大阪東教会 2014年4月13日主日礼拝説教(棕櫚の主日)
ルカによる福音書22章54節~62節
「見つめられる神」 吉浦玲子伝道師
受難週を迎えています。主の御受難をおぼえる1週間です。今日は棕櫚の主日。主イエスが「ホサナ、ホサナ」とイスラエルの人々に大歓迎されて、エルサレムに入城した日です。その大歓迎からほんの数日後に、主イエスは今度は群衆から「十字架につけろ」と叫ばれ、十字架にかかられます。その十字架へと向かわれる主イエスの姿を、ルカによる福音書からご一緒に読んでいきたいと思います。
受難週の思い出として、少しお話します。わたしの母教会では、受難週の木曜日、洗足木曜日礼拝を夜にもっていました。これはイブ礼拝などと同じ、キャンドルサービスでした。聖書の受難物語の箇所を朗読し、讃美歌を繰り返し歌います。イブ礼拝と異なるのは、イブ礼拝は終了後、会場の明かりがついて、「メリークリスマス!」と喜びの時間となりますが、洗足木曜日礼拝では、最後にろうそくの火をすべて消して、暗闇の中を無言で帰るんです。
受洗してまだ間がないころ、はじめてその礼拝に出た時、プログラムに「礼拝後はキャンドルを消して暗闇の中を無言でお帰りください」と書いてあって、うわーと思いました。めっちゃ暗そう・・・。自分の罪をいやというほど思いながら、がっくり肩を落として帰っていかないといけないのかって思いました。
実際、礼拝では主イエスの受難の聖書の朗読ばかり聞き、受難の讃美歌ばかり歌ったんです。そしてキャンドルが消えて真っ暗な教会を出て、無言で帰って行ったんですけど、その帰り道、ぜんぜん、気持ちが暗くなかったんです。むしろ明るかった。うまく言えないんですが、主の受難を覚える今が、暗黒の極み、罪の極みを覚える時なんだ、その暗黒を知ったときが一番暗いんだ。そして、いま一番暗いんだから、これから明るくなる一方だと、ちょっと安易ですけど、そう感じました。十字架の出来事は暗闇ですがそれは光へ向かうためのものなんだと、帰り道に思ったんです。
さて、今日の聖書箇所は、イエスのいわゆる一番弟子といわれるペトロが三回にわたって、主イエスを知らないとイエスを否認するという有名な場面です。ペトロという人は福音書の中の役回りとしては、ちょっと軽率な愛すべき人として描かれています。主イエスと共に三年を過ごしながら、他の弟子達と同様、ちっともイエスのことがわかっていない弟子、そして十字架の出来事の前にはとうとう主イエスを否定してしまう弟子であったペトロ。今の目でわたしたちが見るとき、なんて情けない・・と思ってしまうかもしれませんが、まだペテロも他の弟子たちも、主イエスの十字架や復活の意味を知らなかったのですから、ある意味、致し方ないとも言えます。
そんなペトロや他の弟子達には、信じていた主イエスの逮捕というのはたいへん過酷な出来事でありました。
主イエスの数々の奇跡を目の当たりにしてきたペトロたちにしてみたら、そのイエスがあっけなく逮捕されてしまう、そのようなことがあろうとは思ってもみなかったことでしょう。主イエスは、イスラエルの王になると考え、その王になるべきイエスの弟子として自分たちは、王国の主要な人物になるんだという希望をもっていたことでしょう。しかしその希望がまったく潰えてしまったのです。
ペトロは主イエスの逮捕の前、勇ましいことを言っていました。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」ところが彼は一緒に牢に入るどころかイエスが捕まった時、主イエスを置いて逃げてしまいました。ルカによる福音書にはペトロが逃げてしまったことは明確には書いてありませんが、他の福音書には記してあります。ペトロは怖かった、恐ろしかったのです。だからといって彼がまったく無責任であったかというとそうでもないのです。オリーブ山でイエスを捕らえようとしてやってきた者たちに、いったんは、剣を抜いて向かっていっているのです。ルカによる福音書には名前は記載されていませんが、ヨハネによる福音書ではペトロが剣を抜いたことが記されています。
