2018年8月12日 大阪東教会主日礼拝説教 「永遠の命の言葉」吉浦玲子
<去っていく人々>
今日の聖書個所では、主イエスから多くの人々が去っていく様子が描かれています。主イエスの宣教は、栄光に満ちた歩みで、奇跡から奇跡の輝くような物語が続き、多くの人々が主イエスのもとに集まり、主イエスをこぞって信じた、といったようには必ずしも聖書には記されていないのです。ヨハネによる福音書でも、たしかに宣教の初期やエルサレムに迎えられるとき、人々は熱狂して主イエスを讃えました。しかし、今日の聖書個所のように人々が去っていったことも記されています。主イエスは多くの人々や弟子たちすらも去っていったのち、残った弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」とお聞きになっています。とてつもなく、寂しい言葉です。あなたたちも去っていくのか?私を捨てていくのか?もてはやされ、多くの人々がガリラヤ湖を渡ってでも追いかけてきていたのに、潮が引くように去っていったのです。そこにはごくわずかの弟子たちだけが残っていました。残っていたのは十二人だけだったかもしれません。ある意味、主イエスは宣教者として、みじめな状況に追い込まれておられるのです。ヨハネによる福音書における主イエスの描かれ方は一般に「神としての栄光」を強調されているといわれます。受難の場面ですら、他の福音書に比べて神々しく描かれているといわれます。しかしなお、その福音書の物語を追っていくとき、けっして人間の目から見たら、栄光とばかりはいえないお姿も書かれています。宣教が成功に次ぐ成功ではなかったことが記されています。しかし、宣教が失敗し、人々が去っていったことも記されていることに、むしろ、この福音書の真実さがうかがえます。福音書というものが、主イエスをことさらに持ち上げて、おおげさな作り話をしているわけではないことが、今日のような聖書箇所において、強く感じられると思います。
さて、今日の聖書個所の前の部分で、主イエスはご自身を<永遠の命のパン>であるとおっしゃいました。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさいとおっしゃいました。その言葉に先立ち、6章の最初にありますが、ガリラヤ湖の向こう側で、主イエスにパンと魚で満腹にしてもらった人々は、主イエスにローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくださる王になってもらいたいと主イエスを追いかけてきました。しかし、「わたしのパンを食べ、わたしの血を飲みなさい」という主イエスの言葉を聞き、つぶやきました。人々が欲していたのは肉体を満腹させるパンでした。日々の生活を豊かにしてもらいたかったのです。そして人々はローマに支配されているイスラエルを解放してほしいと願っていました。ローマ帝国にイスラエルの人々は人頭税を支払わなくてはいけなかったのです。それが貧しい人々の暮らしをいっそう苦しめました。不思議な超人的な力をもっておられる主イエスにぜひとも王になってほしい、自分たちの生活を良くしてほしい、そう願っていた人々は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」などと薄気味悪いことをいい、自分たちの王にはなってくれない主イエスから去っていったのです。ほんとうは人間にとって最も大事なものは神がくださる命のパンであったのに、人々は理解しませんでした。そのパンは天から降ってきたパンであり、しかもそのパンはキリストご自身がその肉体を十字架に捧げられることも表していました。しかし、人々はそれが理解できませんでした。主イエスを信じるということは、単に頭で主イエスの教えや神学を理解するのではなかったのです。<キリストそのものをいただく>というほかはないようなあり方で、わたしたちはキリストとともに生き、キリストに従って歩むのです。私たちは日々、キリストに肉体も心も霊も養っていただくのです。しかし、それが人々にはわかりませんでした。そして、去っていったのは主イエスにパンと魚をいただいた人々だけではありません。弟子たちもまた去っていったのです。
今日の聖書個所の最初のところで、「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いていった。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」とつぶやきだしたのです。弟子というからには主イエスに従い、主イエスと行動を共にしてきた人々です。その人々の間に動揺が起こりました。主イエスへの不信感が起こったのです。しかし、それは新たに起こった不信感というより、不信感を募らせた弟子たちの中には、最初から主イエスへの誤解があったのです。つぶやきだした弟子たちもまた去っていった人々と同様、主イエスは超人的な力を持った人間だと思っていたのです。もちろん、弟子となって主イエスに従っていたからには、彼らも神の国の到来は願っていたことでしょう。神を求める気持ちは持っていたでしょう。しかし、神の国が、そして永遠の命が、キリストご自身の十字架によって成されるものとは理解していませんでした。
「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」そう、主イエスはおっしゃいます。肉とは人間的な力、考えを指しています。どんなにまじめに宗教的な求めを持っていても、霊、つまり神の力によらなければ、命には至らないと主イエスはおっしゃっているのです。つまり、肉、人間的な力や努力では、命は得られないのだとおっしゃっているのです。霊によって、つまり神の力によって命を得なければ滅びるのだとおっしゃっています。これは、端的に、神の力、つまり聖霊によらなければ信仰は得られないということでもあります。神の力によって、主イエスの言葉を、命の言葉として聞かせていただくのです。どんなに人間の力でがんばって聞いても、そこに命を感じることはできないのです。聖霊によってのみ、わたしたちは命の言葉を与えられるのです。聖霊によってのみ、わたしたちは信仰を与えられるのです。
<あらかじめ知られていたこと>
