2024年7月28日大阪東教会主日礼拝説教「幸いとは何か」吉浦玲子
<山の上と平地>
主イエスは12人の弟子をお選びになったのち、祈っておられた山を下り、平らなところにお立ちになりました。山の上と、平地が対比されて語られています。山の上は父なる神との交わりの場所、それに対して、平地は人々が普通に生きている場所です。主イエスはその平地において、おびただしい数の人々に語り、癒されました。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあります。ユダヤ全土から、さらには地中海沿岸のティルスやシドンから人々はやってきて、主イエスを求め、そのお体に触れようとしました。その様子は、押し合い圧し合いのパニック寸前のものであったでしょう。人々は自分の抱えているさまざまな問題を解決していただくことに必死でした。切実な思いで主イエスを求めたのです。
そのような人々の願いにこたえて主イエスはお働きになりました。それが平地での、つまりこの世界での主イエスの働きでした。そのお働きの中で、だいじな教えも語られました。それが20節からはじまる「幸いと不幸」と新共同訳聖書で表題がつけられている場面となります。
マタイによる福音書には同じように幸いについて主イエスがお語りになった場面が描かれていますが、そちらでは山の上で語られたことになっています。「山上の説教」として有名な場面です。それに対して、ルカによる福音書では、あえて山の下、平野での説教として描かれています。実際に主イエスは山の上でお話をされたのか、平野だったのか、それは分かりませんが、ルカの意図としては、この世のただなかで、同じ地上にたって、人間と同じ視線にたってお話をされたということを伝えたかったのでしょう。
主イエスはおっしゃいます。「貧しい人々は幸いである。/神の国はあなたがたのものである。」この言葉はマタイによる福音書では「心の貧しい人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである」となっていました。ルカのように「貧しい人々は幸いである」と言われると貧乏なのが幸いなのかと驚きます。それに対してマタイによる福音書では「心が貧しい人々」と言われています。もちろん、心の貧しい人々は幸いと言われてもやはり驚きます。宗教というのは、本来、「心の豊かさ」を求めるものだと多くの人は思っているからです。しかし、主イエスのおっしゃる豊かさ、貧しさというのは経済的なこと、あるいは人間の心のあり方を越えたものなのです。そういう意味ではマタイによる福音書もルカによる福音書も同じことを言っているのです。
<日本一幸せなおばあちゃん>
ところで、少し前に、「親に捨てられた私が日本で一番幸せなおばあちゃんになった話」という漫画を読みました。コロナで寝込んでいる頃、本を読む気力がわかなくて、気分転換するためにネットでダウンロードして読みました。この漫画は92歳になるおばあさんにお孫さんが聞き取りをした実話をもとにして描かれたものでした。そこに描かれていたのは昭和一桁生まれのおばあちゃんの苦労を重ねた生涯でした。ちょうど私の母とそのモデルとなったおばあちゃんは同年代ということもあり興味深く読みました。若い方はご存じないかもしれませんが、昭和の時代に「おしん」というドラマが大ヒットをしました。まさにあのドラマの主人公のおしんのようにおばあちゃんも子供のころから理不尽な目にあいながら、一生懸命生きて来られました。戦前戦中の貧しい家庭においてはおそらくこのおばあちゃんのように、苦労してこられた方は多かったのだろうと思います。おばあちゃんは父親が亡くなった後、親戚に養子に出されました。義理の母となった親戚のおばさんから、今でいうと虐待と言っていいような扱いを受けます。まだ小学生だったおばあちゃんは家族の誰よりもはやく起きて朝早くから畑仕事や家の家事をさせられました。しかし、十分に食べ物を与えられることもなく、学校に行くのも妨害されるような日々でした。冬に炬燵に入れる炭の準備はさせられましたが、おばあちゃん自身が炬燵に入ることは許されず、ひもじさと寒さの中を耐えて過ごしました。義理の母の虐待にはちょっとこの場で口で語ることもはばかられるような壮絶なえげつないこともありました。そして大人になり結婚してからも、家庭を顧みない身勝手な夫に苦労させられました。
おばあちゃんは子供のころ、あまりに苦しい生活の中で一度だけ、自分を虐待する義理の母を殺して自分も死のうと思ったことがあったそうです。浴衣の腰ひもで寝ている義母の首を絞めようとしたのですが、その腰ひもが義理のお姉さんが作ってくれたものであることに気づいたのです。義理のお姉さんもおばあちゃんが虐待されていることは知りながら、いろんな事情があって、表立っておばあちゃんを助けることは出来なったそうなのです。それでも陰ながら助けてくれていたのです。おばあちゃんは服を作ることも許されていなかったけれどそのお姉さんが義理の母の目を盗んで服を作ってくれていたのです。その腰ひももお姉さんが義理のお母さんの目を盗んで作ってくれたものでした。その腰ひもを見た時、自分は一人ではないと気づいて義理の母を手にかけることはやめたそうなのです。そのようなたいへんな日々を過ごして晩年、夫も天に送ったあとはようやく子供や孫に囲まれて平穏な日々を送っているという話でした。
