大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅱ第3章1~18節

2021-12-26 15:07:34 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月26日日大阪東教会主日礼拝説教「キリストはふたたび来られる」吉浦玲子 

 先週、私たちはクリスマスの祝いをいたしました。クリスマスの祝いは、この世界に救い主であるキリストを遣わしてくださったことを感謝すると同時に、ふたたびお越しになるキリストを待ち望む希望を確認することです。本日の聖書箇所は、再臨について語られており、降誕節に読むにふさわしい箇所であると言えます。そしてまた、今日は2021年最後の礼拝ですが、新年を迎えるにあたって、私たちの希望の源を確認するためにも味わうべき聖書箇所であると言えます。 

 ところで、今に始まったことではないのですが、とはいえ最近とみに増えていることが、異端からの電話や郵送での勧誘です。場合によっては訪問してきて、牧師である私に対して、勧誘しようとすらします。彼らは一見正統的なキリスト教のふりをして、「聖書セミナー」や「修養会」と称して一緒に勉強しましょうと牧師にも信徒にも誘いの言葉をかけるのです。十分に注意をしていただきたいと思っています。彼らは三位一体の神を信じていませんし、キリストについても正統的な解釈をしません。ただ、そのあたりを突っ込んで聞いても、うまくはぐらかされます。言葉巧みに、あなたたちと同じ信仰なのだと最初は安心させて勧誘して、実際のところは全く違う異端の教えに引っ張り込もうとしているのです。彼らの勧誘スキルはかなり高いので、基本的には絶対に関わらないという態度が大事です。下手に戦って論破しようと思っても、特別に訓練されている人々ですから、かえってつけこまれることになります。そういう異端で多くあるのは、その教派のリーダーや教祖が、再臨のキリストとされていることです。普通に聞くとばかばかしいことですが、それを素朴に信じている人々もいます。 

 ペトロの手紙Ⅱが書かれた時代、2世紀にも、怪しげな論説は多く流れていたようです。そういう怪しげな論説に惑わされないためには、きちんと、聖書の教理を身に着けておく必要があります。そしてそれ以上に、キリストの復活ということを信仰において確信していることが大事です。復活のキリストと出会い、導かれているという信仰体験を積み重ねていくことが大事なのです。そのような信仰体験の積み重ねがないと、外からの異端に対しても、教会内に潜む異端的な言説にも私たちは対抗できません。実際、多くの教会内に異端的な言説を語る者たちはいます。そのような者たちによって教会は内側から破壊されます。破壊されると言っても最初から目に見える形で壊されていくのではなく、緩やかに穏やかに異端的な言説が入り込んできて、気がつくと、教会の本質が脅かされるのです。やがてそれが目に見える形での分裂や争い、あるいは教会が教会でないものに変質する発端となるのです。私たちは復活のキリストと出会い、信仰体験を積み重ねているからこそ、終わりの日のキリストの再臨、そして私たち自身の肉体の復活、神の国の完成を信じることができるのです。なんとなくぼんやりと天国で楽しく暮らすというような形で復活や再臨のことを思っているようでは、怪しげな論説に軽々と流されてしまいます。ことに再臨の希望があやふやなところでは異端的な考えに容易に流されてしまいます。新興宗教の教祖様を再臨のイエスだと思うようになるのです。異端や新興宗教でなくても、大阪東教会にも、そのような危険な状況はいくたびかありました。ペトロ、そしてパウロの時代にも危険な言説に流されてしまった人々は多くあったようです。 

 ただ、再臨について言えば、再臨を強く語る教派もある反面、逆に再臨ということをあまり強く言わない教派もあります。改革長老教会もどちらかというと後者かもしれません。もちろん信仰の希望の源に再臨があるのですが、再臨について直接語られることは少ないかもしれません。いろいろな理由がありますが、ひとつには再臨については黙示録などで語られてはいますが、それはあくまでも「黙示」であり、明確には語られていないからです。語られていないというより語りえないことだと言えます。実際、主イエスご自身が「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である」とおっしゃっているように、いつどのようにということは具体的には明かされていないことなのです。それを、見てきたかのようにあれこれ語ることは父なる神のご計画を軽んじることであるという背景があります。 

