大阪東教会礼拝説教ブログ

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大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章11~17節

2024-09-12 14:19:45 | ルカによる福音書
2024年9月8日大阪東教会主日礼拝説教「起きなさい」吉浦玲子
<神は憐れんでくださる>
 カファルナウムで異邦人の百人隊長の部下をお癒しになったあと、主イエスはナインという町に行かれた、とあります。「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。弟子たちはともかく、群衆まで一緒でした。群衆は主イエスに期待していたのです。これまでも数々の奇跡を起こされた主イエスがまた素晴らしい奇跡を起こされるのではないか、ぜひその奇跡を見てみたいと思ったのです。群衆は熱狂していたと言えます。しかし、主イエスの御心は、そのような群衆の思いとは異なったところにありました。すごい業を見せて人々を感服させる、そのような思いを主イエスはお持ちではありませんでした。今日の聖書箇所では、たしかに結果的には主イエスは奇跡を起こされました。しかしそれは群集を熱狂させるためのものではありませんでした。
 さて、そのナインという町の門に近づくと棺が担ぎ出されるところでした。誰かが亡くなったようです。主イエスは病を癒し、悪霊を追い出されてきましたが、さすがにすでに息絶えている亡骸を入れた棺を前にしてはどうすることもできないと誰もが考えました。いえ、どうこうするということすら、誰も思わなかったでしょう。ここではだれも主イエスに何かをしてほしいと願ってはいません。死というものの厳然とした現実を前に人間は沈黙するか嘆くかしかできません。
亡くなった人は、やもめである女性の一人息子でした。愛する息子を失った母の嘆きは時代が異なっても変わりません。この女性の嘆きはいかばかりだったでしょう。さらに当時、女性は一人では生きていけませんでした。生きていくためには夫や息子に頼るしかありませんでした。同時に、家を保つということも大きなことでした。しかし、この女性は家を継ぐべき子供を失ったのです。旧約聖書の『ルツ記』には夫を亡くし、また息子たちをも亡くしてしまい、絶望して、故郷に帰るナオミという女性が出てきました。ナオミはこのように嘆きます。「出ていくときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。(略)主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに」。女性が、家を継ぐ存在を失うということは、物理的にも精神的にも絶望へと落とされる厳しいことでした。
ですから、このナインの町の一人息子を失った女性の嘆きは極めて大きかったと思います。同情した町の人々が大勢そばに付き添っていました。しかし、どれほど多くの人から同情され、慰められても、女性の嘆きは消え去ることはありません。大勢そばにいたということは、おそらく、この女性も一人息子も町の人々に好感を持たれていたのでしょう。女性が夫を失ったのはどのくらい前なのかは分かりません。ひょっとしたら、夫の死後、やもめとなった女性は大変苦労をして、ただ一人の息子を大切に育てたのかもしれません。そんな親子のことを町の人々はよくよく知っていたのでしょう。
主イエスは、その様子をご覧になり、「母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」とあります。主イエスでなくても、この様子を見たら、誰もが同情をするでしょう。実際、町の人がたくさんそばにいたのです。しかし、ここで「憐れに思い」と訳されているギリシャ語の原語は「スプランクニゾマイ」という言葉です。この言葉についてお聞きになったことのある方もおられると思いますが、この言葉は「スプランクノン」という「内蔵」を表す言葉から派生したものです。つまり「憐れに思った」というスプランクニゾマイ」は「内臓がねじれる」、「はらわたよじる」という言葉なのです。
主イエスは、人間の苦しみに対して、「ああかわいそうに」と思われるだけではなく、御自身の内臓がねじれるような痛みを覚えられるということです。私は七年ほど前、大腸憩室炎で緊急入院しました。憩室は、大腸にできるポコッとした袋で、憩室炎は、その憩室の炎症です。憩室自体は右わき腹の上付近にあったのですが、炎症の膿が腸の下腹部までたまっているような状態で、かなりの痛みがありました。胃の前にエプロンのように垂れている大網というものは炎症などが起こったところを保護するそうですが、その大網がねじれていたようです。実際の体の中でねじれが起こるとたいへんなことになるのですが、主イエスは人間の苦しみを、ご自身のそのような肉体の痛みのように感じてくださっているのです。そして「もう泣かなくともよい」とおっしゃってくださるのです。
苦しみは、苦しみ自体でも苦しいのですが、その苦しみが自分にしか理解できないものであるとき、余計苦しみが増します。誰にもわかってもらえない苦しみはいっそう苦しいのです。でも、ただお一人、主イエスはそんな苦しみもご自身の苦しみとして共に苦しんでくださいます。
場合によっては、自分は気づいていない苦しみもあるかもしれません。自分ではまだ頑張れる、とか、たいしたことない、と思っていても、実際は心や肉体に大きな負担となっているような苦しみもあるかもしれません。そしてメンタルや肉体がむしばまれていきます。そのような苦しみをも主イエスはご存じです。そしてご自身の内臓がよじれるほどに痛んでくださるのです。
<もう泣かなくてもよい>
そのように私たちの苦しみをすべてご存じの主イエスは、おっしゃるのです「もう泣かなくてもよい」と。主イエスは苦しみを共に苦しんでくださるのみでなく、涙をぬぐってくださる方でもあります。私が共にいるのだから、「もう泣かなくてよい」そうおっしゃってくださるのです。