そして今日の聖書箇所では、恐る恐るではありますが、主イエスに遠く離れてついてきて成り行きを見守っているのです。ここには、ヒーローでも聖人でもない、ごく普通の人間の姿があります。主イエスと一緒に牢に入る勇気はないけれど、まったく見捨ててしまうほどずるくはない、どっちつかずの在り方、それはごく普通の人間のよくある姿です。逆に言いますと、臆病だけど、自分自身の小さな良心を捨てきれない姿でもあります。
54節に遠く離れて従った、とありますが、この「遠く」はたとえばルカによる福音書15章20節で、帰って来た放蕩息子を遠くからみつけた父親が走りよる場面があります。この父親が息子を見つけたのと同じ「遠く」です。つまり、主イエスのご様子をかろうじてうかがうことはできるけど、十分な距離があったのです。場合によっては、すぐに逃げ出せる距離を保っていたとも言えます。まさにおどおどと彼は主イエスに従ったのです。
そののち彼は一緒に焚火の火にあたっていた女中さんに、あなたはイエスの仲間だと指摘されます。そしてまたしばらくして他の人からも指摘されます。これはたいへん皮肉なことです。ペトロは主イエスに一緒に牢に入ります、一緒に死んでもかまいません、と言っていた。その言葉の中には、これから仮になにか悲劇的なことがおこっても、自分はそこで英雄的な行為をなすのだというような感覚が垣間見られます。いさましく戦って、殉教をする。その相手は祭司長や律法学者、ローマの兵を意識していたかもしれません。しかし、実際は、いっしょに火にあたっていたごく普通の人々、権力者でもなんでもない、社会的にはむしろ低い位置にいたであろう人々によって、彼の本当の姿が露わにされてしまったのです。慌てふためき、自分の正体を隠し、主イエスを否定してしまう弱さを彼は知らされたのです。拷問にあったのでもない、剣で切り付けられたのでもない、ただ一緒にいた普通の女性の一言で、彼は自分自身の姿をいやというほど知ることになったのです。
しかし、彼が自分自身の弱さを本当に知ったのは、61節の主は振り向いてペトロを見つめられたとある、この主イエスのまなざしによってです。
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」その主の言葉を彼は、主イエスのまなざしを受けた時、思いだしたとあります。
このまなざしが具体的にどのようなものであったのか、それはわかりません。しかし、けっしてそれは憎々しげなうらみがましいまなざしではなかったでしょう。静かなまなざしであったでしょう。このときペトロは22章の32節で主イエスが「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」とおっしゃったことまで思いだしたと思います。
主イエスがすでに自分のために祈っていてくださった。
たった一人の女性の言葉で露呈するほど弱い自分、惨めな自分のために、主イエスはすでに祈ってくださっていた。そのことを思い出したとき、ペトロは救われたのです。もちろん主の十字架と復活、そしてペンテコステの出来事は、まだこれから先のことです。罪の贖いの業について正確に彼が理解することになるのは先のことです。
しかし、このとき、主イエスのまなざしと出会った彼は、自分が主イエスのゆえに救われることが分かったのです。
ペトロは漁師でした。しかし漁師として大事な舟を捨て、それまでの生活を捨ててイエスに従ってきたのです。三年半だったといわれる主イエスとの生活の中で、弟子の中には脱落していくものもあったでしょう。喝采していた群衆がイエスを見捨てて去っていったこともありました、そのようなことを彼は見てきました。しかし、それでも彼は最後までイエスに従ってきたのです。弟子や群衆の中で、いつもイエスのすぐそばにいた。イエスから派遣されて、多く人の病を癒し、悪霊を追い出しもしました。こんなに一生懸命、主イエスに従ってきた自分、そんな自分に自信も持っていたかもしれません。
でもその一生懸命は意味がなかったのです。いやまったく意味がなかったわけではないのですが、少なくとも、救い、という点においては意味がなかった。
自分がこんなことをした、こんなに頑張った、そんなことは意味がない。