 だからといって、再臨などないといったり、すでに再臨は起こったなどということは間違っています。4節「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」そのような声が2世紀にもあったのです。父たちというのは初代の信徒たちのことを指します。初代の信徒たちは再臨の希望を語ったが、まだ再臨は起こってはいないではないかという批判が強くあったのです。ことにパウロの書簡を読むと、パウロは自分たちが生きているうちに再臨が起こると考えていたふしがあります。それゆえに、その後の世代の人々の中には、初代の使徒たちの時代に再臨が起こらなかったではないか、彼らの言うことなどあてにならないという言葉が出て来たのです。 

 しかしこういう言葉は突き詰めれば、神に従って生きるという選択をしたくない人々の言い逃れに過ぎないとペトロは語っています。少しわかりにくいのですが5節から7節に書かれていることは裁きとの関わりです。5節に水という言葉が出てきますが、これは聖書の時代では、水というものが特別な存在として考えられていたことによります。当時の宇宙観では、地は水の上にあったのです。「その世界は水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」とノアの時代の洪水のことが語られています。つまり人間の罪のゆえにかつて裁きが起こったことが語られているのです。そしてまた次は火による滅び、つまり終わりの日の裁きが起こるのだとペトロは語ります。つまり神の裁きということを信じていないから、終わりの日など来ないというのだとペトロは説明しています。 

 裁きがないということになれば、人間は放縦に生きることになります。逆に放縦に生きたいからこそ、裁きなどない、終わりの日などない、キリストの再臨などないと語るのだというのです。パウロがコリントの信徒への手紙の中でイザヤ書を引用して「もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります」と語っているように、裁きがなく、肉体の死ですべてが終わりならば、命ある時に好きに生きたらよいということになります。 

 しかしだからといって、じゃあ私たちは裁きが怖いからこの世にあって身を慎んで生きるのでしょうか?地獄に行きたくない、ばちが当たらないようにと、行いを正すのでしょうか?それは違います。どうせ死ぬのだから食べたり飲んだりしよう好き勝手に生きようということも、地獄に行きたくないから立派に生きようということも、いずれにしてもそこには希望がありません。喜びがありません。 

 そもそもキリストの到来は、喜びの知らせであったはずです。良き知らせでした。私たちがこの世においても、やがて来るべき、神の国においても、喜びにあるための知らせでした。ただその良きこと、喜びということの認識については確認しておく必要があります。私たちが私たちの好きに生きることが良いことで、喜びであるとするなら、ペトロが語ることは理解できません。好きに生きるというのは先ほど申しました放縦に生きるということとは違います。それなりの善意や倫理観に基づいて社会的責任を果たしたうえで、自らの生きがいを求めて生きるということです。多くの人々が普通にしていることであると言えるでしょう。 

 では私たちキリスト者は、一般の人々より高い倫理観で生きなければいけないということでしょうか?そうではありません。私たちはただただキリストを「主」として生きるのです。「主」とは主人ということです。「主」とは聖書の時代、奴隷にとっての主人を指す言葉でした。私たちはキリストを主人として生きます。しかしそれは、みじめな奴隷としてではなく、神から本当の自由をいただいて、神の僕、キリストのものとして生きるということです。キリスト、つまり私たちの新しい主人は、愛と慈しみと憐れみをもって私たちを導いてくださるお方です。かつての奴隷の主人は多くの場合、鞭をもって奴隷を懲らしめ従わせる主人でした。しかし、私たちの主人であるキリストは、愛をもって、そしてまた忍耐をもって私たちを導いてくださるお方です。キリスト者は洗礼を受けた時、キリストを主として受け入れました。キリストの愛の導きに従うこと、自分の人生の主人公は自分ではなくキリストであることを受け入れました。 

 ですから私たちはキリストが行けとおっしゃる方向に行き、キリストがご命令されることを為します。不思議なことに、そこには自分の意思がないように見えて、むしろ、もっとも自分らしい喜びに満ちた歩みが開かれるのです。しかしまた一方で、洗礼を受け、キリストを主として受け入れたからといって、やはり自分中心で生きていきたいという願いは私たちには根強くあります。困った時には助けてほしいけど、普段は放っておいてほしい、自分のことは自分でやります、という思いをもって生きる傾向があります。自分には自分なりに生きがいもあるし、この世での使命もありますから、イエス様はご心配なくという思いでいることもあるかもしれません。そのような私たちを神であるキリストは忍耐強く待っていてくださいます。15節「また、私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とペトロは語ります。私たちはキリストを主として受け入れながら、まだ完全にはすべてのことをキリストにお任せできない状態であるかもしれません。それでも忍耐強くキリストは待っていてくださいます。そこに私たちの救いがあります。 

