大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年4月13日ルカによる福音書22:54-62

2014-04-15 18:32:08 | ルカによる福音書

大阪東教会 2014年4月13日主日礼拝説教(棕櫚の主日)

ルカによる福音書22章54節~62節

「見つめられる神」    吉浦玲子伝道師

 

 受難週を迎えています。主の御受難をおぼえる1週間です。今日は棕櫚の主日。主イエスが「ホサナ、ホサナ」とイスラエルの人々に大歓迎されて、エルサレムに入城した日です。その大歓迎からほんの数日後に、主イエスは今度は群衆から「十字架につけろ」と叫ばれ、十字架にかかられます。その十字架へと向かわれる主イエスの姿を、ルカによる福音書からご一緒に読んでいきたいと思います。

 

 受難週の思い出として、少しお話します。わたしの母教会では、受難週の木曜日、洗足木曜日礼拝を夜にもっていました。これはイブ礼拝などと同じ、キャンドルサービスでした。聖書の受難物語の箇所を朗読し、讃美歌を繰り返し歌います。イブ礼拝と異なるのは、イブ礼拝は終了後、会場の明かりがついて、「メリークリスマス!」と喜びの時間となりますが、洗足木曜日礼拝では、最後にろうそくの火をすべて消して、暗闇の中を無言で帰るんです。

  受洗してまだ間がないころ、はじめてその礼拝に出た時、プログラムに「礼拝後はキャンドルを消して暗闇の中を無言でお帰りください」と書いてあって、うわーと思いました。めっちゃ暗そう・・・。自分の罪をいやというほど思いながら、がっくり肩を落として帰っていかないといけないのかって思いました。

 

 実際、礼拝では主イエスの受難の聖書の朗読ばかり聞き、受難の讃美歌ばかり歌ったんです。そしてキャンドルが消えて真っ暗な教会を出て、無言で帰って行ったんですけど、その帰り道、ぜんぜん、気持ちが暗くなかったんです。むしろ明るかった。うまく言えないんですが、主の受難を覚える今が、暗黒の極み、罪の極みを覚える時なんだ、その暗黒を知ったときが一番暗いんだ。そして、いま一番暗いんだから、これから明るくなる一方だと、ちょっと安易ですけど、そう感じました。十字架の出来事は暗闇ですがそれは光へ向かうためのものなんだと、帰り道に思ったんです。

 さて、今日の聖書箇所は、イエスのいわゆる一番弟子といわれるペトロが三回にわたって、主イエスを知らないとイエスを否認するという有名な場面です。ペトロという人は福音書の中の役回りとしては、ちょっと軽率な愛すべき人として描かれています。主イエスと共に三年を過ごしながら、他の弟子達と同様、ちっともイエスのことがわかっていない弟子、そして十字架の出来事の前にはとうとう主イエスを否定してしまう弟子であったペトロ。今の目でわたしたちが見るとき、なんて情けない・・と思ってしまうかもしれませんが、まだペテロも他の弟子たちも、主イエスの十字架や復活の意味を知らなかったのですから、ある意味、致し方ないとも言えます。

 そんなペトロや他の弟子達には、信じていた主イエスの逮捕というのはたいへん過酷な出来事でありました。

 

主イエスの数々の奇跡を目の当たりにしてきたペトロたちにしてみたら、そのイエスがあっけなく逮捕されてしまう、そのようなことがあろうとは思ってもみなかったことでしょう。主イエスは、イスラエルの王になると考え、その王になるべきイエスの弟子として自分たちは、王国の主要な人物になるんだという希望をもっていたことでしょう。しかしその希望がまったく潰えてしまったのです。

 

 ペトロは主イエスの逮捕の前、勇ましいことを言っていました。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」ところが彼は一緒に牢に入るどころかイエスが捕まった時、主イエスを置いて逃げてしまいました。ルカによる福音書にはペトロが逃げてしまったことは明確には書いてありませんが、他の福音書には記してあります。ペトロは怖かった、恐ろしかったのです。だからといって彼がまったく無責任であったかというとそうでもないのです。オリーブ山でイエスを捕らえようとしてやってきた者たちに、いったんは、剣を抜いて向かっていっているのです。ルカによる福音書には名前は記載されていませんが、ヨハネによる福音書ではペトロが剣を抜いたことが記されています。

 

 そして今日の聖書箇所では、恐る恐るではありますが、主イエスに遠く離れてついてきて成り行きを見守っているのです。ここには、ヒーローでも聖人でもない、ごく普通の人間の姿があります。主イエスと一緒に牢に入る勇気はないけれど、まったく見捨ててしまうほどずるくはない、どっちつかずの在り方、それはごく普通の人間のよくある姿です。逆に言いますと、臆病だけど、自分自身の小さな良心を捨てきれない姿でもあります。

 

 54節に遠く離れて従った、とありますが、この「遠く」はたとえばルカによる福音書1520節で、帰って来た放蕩息子を遠くからみつけた父親が走りよる場面があります。この父親が息子を見つけたのと同じ「遠く」です。つまり、主イエスのご様子をかろうじてうかがうことはできるけど、十分な距離があったのです。場合によっては、すぐに逃げ出せる距離を保っていたとも言えます。まさにおどおどと彼は主イエスに従ったのです。

 

 そののち彼は一緒に焚火の火にあたっていた女中さんに、あなたはイエスの仲間だと指摘されます。そしてまたしばらくして他の人からも指摘されます。これはたいへん皮肉なことです。ペトロは主イエスに一緒に牢に入ります、一緒に死んでもかまいません、と言っていた。その言葉の中には、これから仮になにか悲劇的なことがおこっても、自分はそこで英雄的な行為をなすのだというような感覚が垣間見られます。いさましく戦って、殉教をする。その相手は祭司長や律法学者、ローマの兵を意識していたかもしれません。しかし、実際は、いっしょに火にあたっていたごく普通の人々、権力者でもなんでもない、社会的にはむしろ低い位置にいたであろう人々によって、彼の本当の姿が露わにされてしまったのです。慌てふためき、自分の正体を隠し、主イエスを否定してしまう弱さを彼は知らされたのです。拷問にあったのでもない、剣で切り付けられたのでもない、ただ一緒にいた普通の女性の一言で、彼は自分自身の姿をいやというほど知ることになったのです。

