大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書6章60~71節

2018-08-17 16:54:47 | ヨハネによる福音書

2018年8月12日 大阪東教会主日礼拝説教 「永遠の命の言葉」吉浦玲子

<去っていく人々>

 今日の聖書個所では、主イエスから多くの人々が去っていく様子が描かれています。主イエスの宣教は、栄光に満ちた歩みで、奇跡から奇跡の輝くような物語が続き、多くの人々が主イエスのもとに集まり、主イエスをこぞって信じた、といったようには必ずしも聖書には記されていないのです。ヨハネによる福音書でも、たしかに宣教の初期やエルサレムに迎えられるとき、人々は熱狂して主イエスを讃えました。しかし、今日の聖書個所のように人々が去っていったことも記されています。主イエスは多くの人々や弟子たちすらも去っていったのち、残った弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」とお聞きになっています。とてつもなく、寂しい言葉です。あなたたちも去っていくのか?私を捨てていくのか?もてはやされ、多くの人々がガリラヤ湖を渡ってでも追いかけてきていたのに、潮が引くように去っていったのです。そこにはごくわずかの弟子たちだけが残っていました。残っていたのは十二人だけだったかもしれません。ある意味、主イエスは宣教者として、みじめな状況に追い込まれておられるのです。ヨハネによる福音書における主イエスの描かれ方は一般に「神としての栄光」を強調されているといわれます。受難の場面ですら、他の福音書に比べて神々しく描かれているといわれます。しかしなお、その福音書の物語を追っていくとき、けっして人間の目から見たら、栄光とばかりはいえないお姿も書かれています。宣教が成功に次ぐ成功ではなかったことが記されています。しかし、宣教が失敗し、人々が去っていったことも記されていることに、むしろ、この福音書の真実さがうかがえます。福音書というものが、主イエスをことさらに持ち上げて、おおげさな作り話をしているわけではないことが、今日のような聖書箇所において、強く感じられると思います。

 さて、今日の聖書個所の前の部分で、主イエスはご自身を<永遠の命のパン>であるとおっしゃいました。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさいとおっしゃいました。その言葉に先立ち、6章の最初にありますが、ガリラヤ湖の向こう側で、主イエスにパンと魚で満腹にしてもらった人々は、主イエスにローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくださる王になってもらいたいと主イエスを追いかけてきました。しかし、「わたしのパンを食べ、わたしの血を飲みなさい」という主イエスの言葉を聞き、つぶやきました。人々が欲していたのは肉体を満腹させるパンでした。日々の生活を豊かにしてもらいたかったのです。そして人々はローマに支配されているイスラエルを解放してほしいと願っていました。ローマ帝国にイスラエルの人々は人頭税を支払わなくてはいけなかったのです。それが貧しい人々の暮らしをいっそう苦しめました。不思議な超人的な力をもっておられる主イエスにぜひとも王になってほしい、自分たちの生活を良くしてほしい、そう願っていた人々は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」などと薄気味悪いことをいい、自分たちの王にはなってくれない主イエスから去っていったのです。ほんとうは人間にとって最も大事なものは神がくださる命のパンであったのに、人々は理解しませんでした。そのパンは天から降ってきたパンであり、しかもそのパンはキリストご自身がその肉体を十字架に捧げられることも表していました。しかし、人々はそれが理解できませんでした。主イエスを信じるということは、単に頭で主イエスの教えや神学を理解するのではなかったのです。<キリストそのものをいただく>というほかはないようなあり方で、わたしたちはキリストとともに生き、キリストに従って歩むのです。私たちは日々、キリストに肉体も心も霊も養っていただくのです。しかし、それが人々にはわかりませんでした。そして、去っていったのは主イエスにパンと魚をいただいた人々だけではありません。弟子たちもまた去っていったのです。

 今日の聖書個所の最初のところで、「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いていった。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」とつぶやきだしたのです。弟子というからには主イエスに従い、主イエスと行動を共にしてきた人々です。その人々の間に動揺が起こりました。主イエスへの不信感が起こったのです。しかし、それは新たに起こった不信感というより、不信感を募らせた弟子たちの中には、最初から主イエスへの誤解があったのです。つぶやきだした弟子たちもまた去っていった人々と同様、主イエスは超人的な力を持った人間だと思っていたのです。もちろん、弟子となって主イエスに従っていたからには、彼らも神の国の到来は願っていたことでしょう。神を求める気持ちは持っていたでしょう。しかし、神の国が、そして永遠の命が、キリストご自身の十字架によって成されるものとは理解していませんでした。

 「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」そう、主イエスはおっしゃいます。肉とは人間的な力、考えを指しています。どんなにまじめに宗教的な求めを持っていても、霊、つまり神の力によらなければ、命には至らないと主イエスはおっしゃっているのです。つまり、肉、人間的な力や努力では、命は得られないのだとおっしゃっているのです。霊によって、つまり神の力によって命を得なければ滅びるのだとおっしゃっています。これは、端的に、神の力、つまり聖霊によらなければ信仰は得られないということでもあります。神の力によって、主イエスの言葉を、命の言葉として聞かせていただくのです。どんなに人間の力でがんばって聞いても、そこに命を感じることはできないのです。聖霊によってのみ、わたしたちは命の言葉を与えられるのです。聖霊によってのみ、わたしたちは信仰を与えられるのです。

<あらかじめ知られていたこと>

 ところで、最初に、福音書には、主イエスの宣教の失敗の場面も記されていると申しました。しかしまた、このことは、主イエスにとってはあらかじめ知られていたことでもありました。主イエスが命のパンであることが、ご自分を信じることへの妨げになることは、主イエスご自身よくよくご存じでありました。「主イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、またご自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」と64節にあります。神はご自分を信じる者、信じないものをあらかじめご存じである、また、ひととき信じながらやがて、裏切る者がだれかもご存じである、この言葉を聞くとき、恐ろしいような気がします。

 私自身は神を信じる者だと神に知られているのだろうか?いまは自分では神を信じているつもりだけれど、やがて私が神を裏切るということがあるのかもしれない、そのことをも神は知っておられるのであろうか?そのような不安にとらわれます。改革長老教会では「神の予定」ということを言います。神に救われる者はあらかじめ決められているという説です。そうなると自分は救われる側なのか、滅びる側なのか、どうしても気になります。一方で、もともと神が予定されていることならば、人間の側で信じるとか信じないということの意味がないようにも感じます。これはとても難しい問題です。

 ルカによる福音書の有名なたとえ話の、<放蕩息子の話>では、父親のもとを去って放蕩の限りを尽くしたのち帰ってくる息子を父親は喜んで迎えます。ぼろぼろになって帰って来た息子に晴着を着せ、宴会を開きます。この父親は神がたとえられています。もし、息子が帰ってくることがあらかじめ予定されているならば、息子の帰還を父親は知っているならば、父親である神はそこまで喜ぶ必要はなかったように思います。あるいはやはりルカによる福音書のなかに、一匹の失われた羊のために、残りの九十九匹を野原に残して探し回る羊飼いのたとえ話がありますが、失われた羊があらかじめ戻るとわかっているなら羊飼いは探し回る必要はないといえます。しかし、失われた羊を羊飼いは探し回るのです。その羊飼いこそ、神であり、キリストの姿です。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」とそのたとえ話の終わりに書かれています。罪人は、いってみれば罪によって神から失われていた人間です。しかしその失われていた人間が神のもとに立ち返るとき、天には大きな喜びがある、と聖書は語っています。この人は立ち返るのか、立ち返らないのか、あらかじめ分かっているならば、天に大きな喜びがあるとは考えにくいでしょう。