 一方、今日の聖書箇所の最初のところで「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」と嘲る人々がいると語られていました。私たちはそのように嘲りはしませんが、主の再臨が遅い、再臨の時まで忍耐できるだろうかと不安に思うことはあるかもしれません。しかし、むしろ忍耐なさっているのは神の方なのです。神は忍耐強く、私たちの悔い改めと成長を待ってくださっているのです。一人でも多くの人がキリストを信じ、そしてまたキリストの再臨を信じ、その再臨の時に滅びることがないように、神はこの罪の世界を忍耐しておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったように世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と福音書にあるように、神のその愛ゆえ、今も、忍耐しておられるのです。 

 16節「無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」と語られています。これはかつてパウロが語ったことを理解できない人々への言葉です。「無学」とペトロは語りますが、むしろ現代においては、自分は賢い、知識があると自負している人こそ、パウロの言葉も聖書の真理も理解できないことが多いのです。教会の中においてもそうです。 

 17節に堅固な足場とありますが、その足場は神に与えられるもの、聖霊によって示されるものです。私たちはその堅固な足場を失ってはなりません。神が私たちを愛されていること、私たちは神に愛されている子供であること、そして私たちはキリストのものであること、キリストのものであるゆえ、どのようなときでも私たちには慰めが与えられること、それが足場です。2022年がどのような年になるかは分かりません。しかし、私たちには堅固な足場があります。どのようなときも神の慰めがあります。「わたしが、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであること」それが慰めだとハイデルベルク信仰問答は語ります。生きる時も死ぬ時も良き時も試練の時も、その慰め、たしかな足場の上に、新しい年もキリストのものとして、キリストを主として歩んでいきます。そのとき再臨は輝く希望となります。 


マルコによる福音書第1章1~15節

2021-12-19 13:43:13 | マルコによる福音書

2021年12月19日大阪東教会クリスマス礼拝説教「神の国は近づいた」吉浦玲子 

 今年のクリスマス礼拝は、マルコによる福音書からクリスマスの恵みを共に味わってきたいと思います。しかしながら、マルコによる福音書には、天使も出てこなければ、羊飼いも、東方の博士たちも出てきません。洗礼者ヨハネの話から、いきなりイエス様の宣教の始まりになっています。降誕に関わる記述がありません。 

 マルコによる福音書の第1章1節は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されています。マルコは「福音の初め」を語ります。福音が始まった、それがキリストの到来なのです。福音はギリシャ語でエバンゲリオン、これは「エウ」が良いという意味で、「アンゲリオン」が知らせという意味です。エウアンゲリオン、エバンゲリオンで「良い知らせ」ということです。グッド ニュースということです。英語ではゴスペルであり、これあ「ゴッド」と「スペル」がつながった言葉です。ゴッドはGood、スペルは話です。つまりエバンゲリオンと同じく良い話、良い知らせです。良い知らせと言えば、試験に合格したとか、手術が成功したというような喜ぶべきことが知らされることです。キリストの到来は何が喜ぶべきことなのでしょうか?キリストをご存じないこの世の人々は、クリスマスはイエス・キリストという昔の偉い人の誕生日だと思っておられます。もちろん命の誕生というのはたしかに喜ばしいことです。それが自分とは全く関係のない子供であったとしても、人間にとって新しい命というのは、喜びや希望を与えてくれるものです。そこに未来を感じるからです。もう古い話ですが、私の子供は、平成という元号になって5日目に生まれました。私の子供が生まれる5日前、元号が昭和から平成に変わりました。その平静初日に生まれた子供たちの映像がニュースになりました。私の子供より一足先に生まれた子供たちの映像を見て時代の移り変わりを感じ、ことに感慨が深かったことを覚えています。大きな災害があったとき、その災害地で生まれた赤ちゃんのニュースに、暗い心が明るくされることもあります。命というのは私たちに希望を与え、喜びを与えてくれる、まして、イエス・キリストというよくわからないけど世界中の人が知っている偉い人の誕生日はおめでたいものだと何となく世の中の人は思って、クリスチャンでなくてもクリスマスを特別な日として迎えます。クリスチャンになる前の私もそうでした。 

