2020年5月31日大阪東教会聖霊降臨日礼拝説教「あなたも神の言葉を聞く」吉浦玲子
【聖書】
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
【説教】
<ほんとうのコミュニケーション>
ここ数カ月の感染防止のための自粛期間、世の中では、ネット会議やネット宴会というのが盛んに行われていたようです。私自身も、ここしばらく牧師会や教会学校などをネットで行なってきました。また個人的には、学校を卒業して最初に入社した会社の同期の女性数名とネットで同窓会をしました。年賀状以外ではつきあいのなかった人たちと30年ぶりにネットを介してですが、会話をしました。30年間、会うことのなかった人と、なぜかこのコロナの時期に、ネットを介してコミュニケーションを取ることになったというのも不思議です。おそらく、この数カ月、みんなそれぞれにコミュニケーションに飢えていたのだと思います。
さて、今日は、限定的ではありますが、3月15日以来の公開の礼拝となります。もっともまだ多くの方々はそれぞれの場で礼拝を捧げておられます。早く通常の礼拝となることを祈りつつ、いましばらく忍耐をしつつ、特にそれぞれの場で今日、礼拝を捧げられる方がたを覚えたいと思います。ひさしぶりの公開の礼拝の今日は奇しくも聖霊降臨日です。この聖霊降臨日は、言ってみれば、人間と人間のまことのコミュニケーション、つながりが回復された日でした。
かつて旧約聖書、創世記11章に描かれたバベルの塔の物語がありました。人間は思い上がり、神の領域を犯すような高い塔を建てようとしました。それに対して、神は人間の言葉を乱されました。それまで同じ言葉をしゃべっていた人間は違う言葉をしゃべるようになり、皆で団結して高い塔を建てることはできなくなりました。そして違う言葉をしゃべるようになった人間は世界中に散らされました。一般には、人間が集まって、コミュニケーションをとって、一致団結して事をなそうとすることは良いこととされます。しかし、罪深い人間が集まって相談をして事をなそうとすることが、神の御心に沿うとは必ずしも限りません。いや、むしろ悪事をなすことの方がほとんどであることを聖書は語ります。実際それは人間の歴史を見ても明らかなことです。
人間は、集って良からぬことを話し合い、一致団結して悪事をなします。一人ではできないことでも、集まれば、できるのです。たとえば、主イエスを十字架につけた人々は、一人一人が主イエスに対して真っ向から批判したわけではありません。主イエスと直接語った人はことごとく主イエスに論破されました。ですから、陰で集まって作戦を練ったのです。そして、一人ではなく集まった人々が「十字架につけろ」と叫んだのです。今日の教会においてもそうです。人間的な思いで集まって、自分の思いを御心より優先させようとするようなことが往々にして起こります。バベルの塔を教会内に建てようとするようなことが現実におこるのです。
しかし、いま、コロナの災いのため、人間が集うことが制限されました。普通に会って普通に話をする、一緒にいろんなことをする、三カ月前までは当たり前だったそのようなことが、できなくなりました。私たちは、いま、本当に必要なコミュニケーションとは何か、そして言葉とは何かを神から問われているのかもしれません。
<新しい出発としての聖霊降臨>
さて、聖霊降臨、ペンテコステの出来事はもともと五旬祭と呼ばれた祭りのときに起こりました。五旬、またギリシャ語でペンテコステというのは過越祭から50日ということです。この五旬祭というのは、もともと旧約聖書に記されている祭りです。過越祭から、7週目ということで7週の祭りと言われたり、初穂の祭りと言われていました。春の過越祭のころ大麦の収穫を祝い、この7週の祭りのころにはいよいよ小麦が収穫される、その祝いの収穫祭でもありました。しかしなにより五旬祭は過越し祭と同様に、旧約聖書における出エジプトの出来事、神の救いと恵みの出来事を記念し、感謝する祭りでした。伝統的な解釈のひとつとしては、五旬祭は、出エジプトののち、律法が授与されたことを記念する祭りだというものがあります。つまり、エジプトで奴隷だった民が神によって解放されました、その神に救われた人間が、救い出してくださった神の恵みに応答して新しく生きていくための律法が与えられました。その律法授与の記念としての祭りであると言われます。
翻って新約聖書の時代、主イエスの十字架によって私たちの罪からの救いが成就されました。罪の奴隷であった私たちが自由を得ました。神に救われた私たちが新しく一歩を踏み出すための出来事が聖霊降臨であったといえます。かつて、シナイ山で出エジプトの民に律法が授与されたように、聖霊降臨においては私たちに聖霊が与えられたのです。
<激しい音と炎のような舌>
その聖霊降臨の出来事は、神による特別なあり方で起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。まず音として聖霊の降臨は描かれています。その音は天から聞こえたのです。天とは単に空ということではなく、神のおられるところということです。神がなさったこととして聖霊の降臨は伝えられています。そしてその音は家中に響くほど大きかったのです。その音は家の中だけではなく、後の方の記述を読みますと、近隣にも響きわたるくらいに大きなものであったようです。
そして「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。音だけでなく視覚的にも聖霊降臨の出来事は把握されました。「舌」とはギリシャ語でグロッサという単語ですが、言葉という意味も持ちます。つまり一人一人の上に言葉がとどまった出来事でもありました。しかも炎のような舌です。炎のような言葉が一人一人の上にとどまったのです。天上の炎のような言葉です。人間の罪と裁きと救いの言葉です。その言葉が、見える形でとどまったというのです。それも一人一人の上にとどまりました。この炎のような舌は、ペトロの上だけにとどまったわけではありません。教会のおもだった人たちの上だけにとどまったのでもありません。その場にいたすべての人々の上にとどまったのです。聖霊を待ち望んでいたすべての人々に言葉が与えられたのです。皆に、神の言葉が与えられたのです。