読み終えてなんともいえず複雑な気持ちになりました。とてつもない困難な中、このおばあちゃんの人並外れた忍耐力と、苦労の日々においても助けてくださった方々への感謝の思いをもって生きてこられたことに感嘆しました。しかし同時にどこか釈然としない思いもありました。どんな逆境のなかでも、忍耐と心掛けによって道をあやまたず生きていくことができる、というのは、本当のことでしょう。そう考えますと、人生の幸せとか不幸と言うのも、自分の心掛け次第ということにもなります。どんなに恵まれた環境にいても不満ばかりで不幸になる人もあれば、不幸な環境の中でも感謝して幸せを感じて生きていく人もいるでしょう。
でも、人生の幸せとか不幸と言うのは、ほんとうに人間の心掛けによるものなのかと疑問にも思いました。このおばあちゃんは立派だし尊敬に値すると思います。でも幸せというのはそういうことだろうかと思います。
<神と共に生きる幸い>
では主イエスがおっしゃる幸いとは何でしょうか?冒頭で、それは経済的なことや、あるいは人間の心をあり方を越えたものだと申し上げました。ここで注目していただきたいのは20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」という言葉です。主イエスは平地において多くに人々を癒し汚れた霊を追い出されました。しかし、幸いと不幸について語っておられるのは、自分に従ってきた弟子たちなのです。主イエスの幸いと不幸についての言葉は、主イエスに癒しを求めて来た群衆ではなく、まず弟子たちに語られているのです。つまり神を信じ、神と共にある者の幸いと不幸を主イエスはお語りなったのです。
「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」この言葉と対応するように24節に「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。」とあります。いますでに経済的なことであれ、心の問題であれ、自分は豊かであると思って満足しているあなたがたは、自分自身の力ですでに慰めを得ている、その慰めの中で満足していて、神からの慰めは必要としていない、それは不幸なことだと主イエスはおっしゃるのです。逆に神を信じる者の幸いは、自分自身に起因する豊かさによってではなく神によって慰めを受けることなのだと主イエスは語っておられます。
それでも、実際のところ、貧乏は辛いものです。私自身、さきほどの漫画のおばあちゃんほどではないにしろ、子供時代は母子家庭で貧しい生活をしていました。貧乏というのは人の心を傷つけ苛むものです。逆に財産も地位もあるとき、人間は、やはり心も安定して余裕をもって暮らすことができます。しかしその財産や地位も、永遠のものではありません。ある時、失われてしまう可能性もあります。また自分の心も、たしかなものではありません。自分の心だってころころ変わっていく頼りないものです。どんなに固い信念を持っていても、それが砕かれる時もあります。そのような不確定なものに頼って、安心したり、慰められるのではなく、神によって平安と慰めを受ける者こそが幸いなのだと主イエスは語っておられます。
<神に求める>
ところで、神によって平安と慰めを受ける、ということに関して、人間の側で考えなければならないことがあります。私たちがしんどい時、悩んでいる時、神が慰めてくださったら、また、力を与えてくださったら、私たちはたしかに幸いです。しかし、自分の都合の良い時だけ神から平安や慰めを受けたいと願う姿勢は必ずしも幸いではありません。
貧しい人は幸いというとき、自分の貧しさゆえに、自分の弱さゆえに神に求めるから幸いなのです。神に求めるということは、神にへりくだり、自分を神から憐れんでいただくということです。自分は自分の力で大体のことはできるけど、ちょっとしんどいとき力を貸してほしい、疲れたとき慰めてほしい、ということではないのです。ほんとうに自分の貧しさ、足らなさを嘆き、神に憐れんでくださいと求めるのです。
私たちはどこまでいっても傲慢な存在で、自分が憐れまれるべき存在だとはなかなか思えません。だいたいのところは、自分自身の豊かさや力に満足していて、ちょっと足りないところを神に求めるのです。もちろんそんな愚かな私たちをも神はたしかに慰め、力を与えてくださいます。私たちが傲慢であっても、神は私たちに愛と恵みを注いでくださいます。
私たちはその神の寛容な恵みの内に少しずつ本当の神の愛を知らされていきます。神の愛を知らされていくとき、少しずつ私たちは自分のほんとうの愚かさ、小ささ、貧しさを知らされます。自分が本当は自分だけではどうしようもない哀れなみじめな存在だと知らされます。そして、そのような憐れまれるべき自分を、憐れんでくださる神を求めるように変えられます。まことに神を求める幸いな者とされていきます。神の愛と豊かさを知るということは、自分の貧しさを知るということです。神の光に照らされる時、私たちはまことの自分の貧しさを知らされます。まことに自分の貧しさを神によって知らされる時、私たちは神の前に真実にへりくだり、謙虚な者とされ、神と共に幸いに生きていきます。
私たちはまことの幸いに至る道へと招かれています。それは神の愛を知る道であり、本当の自分を知る道です。その歩みに同伴してくださるのは主イエスです。主イエスと共に歩むとき、私たちはひとすじに幸いへと向かいます。その歩むことそのものが神の国を生きる生き方となります。神の国は、幸いな者のもとにすでに来ているのです。