2022年7月31日大阪東教会主日礼拝説教「自分の十字架を背負え」吉浦玲子
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいました。自分の十字架を背負って、というところは、一般的にも使われることがあります。本来の聖書の意味から離れて、運命や宿命、あるいはつぐないというようなものを背負っていくという意味で「自分の十字架として背負っていく」と語られることがよくあります。なにかたいへんな重荷を覚悟を決めて背負っていくというイメージがあります。たしかに十字架は重荷です。しかし、それは、本来の聖書においては、ままならぬ運命とか、責任を取るというような意味で背負うものではありません。
カトリックの教会や修道院に行くと、「十字架の道行き」という札が立っているところがあります。あるいは絵画で「十字架の道行き」が描かれていることもあります。主イエスの死刑宣告から十字架刑、墓に葬られるまでの14の場面、そして場合によっては15番目として復活の場面までが「十字架の道行き」には描かれています。主イエスは実際、エルサレムから死刑場であるされこうべの丘、ゴルゴタの丘までの二キロほどの道のりを十字架を背負って歩まれました。十字架の物理的重さは諸説あり40キロから百キロ近かったとも言われます。これを背負って二キロの道のりを歩むというのは健康な人間でもたいへんなことです。ましてや主イエスは、その前に、ローマ式の肉に食い込む鉄球がついた残酷な鞭で打たれてもおられます。「十字架の道行き」では主イエスが道で倒れられた場面が三回描かれています。主イエスが三回お倒れになったということは聖書には記されていませんが、実際、その足取りは痛々しくよろめきながらであったことでしょう。
物理的にもたいへんな十字架を主イエスは担われました。しかし、その重さは、単なる物理的な重さ、肉体的な苦痛を与える重さのみではなく、私たちの罪の重さでありました。主イエスは人間の罪の重さを十字架において担われました。それを知らない、ローマ兵や見物人の群衆は主イエスを罵ります。本来の意味で、十字架を担うということは、誰かの罪を担うことであり、しかもそれは人から褒められることでもなければ、格好の良いことでもありません。皆から罵られ、道をよろめきながら、みじめな姿で歩むことです。それは実際のところ、神であられるキリスト、救い主である主イエスでなければけっしてできないものでした。そしてその十字架による死は宗教的な意味での殉教ですらありませんでした。当時、むしろ主イエスは神から見捨てられたみじめな狂信者として死んだと人々は思いました。「そうれ見ろ、預言者だ、メシアだと言いながら、全く無力で無様に死んだではないか」と。
しかし、主イエスはおっしゃるのです。あなたたちも「わたしに従いなさい」と。キリストを信じるということはキリストに従うということです。頭で信じているけれど、日々の生活は自分の思うとおりにするのではれば、それは信じていることではありません。日曜日にうやうやしく礼拝を捧げるけれども、月曜から土曜までは神様のことは考えもしない生活を送るのではありません。聖書において信じるということは、行為によってあらわされることです。もちろん行為によって私たちは救いを得たわけではありません。しかし、救われた私たちは、救われた者にふさわしい生き方をします。救われたことへの感謝があれば、完全ではないにしろ、感謝ゆえに救われた者にふさわしい生き方になっていきます。少なくともそういう生き方を目指そうと願います。そう願って生きる生き方が主イエスに従う生き方です。
そしてそう願って生きていくとき、おのずとそれは十字架を担う歩みになっていきます。 勘違いをしてはいけないのですが、十字架を担う生き方というのは、世のため人のためになることをするということではありません。その良いことのために人知れず忍耐をするということでもありません。もちろん、キリスト教の考えにもとづいて福祉施設を立ち上げる、あるいは学校を作る、困った人を助けるためのボランティアをする、こういうことは良いことです。それが御心であると神から示されるのであればやったらいいのです。しかしそのことと、主イエスの十字架を背負うということは、イコールではありません。
十字架を担う生き方というのは、主イエスがそうであったように称賛を受けるような行為ではないということです。むしろ、さまざまなバッシングや妨害にあうかもしれません。もちろん敢えて自虐的な行為をすることではありません。ただそれは普通に考えて報われない行為なのです。人から見たらばかばかしく見える行為なのです。さきほど十字架は神であられる主イエスにしか担えないものだと申し上げました。実際、本来は人間には担えないものです。しかし、主イエスを信じ、主イエスの後を追う者は、主イエスとまったく同じ重さではないけれども、それぞれに十字架を担うことになるのだと主イエスはおっしゃっているのです。主イエスの後に従う、ということは、当たり前のことですが主イエスの前にはいないのです。主イエスのお姿を前に見ながら歩むとき、それはおのずと十字架を担う歩みになるのです。