<あなたも神の言葉を聞く>
言葉が与えられた人々は語りだしました。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ほかの国々の言葉で話し出したというのは驚くべきことですが、これは聞く人に分かる言葉で語りだしたということです。バベルの塔の物語で、人びとの言葉が異なるものとされ、お互いに意思疎通ができなくなりました。しかし、今や、神の力によって人へ伝わる言葉が与えられたのです。罪と赦しと救いの言葉が、すべての人に伝わる時代が来たのです。聖書の神の言葉が、民族や国や文化を越えて聞かれる時代が来たのです。神の力による意思疎通、本当のコミュニケーションが与えられたのです。バベルの塔の時代から人間の罪ゆえに、つながることのなかった人間同士が、ほんとうにつながっていく時代が来たということです。
その場にいた人々は、神の霊の力によって話しだしました。逆に言いますと、神の霊の力によらなければ、本当の意味での伝わる言葉というものはないのです。意味としては伝わったとしても、バベルの塔の物語で描かれているように、罪の言葉しか人間には語ることはできないのです。
しかし、一方で、語る側が聖霊に満たされて語っていても、聞く側の人間によって、聞こえ方が違うのです。ある人には福音だと聞こえても、ある人にはつまらない話と聞こえたりします。この聖霊降臨の場面でも、弟子たちが語る言葉を聞いて、「「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」と13節にあるように、聖霊に満たされた言葉を聞くことのできない者をいたのです。これは今日においてもそうです。聖霊に満たされた言葉、神の言葉を聞きとれない人々は一定数いるのです。
<教会の誕生>
そしてまた聖霊降臨の出来事は教会の誕生だと言われます。一人一人に炎のような舌が与えられた、神の言葉が与えらえた、そこに教会が起こったのです。弟子たちが協議して、伝道のために教会という組織を立てていきましょうと決めたから教会が起こったのではないのです。聖霊に満たされ“霊”によって語る人々が起こされたところに教会が起こりました。これは徹頭徹尾、神の出来事として教会が起こったということです。天から風のような音がしてとありましたが、つまり人間の中から教会が起こったのではなく、外から、教会は起こされたのです。今日の聖書箇所の後半にヨエル書からの引用があります。本日の旧約聖書の朗読でもヨエル書からお読みしました。預言者ヨエルがすでにこのことを預言していたのです。預言されていたことでも分かるように教会は神の出来事として起こったのです。神の出来事として起こった教会は、徹頭徹尾、神の言葉を語る共同体、神の御旨をなす共同体として歩んでいきます。教会は人間同士が人間の思いで話し合って設立し、そしてまた運営していくこの世の共同体とはまったく違うのです。このことを私たちは肝に銘じる必要があります。
ところで、ある方がおっしゃっています。聖霊に満たされる、というときの満たされるという言葉は支配されるという意味だと。つまり聖霊に満たされるとは聖霊に支配されるということです。支配されるというと、あまり良いイメージを皆さんは持たれないかもしれません。支配などされず自由にのびのびとやりたいと思われると思います。しかし、繰り返しますがバベルの塔の時代、人々が自由にのびのびと作ろうとしたものは天まで届く塔でした。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と人々は考えたのです。人々が住みやすい素晴らしい町を作ろうと言ったのではありません。有名になろうと言ったのです。それは自分の評価を求める行為でした。実際に自分や家族や街の人みんなが幸せになることではなく、人間の欲望を満たすことを大事にしたのです。それは自由なようであって、自分の欲望に支配された状態でした。聖霊降臨は、そのようなちっぽけな自分の欲望に支配された生き方から、聖霊に支配された生き方へと変わるための出来事でもあります。
そもそも聖霊とは、キリスト教の根本原理の一つである三位一体の神のことです。聖霊なる神がこの地上に来られたのが聖霊降臨の出来事です。いま、子なる神である主イエスは天におられます。主イエスが天に昇られ、その代わりに私たちの内に来てくださったのが聖霊なる神です。しかし、この神は、聖霊降臨の時、突然現れられた神ではありません。主イエスが、世の始まりのずっと以前から父なる神と共におられたように、聖霊なる神も、父なる神と共に最初からおられました。そしていまや、私たちの内にお越しになり、私たちを満たしてくださるのです。自分の欲望に支配されていた私たちをまことに解放してくださる神です。自分の欲望に支配され罪の奴隷であった私たちが聖霊によって満たされる時、本当の意味で自由に生きていくことができるようになります。
<神の収穫物>
しかし、不思議なことです。神は人間に聖霊を注ぎ、“霊”によって語る者とされました。その言葉は神の救いの言葉です。神は神の救いの業を人間に語らせられるのです。“霊”によって語っても、それは限界のある人間の言葉でもあります。人間に語らせることなく、ご自分で直接語られた方が効率的なように感じます。しかし、神は神の救い、福音を人間を用いて語らせられます。そこに神の人間への信頼と愛があります。不完全で未熟で弱い人間に神はなお期待されるのです。子なる神を十字架につけても救いたかったご自分の民を神は用いられます。聖霊降臨は収穫祭として祝われたと最初に申し上げました。神にとっての喜ばしい収穫は、なにより、救われた私たち一人一人なのです。神は救われた私たち一人一人に目を留め聖霊を与えてくださいました。そして新しく生きる者とされました。神の救いを伝えていくものとされました。私たちはなお豊かな収穫を与えられます。私たちの人生においても豊かな実りを与えられ、大阪東教会にも与えられます。聖霊によって満たされたところに豊かな実りがあるのです。