ただ、自分のみじめさ、弱さ、罪を知る、そのことだけが意味があることだったのです。ペトロは自分の弱さ、情けなさのただ中で、主イエスのまなざしと出会いました。これまでもずっと一緒にいたイエスさま。しかし、自分の情けなさのただ中で、ペトロははじめてほんとうに主イエスと出会ったのです。なぜ出会えたのか、それは主イエスご自身がペトロのために祈っていたからです。そしてまたペトロが本当に自分の弱さみじめさに気付いたからです。
わたしたちは自分が正義の側、強さの側にいる時、自分の弱さやみじめさ、罪を知りません。そのときわたしたちは神と共にいません。いや実際は神はそばにおられるのです。ペトロのために祈ってくださっていた主イエスは、わたしたちのためにもまた、祈ってくださっている神です。しかし、わたしたちは自分が正義の側、強さの側にいる時、そのことがわかりません。
有名な詩編51編は、ダビデ王の悔い改めの詩として知られています。ダビデ王は神に従った正しい王でしたが、それでもやはり人生においていくたびか罪を犯しました。そのもっとも大きな罪が、バト・シェバとの不倫でした。彼はそのバト・シェバの夫を殺しました。その自分の罪を悔いる詩編51編は、自分がいかに罪深いか、そしてその罪をぬぐうことのできるのは神以外にいないことを歌っています。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」そうダビデは語ります。
ところで、よく、キリスト教は、罪、罪と言って人間を凹ませる、人間の良くない面を強調して後ろ向きにさせるという人がいます。しかしそうではないんです。わたしたちは自分の罪を知り、それを悔い改めることができ、救われるということを知った時、ほんとうの人生の喜びを知ることができるのです。
ペトロもこの主のまなざしによって自分の罪を知りました。それは辛い苦しいことです。彼は外に出て激しく泣いたとあります。この部分は「泣き続けた」とも「男泣きに泣いた」ともあるいは「苦く泣いた」とも訳せます。
しかし、彼は泣けたのだとも言えます。
子供がころんでもすぐに泣かないことがあります。おかあさんが駆け寄ってきて、はじめてワーンと泣きだす。あるいはおとなの顔を確認してから、泣きだすということがあります。泣いている自分を受け入れてくれる人がいるという安心感があるとき、こころおきなく泣くことができる、泣くということはそれだけで痛みや傷からの回復がはじまっていることでもあります。
もちろん大人は簡単には泣けません。わたしは良く泣く方ですが。普通の大人は、人前ではもちろん一人でもなかなか泣けません。傷や痛みが大きければ大きい程、泣けないときがあります。あるいは逆に「涙も枯れた」という状況もあります。しかし、今日の聖書箇所でペトロは泣いています。泣くことのできたペトロは立ち直っていくことができました。そこが彼とユダの違いでもありました。
同じくイエスを裏切った弟子であるユダのことを、主イエスはやはり祈っていたでしょう。しかし彼はみずから命を絶ち、主イエスのまなざしと出会うことがありませんでした。いっぽうで主イエスのまなざしと出会ったペトロは、主イエスが自分のために祈ってくださっていたことを知り回復へ向けて、泣くことができたのです。三回、主イエスを知らないと言ってしまったとき、彼は一番の闇を知ったのです。その暗闇の底で主イエスのまなざしと出会った。そこから彼は新しい歩みを始めることができた。主イエスご自身がこれから自分を回復させてくださる、そのことはまだはっきりとはわかっていなかったかもしれない。しかし、主イエスのまなざしと出会ったペトロは一番の暗闇から明るさのなかへ向かっていったのです。
わたしたちも同様です。もっとも深い自分の闇と出会う時、それは絶望ではありません。そこでわたしたちは主イエスのまなざしと出会います。最初からわたしたちを愛し、いつくしみ、祈っていてくださったイエスを知ります。わたしたちは地上にある限り、罪から逃れることはできません。でもだからこそ、いくたびもいくたびも主イエスと出会うのです。私たちはそこから光に向かって歩んでいきます。自分の力で歩くのではありません。主イエスに祈っていただきながら、主イエスの十字架を仰ぎながら、その十字架の上に射す光へ向かって歩むのです。主イエスご自身に手を引いて歩ませていただくのです。