 「福音の初め」はたしかに、命と関わることでした。飼い葉桶に眠るかわいい赤ちゃんのほのぼのとしたお誕生のお話を越えて、私たちたちの命ともっと切実にかかわることでした。自らの罪のゆえに死に向かっていた私たちの命が、死ではなく、まことの命へと向かうという知らせが福音でした。滅びではなく、永遠の命へと向かう知らせでした。単なるどこかの偉い人の誕生日ではなく、まさに私たちの命が、新しく生まれさせていただく、それが福音でした。その福音が、始まった、それがキリストの到来でした。 

 そして人間が作った福音ではありませんでした。神の子、イエス・キリストの福音でした。イエス・キリストによる福音であり、イエス・キリストに関する福音であり、イエス・キリストその人が福音でした。神の子イエス・キリスト、キリストそのものが福音であった。ここで神の子とありますのは、「子なる神」、父・子・聖霊なる三位一体の神である神の、子なる神のことです。子なる神は、当然ながら神なのです。神の子は神なのです。神の子は神ではないというのは当然ながら、異端です。その子なる神が、この世界に来られた。それが福音の始まりでした。 

 そして福音は突然来たのではありませんでした。神は順序立てて、すべてを備えられて、神の子イエス・キリストをこの世界に送られました。まずその福音の初めは、あらかじめ知らせられていたのです。今日の聖書箇所に洗礼者ヨハネの話が記されています。その洗礼者ヨハネの登場も、さらにその700年以上前に、イザヤ書に預言されていたものです。すべては神が準備なさっていたことでした。そしてその洗礼者ヨハネは、やがて来られる神の御子を指し示したのです。いきなり神の子イエス・キリストが来られたのではない、というのは、もちろん別にもったいぶっているわけではないのです。神は神の時間において、子なる神、イエス・キリストをこの世界に送られました。2000年前にふと思いつかれたのではないということです。人間の長い罪の歴史を忍耐してご覧になって来られた。そしてもっとも神がお選びになったその時に、子なる神はこの世界に来られました。人間の赤ん坊が生まれる時も、親は準備をします。ベビーベッドやら産着やら、育児に必要なものをそろえ、臨月まで備えます。神は人間の親以上に、ねんごろに備えられたのです。それは何より私たちのためです。私たちが、そのことが、神のご計画であり、神の私たちへのとてつもないプレゼントであることを理解できるように、あらかじめ旧約の預言者に伝え、洗礼者ヨハネに語らせ道を整えさせ、備えてくださったのです。 

 それにしても、冒頭に申しましたように、ここには私たちが一般に思い描くようなクリスマスの出来事はありません。飼い葉桶も天使も羊飼いたちも出てきません。いきなりらくだの毛衣に革帯をしているむさくるしい預言者が描かれています。そしてそのヨハネからイエス・キリストが洗礼をお受けになったことが記され、荒れ野でサタンの誘惑を受ける話となります。さらに、洗礼者ヨハネの逮捕が描かれます。美しい話がないだけでなく、キリストの洗礼の場面を除けば、むしろ殺伐とした話が多いのです。しかし、そうであるゆえ私たちは知ることができます。神の子イエス・キリストは殺伐としたこの世界に来てくださった、それが福音の初めなのだと。ニュースを見ますと暗澹となることが多くあります。大阪においては先週悲惨な事件もありました。今朝もまたまだ若い方がなくなったというニュースがありました。 

 そんな世界にあって、私たちはどこか遠くへ旅をして、福音を探し当てるのではないのです。キリストは、罪にまみれた、殺伐とした人間の世界のただなかに来てくださった。神の子イエス・キリストの方から来てくださった、それが福音の初めなのです。むさくるしい格好をした男が、声の限りに悔い改めよと叫ばねばならない世界に来てくださった、そしてまた同時に、悔い改める必要のない神の子、子なる神が、罪人と共に洗礼を受けてくださった、私たちと同じところに神が来てくださった。汚れた人間が、私たちが浸った水に、同じ体を持った人間として浸ってくださった、それが福音の初めなのだと語られています。 