十字架を担う歩みは人から見たらばかばかしく見える行為だ、報われない行為だと申しました。しかしまた逆に考えましたら、私たちの人生で、人からばかばかしく見えること、報われないことは、けっこうあるのではないでしょうか。仕事においても、家庭生活においても、報われないことは多くあります。どれほど労苦しても感謝されない、感謝されないどころかむしろ悪く言われてしまう、そういうことはままあります。しかし、主イエスの後に従いながら報われない行為、愛の行いをしていくとき、おのずとそれは十字架を担っていることになるのです。報われないことを、なんでもかんでもやればよいということではもちろんありません。正当な評価や感謝を求めてよいのです。しかし、仮に報われなくても、主イエスの後ろを歩みながら、愛の行いをしていくとき、それは十字架を担う歩みとされるのです。私たちが意識的に十字架を担いましょうと担うのではなく、私たちの報われない愛の行いを神が十字架を担っていると考えてくださるのです。この地上では報われないかもしれないけれど、終わりの日に神が報いてくださるのです。といっても、神の報いを求めて担うというのではありません。こうしたら神様に褒められる、天に富を積むことになると考えて行うことは、十字架を担うことではありません。ただただ主イエスの後ろで従いながら歩む、そこに十字架があるのです。
さて、さらに主イエスはおっしゃいます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」自分の命を救いたい者は命を失い、命を失う者は命を救うというのは、なぞかけのような言葉です。この言葉を自己を犠牲をしたらよいとか、なにか滅私奉公的なことをしたらよいという風にとってはいけないのです。ここで言われている「命」とはなんでしょうか?これはプシュケーというギリシャ語で、魂とか息という意味のある言葉です。人間の存在そのものといってよい言葉です。人間はただ生物学的に生きている存在ではなく、さまざまに考え、思いをもって生きていきます。願わくば、生きがいや喜びをもって生きたいと願っています。やりがいのある仕事をして、プライベートでもいろんな趣味をもって生き生きと生活をしていく、それは理想的なことのように思えます。
実際、私自身、そういうことを目指して生きていたように思います。忙しく、でもそこそこ生きがいをもって生きていたつもりでした。しかしある時、というか、長い間と言っていいかもしれません、意識していなかったむなしさというか、何か根本がかけているという気持ちになりました。だからというわけではないのですが、たまたま教会に行くこととなり、やがて洗礼を受けました。そしてそのあと気づいたのです。ああ、自分はほんとうの意味で生きていなかったと。死んでいたと。一生懸命働き、趣味もあって、生き生きと生きているつもりだった、でも死んでいた、と。
先日、ある教会の牧師就任式に伺いました。その就任式の礼拝の中で、司式をされた牧師の説教で、牧師の働きは、「生きよ」ということを人々に伝えることだと語られました。死んではいけない、生きよと伝えるのが牧師の役目だと。「生きよ」と伝えることはもちろん牧師の役目であり、それはとりもなおさず教会の役目でもあります。その牧師は、さらにおっしゃったのは、この春に、実はその先生の牧会されている教会の青年が自殺したということを語られました。それは牧師にとっても、教会にとってもたいへんな悲しみ嘆きであったと思います。実はその話は、牧師のメーリングリストで私自身、青年が失踪したところからお聞きしていました。皆で青年の無事のために祈りを合わせていた事件でもありました。しかし青年は命を自ら断ってしましました。
「生きよ」という言葉は、まずもちろん、肉体の命において「生きよ」というのです。死んではいけない、苦しみ多いこの地上にあって、なお生きよと伝えるのです。しかしまた、肉体の命は、肉体だけで支えることはできないのです。さきほどいいましたプシュケー、精神、魂において支えられるのです。さらにまた、その人間の精神、魂というものも、人間の力だけで支えられるものではないのです。キリストに従って歩んでいくとき、私たちは、それまで自分が大事だと思っていたさまざまなことを捨てるのです。自分を捨てて、とはそういうことです。自分がいきがいだと思っていたこと、大事だと思っていたこと、自分の命より大事だと思っていたこと、それらをいったん捨てるのです。そのとき、私たちは本当の命を知らされるのです。キリストの十字架と復活によって与えられるまことの命を知らされるのです。霊的な命を知らされるのです。その新しい命に生きるためには、古い自分が死ななければなりません。自分の思いや考えをいったんリセットしなければなりません。自分が大事だと思っていた命に死ななければなりません。洗礼において私たちはいったん死にます。命を失ったのです。そして新しく生かされました。霊的な命をいただきました。
そのとき、私たちは、新しい精神、魂に生き始めます。本当にやるべきことが見えてきます。むなしいと思っていた日々に光が注がれます。そのとき、肉体の命も、精神も、そして霊的な命も本当の意味で行かされるのです。洗礼を受けたのちも、私たちはキリストの後ろを歩んでいくとき、日々、ある意味、死んでいくのです。自分の命を捨てていくのです。しかし、だからこそ生かされる。死んではいけない、生きよというキリストの声を聞くのです。そしてこれまでとは違った世界が見えてくる、そして人間の評価や報いを超えたものを担えるようになってくる、自分の十字架を担えるようになってくる、それは滅私奉公のような苦しいお勤めではありません。いやもちろん苦しみはあります。しかし、本当の命に生きることです。愛に生きることです。この一週間も私たちは、生きます。まことの命に生きます。自分を捨てて、愛に生きていきます。