 しかし、彼が自分自身の弱さを本当に知ったのは、61節の主は振り向いてペトロを見つめられたとある、この主イエスのまなざしによってです。

 

 「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」その主の言葉を彼は、主イエスのまなざしを受けた時、思いだしたとあります。

 このまなざしが具体的にどのようなものであったのか、それはわかりません。しかし、けっしてそれは憎々しげなうらみがましいまなざしではなかったでしょう。静かなまなざしであったでしょう。このときペトロは22章の32節で主イエスが「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」とおっしゃったことまで思いだしたと思います。

 

 主イエスがすでに自分のために祈っていてくださった。

 

 たった一人の女性の言葉で露呈するほど弱い自分、惨めな自分のために、主イエスはすでに祈ってくださっていた。そのことを思い出したとき、ペトロは救われたのです。もちろん主の十字架と復活、そしてペンテコステの出来事は、まだこれから先のことです。罪の贖いの業について正確に彼が理解することになるのは先のことです。

  しかし、このとき、主イエスのまなざしと出会った彼は、自分が主イエスのゆえに救われることが分かったのです。

 

 ペトロは漁師でした。しかし漁師として大事な舟を捨て、それまでの生活を捨ててイエスに従ってきたのです。三年半だったといわれる主イエスとの生活の中で、弟子の中には脱落していくものもあったでしょう。喝采していた群衆がイエスを見捨てて去っていったこともありました、そのようなことを彼は見てきました。しかし、それでも彼は最後までイエスに従ってきたのです。弟子や群衆の中で、いつもイエスのすぐそばにいた。イエスから派遣されて、多く人の病を癒し、悪霊を追い出しもしました。こんなに一生懸命、主イエスに従ってきた自分、そんな自分に自信も持っていたかもしれません。

  でもその一生懸命は意味がなかったのです。いやまったく意味がなかったわけではないのですが、少なくとも、救い、という点においては意味がなかった。

 自分がこんなことをした、こんなに頑張った、そんなことは意味がない。

 

 ただ、自分のみじめさ、弱さ、罪を知る、そのことだけが意味があることだったのです。ペトロは自分の弱さ、情けなさのただ中で、主イエスのまなざしと出会いました。これまでもずっと一緒にいたイエスさま。しかし、自分の情けなさのただ中で、ペトロははじめてほんとうに主イエスと出会ったのです。なぜ出会えたのか、それは主イエスご自身がペトロのために祈っていたからです。そしてまたペトロが本当に自分の弱さみじめさに気付いたからです。

 

 わたしたちは自分が正義の側、強さの側にいる時、自分の弱さやみじめさ、罪を知りません。そのときわたしたちは神と共にいません。いや実際は神はそばにおられるのです。ペトロのために祈ってくださっていた主イエスは、わたしたちのためにもまた、祈ってくださっている神です。しかし、わたしたちは自分が正義の側、強さの側にいる時、そのことがわかりません。

 

 有名な詩編51編は、ダビデ王の悔い改めの詩として知られています。ダビデ王は神に従った正しい王でしたが、それでもやはり人生においていくたびか罪を犯しました。そのもっとも大きな罪が、バト・シェバとの不倫でした。彼はそのバト・シェバの夫を殺しました。その自分の罪を悔いる詩編51編は、自分がいかに罪深いか、そしてその罪をぬぐうことのできるのは神以外にいないことを歌っています。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」そうダビデは語ります。

 

 ところで、よく、キリスト教は、罪、罪と言って人間を凹ませる、人間の良くない面を強調して後ろ向きにさせるという人がいます。しかしそうではないんです。わたしたちは自分の罪を知り、それを悔い改めることができ、救われるということを知った時、ほんとうの人生の喜びを知ることができるのです。

 

 ペトロもこの主のまなざしによって自分の罪を知りました。それは辛い苦しいことです。彼は外に出て激しく泣いたとあります。この部分は「泣き続けた」とも「男泣きに泣いた」ともあるいは「苦く泣いた」とも訳せます。

 しかし、彼は泣けたのだとも言えます。

 

 子供がころんでもすぐに泣かないことがあります。おかあさんが駆け寄ってきて、はじめてワーンと泣きだす。あるいはおとなの顔を確認してから、泣きだすということがあります。泣いている自分を受け入れてくれる人がいるという安心感があるとき、こころおきなく泣くことができる、泣くということはそれだけで痛みや傷からの回復がはじまっていることでもあります。

 

 もちろん大人は簡単には泣けません。わたしは良く泣く方ですが。普通の大人は、人前ではもちろん一人でもなかなか泣けません。傷や痛みが大きければ大きい程、泣けないときがあります。あるいは逆に「涙も枯れた」という状況もあります。しかし、今日の聖書箇所でペトロは泣いています。泣くことのできたペトロは立ち直っていくことができました。そこが彼とユダの違いでもありました。

 

同じくイエスを裏切った弟子であるユダのことを、主イエスはやはり祈っていたでしょう。しかし彼はみずから命を絶ち、主イエスのまなざしと出会うことがありませんでした。いっぽうで主イエスのまなざしと出会ったペトロは、主イエスが自分のために祈ってくださっていたことを知り回復へ向けて、泣くことができたのです。三回、主イエスを知らないと言ってしまったとき、彼は一番の闇を知ったのです。その暗闇の底で主イエスのまなざしと出会った。そこから彼は新しい歩みを始めることができた。主イエスご自身がこれから自分を回復させてくださる、そのことはまだはっきりとはわかっていなかったかもしれない。しかし、主イエスのまなざしと出会ったペトロは一番の暗闇から明るさのなかへ向かっていったのです。