 そしてまた、主イエスの道を備えた洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスに捕らえられてしまったその頃に、神の子イエス・キリストは公の宣教を始められました。それもあえて、ヘロデ・アンティパスが支配しているガリラヤへ行って宣教を始められました。暗く殺伐とした世界の、子なる神の道備えをしたヨハネが捕まってしまうように罪の極まったところで神の子イエス・キリストは宣教を始められました。キリストの声は、暗きところ、殺伐としたところに響いたのです。清らかなところ、正しいところに響いたのではありません。暗きところに声がするゆえに、私たちにもキリストの声が聞こえるのです。私たちも暗く殺伐とした者だからです。子なる神の声を聞くにふさわしい者だから聞くのではないのです。最もふさわしくない者として、私たちは子なる神の声を聞きます。 

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 

 神が備えられ、神の時が来ました。それが時が満ちたということです。そして神の国は近づきました。近づいたというとどのくらい近づいたのでしょうか。近づいたのであって、来たとは言われていません。しかしこの近づくとは、ほぼ来たという意味です。そもそも神の国が近づくというと、それは喜ばしいことでしょうか?それが一般的に人々が思うような桃源郷のような天国という意味であれば、喜ばしいことかもしれません。しかし、神の国というとき、第一に考えねばならないことは、そこは神の支配にある国ということです。天地創造以来、世界は神が御支配されていますが、神の国が完成する時、神ご自身が顕現されて、その力を直接に奮われる、裁きを行われることになります。それは人間にとって喜ばしいこととはあまり考えられないかもしれません。お花畑のようなところで楽しく暮らすということ以上に、神を支配者、王としてお迎えするということです。ですから、私たちは悔い改めるのです。悔い改めとは神の方を向くということです。王である神の方を見るということです。悔い改めというと、自分の悪いところを思い起こして暗い気持ちになるような感じがしますが、ある方はこのようにおっしゃっています。「悔い改めとは、思い煩いを自分の後ろに投げ捨て、神の豊かさによって生きることである」と。自分の力で何とかしようと思っていた様々な事柄、自分の力でどうにもできないと嘆いていた様々な事柄を、自分の後ろに投げ捨てるのです。自分の力でどうにもできないことの最もたるものが自分の罪です。それを後ろに投げ捨てろというのです。自分の力ですべてをどうにかしてやるという傲慢を後ろに投げ捨てろということです。そして自分の力ではなく、神の豊かさによって生きなさい、それが悔い改めです。 

 ある牧師がおっしゃっていました。そもそも「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は一般的にはおかしいと。「悔い改めて、正しく生きなさい」とか「悔い改めて立派になりなさい」というのなら、一般的な言い方で、理解しやすいのです。しかし、そうではない、「福音を信じなさい」と語られているのです。自分の思い煩いを捨てて、ただ良き知らせを信じなさいと言われているのです。正しく生きる、立派に生きるというのはどこまで行っても人間の側の行いや心がけの問題になります。しかしそうではない、福音を信じる、良き知らせを信じる、つまりキリストを信じるのです。それが私たちの福音の初めです。 

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」そう福音書の最初に記されていました。福音書の初めの言葉としては、そっけないような記述です。「初め」はギリシャ語で「アルケー」という単語ですが、これは考えると不思議な言い方です。福音が始まった、とか、福音の初めは以下のようであったという言い方ではないのです。投げ出したように「福音の初め」と言われているのです。たとえば、ヨハネによる福音書は「初めに言があった」と始まります。ここにも「初め」というアルケーという同じ単語が使われています。初めにおいて、 in the beginning 初めから、言葉があった、というような表現になっています。こちらの初めの使い方はきちんと日本語としても完結した言い方のように感じます。「初めに○○があった」というのは時間関係が分かりやすく感じます。しかし、マルコにおける「福音の初め」というのは、福音がここから始まったということを言っているのですが、その初めの対象や範囲がわかりにくいのです。このマルコによる福音書の1章で福音の初めのことが書かれているのか、あるいはマルコによる福音書全体が、福音の初めについて書いているのか、ぼんやりとしているのです。 