そしてそれは口だけの慰めのお言葉ではありません。主イエスは、この一人息子のなきがらが納められている棺に手を触れられました。棺を担いでいた人々は驚いて立ち止まりました。葬列の中に主イエスは入り込まれたのです。通常であれば、それは妨害行為であり、人々は怒ったでしょう。しかし、この時、人々は、主イエスのご様子に息を呑むように立ち止まったのです。そもそも葬列というのは生きている者の場所から、死者の場所である墓へと棺を運んでいくものです。命から死という方向は一方通行であり、そのけっして反対へは向かえない歩みを棺を担いだ人々は歩んでいたのです。その一方通行の歩みを主イエスは止められました。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい」
驚くべき言葉です。起きなさいも何も、この若者は死んでいるのです。それをさらりと「起きなさい」と主イエスはおっしゃいました。ここには主イエスの確信と権威がありました。今ここで、蘇生のための特別な業をする必要もなく、こともなげに主イエスは若者を起こされました。さきほどまで、心臓も止まり、体が冷たくなっていた亡骸でした。大勢の人がそばに付き添っていたのですから、大勢の人がたしかにこの若者が死んだことを知っていたのです。
死人は起き上がってものを言い始めたとあります。ちょっと怖い場面でもあります。でも若者はゾンビのように起き上がったのではありません。亡くなる前、母親と共にいたときのままの若者として生きかえったのです。そして主イエスは「息子をその母親にお返しに」なりました。主イエスは、御自身の凄い能力を皆に見せるためにこの奇跡をなさったのではありませんでした。ただただ、この母親を憐れに思い、もう泣かなくてよい、とその涙をぬぐうためにこの驚くべき奇跡をなさいました。激しく嘆いていた母親、心がうつろになっていた母親に、若者の命をお返しになりました。そしてその母親のうつろになっていた心に豊かな恵みを満たされました。
<神はこころにかけてくださる>
 それを見ていた人々は「皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』」と言ったとあります。主イエスの凄い業を期待していた群衆は、主イエスのなさったことが、神の力によるものであると気づいたのです。人間の業ではない、神から特別の力をいただいた大預言者でなければこのようなことはできない、そう思ったのです。実際旧約聖書に出てくるエリヤやエリシャといった預言者は死者を生き返らせるという奇跡を行っていました。ですから主イエスもエリヤやエリシャのような預言者だと人々は思ったのです。
 この時点でまだ人々は主イエスが神から来た救い主であることは分かっていませんでした。ただそのなさったことは神の力によるものだとは分かったのです。そして言いました。「神はその民を心にかけてくださった」。<心にかけてくださった>という言葉は口語訳聖書や新しい聖書協会共同訳では「顧みてくだった」と訳されています。神がそのまなざしをご自分の民にたしかにむけてくださった、というのです。そしてまた神が訪れてくださったということです。
 神の人間の間には罪という隔ての壁がありました。その壁がある限り、神と人間の間は遠いのです。しかし、主イエスはその壁を破り、神と人間をつないでくださるお方でした。主イエスが2000年前にこの世界に来られたということは、神と人間の間に新しい時代が始まったということです。主イエスがこの世界に来られたゆえに、神が人間を心にかけてくださる時代が始まったのです。神が私たち一人一人のことを顧みてくださるのです。それはけっして当たり前のことではありません。主イエスが来られ、そして十字架にかかってくださったゆえに、神と人間の間の罪の壁が壊されました。今日の聖書箇所は、まだ十字架の前の出来事です。しかし、主イエスが来られたということは、すでに新しい時代が始まったということです。そのさきぶれとして、病は癒され、悪霊は追い出され、若者は生き返りました。今日の聖書箇所で「死者は起き上がり」というところの「起き上がり」という言葉は「復活する」という意味の言葉でもあります。主イエスは十字架において死なれ、そして復活をなさいました。死んでいた者が生きかえったのです。墓場へと向かっていた葬列は、命の方向へと返されました。若者が生きかえった出来事は主イエスの復活の先触れでした。
 しかしまた思います。私たちの愛する者たちは帰ってきただろうか、と。この地上を去った人々は生き返ったでしょうか。昨年、大阪東教会でも愛する姉妹を天に送りました。今日の聖書箇所のように、現代において死者が息を吹き返すことはありません。じゃあこのお話は現代の私たちには関係のないことでしょうか。そしてまた今日の聖書箇所で生き返った青年も、その後、死なずに生き続けたわけではありません。ふたたびやがて死んだのです。
 では主イエスがなさったことは、ひととき、母親を慰めるためだけの業だったのでしょうか。そうではありません。さきほども申し上げましたように、たしかに死が打ち破られ、永遠の命が人間に与えれるさきぶれの出来事だったのです。単に死者が蘇生した、ということがデモンストレーションされたのではありません。まさに神が人間を顧みてくださる、涙をぬぐってくださる、死をも打ち破ってくださる、永遠の命を与えてくださる、そのことの先触れの出来事でした。
<失望では終わらない>
 詩編37編に「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。/人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」という言葉があります。私たちの日々には、打ち捨てられたように感じる時もあります。しかしそのような時も、神はかならず私たちを心に留め、顧みてくださり、手をとらえていてくださいます。その恵みは主イエスの到来によって実現しました。棺を運ぶ葬列を止め、死をも打ち破るお方である主イエスが来てくださった。だから私たちは打ち捨てられないのです。主イエスの十字架と復活の業ゆえに、今も、神は私たちを心に留めてくださっている、だから私たちは絶望しないのです。私たちの希望は失望で終わらないのです。


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