 

 わたしたちも同様です。もっとも深い自分の闇と出会う時、それは絶望ではありません。そこでわたしたちは主イエスのまなざしと出会います。最初からわたしたちを愛し、いつくしみ、祈っていてくださったイエスを知ります。わたしたちは地上にある限り、罪から逃れることはできません。でもだからこそ、いくたびもいくたびも主イエスと出会うのです。私たちはそこから光に向かって歩んでいきます。自分の力で歩くのではありません。主イエスに祈っていただきながら、主イエスの十字架を仰ぎながら、その十字架の上に射す光へ向かって歩むのです。主イエスご自身に手を引いて歩ませていただくのです。

 


2014年4月6日マタイによる福音書2:13-23

2014-04-15 18:03:39 | マタイによる福音書

 

大阪東教会 2014年4月6日主日礼拝説教

マタイによる福音書2章13節~23節

「神が実現なさること」    吉浦玲子伝道師

  少し前に、ある神学者が書かれた本に、「アイデンティティ・クライシス」という言葉が出てきました。それはアイデンティティの危機、つまり自分が自分であることへの信頼が自分の中で失われること、「わたしって何だろう?」「いったいわたしの人生ってどういう意味があるのだろう」と自分の中の価値観が危うくなっていくことだそうです。一般には思春期や青年期の心理的危機として使われることが多いようです。しかし、その神学者は、「アイデンティティ・クライシス」というのは若い人に限らず、だれにでも起こるんだと、そしてそのとき宗教が大きな意味をもつのだと書いていました。

  実際、わたしたちはちょっとした環境の変化で、多かれ少なかれ「アイデンティティ・クライシス」に襲われます。引越しや就職、転勤、急な病気、さまざまなことが引き金となります。それらの要因は、かならずしも不幸なことばかりではありません。それ自体は喜ばしいことであっても、変化というのはやはり「アイデンティティ・クライシス」を起こすものです。希望校に合格して、進学した。その場合でも生活上の変化がおこります。職場で昇進した、栄転した。それだって「アイデンティティ・クライシス」を引き起こします。実際、昇進後にうつ病になる人も多くあります。

  そしてこの「アイデンティティ・クライシス」は個人だけでなく、集団や組織にも起こります。たとえば、家族が天に召される。そのことは個人としての悲しみだけでなく、家族や親族としての「アイデンティティ・クライシス」を引き起こすものであるといえます。

  そのような意味で、わたしたちの大阪東教会も、またいま変化の時を迎え、アイデンティティの危機にあるといえます。しかしわたしたちはその「アイデンティティ・クライシス」を自分たちでがんばって乗り越えていくのではありません。主イエスを見上げ、主イエスの言葉によって痛みや悲しみを癒していただきながら、主イエスによって、乗り越えさせていただくのです。その歩みは一面、苦しいものでもありますが、主イエスと共にある時、それは良き訓練でもあり、恵みでもあり、祝福の道でもあります。

  さて、いまマタイによる福音書をお読みしていますが、主イエスがこの世界へ来られた。これはもちろん素晴らしい出来事であるはずです。しかし、素晴らしい出来事でありながら、やはり、ここでも人々は「アイデンティティ・クライシス」に陥ります。主イエスの父となるヨセフも、占星術の学者も、またイスラエルの人々もそうでした。その危機を、神に従って乗り越えていったのがヨセフであり、占星術の学者たちであったといえます。一方で乗り越えられなかったのがヘロデ王であり、時の権力者たちでした。

  さて先月お読みしました占星術の学者たちは、幼子イエスと出会ったのち、もともとヘロデに幼子イエスのことを報告する約束になっていたのですが、それをすっぽかしてといいますか、夢のお告げに従って、ヘロデのところには戻らず、別の道を通って帰っていきました。今日はその続きということになります。ヘロデは自分の立場を脅かすような、新たな王の誕生を快く思っていませんでした。快く思っていないどころか殺してしまおうと思っていました。

  そこでまず、ヨセフに夢でお告げがあり、幼子イエスを連れてエジプトへ逃げるように彼は指示されます。その後、だまされたことを知ったヘロデが主イエスがお生まれになったベツレヘム一帯の2歳以下の幼児を殺すという極めて残虐な行為を行います。

  そのヘロデがやがて死に、イエスの命を狙う者がなくなったとき、ふたたびヨセフにお告げがあり、ヨセフと幼子イエスはイスラエルに戻ってきます。しかしヘロデの後を継いだアルケラオも父ヘロデに負けず劣らず残虐な権力者だったようで、それをヨセフたちは恐れて、ナザレという小さな村にひきこもることになりました。

  今日の聖書箇所では、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉が3回出てまいります。主イエスが、まさに旧約の成就として、預言の成就としてこの世界に来られたことが、ここで確認されているわけです。前にも述べましたように、マタイによる福音書はその特質として、旧約聖書からのつながり、預言の成就としてのメシア、救い主の到来ということを強調しています。その特質がここでも表れています。

 しかし、預言の成就というと喜ばしいことのようでありますが、現実には救い主イエスの降誕の出来事と同時進行で、幼児殺しという陰惨な出来事も起こっているのです。

  考えてみれば、占星術の学者たちが、ヘロデに会って、「ユダヤ人の王がお生まれになった」ということを言わなければ、このようなことは起こらなかったのです。そしてヨセフたちも、幼子を守るために、エジプトへ避難し、また帰ってくるという苦労をすることもなかったのです。しかしこの学者たちを、星の導きによってヘロデ王のもとに遣わし、幼子イエスと出会わせ、またヘロデに報告させずに返すのも神がなさったことです。すべてのことが神のご計画の中にあったと言えます。