 そもそもマルコによる福音書は、主イエスの復活で終わりますが、本文は、イエス様が十字架にかかられ葬られたあと、婦人たちが墓に行くとイエス様の亡骸がなく、婦人たちは天使と出会い震えあがって逃げたという終わり方になっているのです。そのあとに補足のように他の弟子たちに主イエスが現れたことや弟子たちが宣教に派遣されたことが書かれています。なにかかっちりとした終わりがあるように見えないのです。 

 ですからこう言えます。マルコの福音書は終わっていないのです。福音の初めを記しているマルコの福音書はまだ終わっていないのです。2000年後の今も、まだ福音の初めは続いているのです。神の子イエス・キリストがふたたび来られ、神の国が完全に完成する時までが福音の初めなのです。しかしまた悔い改めて福音を信じるものには、すでに神の国は到来しているのです。この暗い、殺伐とした世界に生きながら、なお私たちは悔い改めて福音を信じる時、神の国に生きているのです。私たちが福音を信じ、神の国に生きることができる、それがキリストの到来の出来事、クリスマスです。今日、お一人の方が、悔い改めて福音を信じることを決意されました。お一人の方が神の国に新しく命を与えられます。その喜びのうちに、ここにあるすべての者がそれぞれの新しい命を覚えます。新しい命を与えてくださった神の子イエス・キリスト、子なる神キリストの到来を感謝します。 


ペトロの手紙Ⅱ第2章11~22節

2021-12-12 13:57:23 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月12日大阪東教会主日礼拝説教「誘惑は滅びの門」吉浦玲子 

 今日の聖書箇所も少し怖いような過激な言葉が多く書かれています。教会に入り込んで来た悪しき者たちへの激しい非難が並んでいます。主を待ち望むアドベントの時期にそぐわないように思われるかもしれませんが、私たちを惑わし、神の恵みから引き離す存在に対して声の限りに忠告されています。前の週にも申し上げましたように、この手紙が成立した2世紀の深刻な状況が背景にあったのでしょう。当時、グノーシスなどの異端がはびこっていました。「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので」と激しい言葉があります。キリスト教はパレスチナの狭い地域から飛び出し、各地に広がっていました。それは同時に多くの異教に囲まれた環境の中にキリスト教があったということです。そこには多くの誘惑があったと思われます。なにより面倒なのは、教会の外の誘惑以上に、教会の中に、そのような誘惑や異教的なもの異端的なものが入り込んでくることです。昼間から享楽にふけるというと性的放縦も含んだかなりいかがわしいことのようです。実際そういうこともあったのでしょう。今日の聖書箇所で描かれているのはかなりの悪徳のように思えます。 

 しかし私たちは注意をしたいのです。私たちは昼日中から、一般的に言ういかがわしいことはしないかもしれません。しっかりと社会生活をしている、常識的な健康的な生活をしているかもしれません。しかし、そこにしっかりと神の方を向いた生活がなければ、社会通念上は何ら問題のない生活をしていたとしても、クリスチャンは<上品な冷たさ>や<和やかな排他性>を持つ場合があります。それは教会が陥りやすいところです。一見、厳粛でかっちりした雰囲気のなかに、まことの愛がなく、交わりを排除する冷たさ、そんな「上品な冷たさ」を教会が持つ場合があります。あるいは一見、なごやかで和気あいあいとした雰囲気でありながら、異質なものを排除して同質なものしか受け入れない多様性を排除していく、内輪で固まって外から入りづらい、「和やかな排他性」の傾向も教会は持ちがちです。もちろん教会は、神の言葉によって一致をするのであって、人間的なつながりで一致をするわけではありません。一方、神はすべての人を救うために御子をこの世界に確かに送られました。ですから、教会はすべての人に扉を開きます。しかし、同時にそこには神への誠実な応答も求められます。神への誠実な応答をする共同体が教会です。そこにはまことの神の愛に根差したあり方がおのずと生じるはずです。しかし、残念ながら教会の中に、<上品な冷たさ>や<和やかな排他性>といったことがうまれてくることがあります。これは、ペトロのいうひどい悪徳とは異なるかもしれません。しかし、共同体の中の人々をまことの神から引き離していく、かなり根強い悪であることにおいて変わりはありません。御言葉を求めてくる人を御言葉から引き離し、排除していくことの罪はとてつもなく大きいのです。 

