人々は神の顔を見た者は死ぬと考えていました。それほどに神は絶対者であり、畏れるべき方だったのです。神は汚れなき方ですから、汚れた人間が、本来は、側によることはできません。神を見た者は、打たれて死んでしまう、神は実際、そのようなお方です。

 良く旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい愛の神だと考える人がいます。それはもちろん違います。神は旧約の時代も新約の時代もただお一人、同じ神です。でも、そのことを頭では理解していても、なんとなく旧約の神は怖いなあと感じてしまう人もおられるかもしれません。実際、旧約の神は怖いというのは、ある意味において、たしかに間違っていないのです。罪のある人間にとって神は裁かれる方、怒りを発せられる方だからです。いま聖書研究祈祷会で預言書を読んでいますが、神に逆らった人や国への神の裁きは徹底的で恐ろしいものです。

 その神がイエス・キリストを遣わされ、ほんらい裁かれるべきわたしたち人間の代わりに主イエスを裁かれました。そのイエス・キリストのゆえに、罪あるわたしたちは罪赦され、神と交わることができるようになりました。そのことのゆえに主イエスはおっしゃるのです。「ここにわたしの母、私の兄弟がいる」と。あなたたちは神の家族であると。

わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、母である、と主イエスはおしゃいます。天の父の御心とは、愛の業を行 うということです。そして天の父のことを伝えるということです。伝道の業をなすということです。

 これは今日においては教会のことです。教会は信仰共同体として天の父の御言葉を聞き、御旨に従い愛の業を行います。伝道を行います。その教会につながっている一人一人が主イエスの母であり、兄弟であり、姉妹です。たがいに奉仕しあい、また世界に向かって奉仕をします。地の塩、世の光となります。この地上の教会にはいろいろな伝統があり、教会ごとのカラーがあります。和気あいあいとしていてアットホームな感じの教会もあれば、格式があってかっちりした感じの教会もあります、さまざまです。しかし、雰囲気はさまざまであっても、教会は神の家です。神の家族とされた者が集うところです。

 ここで、「家族とされている」というのが大事なところです。人間の肉親の場合でもそうですが、私たちは家族を選べません。両親を選べませんし、また子供も選べません。神の家族もそうです。実際の血縁以上に、自分たちで選んだのではないのです。ある人は肉親に連れられ教会に来られたかもしれません、ある人は友人の紹介で来られたかもしれません。わたしはインターネットで検索して教会に来ました。しかしどのような場合でも、特に神に召されて、家族とされているのです。さまざまな事情で教会を変わるということもあります。しかし、その場合でも、やはり神の召し、神の招きによって教会につながるのです。

 神の家族といっても、教会の中でも、この人とは気が合うけれど、この人は苦手というのは、それぞれに人間である以上、人間の集まりである以上、必ず、あります。しかし、自分にとって、親しく思える人もそうでない人も、場合によって苦手な人も、神によって集められている、家族とされていることを、私たちは考えないといけません。同じ共同体の中で、神によって、神のご意志によって集わせていただいているということです。

 そして人間の肉親の家族と神の家族が違うのは、神の家族は目的があるということです。そして中心があるということです。目的は神の御心をなすことですし、中心には神のみことば、つまり礼拝があります。神の家族は信仰によって結びついているのです。アットホームな感じの教会であれ、ちょっと冷たいなという感じの教会であれ、そこに神の御心に従う心がある時、人間的な思いを越えて、まことの交わりがあります。どんなにわきあいあいとしていても、人間的な思いだけでつながっているとき、あっというまに分裂が生じます。場合によっては大変不幸なことに、教会にあって、この世の様々なつながりより、もっとひどい対立が生じてしまう場合すらあります。

 昔読んだ本で、祈りについて書かれたある牧師の文章に、教会の中の仲の悪い家族の話がありました。その家族は、家庭内に深刻なトラブルがあって、それでも、それぞれに教会に来られるそうです。別々に来て、別々に帰っていくそうです。教会の中で口もきかない、もちろん家に帰っても、会話はないのです。でもその牧師は書いておられました。あの家族の問題はすぐには解決しない、根は深い、すぐに和解ができるものではない、でも、一緒に礼拝をささげている、祈っている、それでいいのだ、と。そこに救いがあるし、かならず神が働いてくださる、と。

 その家族は人間的な意味での家族関係は壊れているかもしれない、でも、共に礼拝をささげ祈っている、だから神の家族ではあるのです。これはとても皮肉なことでもあります。実際の血縁としての家族関係が壊れていても、なお神の家族であるというのです。でも神の家族であるゆえに神の光が注がれているのです。そこにこそ、神の光があります。

 神が結び付けてくださる、そこには必ず恵みがあるのです。その恵みを信じて集うのが教会です。神の家族は、私たちを母と呼び兄弟と呼び姉妹と呼んでくださる主イエスの愛によって結びついているのです。教会は、主イエスの犠牲の血と肉によって、家族とされています。神の家族は、主イエスを遣わされた神の愛と憐れみの中にあります。

 人間の目や心にはどのように映ろうとも、教会は神の愛と憐れみのまなざしのなかにある家族です。

 今ここに集う私たちの上にもその神の愛と憐れみのまなざしが注がれています。わたしたちもまたその愛のまなざしをもって、神の家族を見つめ、たがいに祈っていきます。