  では、神の計画が成就されるためには、子供たちが殺され、ヨセフ一家が逃げ回らないといけないのか、、、そう考えると釈然としません。

 釈然としないような思いを片隅に置きながら、今日の聖書箇所における神のなさったことを、良く見ていきたいと思います。

  まずヨセフたちがエジプトへ逃げる場面ですが、15節に「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」とあります。これはホセア書の111節にあります。このことはまた出エジプトで神が民をエジプトから救い出したことと重ね合わせることができます。主イエスにおいて、出エジプトの出来事がもう一度おこった、神の救いがふたたび起こったということをここでは指しているのです。

 ホセア書の著者とされるホセアは愛の預言者と言われます。みずから妻に裏切られながら、その妻に裏切られる自分と、イスラエルに裏切られながら、裏切られても裏切られてもイスラエルを愛する神の愛を重ね合わせて、ホセアは記しました。その神の究極の愛が、救い主イエスの到来として実現する、そのことが、今日の聖書箇所にも重ねられています。

  こうしてヨセフたちが避難した後、子供の虐殺が起こります。ここで引用されているのはエレミヤ書の3115節です。まったくもって不条理な出来事です。同じような幼児殺しの話は、出エジプトの1章にも出てきます。子供たちが殺されるなかで、モーセは助かるのです。

  モーセやイエスは守られ、他の子供達は殺される、その出来事を聞く時、どうにも合点はいきませんが、別の見方もできるかもしれません。むしろ、救いようのない悪、人間のおぞましい罪が、力を振るっているなかで、多くの人の救いのためにモーセが守られ、イエスが守られた、と。事実、ヘロデはこの幼子殺し以外にも多くの残虐な行為をしています。王の王であるイエスの到来によって、その悪がより一層際立ったのが、この幼子殺しであると言えます。いってみれば、悪の力がピークとなった時に、モーセが与えられ、主イエスが与えられたのです。

  そして間違えてならないのは、本日の聖書箇所でいえば子供達を殺したのは神ではなく、ヘロデです。そしてこのヘロデはたしかにとびぬけて残虐な人間ではありましたが、人間の罪をつきつめて考えますと、このヘロデの行為は罪の行きつく先であるといえます。

  わたしたちは人を殺すことはないかもしれません。しかし、神ではなく自分中心に生きる時、わたしたちは罪を犯します。自分中心であること自体が罪です。

 わたしたちは罪にある時、肉体的に他者を殺すことはしないかもしれませんが、言葉によって行いによって、他者を否定し、そのことを通じ精神的に人を殺す場合もあります。そのようなわたしたちの罪の姿を突き詰めますと、この幼子殺しといえます。

  そして先月もいいましたように、この時、幼子のイエスは、ヘロデの手を逃れますが、おとなになった後、神の国の宣教活動ののち、捕らえられ十字架におかかりになります。このときのヘロデと同様、自分が王でありたい、自分中心に行きたい人々によって殺されます。ヘロデ王によって殺された子供たちと同様、人間の罪によって殺される運目をたどられます。

 さて、そのヘロデの死と共にヨセフたちはイスラエルに戻ってきますが、彼らはガリラヤのナザレという村へ行きます。「彼はナザレの人と呼ばれる」ということにあたる直接の預言や、旧約聖書箇所はありません。旧約聖書にはナザレという地名はでてこないのですが、一説には、イザヤ書の11章1節に「エッサイの株から1つの芽が萌えいでその根から1つの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる」とありますが、その若枝がギリシャ語で「ナゾーライオス」です。その音が「ナザレの人」と重ねられているのではないかと考えられ、「ナザレの人」というのはそこからでてきたのではないかといわれます。

  そのダビデの子孫たる主イエスがまさに若枝として全人類の希望としてナザレの地でそだたれた。旧約から面々と連なる神の救いの歴史がここに示されているといえます。

  さて、この三か所の預言の成就に関して、もういちど、エレミヤ書との関係を見てみたいと思います。さきほど、幼児虐殺の預言としてエレミヤ書の3115節をあげました。ここにはたしかに、子供が殺された母の嘆きが記述されています。

  しかし、エレミヤ31章16節を読んでみましょう。ここに「目から涙をぬぐいなさい。」とあります。「あなたの苦しみは報いられる」ともあります。「息子たちは帰ってくる」とも書いてあります。そうです、神はそのご計画を実現なさる、その途上において、わたしたちには不条理と思える苦しみや痛みもあります。なぜ神様このようなことをなさるのですか?!というようなことを、神様はなさるように思える。しかしなお、わたしたちの涙はぬぐわれるのです。ヨハネによる黙示録、ここには終末の出来事、主イエスの再臨と関わる未来の出来事が書かれていますが、その7章17の天上での礼拝の情景として「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」とあります。

  そうです、わたしたちの苦しみは必ず報われる。大切な人を失った悲しみはこの地上においては、完全には消え去らないかもしれません。しかしなお、主イエスにあって、わたしたちには希望があたえられています。「あなたの未来には希望がある」と神はおっしゃってくださっています。

  いま失われているように見える者も帰ってくる、回復される、完全に回復されると、神はおっしゃっているのです。神がそれを実現なさるのです。

  それは主イエスの到来と共に、確実なものとなったのです。完全な回復は主イエスの再臨のときでありますが、わたしたちはこの地上にあっても、すでに主イエスによって救いの業がなされている時間を、生きています。ヘロデの時代の暗黒の罪の闇は、主イエスの到来と共に光へと変えられました。もちろんまだ世界もわたしたち一人一人も、完全には回復されていません。しかし、わたしたちはこの破れた、壊れた世界にいながら、そして罪人でありながら、キリストを信じる信仰を生きる時、希望をもつことができます。わたしたちは罪にまみれていました。そしていまも日々、罪を犯しています。しかしなお、わたしたちは、日々新しくやり直すことができます。主イエスのゆえに、すべてのことをやりなおすことができるのです。悔い改めることができます。そして未来に希望をもって生きることができます。わたしたちひとりひとりも、教会も、折々に「アイデンティティ・クライシス」に陥ります。しかしなおその変化の中で、未来へ向けて希望を持って生きていくことができるのです。