 もちろん、予定ということは難しい問題で、単純には語れないことです。

 しかし、今日の聖書個所で主イエスは驚くべきことをおっしゃっています。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」悪魔とは、やがて主イエスを裏切って祭司長たちに売ったイスカリオテのユダを指しています。主イエスは、ご自身を十字架へとつける直接的な働きをするユダをも選ばれた、とご自身でおっしゃっているのです。

<ユダをも選ばれていた>

 神はユダをも選ばれていたのです。ユダは裏切ったのだから、選ばれていなかった、あらかじめ救いに予定されていなかったのだというのではありません。ユダも選ばれていたのです。救われるようにと選ばれていたのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだではないか。」この言葉は重い言葉です。そしてまた愛に満ちた言葉です。ここで、主イエスは十二人をわけ隔てされていません。ユダは裏切るとわかっていたから、別枠だというのではありません。ユダはもともと滅びることに選ばれていて、主イエスが十字架にむかうために祭司長たちと陰謀をたくらむようにさせて利用したのだ、ということでもありません。主イエスはユダも含めて、等しくそのまなざしのなかにとらえておられます。そもそも裏切るというのは、本来味方である相手に背くということです。本来、敵であるならば、相手に不利なことをしても当然で、それは裏切るとはいいません。

 そもそも、残った弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と主イエスは問われましたが、この時はとどまった弟子たちも、十字架の場面では皆、逃げ去ってしまうのです。そのことをも主イエスはご存知でした。シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と堂々と信仰の告白をします。しかし、このペトロですら、十字架の時には逃げ去り、逃げ去ったのみならず、「あなたは主イエスの弟子ではないか」と問われたときに、「イエスなんて知らない」と三回も主イエスを否定したことは聖書においては有名な話です。主イエスはペトロが三回も「イエスなんて知らない」ということもご存知でした。しかしなお、主イエスはペトロを選ばれました。

 弟子たちは特に愚かだったのでしょうか?その愚かな弟子たちが特別な憐れみを持って主イエスに選ばれたのでしょうか。そうではありません。私たちもみな、神に背き、裏切る者なのです。神はそのことをご存知です。おりおりに主イエスのことなんて知らないと私たちはいうのです。神の言葉を読んで「ひどい話だ」と思うのです。「ひどい話」とははっきりとは思わないかもしれません。しかし、神の言葉を自分にとって耳障りのよいことろだけを聞き、耳の痛いところはスルーするとき、スルーした部分は「ひどい話だ」と判断しているのです。

 そのような私たちに主イエスは「あなあがたも離れて行きたいか」と問われます。実際、私たちは折々に離れて行くことを主イエスはご存じなのです。しかしなお、「あなたは、わたしが選んだのではないか」とおっしゃるのです。ペトロは、自分が、主イエスを認め、主イエスを神の聖者であると考えていると言いました。でも、ペトロが主イエスを選んだのではありません。主イエスがペトロを選んだのです。私たちもまた主イエスを選んだのではありません。主イエスが選んでくださったのです。

 だから主イエスのもとにとどまるのです。み言葉にとどまるのです。聖霊によってみ言葉から命をいただくのです。繰り返し繰り返し、主イエスのもとに立ち返るのです。そのとき、放蕩息子の父親のように、神は大いに喜んでくださいます。天に大きな喜びが、大いなるどよめきが起きます。このちっぽけな罪人である、失われた羊であるもののために、神の喜びは尽きないのです。


ヨハネによる福音書 6章34~59節

2018-08-07 13:21:27 | ヨハネによる福音書

2018年8月5日 大阪東教会主日礼拝説教 「世を生かすための肉」吉浦玲子

 

<ショッキングな言葉>

 

 4つある福音書の中でヨハネによる福音書は一番遅くできました。ヨハネによる福音書ができた時代、キリスト教の迫害が始まっていました。ヨハネによる福音書はその迫害を背景として色濃く持っています。そもそもペンテコステののち、教会は発展していきました。しかし、そこには迫害もありました。キリスト教がまだユダヤ教の一派とみなされているときは、ユダヤ教はローマ帝国から認められていましたから、迫害はありませんでした。しかし、キリスト教はイエス・キリストをメシア、つまり救い主とします。それに対し、まだメシアは到来していないとユダヤ教は考えています。ですからおのずとキリスト教はユダヤ教と袂を分かつこととなりました。そこから迫害が始まりました。ユダヤ教からも迫害されましたし、ローマからも迫害をされたのです。それまではユダヤ教の会堂、シナゴークで集会が行えていたのに、そこから追放されました。実際、ヨハネによる福音書には「会堂から追放される」という記述がよく記されています。

 

 さて、今日の聖書個所の35節で「わたしが命のパンである」と主イエスが語られ、51節、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」とあります。さらには「わたしの肉を食べ、血を飲む」という表現もあります。聖書のことを知らない人が読むと、「世を生かすためのわたしの肉」という言葉にはぎょっとすると思います。「わたしがパンである」とか「わたしが天から降って来た生きたパンであり、このパンを食べるならば、、、」という、キリストを食べるということを思わせる表現には初めて聞いた人は誰しも驚くと思われます。

 

 このキリストを食べる、血を飲む、ということはのちの聖餐の起源にかかわる言葉です。聖餐を教会は大事にしてきました。本日も聖餐式を執行いたしますが、それは何となく威厳のあるようなありがたいような、霊験あらたかな儀式ではありません。実際、そこで配餐されるパンとぶどうジュースは、別に特別なものではありません。司式者が呪文のようなものを唱えて、特別な物体に変化するものでもありません。しかしなお、わたしたちはどこにでもあるパンとぶどうジュースをいただきながら、聖霊の働きによって、信仰において、キリストを食べ、キリストの血を味わいます。主イエスが、<わたしこそが天から降って来た生きたパンである>とおっしゃってくださったキリストの肉をいただき、そしてまたキリストの血をいただくのです。

 

 この「わたしこそが天から降って来た命のパンである」という聖書の言葉、そしてそのことを繰り返し味わう聖餐のことが、クリスチャンではない人々に伝わったとき、とんでもない誤解を受けました。キリスト教徒は人肉を食べているという誤解が人々の間に伝わったのです。キリスト教は得体のしれない、恐ろしい宗教だということで、迫害を受けたのです。以前、壮年婦人会で初代協会の歴史について学んだときお話したことがあるかと思いますが、教会がこの世界と隔たって閉鎖的に活動をしているとき、教会の外の人からは何となく、薄気味悪いような、恐ろしいような感覚を持たれるようです。その初期の迫害ののち、教会は、社会と関係を持つようになったそうです。社会の人が、みんながみんなイエス様のことを信じないとしても、少なくとも、キリスト教が反社会的な存在ではなく、また教会の中で、反倫理的なことが行われているのではないということを少しずつ認知してもらうようにしていったのです。こののちも、さまざまな理由で、ローマ帝国からの迫害は強まりましたが、一般社会の人から、キリスト教は恐ろしい宗教だという誤解のゆえに迫害を受けることはなくなりました。おおむね、キリスト教徒はノンクリスチャンの人々から好意的な感覚を持たれるようになったのです。

 

<つぶやく人々>

 