 なぜそのようなことが生じるかというと、最初の神の救いの出来事、さらに言えば神との出会いの出来事を忘れているからです。いま、アドベント、クリスマスを待ち望む季節です。聖書には2000年前にこの地上の人間の歴史の中にたしかに到来されたイエス・キリストの出来事が記されています。神が人となってこの地上にお越しになった。それは2000年前のことでしたが、キリストの到来は21世紀に生きる私たち一人一人のためでもありました。次週のクリスマス礼拝では一名の高校生が洗礼をお受けになります。その方のところにもたしかにキリストが来られたのです。そしてまた私たち一人一人のところにもたしかにキリストが来られました。私たちは、一人一人、異なったあり方で、ある人には劇的に、ある人にはいつの間にかいう感じで、到来したキリストと出会いました。それぞれに最初のクリスマス、ファーストクリスマスがありました。私たちはすでにキリストと出会っているのです。そして新しい命をいだだきました。さらに、自分で意識するとしないに関わらず、キリストと出会った者は変えられます。自分では変わっていないと思っても変えられているのです 

 しかしまた、自分が変わったかどうかなど、ある意味、どうでもよいのです。キリストと出会い、キリストと共に歩んでいる私たちは、どれほど恵みを受けているか、どれほど神の祝福の内に生かされているか、そのあふれるばかりの恵みと祝福に感謝をする、感謝をして神を賛美する、そちらのほうがはるかに重要なのです。日々、守られている、助けられている、一つ一つは些細なことでも、その中に神の奇跡を見ていく、そのことがとても大切なのです。いま、アドベント、そしてまた一年の最後の月です。皆さんは、今年、どのような神の奇跡と出会われたでしょうか?どのような神の恵みを感じられたでしょうか? 

 日々、神の恵みを数えつつ、神の助けを感謝しつつ歩む時、神を賛美して歩む時、私たちは、右にも左にも逸れることなく、信仰生活を行っていくことができます。いえ、極端に言えば、私たちは右に左に逸れて良いのです。神に対して疑問に思ってもいいのです。さまざまな思いなやみの中で、忙しさの中で、神のことを忘れていることもあるかもしれない。でも、日々たえず立ち帰るのです。神を忘れていた自分から、神を向く自分に方向転換をするのです。神へ向き直る、回心する、神へと向きを変える、そうすると見えてくるのです。自分の上に確かに働かれている神の力を。そのとき、私たちは、よい意味で神を畏れ、へりくだって生きることができます。そのとき、ペトロのいうような悪徳からも守られますし、「上品な冷たさ」にも「和やかな排他性」にも陥りません。 

 ところで、私は18年前のクリスマスの後の12月最終週に初めて教会に行き、翌年のペンテコステで洗礼を受けました。ちなみに洗礼を受けた時、牧師からクリスマスのときに初めて教会に来る人は多いけれど、クリスマスの翌週から来た人は珍しいと言われました。クリスマスの翌週から教会に行き始めたので、洗礼を受けた年のクリスマスが、初めての教会でのクリスマスでした。クリスマス礼拝では聖歌隊で奉仕をしてたいへん緊張しましたが、その後の愛餐会では、教会学校の子供たちの劇やら、クリスマスで受洗した人のお祝いやら、にぎやかな雰囲気がありました。特に、印象的だったのは、当時40代だった男性牧師を中心にした壮年男子の方々が黒人霊歌を歌われ、それが大変盛り上がったことです。その雰囲気を言葉ではうまくお伝えすることはできないのですが、40代から70代の男性が、とても上手に黒人霊歌を歌われたのです。黒人霊歌といってもクリスマスらしいたいへん陽気な曲でした。歌の歌詞の中で「アーメン」という言葉が、南部なまりで「エイメン」と歌われるのですが、男性たちがとてもうれしそうに「エイメン」「エイメン」と歌うのです。牧師先生がギターで伴奏をして、それはそれは楽しそうに歌われました。ふだんは難しい神学議論をしているような男性やら、どう見ても普段は仲の悪い役員さん同士も、ひどく盛り上がって歌っておられました。ほんとうに楽しそうで、実際、聞いている人も盛り上がって、何度もアンコールがでて、最後には牧師先生の声が枯れるくらいにぎやかに歌っておられました。それを見ながら、横にいた年配のご婦人が感心して「あの男の人たちしらふだよね、お酒なしで、なんであんなに盛り上がれるんだろう」と笑っておっしゃっていて、私もたしかにそうだなと思いました。当時は私は会社員で、よく飲みに行ったり、二次会でカラオケに行ったりしていたのですが、そういう飲み会やカラオケのお酒の入った盛り上がりとは違う盛り上がりがそこにありました。私自身、その年に洗礼を受けたばかりで、まだ教会になじんではいなくて、愛餐会でも、周囲に親しい人もいなくて、どちらかというとぽつんと浮いていたのですが、それでもなんだか楽しかった記憶があります。これが教会のクリスマスというものか、と思いました。懐かしい思い出です。もちろん、私の母教会に「上品な冷たさ」や「和やかな排他性」がまったくなかったとは言えないとも思うのです。それは教会が陥りやすい罪だからです。しかし、日々、神に立ち帰りながら歩む時、教会も個人も守られるのです。そしてもう一つ言えば、神への賛美があるところには悪しきものは入り込めないのです。「エイメン」「エイメン」と共に賛美をするとき、人間的な仲の良さとか、対立を越えて、神の恵みが注がれます。 