 


2014年3月2日マタイによる福音書2:1-12

2014-04-15 17:36:46 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年3月2日主日礼拝説教

マタイによる福音書2章18節~25節

「正しさより大事なもの」    吉浦玲子伝道師

  「ニーバーの祈り」というものを、お聞きになったことがある方もおられるかもしれません。<神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。>祈り自体はまだ続くのですが、この冒頭のところが有名です。私はこの祈りを会社に勤めていた時、業務用の手帳の裏表紙に貼っていました。どこの世界でも同じとも言えますが、企業や組織の中で生きる時、当然、自分たちの力で変えられないことは多々あります。ほとんど全部といってもいいかもしれません。そういうことに、いちいちストレスを感じていたら生きていけません。

 

 また一方で矛盾しているようですが、逆に会社からよく言われたことは「変化に対応しろ」ということでした。技術職でしたので技術が日進月歩で進化していくことは当たり前で、それを青息吐息で追いかけていたのですが、それだけではありません。企業のあり方そのものがどんどんと変わっていきました。メーカーでしたから、社会のあり方、お客様のあり方が変わっていく、かつてのように大量生産大量販売ではやっていけない。多様化に対応した、新しいマーケティング、新しい流通と、どんどんと仕事のあり方や考え方が変わっていく。その変化に対応できない企業は大企業と言えど倒れてしまうし、そこで働く者も変化に対応できなければ、淘汰されてしまう、リストラされてしまう。

  でも人間ってそんなに変われるものかな?と私自身は思っていました。変わらずにいつまでたっても良いものもたくさんあるのではないか。そんなことを考えながら、手帳のニーバーの祈りを読み返しながら、自分のあるべき姿を思い巡らしていました。

 

 私たちは仕事に限らず普段の生活でも好むと好まざるとにかかわらず、「変化」を経験します。そして「変化」というのは「変える」という自発的なものであれ、「変えられる」というような受け身的なものであれ、多くの場合、ストレスや痛みを伴います。混乱も伴うものです。

  2月の説教で主イエスの父となるヨセフが神によって従順な人に変えられたという話をいたしました。

  今日の聖書箇所に出てくる占星術の学者たちもまた変えられた人たちでした。神によって変えられた人たちです。一方で、変わらない人たちも、今日の聖書箇所には出てきます。それがヘロデ王であり祭司長、律法学者たちであります。この両者の違いはなにを私たちに示しているんでしょうか。これから、ご一緒に読んでいきたいと思います。

 

この三人の学者の話は、クリスマスの降誕劇で良く演じられます。大阪東教会の昨年末の教会学校のクリスマス会でも、この場面を紙芝居のようにして、皆で演じました。そういう劇では童話的な修飾がついて、わかりやすく物語とされますが、あらためて聖書をそのままに読みますと、この箇所にはたいへん奇妙なことが書かれていることに気づきます。

 

 この学者たちは単に「東の方から来た」と書かれています。かれらがどのような思いでわざわざエルサレムまでやってきたのか、聖書を読む限りでは、わからないのです。彼らはわざわざ「ユダヤ人の王を拝みにきた」といいます。自分たちの王ではないのです、当時、イスラエルは大国でも世界の中心でもなかった。ローマに支配された弱い国、情けない民族だったのです。芸術や文化の中心でもなかった。そこの王が生まれたからといって、なぜ彼らは拝みに来たのでしょうか。

 

 「東の方」というのは、東西南北というより、聖書においては「神のない世界」を示します。そして彼ら自身は異邦人でした。ユダヤにおいて、神を知らない者として軽蔑されている異邦人でした。神を知らない異邦人が、まさに神のないところからやって来たのです。神のないところというと、なにかおどろおどろしい感じがしますが、むしろ、わたしたちはこれを「この世」「この世界」と読んでもいいかと思います。わたしたちが普段生活している、そのごく当たり前の世界。そこから学者たちはやってきたのです。「拝みに来た」と彼らは言います。この拝むという言葉は、床にひれふして拝むということです。最上級の敬意の表し方であると言えます。

 

 さきほど彼らがなぜわざわざやってきたのかわからないと申しました。しかしこの<床にふし拝む>という言葉を読むとき、彼らは、「たいへん高貴な王」が生まれるということを知っていたのだと思われます。具体的なことは知らなかったかもしれません。でもただならぬこと、普通でないことが起こることを彼らは知っていたのです。それが自分たちにも、かかわりのあることと感じていた。だからわざわざやってきたのです。弱小の国の王でありながら、ふし拝むべき方、特別な方であることを星によって知っていたのでしょう。

 

この星についてはさまざまなことが言われます。天文学的に説明をしようとする学者もいます。でも一方で、私たちひとりひとりも「星」に導かれているとも言えます。私たちは自分から神を探したのではありません。私たち一人一人が「星」に導かれて神のもとへ、主イエスのもとへやって来ました。この学者たちと一緒です。直接的には誰かに誘われた、家族がクリスチャンだった、さまざまなきっかけはあるでしょうが、まず神が私たちを礼拝へと、教会へと導いてくださった。私たち一人一人に、神の導きの星があったと言えます。

 

 いっぽうで、その学者たちの言葉に、多く人たちが不安にかられます。ヘロデ王が不安になったのは、わからないでもありません。王である自分の立場が危うくなるという気持ちがあったことは容易に推測できます。しかし祭司長や律法学者まで不安になったとあります。これは奇妙なことではないでしょうか。彼らは律法を良く知っている人たちです。メシアという救い主の到来が、預言書に書いてあることも良く知っているのです。なのに彼らも不安に思うのです。

 