 しかし、初期の迫害の原因になるほど、<わたしこそが天から降って来た生きたパンである>という言葉や、キリストを食べるという感覚はショッキングなものであったのです。実際、この言葉を聞いた人々は「つぶやきはじめた」とあります。そもそもこのイエスという男はヨセフの息子ではないか。大工のせがれではないか。なのになぜ「天から降って来た」などというのかという疑問を持った、そういうことは、当時、イエス様を実際に見た人、ことに同郷の人々の感情として理解できなくはありません。ちなみに「つぶやく」という言葉は新共同訳聖書では「不満を言う」と訳されているところもあります。しかし、聖書の原語における「つぶやく」というのは、まさにぶつぶつ言うというつぶやきなのです。相手にはっきりとした批判をするわけではなく、聞こえるような聞こえないような感じで、ぶつぶつ言うのです。なぜぶつぶついうのかというと、相手に対する信頼感がないからです。信頼感があるのであれば、ぶつぶついうのではなく、はっきりと意見をしたり議論をしたりするのです。しかし、信頼がないので、相手には直接には向かわず、ぶつぶつ言うのです。それに対して、祈りというのは神との対話です。つぶやきと対極にあるものです。祈りはつぶやきではなく、神に向かっています。祈りの中で神への不満を言うこともあるかもしれません。「なぜ私の願いを聞いてくださらないのです?」「私はあなたから与えられたものに満足できません」等々言うことがあるかもしれません。しかし、それはつぶやきではありません。信仰において許されることです。祈りの中で神に不満を言ったとしても、それは聞いてくださる神への信頼に基づいたものです。しかし、信頼がないとき、祈りではなく、つぶやきになります。つぶやきの根にあるのは不信感であり、不信仰です。

 

 今日の聖書個所に出てくる人々は、主イエスを実際に見ていたのです。その奇跡をも見ました。しかし、見るということと、信頼するということ、そしてまた信仰ということは直接には結びつかないということが、この場面でもよくわかります。ヘブライ人への手紙にも書かれているように、信じるということは、見えないものを信じる、ということだからです。見えるものを信じる必要はないのです。主イエスは天から降って来た命のパンであること、そのパンをいただくことが本当の命に生きることであること、それを信じることができる人生は幸いです。主イエスを知っていたイスラエルの多く人々は主イエスを信じませんでした。しかしまた、すこしほっとすることも聖書には書かれています。イスラエルの人々の中に、つまり、主イエスがヨセフの息子で大工のせがれだと知っている人の中にも信仰者はわずかですが起こされたのです。主イエス12人の弟子たちもそうですし、主イエスの母マリアをはじめ、家族たちも、やがて主イエスを信じる者とされたようです。福音書の記述を読みますと、母マリアをはじめ、家族たちは主イエスが宣教をはじめられた最初の頃は、主イエスがおかしくなったのではないかと疑って連れ戻しにすら来たようです。しかし、具体的なことは書かれていませんが、福音書や使徒言行録を読みますと、確かに主イエスの家族も主イエスを信じる者となったのです。実際、主イエスの小さい時から知っていて、同じ家で生活をしていた人々が信じる者とされたというのは、むしろ驚くべきことだと思います。

 

 ところで、昔、母教会の牧師が、「ご高齢で、教会に来ることができなくなった方々に訪問聖餐をするとき、その方々の信仰に心動かされる」とおっしゃっていたことを思い出します。寝たきりのベットの上で、小さなパンとほんの少しのぶどうジュースをいただいて、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして喜んでおられる方々を見ているとその方の歩んでこられた信仰の豊かさを思う、とおっしゃっていました。豪華な食事ではない、むしろ貧しいパンとジュースなのです。しかしもう体も言うことをきかない状態で、なお喜びを感じておられる。その様子に感動をするとおっしゃいました。それらの人々は赴任したばかりの牧師と個人的に親しいわけでもないのです。世間話がはずむ相手でもありません。だれかが会いに来てくれて話し相手をしてくれてうれしいというのではないのです。しかし、聖餐のパンとジュースに涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして喜ばれる方々は、まさに聖餐の場にあって、キリストをいただいておられるのです。肉体的な体は弱っているけれども、なお自分がキリストと結びつき、永遠の命に生かされていることを感じておられるのです。逆に言うと、自分がどのような状態であったとしても、キリストのゆえに生かされていること、生き生きと行かされていることこそが永遠の命をいただいているということです。そのことを確認するのが聖餐です。

 

<見える説教>

 

 ところで、さきほど、信仰とは見えないものを信じることだと申し上げました。では、見ることを神様は否定なさるのでしょうか?そうではありません。たとえば信仰の父、アブラハムは75歳で神の導きに従い、生まれ住んだ土地を離れました。神はあなたの子孫を祝福すると約束されたのです。しかし、それから20年ほどたってもアブラハムには子供ができませんでした。アブラハムの年齢は100歳近くになっていました。神に従って歩んできたアブラハムでしたが、やはり子供は与えられないとあきらめかけていました。アブラハムは神に対して不満を言いました。つぶやいたのではありません、はっきりと神に向かって「あなたは子供を与えてくださらない」と申し上げたのです。それに対して、神はアブラハムを外に連れ出し、満天の星を見上げさせられました。そして「あなたの子孫はこの星のように増える」とおっしゃいました。アブラハムはその言葉を信じました。神への信頼が揺らいでいたアブラハムに神は空を見上げさせられたのです。そして星を数えてみよとおっしゃったのです。アブラハムはその星をみて、神の言葉を聞いて信じました。

 

 わたしたちにもまた、神は見えるものをあたえてくださいます。見えるものに縛られ、惑わされる私たちのために、主イエスを信じていても、信仰の揺らぎがちなわたしたちのために聖礼典が備えられました。聖餐は<見える説教>だともいわれます。語られる説教は、聖霊によって神の言葉とされますが、説教そのものは目に見えません。一方で、聖餐は見える形での説教であるといえます。キリストの十字架と復活、罪の赦しを見える形で語る説教が聖餐です。

 

 そしてまたこの聖餐は、信仰によって味わうものです。信仰がなければ、ただのそこらへんで買えるパンとジュースなのです。今日の聖書個所は6章最初の5000人の食事からつながるものです。6章最初にある5000人の食事を聖餐の起源だとして、洗礼をまだお受けになっていない方にも聖餐式の配餐をすべきだと主張する人々が一部にいます。しかし、今日の聖書個所を読んでもわかるように、主イエスから食事をいただいた人々は、主イエスを信じることなく「つぶやいた」のです。旧約聖書の時代の、荒れ野でマンナをいただいた出エジプトの民も、荒れ野で神に繰り返し「つぶやき」ました。聖餐は単なる食事ではありません。つぶやきではなく、神への信頼においていただくものなのです。

 

 出エジプトの民にモーセはその最後の説教の中で語ります。神が人々にマンナを食べさせたのは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」と。神はもちろん肉体のためにパンが必要であることはご存知です。ですから、荒れ野でマンナを降らせ、そしてまた5000人を満腹させられたのです。しかし、マンナを食べた民も、5000人の人々も多くはまことの神への信仰には至りませんでした。

 

 人間は、「主の口からでるすべての言葉によって生きること」が必要なのです。神の言葉を聞くとき、信じる者に変えられます。そして神の言葉によって生きるとき、私たちはつぶやきをやめます。神への信頼のなかに生きていきます。喜びの中に生きていきます。主の口から出るすべての言葉によって、まことの命に生きるものとされるのです。元気な時も肉体が弱った時も、順風満帆の時も試練の時も、主のみ言葉によって生かされまし。そしてその命が永遠の命へと至る命であることを信じさせていただきます。そのときわたしたちには平安が与えらえます。