ところで、最初に、福音書には、主イエスの宣教の失敗の場面も記されていると申しました。しかしまた、このことは、主イエスにとってはあらかじめ知られていたことでもありました。主イエスが命のパンであることが、ご自分を信じることへの妨げになることは、主イエスご自身よくよくご存じでありました。「主イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、またご自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」と64節にあります。神はご自分を信じる者、信じないものをあらかじめご存じである、また、ひととき信じながらやがて、裏切る者がだれかもご存じである、この言葉を聞くとき、恐ろしいような気がします。
私自身は神を信じる者だと神に知られているのだろうか?いまは自分では神を信じているつもりだけれど、やがて私が神を裏切るということがあるのかもしれない、そのことをも神は知っておられるのであろうか?そのような不安にとらわれます。改革長老教会では「神の予定」ということを言います。神に救われる者はあらかじめ決められているという説です。そうなると自分は救われる側なのか、滅びる側なのか、どうしても気になります。一方で、もともと神が予定されていることならば、人間の側で信じるとか信じないということの意味がないようにも感じます。これはとても難しい問題です。
ルカによる福音書の有名なたとえ話の、<放蕩息子の話>では、父親のもとを去って放蕩の限りを尽くしたのち帰ってくる息子を父親は喜んで迎えます。ぼろぼろになって帰って来た息子に晴着を着せ、宴会を開きます。この父親は神がたとえられています。もし、息子が帰ってくることがあらかじめ予定されているならば、息子の帰還を父親は知っているならば、父親である神はそこまで喜ぶ必要はなかったように思います。あるいはやはりルカによる福音書のなかに、一匹の失われた羊のために、残りの九十九匹を野原に残して探し回る羊飼いのたとえ話がありますが、失われた羊があらかじめ戻るとわかっているなら羊飼いは探し回る必要はないといえます。しかし、失われた羊を羊飼いは探し回るのです。その羊飼いこそ、神であり、キリストの姿です。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」とそのたとえ話の終わりに書かれています。罪人は、いってみれば罪によって神から失われていた人間です。しかしその失われていた人間が神のもとに立ち返るとき、天には大きな喜びがある、と聖書は語っています。この人は立ち返るのか、立ち返らないのか、あらかじめ分かっているならば、天に大きな喜びがあるとは考えにくいでしょう。
もちろん、予定ということは難しい問題で、単純には語れないことです。
しかし、今日の聖書個所で主イエスは驚くべきことをおっしゃっています。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」悪魔とは、やがて主イエスを裏切って祭司長たちに売ったイスカリオテのユダを指しています。主イエスは、ご自身を十字架へとつける直接的な働きをするユダをも選ばれた、とご自身でおっしゃっているのです。
<ユダをも選ばれていた>
神はユダをも選ばれていたのです。ユダは裏切ったのだから、選ばれていなかった、あらかじめ救いに予定されていなかったのだというのではありません。ユダも選ばれていたのです。救われるようにと選ばれていたのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだではないか。」この言葉は重い言葉です。そしてまた愛に満ちた言葉です。ここで、主イエスは十二人をわけ隔てされていません。ユダは裏切るとわかっていたから、別枠だというのではありません。ユダはもともと滅びることに選ばれていて、主イエスが十字架にむかうために祭司長たちと陰謀をたくらむようにさせて利用したのだ、ということでもありません。主イエスはユダも含めて、等しくそのまなざしのなかにとらえておられます。そもそも裏切るというのは、本来味方である相手に背くということです。本来、敵であるならば、相手に不利なことをしても当然で、それは裏切るとはいいません。
そもそも、残った弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と主イエスは問われましたが、この時はとどまった弟子たちも、十字架の場面では皆、逃げ去ってしまうのです。そのことをも主イエスはご存知でした。シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と堂々と信仰の告白をします。しかし、このペトロですら、十字架の時には逃げ去り、逃げ去ったのみならず、「あなたは主イエスの弟子ではないか」と問われたときに、「イエスなんて知らない」と三回も主イエスを否定したことは聖書においては有名な話です。主イエスはペトロが三回も「イエスなんて知らない」ということもご存知でした。しかしなお、主イエスはペトロを選ばれました。
弟子たちは特に愚かだったのでしょうか?その愚かな弟子たちが特別な憐れみを持って主イエスに選ばれたのでしょうか。そうではありません。私たちもみな、神に背き、裏切る者なのです。神はそのことをご存知です。おりおりに主イエスのことなんて知らないと私たちはいうのです。神の言葉を読んで「ひどい話だ」と思うのです。「ひどい話」とははっきりとは思わないかもしれません。しかし、神の言葉を自分にとって耳障りのよいことろだけを聞き、耳の痛いところはスルーするとき、スルーした部分は「ひどい話だ」と判断しているのです。
そのような私たちに主イエスは「あなあがたも離れて行きたいか」と問われます。実際、私たちは折々に離れて行くことを主イエスはご存じなのです。しかしなお、「あなたは、わたしが選んだのではないか」とおっしゃるのです。ペトロは、自分が、主イエスを認め、主イエスを神の聖者であると考えていると言いました。でも、ペトロが主イエスを選んだのではありません。主イエスがペトロを選んだのです。私たちもまた主イエスを選んだのではありません。主イエスが選んでくださったのです。
だから主イエスのもとにとどまるのです。み言葉にとどまるのです。聖霊によってみ言葉から命をいただくのです。繰り返し繰り返し、主イエスのもとに立ち返るのです。そのとき、放蕩息子の父親のように、神は大いに喜んでくださいます。天に大きな喜びが、大いなるどよめきが起きます。このちっぽけな罪人である、失われた羊であるもののために、神の喜びは尽きないのです。