彼らは変わる必要がないと思っていたのです。いや変えられたら困ると思っていたのです。いわゆる既得権益をもっていた人々といってもいいかもしれません。彼らは地位も名誉もあり、人から尊敬される人々でした。自分たちはすでに完成している、だから変わる必要などない、そう彼らは思い込んでいた。

 そこに彼らの罪がありました。神のことを、預言のことを、知識では知りながら、頭で走りながら、自分たちの欠けや闇を知ることはなかった。自分たちはこれでいい、と思い込んでいた。

 異邦人がわざわざやってきて星が現れたと言っているのです。変化の兆し、あたらしいことが起こる兆しがあきらかにあるのです。それなのにその本質がなにか、彼らは見ようとしなかった。ただただ自分の立場を守ることだけを考えた。

 

この祭司長や律法学者は、お生まれになった幼子イエスの成長ののち、イエスを十字架へとつける者たちへとなっていきます。主イエスによって神の業がなされているにもかかわらず、その真実を見ようとせず、救いの現実を理解せず、自分たちが変わることを拒否し、罪の闇の中で、イエスを十字架につける者となったのです。

十字架上のイエスに「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。」と罵る者となるのです。自分が神の前で変わる必要がない、そう考えること、そこに罪の根っこがあります。その罪のために主イエスは十字架にかかられたのです。それは祭司長や律法学者だけの罪ではない、私たち自身の中にもある、神の前で変わろうとしない罪のためです。

 

 ところで何年か前、あるご婦人に、もうすでに亡くなられているその方のお姑さんの話を聞きました。お姑さんの息子さん、つまりお嫁さんのご主人ですが、この男性は子供のころから教会に通っていました。教会学校です。最初はお母さんに連れられて行っていたのですが、途中からそのお母さんは、別の新興宗教にのめりこんでしまいました。それでも息子さんの方は、自分の意思で教会に通い続けていました。どんどんと新興宗教にのめりこんでいったそのお姑さんは、自分の息子が教会に行っていることが我慢ならなかったそうです。ある日、中学生になった息子さんが、学校から帰ってくると、お母さんによって聖書がびりびりと破られて、捨てられていました。息子さんはそれを見てわんわん泣いたそうです。それでもその息子さんは教会に通い、結局、洗礼まで受け、自分の奥さんもクリスチャンの女性を選びました。息子のお母さんであるお姑さんは、そのクリスチャンのお嫁さんを、かなりいじめたようです。その状況は通常の嫁姑の確執という以上のものだったようです。新興宗教の働きに熱心だったお姑さんは家事は一切しませんでした。ですから家事はお嫁さんが全部しました。また商売をしている家でしたが、その商売の責任もお嫁さんが負いました。でもお財布はお姑さんが握っていました。やがてそのお姑さんのご主人、お舅さんが介護が必要になりました。その介護もお嫁さんが担いました。

 やがて月日がたち、そのお姑さん自身が体の自由が利かなくなり、介護を受ける立場になりました。お嫁さんはお姑さんの介護も淡々としました。お嫁さんが自分を何年も介護をしてくれているのをみて、お姑さんはある日おっしゃったそうです。

 「最後まで私の面倒を見てくれたのは結局あんただけやったね。ほかの子供たちも新興宗教の人もみんな私から離れてしまった。あんただけやった。最後までそばにいてくれたのは。」そしてさらにおっしゃったそうです。

 「あんたの行ってる教会にわたしも連れてってくれへんか。」

 息子であるご主人は大喜びで「気の変わらんうちに連れて行こう」とお母さんを教会へ連れて行きました。そしてそのお姑さんは教会に通い、やがて洗礼を受け、にこにこと笑うやさしいおばあさんに変わってしまいました。お嫁さんはもちろんとても嬉しかったけど、ちょっと複雑な思いもあると言われました。おしゅうとめさんは洗礼受けてからは、ほんとにおだやかな人になられたんですけど、お嫁さんに「愛が大事ですよ、人には親切にしないといけないですよ、いじわるはしていけませんよ」というようになって、それはいいんですけど、でもちょっとお嫁さんは心の中で「あなたのいままではなんだったんだ~」と突っ込みたくなるときもあったと笑っておっしゃっていました。

 

 もちろんすべての家庭にこういうことが起こるわけではありません。私自身、家族への伝道はできていません。そしてまた、変わるということについても、人間がこのように劇的に変わるなんてことはあまりないことです。

  しかし、神が導いてくださるなら変わることは可能です。間違っていけないのは、もちろんお嫁さんの愛の業は尊いのですが、単にお嫁さん自身の人間的な努力でお姑さんが変わったのではないのです。お嫁さんは尊い愛の業をなさった。そのことはとても素晴らしいことです。そのお嫁さんの業の中に、神の働きをお姑さんは見たのです。そのお嫁さんはお姑さんにとっての神へ導く星だったといえます。その星によってお姑さんは神のもとへ行くことができた。お嫁さんにとってもお姑さんにとっても長い長い旅でした。そのお姑さんは、自分が介護を受けるようになってようやく、自分が神の前で変わらないといけないことを悟ったのです。

 

 この三人の学者たちも星に導かれて幼子イエスのもとにやってきました。「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上にとまった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。そして彼らは、主イエスと出会い、主イエスを床に伏して拝み、捧げものを捧げました。礼拝をしたのです。主イエスを礼拝するものとされたのです。

 

またさらに「「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」のです。別の道、つまり彼らは主イエスと出会って変えられた、違う道を通って帰ったのです。

 

 前にも言いましたように変化には痛みが伴います。苦しみがあります。しかし、私たちの歩みが神の星に導かれているものであるならば、そしてそこで自分たちが神によって変えられるなら、そこにはかならず喜びがあります。

 