 

 信仰の弱い私たちが、見える説教を味あわせていただきながら、繰り返し、キリストの十字架と復活を覚えるのです。罪の赦しを感謝するのです。主の口からでる言葉によって生かされます。見える説教である聖餐において信仰を強められます。赦されて永遠の命を生きる者として喜びのうちに歩みます。

 


ヨハネによる福音書 6章22~33節

2018-08-07 13:03:16 | ヨハネによる福音書

2018年7月29日 大阪東教会主日礼拝説教 神が与えられる食べ物吉浦玲子

 

<しるしをみない>

 

 主イエスからふしぎなやり方でパンと魚をいただいた人々は、主イエスを追い、湖を渡りました。6章の14~15節に「「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とありますように、人々は主イエスに王になっていただきたかったのです。そのことを知った主イエスはその場からお逃げになりました。しかし、人々はあきらめませんでした。幾人かの人々が小舟に乗り、主イエスを追ってきたのです。おそらく、5000人の群衆の内、特に熱狂的な人々か、リーダー的な人々が渡って来たのでしょう。そして湖の向こう側でイエス様を見つけると「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と声をかけました。ラビというのは聖書に良く出てくる言葉で「先生」という意味ですが、「先生」と、うやうやしく声をかけながら、「いつ、ここにおいでになったのですか」という言葉には少し非難めいた響きがあります。なんで自分たちにことわりもなくここにやってきたのか、そんなニュアンスがあります。「ラビ」と一見敬うような言葉で呼びかけながら、実際は、主イエスに自分の思い通りに動いてほしかったのです。自分たちがあなたを王としようとしているのに、なぜあなたはいなくなったのか。なぜ自分たちのためにその力を使ってくれないのか。そのような非難のニュアンスがあります。

 

 それに対して主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とおっしゃいました。

 

 ヨハネによる福音書では、主イエスのなさった奇跡のことを「しるし」と書かれているということを何回かお話ししました。主イエスが天から来られた方、神の御子であることを知るための「しるし」として、主イエスのなさった奇跡はあります。主イエスのなさったことは、本来、神の業の「しるし」なのです。

 

 5000人の人々に主イエスはパンと魚をお与えになった、それはとりもなおさず、神の業の「しるし」でした。しかし、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と主イエスがおっしゃるように、人々は、そこに奇跡的な出来事を見たにもかかわらず、その出来事の内に神の業である「しるし」は見ませんでした。

 

 しかし、考えますと、私たちも奇跡を見ても、なかなかそれが神の業であるということを理解できません。「しるし」を見ることができないのです。現代においても「しるし」はたくさんあるのです。5000人の人々に奇跡的なやり方でパンと魚が配られる場面に私たちは遭遇することはないかもしれません。しかしやはり、私たちの日々に多くの「しるし」はあるのです。キリスト者の日々は、神の「しるし」である奇跡に満ちているのです。

 

 奇跡を信じない信仰、奇跡と見える出来事の向こうに神の配慮、「しるし」を見ない信仰というのは弱い信仰です。ただ満腹することだけを求める信仰です。神のしるしがあっても、それは偶然であるとか、あるいは別のもっともらしい合理的な理由をつけて、しるしをしるしとして受け取らない、それはとても寂しい貧しい信仰です。しかし、私たちの信仰は往々にしてさびしく貧しい信仰になってしまうのです。しかしまた、寂しい貧しい信仰しか持っていない私たちに、なお、神は愛と憐みをもって、さらなるしるしを見せてくださいます。私たちがまことに神を信じる者になるためです。更に神を信じる者になるためです。神のしるしを見て、私たちの上に注がれる神の奇跡の業を知って、私たちが平安に喜びを持って生きていくためです。

 

 さて、主イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とおっしゃっています。働くという言葉は、仕事をする、という一般的な意味の言葉ですが、「稼ぐ」というニュアンスもあるそうです。つまり、この世の現実的なパンだけでなく、永遠の命にいたる食べ物を稼ぎなさい、と主イエスはおっしゃっているのです。それに対して、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と人々は聞いています。ある方によりますと、この「神の業」という言葉も、さきほどの「働く」「稼ぐ」という言葉が名詞化したものだそうです。つまり「神の業を行う」とは「神のために働く仕事」といってもいいことです。それに対して、主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とお答えになります。つまり、神から遣わされた者、すなわち私を信じなさいとおっしゃっています。それに対して人々は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」と答えます。あなたが信じるに足りる者である証拠を見せよ、信じるに足りることをやってみせよと言っているのです。ここで「どのようなことをしてくださいますか」という言葉の「する」もまた「働く」「稼ぐ」と言う言葉です。私たちのためにどのように稼いでくれるのかと問うているのです。

 

 奇跡を信じない、奇跡を見てもそれを、神のしるしであると思えない人は、奇跡を実際は見ながら、奇跡を見せろ、というのです。30節で「どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」といった人々は、すでに主イエスから満腹するほどのパンと魚をいただいた人々なのです。人々はとんでもない奇跡を見ました。どこかにうずたかく積まれているパンや魚はないのに、次から次にパンや魚が与えらえるのです。しかし、その奇跡に、人々は神の働きを見なかったのです。ただ、なにかすごい力を持った人間が奇跡的なことをした、この人間を自分たちの王にしよう、そう人々は考えました。さらに人々は言います。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」つまりモーセはすごいことをした、あなたにもモーセと同じことができるか?と問うているのです。それに対して、主イエスはマンナはモーセが与えたのではなく、天の父が与えられたのだと答えられました。

 

 これは興味深いやり取りです。主イエスを王にしたいと考えている人々はけっして聖書のことを知らないわけではないのです。イスラエルの人々ですから幼いころから聖書を学んできた人々です。モーセの物語も、マンナのことも知っているのです。しかし、モーセの物語を知っていても、それはモーセという自分たちの偉大な祖先の物語としか理解していないのです。マンナは、まさに荒れ野で飢えた民に、神のしるしとして与えらえた食べ物でした。毎日、決まった量が与えられました。それは翌日まで取っておくことはできませんでした。毎日毎日、必要量が与えられたのです。まさに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という主の祈りの言葉そのままに、日用の糧、今日の分が与えられたのです。一か月分とか一生分ではなく、日々、主の恵みによって生かされていることの「しるし」としてマンナは与えられました。マンナは神の働き、神の稼ぎによって生かされていることを知るための「しるし」でした。しかし、マンナを与えられた出エジプトの民も神に反抗しました。そして主イエスの時代の人々もマンナの話を知りながら、そこに神の「しるし」を見ませんでした。そして主イエスに対して、「あなたにも同じことができるか」と問うたのです。どれほど聖書や神に関する知識があっても、神の「しるし」が見えない限り、そこには本当の信仰はないのです。聖書学者や牧師や神学や聖書に詳しい信徒が必ずしも深い信仰を持っているわけではないという皮肉があるように、信仰とは神の働きを見ることができること、そのために、神から遣わされたお方、主イエスを信じることなのです。

 