 一方で、こののち幼子イエスは十字架の道を歩まれます。特別な道を歩かれることになります。3月5日から主イエスの十字架の受難をおぼえる受難節が始まります。その十字架の死への道をこの幼子イエスは歩まれます。それは、変わることのできない私たちが変わるためです。あるときは変わらないといけないことに、どうしても気づけない私たちです。またあるときは変わりたいと激しく願っても、変われない私たちでもあります。そのような私たちのために主イエスは特別な十字架の道を歩んでくださった。

 

 その主イエスの十字架のゆえに、私たちは、こころから「変えることのできるものを変える勇気と、変えることのできないものを受け入れる誠実さと、変えることのできるものとできないものを識別する知恵をお与えください」と祈ることができるようになりました。

 

 <その星を見て喜びにあふれた>この学者たちと同じ喜びを私たちは星に導かれて歩む歩みの中でかならず与えられます。私たちが勝手に歩むのではない、星に聞きながら、わたしたちの先におられる方に従いながら歩む歩みです。その歩みの中で、まことの喜び、まばゆい星の輝きのような喜びとかならず出会うことができます。

 

 


2014年2月2日マタイによる福音書1:18-25

2014-04-15 17:04:04 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年2月2日主日礼拝説教

マタイによる福音書2章18節~25節

「正しさより大事なもの」    吉浦玲子伝道師

 マタイの福音書冒頭の系図から続く形で、イエスの誕生の次第が本日の聖書箇所で語られています。マリアが聖霊によってみごもったことが、この福音書ではごく簡潔に語られています。マリアの氏素性やヨセフに関する説明もありません。ただ「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とだけあります。主イエスの誕生について、この福音書の著者が伝えたかったことは「聖霊によって」、つまり神の力によって、主イエスがお生まれになったということです。人間としてこの地上に命を与えられた、それは神の関与したことであり、神の力によったのだ。ただその一点なのです。ヨセフやマリアの人間性やイエスを取り巻く出生環境、そのようなことよりもなによりも「聖霊によってみごもった」、つまり神が働かれた、ただそれだけが重大なことだとこの著者は語っています。系図のところの説明でも申し上げましたが、主イエスが旧約聖書の預言の成就として神の救いのご計画を完成させるためにこられたメシアであることをこの福音書は強く語っています。ですから系図に続くイエスの誕生の次第もたいへん簡潔に神の関与だけを伝えています。

ところで今日の聖書箇所に出てくるヨセフ、主イエスの父となる人ですが、彼は正しい人であったと記されています。おそらくまじめで宗教的にもしっかりとした信仰をもった若者だったのでしょう。しかしその正しさは、けっしてガチガチの正しさ、人を裁き断罪するような正しさではなかったと推測されます。まだ結婚をしてない婚約者マリアが身ごもっている、その事実を知った時、ヨセフは当然、マリアが他の男性と関係をもったことも考えたでしょう。たいへん混乱して悩み苦しんだであろうと思います。結婚を前にした若いまじめな男性が、本来はもっとも人生の中でよろこばしいはずの時期の婚約の期間に、人に相談もできぬ悩みのただなかにたたき落とされました。そのような状態であっても、ヨセフはマリアを裁き断罪することはしなかった。マリアへの配慮がありました。まだ結婚していなくても、当時のイスラエルでは婚約した時点で結婚と同等にみなされます。婚約者以外の相手と関係をもつことは姦通の罪に問われます。姦通ということになればマリアは死刑になってしまう。19節に「表ざたにすることを望まず」という言葉がありますが、これはむしろ「マリアをさらし者にすることを望まず」という意味です。自身自身の世間体や面目を考えたのではありません。マリアのことを考えたのです。もしヨセフが、律法的正しさだけを求めたのであれば、マリアを公的な裁きに委ねればよかったのです。しかし、ヨセフはそのような表面的な正しさの人ではなかった。マリアを愛していたのでしょう。だから悩みつつも離縁ということを考えた。婚約中に身ごもったのでなければマリアは姦淫の罪には問われないからです。

 しかしヨセフは単なる表面的な正しさだけの人ではなかったのですが、まだ少し足りないところもあったのです。ある人はヨセフのことを「自分の力で何とかしようとしていた人」だと言いました。

 ヨセフに限らず、私たちは自分の力で何とかしようと思います。とんでもない事態が起これば余計そうです。混乱して思い悩み、どうにかその状態からサバイバルしようと思います。婚約者が聖霊によってみごもるなんて、それはだれにでもある話ではありません。でも誰にでも、とんでもないことは起こるのです。20128月、当時私が勤めていた会社の私が所属していた部門で早期退職制度が発表され、退職希望者が募られました。赤字を計上した会社のリストラのためでした。もちろんリストラや倒産は昨今まったく珍しいことではありません。会社員である以上、ある程度、そのような事態を予測し覚悟をする、現代はそのような時代ではあります。とはいえ現実にそのようなことが家庭に降りかかると当然厳しい事態になります。私の職場の例でも退職希望者を募るといっても皆がほんとうにみずから希望して退職したわけではありません。伝え聞いた話でそんななかで結婚が遅くてそのとき50代で、まだお子さんが小さい方がおられた。これからまだまだお金がかかる、いま会社をやめるわけにはいかない。その方は人事担当者のまえで土下座をして退職させないでくれと懇願したそうです。

 リストラだけでなく事故・災害・病気・・・いきなり突然襲ってくるとんでもないことが私たちの人生にはあります。風もほとんどない静かな湖を、安定した船で渡っていたはずが、とつぜん、すべてがひっくりかえり嵐の中に放り出される、そのようなことがあります。そのようなとき、わたしたちはなんとかしようと思います。最善を尽くそうと思います。守るべきもののためなら土下座でもなんでもするのです。

 ヨセフもそうでした。正しくまじめにどうにかしようとしたのです。そのようなヨセフに主の天使は現れてくださいました。マリアの胎内の子供が聖霊によって宿ったこと、そしてさらにその子供が救い主として生まれてくることを聞かされたのです。そしてヨセフは眠りから覚めると妻を迎え入れました。眠りから覚めると、と書いてあるので、彼の行動は早かったのです。ただちにヨセフはみ告げの言葉に従ったのです。

主イエスの誕生ののち、ヨセフは幼子イエスの父としてイエスを養い育てます。ちなみに主イエスは聖霊によって宿ったのですから、ヨセフと血はつながっていないといえます。でもユダヤにおいては律法的に法律的に父であるということが重要です。たとえば聖書研究祈祷会でいくたびか樋川牧師が話をされました、イスラエルにおけるラビレート婚というものがあります。その家を継ぐ子供が長男にできず死亡した場合、次男が長男の妻をめとって家を継ぐ子をなさないといけない。次男と長男の妻の間に子供ができた場合その子は系図としては長男の子供とされます。つまり直接の血のつながり、親子であるということより、律法にもとづいた正当な後継ぎということが重要なのです。ですからヨセフの妻であるマリアから生まれたイエスは系図として正当なヨセフの子供ということになります。

それにしても、ヨセフはイエスの母マリアほど聖書において目立ってはいません。が、今日の聖書箇所ののちの部分を読みますと、ヨセフはイエスを守るたびにいくたびも夢でお告げを受けています。そしてそれに従順に従い、イエスをまもりました。マリアより影が薄いようなヨセフですが「神に従順な人」としてヨセフは描かれています。

 でも最初からヨセフはそうだったわけではなかった。さきほどお話ししましたように、ヨセフは「自分でがんばってどうにかしよう」と考えていたのです。そのヨセフがかえらえました。それは直接には主の天使に告げられてということですが、もっと言えば、救いということがわかったからです。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフはそう告げられました。イエスという名はヘブライ語ではヨシュア、神が共におられるという意味です。旧約聖書でモーセを継いで出エジプトの民を導いてカナンの地に入ったヨシュアと同じ名前です。神が共におられる。その神はまたヨセフと共におられる神でした。自分の子供でありながらイエスは自分の民を救う、その民の中に、ほかならぬヨセフ自身もいることを彼は知ったのです。彼が自分の力で知ったのではない、知らされたのです。いわゆる「啓示」があったのです。まず神ご自身がヨセフに語り掛け触れられた、そしてヨセフは自分が救われることを知ったのです。救われる、それは神が共におられる、ほかならぬ私と共におられる、そのことを知ったのです。そのときからヨセフは変えられました。従順な人と変えられたんです。

 私たちもそうです。100万回キリストの十字架と復活の話を聞いても、聞いただけでは救いはわからない。キリストがどこか遠くで十字架にかかられた、そう理解しているとき私たちは救われていない。何年かけてキリスト教の教理を聞いて、信仰問答を頭で完全に理解しても私たちは変わることはないのです。神がともにおられる、ほかならぬ自分と共におられる。それを聖霊によってわかったとき、私たちは変わることができます。救いを知ります。そして喜びをもって変わることができます。

主の使いはヨセフに「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい」と語りました。恐れずにという言葉は口語訳では心配せずにとなっています。この恐れは、単なる日常的な恐れ、心配ではなく、たとえばマタイによる福音書の9章8節に「群衆はこれをみて恐ろしくなり」とあります。主イエスのとんでもない奇跡をみてそこに神の業、人間を越えたものをみて恐ろしくなった、そのような意味での恐れです。イブ礼拝の時、お読みしましたルカによる福音書2章10節の羊飼いに現れた天使たちが羊飼いに言った言葉もこの「恐れるな」でした。

 わたしたちもまた恐れと向き合うのです。神の前に立つとき恐れます。非常に不安になります。私たちが経験したことのないものに向き合うのです。しかしなお、恐れる必要はない、私はあなたと共にいると神は言われる。 とてつもないたいへんなことがおこる、自分でどうにかしようと思う。そのなかで神が言われる。私はあなたと共にいる、と。私に信頼しなさい、と。でも不安なのです。神に信頼するより、自分で動く方が表面的には不安ではないのです。

ところで、「力を捨てよ、知れ私は神」という言葉が詩編46編にあります。これは「静まってわたしこそ神であることを知れ」と口語訳では訳されています。わたしたちは静まらないといけない、力を捨てなくてはいけない。そのとき初めて私たちは神が共にいてくださることを知ります。自分で動いている時、なんとかしようと思う時、私たちは神とともにいません。しかし静かにみずからの力を捨てる時、つまり神により頼むとき、わたしたちは恐れを乗り越えることができます。荒れ狂っているようにみえた現実の中で一筋の道を見出すことができます。神と出会うことは恐れでもあります。その恐れから顔をそむけず神が神であることを、それもなにより自分と共にいてくださる神であることを受け入れるとき、私たちはほんとうの平安を得ます。ひとたび恐れと直面し、そののちに平和なものとされる。神への従順とは神と出会う恐れを乗り越えたところに与えらえます。人間的な恐れを乗り越えた、いや乗り越えさせていただいたその平和の中で私たちは神の前に従順なものとされるのです。従順さとはなにか律法的に神に従うのではありません。人間的に正しい者となるのではないのです。平和と喜びの中で、神と共にある、そのとき私たちは従順になれるのです。従順にさせていただける。自らの正しさにより頼むではなく神により頼むものとされます。繰り返し繰り返し、そのことを私たちは知らないといけません。肉の体を持ち、この世に生きるわたしたちは弱いものですからいくたびも現実の中で戸惑います。そして繰り返し、神を恐れます。神が共にいてくださることを拒みます。しかしなお、力を捨てるとき神の前で静まるとき、私たちは神へ従順なものとされ平安なものとされます。礼拝において、また教会に結びついたひとりひとりがそれぞれの遣わされた場で、みことばの前に立つとき、あるいは祈りのなかにあるとき、私たちは自らの力を捨てます、静まります。そして神が共にあることを知らされ、神の平和の中で従順なものとされるのです。