 ヨハネによる福音書4章にサマリアの女の話がありました。この女性は、主イエスが自分のプライベートな秘密を言い当てたことに驚きます。しかしそこではまだ主イエスを神から遣わされた方だとは信じていませんでした。主イエスのなさったことに「しるし」を見ていませんでした。そして主イエスと「礼拝をすべきはエルサレムかゲリジム山か」というような神学議論をしようとしました。この女性もまた、ある意味、知識が邪魔をしたのです。しかし、この女性はやがて主イエスを救い主だと信じました。今日の聖書箇所の人々と主イエスを救い主と信じたサマリアの女性は何が違ったのでしょうか?主イエスに見せていただいた奇跡としては、今日の聖書箇所に出てくる人々の方が大きなものであったにも関わらず、今日の聖書箇所に出てくる人々は、やがて決定的に主イエスと対立していくのです。

 

 いろいろな理由が考えられますが、一つには悔い改めの有無があろうかと思います。サマリアの女性は自分自身の男性遍歴を主イエスから指摘されました。それはけっして叱責されたわけではありませんが、サマリアの女性は、自分の中の欠けたところ、問題点をはっきりと認識したのです。悔い改めと同時に、それを解決してくださるのは神から来られた方だけであると理解したのです。「しるし」に気づくことと悔い改めはコインの裏表のようなものです。それは同時に起こるのです。

 

 一方で、今日の聖書箇所に出てくる人々は、主イエスを自分たちの王としようとしていました。 私が子供のころはあまり聞かなかった言い回しで「あの人は使える」「この人は使えない」という言い方があります。「使う」というのは「利用できる」という意味です。あの人は有能だ、無能だというニュアンスでしょうか。人間を道具のように扱って「使える」「使えない」という言い方はあまり好きな言い回しではありません。しかし、今日の聖書箇所で言えば、イエス様からパンと魚をいただいた人々は、まさにイエス様のことを「イスラエルのために<使える人間>だ」と感じたのです。もっとも第一に救われなければいけないのはイスラエルという国や民族ではなく、自分自身であるのに、その自分の問題には意識がいっていないのです。パンを食べさせてくれる、生活を良くしてくる、そのために使える人間として主イエスのことを見ていたのです。そこにはまことの信仰はありません。

 

<しるしを見る者になるために>

 

 ところで、マタイ、マルコ、ルカの福音書には「種をまく人」のたとえ話が出て来ます。道端に落ちた種、石の上に落ちた種、いばらの中に落ちた種、良い土地に落ちた種の話が出て来ます。せっかく種がまかれても土地が悪いと芽が出ても途中で枯れてしまうというたとえ話です。よい土地にまかれた種は何十倍もの収穫をあげるという話でした。この話は信仰のたとえ話でした。たとえば、いばらの生えた土地というのは、せっかく福音を聞いて信仰を持っても、この世の誘惑に取り込まれてしまうという例えでした。このたとえ話を聞くと、私たちは良い土地にならないといけないと思うのです。信仰がすくすく育っていく良い土地にならないといけないと思うのです。それは間違っていませんが、しかし、信仰の種をまき、育ててくださるのは神です。私たちの心がいばらだらけでも石ころだらけでも神は種を蒔き続けてくださるのです。

 

 ヨハネによる福音書の6章は、主イエスと群衆の間に決定的な分裂が起こることが記されている聖書箇所です。今日の聖書箇所はその分裂の入り口となる出来事です。実際、今日の聖書箇所でも主イエスはきびしいことをおっしゃいます。それは人々に「しるし」を信じる者になって欲しいからです。神の業を見る者になって欲しいからです。しかし、6章の終わりでは人々と主イエスの対立は明確となります。多くの人々は主イエスから去っていくのです。6章では、主イエスと人々の間の溝は埋まりません。では、主イエスは人々のことをあきらめられたのでしょうか?自分のことを<使えない奴>だと判断して去って行った人々を放り出されたでしょうか。ご自分のもとに残った弟子たちだけのことを思われたのでしょうか?そうではありません。ここからヨハネによる福音書の内容は徐々に十字架へとむかっていくのです。主イエスは「しるし」を信じない人々が信じる者になることをあきらめられませんでした。そして十字架という決定的な「しるし」へと歩んでいかれるのです。かたくなな人間の心、いばらが生えていたり、石ころだらけの人間の心、まったく悔い改めのない心、けっしてしるしを見ようとしない人間の心を、良い土地に変えるために、あきらめることなく、十字架へと向かわれます。

 

 私たちのさびしく貧しい信仰を豊かなものに変えるため、主イエスは十字架という「しるし」を与えられました。私たちは十字架を仰ぎ見る時、そこに自分自身の罪を見ます。そのとき、私たちには、はっきりと「しるし」が見えるようになります。本当の悔い改めを与えられます。同時に神が蒔き続けてくださった愛の種を見ることができます。いばらだらけの石ころだらけの心に、倦むことなく種を豊かにまき続けてくださった神の愛の業を見ます。その愛のゆえに、私たちは、永遠の命に至る食べ物のために働くものとされます。喜びのために働くのです。喜びを稼ぐ者とされます。

 


ヨハネによる福音書 6章1~21節

2018-08-07 12:42:02 | ヨハネによる福音書

2018年7月22日 大阪東教会主日礼拝説教 まず、パンを得よ吉浦玲子

 

<必要を御存知の神>

 

 私が生まれ育ちました長崎県の佐世保市は港町です。明治の初めまでは特に産業もない貧しい小さな漁村だったのですが、その後、ある意味、不幸な歴史のなかで発展してきた町でした。不幸な歴史のなかで発展した、と言うのは戦争のたびに発展してきたということです。軍港として港が用いられたのです。太平洋戦争やその後の朝鮮戦争で港は緊迫し、しかしいっぽうで活気づきました。戦後も、米軍基地がありました。自衛隊の基地もあります。いまはだいぶ米軍基地の規模は縮小しているのですが、それでも港に大きな軍艦が入港すると街には米軍の兵隊たちの姿があふれます。基地によっていくばくか支えられている経済的な現実があります。そしてまた佐世保も同じ長崎県の長崎市といっしょで坂の町です。平地がほとんどありません。その坂の上から港を見下ろしますと、遠目には国立公園となっている美しい離島の島々、九十九島の景色が見えます。しかし、手前の港には軍艦やら、また造船所に停留する船やら、あるいは漁に出掛ける漁船なども見えるのです。そこにはまぎれもなく人間の営みがあるのです。生活のための産業があり、世界の紛争の縮図のようなきな臭い状況も見えるのです。美しい景色だけで人間の暮らしは完結しないのです。その街の中心部の坂の上には海に向かって立つカトリックの大きな教会があります。美しいだけでは完結できない人間の世界をまるで見守るように教会が立っています。

 

 今日の聖書箇所でも主イエスは人々を見守っておられました。5節にあるように「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを」ご覧になったのです。場所はガリラヤ湖の向こう側でした。ここで、ガリラヤ湖のことがティベリアス湖と言い代えられています。これは当時、ガリラヤ地方をおさめていたヘロデ・アンティパスがローマにおもねって、ローマ皇帝ティベリアスにちなんで作ったティベリアという町に由来します。ガリラヤ湖もまたローマへおもねった名前であるティベリアス湖と呼ばれたのです。ティベリアス湖という響きにはこの時代に生きるイスラエルの人々の存在の暗さが反映しています。ティベリアスというローマ風の言葉に、この時代の人々の苦しみが反映しているのです。

 

 そんな時代の人々は、今日の聖書箇所では必死で主イエスを追って来ました。多くの病人を癒されたイエス様を追いかけて来たのです。さらに病を癒してほしい、困ったことを解決してほしい、それぞれに切実な願いを持って、湖をぐるっと回ってやってきたのです。ちなみにイエス様たちは、船で湖を渡られたようです。そのイエス様たちを、陸路、人々はやってきたのです。

 

 その人々をご覧になって主イエスはおっしゃいます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいだろうか」イエス様は人々の必要を御存知でした。主イエスはもちろん、神の国を伝えに来られたのです。人々へ救い主が来たことを伝えに来られたのです。しかしまた一方で、人間が生きていくとき必要なものがあることを御存知でした。主の祈りの中で「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、私たちには日用の糧が必要です。毎日必要です。食べるもの着るもの住む所、多くの必要があります。肉体を持って地上を人間として歩まれた主イエスですから、そのことはもちろんご存知なのです。空腹を覚え、喉の渇きを覚え、暑さ寒さを感じて生きておられた、そのご自分のところへ必死になって人々がむかってきている。その人々に今必要なものはパンである、そう主はご存知でした。崇高な真理だけが必要で、肉体的な空腹などとるに足りないことだなどとおっしゃらなかったのです。そもそも肉体をお造りになったのは神です。私たちの肉体もまた大事なものなのです。その肉体に必要な糧もまた大事なものなのです。

 

<200デナリいる!>

 

 さて「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」と問われたフィリポは、実に冷静沈着に「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えます。実務的な回答です。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金でした。ですから200日分の賃金相当の資金がいるとフィリポは答えたのです。いろんなプロジェクトの参謀役にこのようなタイプの人がいると助かります。問題が起こって皆があたふたしている時、冷静に素早く課題の分析と必要な対策の提案をしてくれる人で、頼もしい存在です。

 

 しかし、一見頼もしく思えるフィリポは、冷静な人のようで、実は大きな見落としをしています。自分に問われた相手が誰かということが彼には分かっていないのです。6節で「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」と記されています。イエス様は意地悪でこのような試みをされたわけではありません。これから自分が奇跡を起こす、そのことをお前は前もってわかっていなかったなと確認するためにおっしゃったのではないのです。

 

 フィリポに見えていなかった現実を見えるようにするために、あとからフィリポが知ることになる神の恵みの大きさを深く知るために、あえて主イエスはフィリポに質問されたのです。フィリポに続いてアンデレもまたフィリポと同様現実的な言葉を発します。大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年を指して「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」そういいます。五つのパンと魚二匹ではどうしようもない。200デナリオンなければ到底無理だ。それがフィリポやアンデレに見えていた現実でした。

 

 彼らは自分たちの傍らに神の御子である主イエスがおられるというとてつもない大きな現実は見落としていたのです。天地の造り主であるお方の御子がおられる、ヨハネによる福音書の1章ではその造り主なる父なる神と天地創造の時から共におられた御子がここにおられる、そのことは弟子たちに見えていませんでした。

 

 200デナリオン必要だと考えていた弟子たちのもとにあったのは、大麦のパン5つと魚が二匹でした。これらは少年がもっていたとあります。そもそも大麦のパンというのは貧しい者が食べるパンと言われます。通常パンは小麦で作ります。少年は小麦のパンを食べることができない貧しい者だったと推測されます。学者によっては、この少年は、奴隷であったかもしれないと考えています。主人のおともでここまでやってきた少年奴隷であったかもしれない、と。その貧しい者の貧しい食べ物、そして弟子たちに「何の役にも立たない」と言われた食べ物が祝されました。主イエスによって祝されたのです。「主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。そして魚も同じようにされたとあります。

 

 かつて旧約聖書の時代、出エジプトした民に、神は天からマナという不思議な食べ物を降らせました。もちろん天地創造をなさった神ですから、今日のティベリウス湖の向こう側の場面でも、天から大量のパンと魚を降らせることだって可能だったでしょう。しかし、主イエスは、貧しい者の貧しい食べ物を祝し用いられました。

 

 神は私たちの必要を御存知で、必要を満たしてくださると申し上げました。その満たされ方は、もちろんとてつもない奇跡的なすごいことがおこる場合もあります。突然、空からマナがふってくるようなこともあります。しかし、多くの場合は、私たちがこんなもの役に立たない、たったこれっぽっちしかないと考えているところから奇跡がおきるのです。主イエスが共におられる時、たった五個しかない大麦のパンと二匹だけの魚が大きな奇跡の源、祝福の源となるのです。

 

 「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と主イエスはおっしゃいます。「少しも無駄にならないように残ったパン屑を集めなさい」なんて、とてつもない奇跡をなさったあと、わりとかっちりしたことを主イエスはおっしゃるのだなと感じたりします。しかしここで言われている「無駄にならないように」という言葉は「滅びる」という意味の言葉です。3章16節の「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるためである。」という有名な聖句のなかにでてくる「一人も滅びないで」の滅びないと同じ言葉なのです。神の恵みを無駄にしない、神の祝福を投げ捨てない、それは永遠の命を生きるということです。与えられた神の恵みを無駄にするということは、与えられた命を無駄にすることであり、滅びに至ることなのです。

 

 その無駄にされなかったパン屑は、12の籠にいっぱいになったと書かれています。12というのは聖書ではおなじみの数字で、イスラエルの12部族、主イエスの12人の弟子というように祝福された数字です。そしてまたこの場面では、主イエスから命じられた弟子たちが皆一人一人籠を持って集めたと思われます。12人の弟子たちがそれぞれに自分の腕で籠の重みを感じたのです。その腕にずっしりと恵みの大きさを感じたのです。頭の中で素早く200デナリオンいると計算したフィリポも、5つのパンと2匹の魚など役に立たないと言ったアンデレも、それぞれにその腕にずっしりと恵みの重さを感じたのです。

 

<目的地に着く>

 

 その豊かな恵みの喜びは残念ながら喜びでは終わりませんでした。14節「人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。人々は主イエスを王にしようとしたとあります。これほどの奇跡を見たのです。ある意味、<この人こそ、イスラエルを救ってくださる新しい王>だと人々が感じても不思議ではありません。ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ぶ時代にあって、このお方こそ、自分たちをローマから解放してくださると熱狂しても不思議ではありません。人々はまさにそのような王を待っていたのです。しかし、その人々の思いを感じた主イエスは、山に退かれました。これは逃げたということです。主イエスは人々から逃げられたのです。

 

 主イエスがおられないまま弟子たちは湖を舟で渡ります。既に暗くなっていた湖は荒れ始めました。25ないし30スタディオンばかり漕ぎだしたころ、つまり4,5キロほど漕ぎだした頃、主イエスは湖の上を歩いて舟に近づいてこられました。当然、それを見た弟子たちは恐れました。暗い湖の上を歩いて来られるのです。幽霊か何かのようにも見えたことでしょう。しかし一方で、日の暮れる前、12の籠にいっぱいのパンの残りの重みを感じていた弟子たちは、集まっていた人々以上に、身近に主イエスの奇跡をたしかに見たのです。主イエスの業、しるしをはっきりと見たのです。神の力を見たのです。にもかかわらず、この湖の場面では主イエスの姿をみて恐れたのです。籠を抱えていた弟子たちは、そこに神の奇跡を見ながら、なお主イエスのことを理解はしていなかったのです。湖の上を歩かれても不思議でもなんでもないはずなのに、弟子たちは200デナリオンが必要だと言ったところから、あまり進歩していなかったともいえるのです。

 

 その弟子たちに対し主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃいました。「わたしだ」という言葉はギリシャ語でエゴーエイミーという言葉です。この言葉についてはマタイによる福音書を読んでおりました時にもお話ししたことがありますが、英語で言えば<I am>という言葉です。かつて出エジプト記でモーセに対して神がご自身の名をあかされたとき、神はご自身を「『わたしはある』というものだ」とおっしゃっいました。この「わたしはある」という言葉をギリシャ語で表現したものがエゴーエイミーです。つまりここで主イエスは、かつてモーセに神がご自身を顕されたように、弟子たちに神であるご自身を顕されたと言えます。この湖の場面は、いってみれば「神が顕れられた」「神顕現」の場面です。

 

 神が顕れられ、その神であるキリストを弟子たちが舟に迎え入れました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。舟は目的地に着いたのです。神が共におられるので、無事に目的地に着いたのです。

 

 逆に言いますと、神が共におられない時、私たちは目的地には着かないのです。私たちは私たちの目指すところに向かいます。そしてまた、神がおられても、群衆が、主イエスを自分たちの王としようとしたように、神を自分のために利用しようとします。主イエスが導こうとなさっている方向から違うところへ主イエスを連れて行こうとします。その時主イエスは、退かれました。お逃げになったのです。しかし、主イエスを自分の舟に迎え入れる時、つまり主イエスを主として、舟のリーダーとして迎える時、舟は目的地に着くのです。

 

 神は必要を満たしてくださる方だと申しました。この世界のどうしようもない混沌の中で必要を満たしてくださる神です。しかし、その必要を満たしてくださる恵みは私たちを目的地へと導くものなのです。神の恵みはお金を入れる都度にペットボトルのお茶が出てくる自動販売機のようなものではありません。日々の必要を満たしてくださりながら、私たちを御国という目的地、永遠の命という目的地に導くものなのです。湖の場面での舟は教会をあらわすとも言われます。教会はこの世界にあって、はなはだ頼りない、力のないものとして漂っているようです。特に日本にあってはそうです。池の上にただよう葉っぱのような存在かもしれません。しかしなお、その舟とも呼べない葉っぱのようなものに主イエスがおられるとき、ただむなしく漂っているように見えながら、確実に目的地へと向かっているのです。もちろん強い風が吹いて荒れることもあります。しかしなお、目的地は失われないのです。そしてまたこの舟を私たち一人一人の人生と例えて語られることもあります。私たちの日々にも主イエスを主としてお迎えする時、私たち一人一人もまた目的地へと向かうのです。

 

 最初にお話ししました佐世保の港には軍艦も漁船も観光のための遊覧船もあります。それぞれにこの世の必要のために海に出て行くのです。私たちも日々のさまざまなことに忙殺されながら進みます。しかし、主イエスをお迎えした舟は一艘たりとも失われません。無駄にされないのです。滅びないのです。永遠に神の御守りの内に目的地へと確実に向かっていくのです。

 


ヨハネによる福音書 5章31~47節

2018-08-07 12:11:26 | ヨハネによる福音書

2018年7月15日 大阪東教会主日礼拝説教 命を得るために来よ」吉浦玲子

 

<愛という関係性>

 むかしの上司がこんな話をしてくれたことがあります。技術者で仕事人間だった上司は結婚しても、また、子供が生まれても、家のことや子供のことは奥様に任せっぱなしで、毎日、残業して終電で帰って来るような日々を過ごしていたそうです。日本ではよくあるタイプの男性のあり方です。もちろん赤ちゃんである娘の顔を見ればかわいいと思い、なんとなく幸せな気持ちにもなったそうです。でも男性ですから自分で出産したわけでもなく、どこか自分の子だという実感はあまりわかなかったそうです。ある日、帰宅すると、奥様が思いつめた表情で話しかけてきたそうです。仕事で疲れて帰って来てるので話は別の日にしてほしいと上司は思ったのですが、奥さんは「今、聞いてもらわないといけない」と話しだされたそうです。話の内容は、生まれてまだ三カ月の娘さんが、先天的に心臓に欠陥があって手術が必要だということが今日分かったというのです。それを聞いてさすがに仕事人間の上司も大きなショックを受けたそうです。あらためて赤ちゃんを見ると、赤ん坊の様子には特に変わったことはなく、すやすやとおだやかな表情で眠っていたそうです。その表情を見て「この子の心臓に欠陥があるのか。」「この穏やかに寝息を立てて眠っている子が病気なのか」、、、そう思うと、何とも言えない気持ちになったそうです。ずいぶんと長いこと、ただただまじまじと赤ちゃんの顔を見たそうです。そしてそれまでそんなに長い時間じっくりとは子供を見ていなかったことを思ったそうです。そしてじっと子供の顔を見ながら、突然「この子は自分の子だ!!」「だれがなんといってもこれは俺の子供ではないか!!」と感じたそうです。なにか猛烈といってもいいような感情がわきあがってきたそうです。「恥ずかしい話だけど、あの日から娘は俺の娘になったんだ」「あの時から俺はあの子の父親になったんだ」と上司はしみじみとおっしゃいました。

 ところで、人間は漠然と、神、あるいは人間を越えた存在への畏れを持っています。悪いことがあると、神様の怒りにふれたのではないか、古来から人間はそのように感じてきました。「触らぬ神に祟りなし」というように、めんどくさい人とはかかわりあわないほうがよい、そのたとえとして「神」という言葉が出てくるくらい、神と言えば祟りさえなければよい、悪いことが起こらなければ良いと考えるのが普通でした。人間はどちらかというと積極的に神に期待をするというより、あまり関わりを持たない方が良い、神を畏れつつ、敬して遠ざけるあり方を選んで来ました。もっとも触らぬ神といいつつ、神が御機嫌を損ねない程度には、お参りしたり、お供え物をしたり、なんからの宗教的儀式を行って、神様のたたりを回避しようともしていました。

 今日の聖書箇所で、主イエスは「あなたたちの内には神への愛がないことを、知っている」とおっしゃっています。漠然とした畏れや敬して遠ざかるあり方と、愛するということは遠く隔たっています。神は本来、人間を愛される神です。以前にも申し上げましたように、愛というのは相互の関係です。相互に知りあって、愛し愛される関係になるのです。御機嫌をとったりなだめたりするような関係ではありません。

 心臓の悪い娘さんの上司が、それまで決して娘さんのことを疎んじていたわけではないけれど、病気のことを聞いて、始めて真剣に娘さんと向き合ったことをさきほどお話ししました。まじまじと娘さんの寝顔を見つめたそのとき、ほんとうに上司はその子の父となり、その子供は上司の子供となったのです。娘さんはまだ赤ん坊で愛し愛されるという関係とは少し違うかもしれません。しかし、そこに親子としての本当の関係が始まっていったのです。愛の関係の第一歩が始まって行ったのです。子の親となり、親の子となる、そのような人間の親子においてもどこかで自覚的に関係を構築していくものです。親子関係に限らず人間の本来的な関係はそのようなものです。お互いの存在を受け入れ、また、ときには反発をしながら、関係性を結んでいくものです。関係性のないところに愛はありません。

 聖書の神もまたそうです。旧約聖書には、エゼキエル等の預言者などで神の言葉として「あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」という言葉が繰り返し語られています。神は人間を創造された神です。しかし、創造しっぱなしではなく、あらためて関係を持たれる神なのです。人間が神の民となり、神は人間の神となられるのです。人間の親子関係が、血のつながりや戸籍上のことを越えて、人格的な交わりをもってまことの親子となって行くように、神と人間もまた、交わりを持っていき、神とその民とされるのです。

<見えない神をどうやって知るのか>

 しかしまた神と言う存在は、人間にとって目に見えるものでも、その声が耳に聞こえるものでもありません。37節に「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」と主イエスご自身が語っておられます。私たちは祈りの内に神の御心を感じ取ることはできても、はっきりとした存在としては、なかなか感じることはできません。ですから神との関係と言われても困ってしまうところがあります。ヨハネによる福音書1:18に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とあったように、私たちは神を見ることはできませんが、「この方」、つまり、イエス・キリストによって神を示されるのです。

 しかし、そのイエス・キリストは神をお示しになる方でありながら、主イエスの時代であってもそのことは理解されていませんでした。いえむしろ、主イエスが父なる神の御子であることをおっしゃればおっしゃるほど、主イエスは神を冒涜していると、人々からとられたのです。たしかにそうでしょう。現代においても、「私は神である」とか、「キリストの再来である」とか言う人がいたら、普通、皆「この人はおかしい」と思うのです。

 そもそも31節で「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」と主イエスご自身おっしゃっています。証しというのは、本来、法廷用語です。法廷で「わたしは犯人ではない」と言葉でだけ言ってもなかなか真実と取られないのと同様に、自分自身の真実を判断するのは自分ではありません。では主イエスが神の御子であり、救い主であることを証しするのは誰でしょうか?私たちでしょうか?人間が主イエスは神の御子であるかどうか判断するのでしょうか?たしかに私たちは往々にして判断をします。神に対して、この神は良い神か悪い神か判断をします。この神はわたしのプラスになるのかそうでないのか判断をします。この神は私にとって利益がある、いや私には役に立たない、と主イエスの時代から、いえ、旧約聖書の時代から人間はそう考えてきました。人間は神の上に立って、神を裁いていました。神を畏れながら、一方で神を裁いてきたのが人間です。神を裁きつつ、うまく手なずけられる、うまく御機嫌がとれると考えて来たのが人間です。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。」と39節に記されています。聖書を研究しているというと堅い言葉になります。しかし、ある神学者はここの「研究する」という言葉は調べるとか勉強するというような軽い言葉ではなく、「研究する」としか訳せないような言葉なのだと語っています。実際、皆さん方はとても不思議に思われるかもしれませんが、現代においても、高名な聖書学者と言われる人々が皆深い信仰を持っているかというとそうでない場合もあるのです。ヘブライ語やギリシャ語の権威であって、聖書の歴史にも精通しているからと言って、主なる神への信仰があるとは限りません。聖書を詳しく読みながら、イエス・キリストをただの人間としてしか読めない人々も多くいます。もちろん、私たちは聖書学者の膨大な学問的な成果によって恩恵も得ています。しかし、信仰は学問ではないということも覚えておく必要があります。

 私たちは聖書学者のように、また主イエスの時代の律法学者やファリサイ派のように本格的には聖書を研究はしていないかもしれません。しかしそうであっても、私たちはこの聖書がイエス・キリストを証するものだと信じて読むとき、聖書自身が、私たちに語りかけてくることを体験します。そしてまた証しと言うことであれば、洗礼者ヨハネは、主イエスを証しするためにやってきました。主イエスは「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」とおっしゃっています。ともし火というのはひととき照らすあかりです。イエス・キリストご自身が光であるというときの光とは違います。教会の会堂の裏手の扉を、日が暮れてから開けるのは暗くてたいへんです。ですから、センサーで人がいることを感知して扉のあたりを照らしてくれる灯りをつけていただいています。それがおそらくこの間の地震でセンサーの角度がずれて、扉の前にたっても灯りがつかなくなりました。普通に、灯りが点いている時はそれが当然で何とも思わなかったのですが、灯りがつかなくなるとたいへんに不便です。ヨハネは主イエスに先立ち、主イエスはどのような方かをあらかじめ照らしてくれたともし火でした。センサーライトで扉が照らされるように、ヨハネは人々が迷わずに済むようにやがて来られる救い主をひととき照らしたのです。しかし、そのヨハネのともし火を人々は「喜び楽しもうとした」と主イエスはおっしゃいます。ヨハネが照らそうとしたその先のお方のことを考えることなく、単にヨハネの教えを喜び楽しんだのが人間だと主イエスはおっしゃるのです。夏に花火を楽しむように、ひとときの光としてヨハネの言説を人々は自分が良いように解釈して、自分の利益になるように理解して喜んだのです。

 私たちもまたそうなのです。御言葉の中の自分にとって耳触りのいいところだけを聞きがちになります。聖書のなかの心地よい言葉だけを意識的にも無意識的にも読みがちです。そして神を自分の都合のよい神として解釈するのです。そういうことを避けるために、多くの改革長老教会では、連続講解説教として、聖書の有名な箇所だけでなく、全体を読む方法をとっています。そしてまたお一人お一人の聖書との向き合い方においても、聖書全体を通読するというのはとても大事なことです。まだ旧新約聖書66巻全巻を通読された経験のないという方はぜひこれから通読をして頂きたいと思います。しかし、繰り返しますが、それは学問的なことではありません。旧約聖書であれ、新約聖書であれ、そこにはすみずみにまで、主イエスの光がさしていることを覚えながら味わうのです。そのとき私たちはそこで生きたイエス・キリストと出会うことができるのです。

<別の方>

 さて、主イエスは「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と32節で語っておられます。ある説教者はこの「別に」という言葉に注目されています。なぜ「父なる神」が証しされるとはおっしゃらないのか?「別におられる」とあえておっしゃるのか。それは、「別に」という言葉を心に刻んでほしいからだろうとその説教者は語ります。私たちは、私たちの中に力があると思い、判断する能力があると思い、神を知る力があると思います。しかし、信仰のことがらというのは、私たちの「別」のところから来るのです。「外」から来ると言っても良いでしょう。信仰は外から与えられるものなのです。私たちの内側にはなにもないのです。「別」のところから、「外」から与えられるのです。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」と39節に「永遠の命」という言葉があります。私たちが私たちの内側の力で聖書を研究しても、「永遠の命」を探しだすことはできません。それは「別」にあるのです。「外」から与えられるのです。「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と主イエスはおっしゃいます。主イエスと出会い、主イエスと愛の関係を持ち、主イエスと共に生きる時、私たちは主イエスというお方から、「外」から命を与えられます。

 心臓の病がある娘と向き合い、「この子はまさに俺の子だ!」と叫んだ父親のように私たちは主イエスと出会うのです。これまで何度も聖書は読んできた、御言葉を聞いてきた。しかしなお、繰り返し出会うのです。そして感じるのです。「このお方こそまさに私の主であり、わたしの神だ」と。疑い深いトマスと呼ばれるトマスという弟子は、このヨハネによる福音書の20章で、主イエスの復活を疑った人間として登場します。しかしそのトマスの前に復活の主イエスが現れてくださいます。弟子たちのいた部屋は鍵がかけられていたのに、いつのまにか主イエスが部屋の中におられました。まさに「別のところから」「外から」お越しになったのです。その主イエスと出会った時、トマスは「わたしの主、わたしの神」と信仰告白をしました。それまでもいくたびも主イエスと出会っていたのです。いえ、一緒に生活をしていたのです。毎日のように顔を見合わせていたのです。しかし、「外」から来られた主イエスによって変えられました。主イエスを神と告白をする者に変えられました。そして本当の命に生きる者とされました。私たちもまた、毎日、「外から」来られる主イエスと出会い、まことの命に生きる者とされます。そこでほんとうに命に生きる者とされます。永遠の命を得るのです。