 ところで、カルヴァンは礼拝における賛美が情感に流れるのを嫌いました。ですから、礼拝の音楽を、詩編歌のみにしていた時期があると言われます。音楽には音楽そのものに心を慰めたり、逆に鼓舞したりする効果があります。カルヴァンは音楽の力をよくよく知っていたのです。神を賛美するのではなく、音楽そのものに心が酔ってしまうことをカルヴァンは危惧したのです。「エイメン」と盛り上がっていた愛餐会は神を賛美していたのか音楽で単純に盛り上がっていたのか、客観的な判断は難しいところですが、飲み会の後のカラオケの盛り上がりとはもちろん違いましたし、長く良い思い出として残っているので神を賛美する心があそこにはあったのではないかと思います。ただ私たちは神を賛美する時ですら、神よりも自分の気持ちを大事にしてしまうこともあることはわきまえておくべきではあります。もちろん自分の心を大事にすること自体は良いことです。しかし、賛美は神へ向けるべきものであることをわきまえつつ、賛美をします。神へ感謝しつつ賛美をします。よく「聖霊に酔え」と言いますが、お酒や自分の気持ちに酔うのではなく、聖霊に導かれて聖霊に酔って賛美します。使徒言行録で聖霊に導かれて福音を語っている弟子たちを「彼らは酒に酔っているのだ」と悪口を言う人々もあったことが記されています。それが真の賛美であるかどうかは外側からは分かりにくいとしても、私たちは賛美をします。そして神に立ち帰ります。 

 ペトロは「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれ打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」と語ります。私たちはたえず悪しき力に巻き込まれそうになります。「上品な冷たさ」「和やかな排他性」を持ってしまいがちになります。神に救われながら、隣人を救いから引き離す行いをすることは、自分自身を「前よりずっと悪い」状態に置くことになります。そうならないために、私たちはたえず神に立ち帰ります。そしてたえず素直に喜びをもって神を賛美します。 

 クリスマスは、私たちが救い主のもとに、立ち帰る時です。そして心からなる賛美を捧げる時です。ちまたにはたくさんのクリスマスソングが流れています。私たちが歌うより、もっと上手な歌や演奏があふれているかもしれません。でも私たちは素朴に素直に神に心を向けて歌います。賛美をします。神はその賛美を、私たちからの心からなるよきなだめの香りとしてうけとってくださいます。そして私たちは良き力によって守られます。 


ペトロの手紙Ⅱ第2章1~10節

2021-12-05 15:23:49 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月5日大阪東教会主日礼拝説教「真理を歪める者」吉浦玲子 

 季節外れの話題ですが、今年は庭の奉仕をしてくださる方がまいてくださったひまわりがたいへん大きく育って、2メートルを越えるような高さになって、そしてまたとても長い期間、11月までも花を咲かせてくれました。福音書の中に、「からし種」のたとえ話が出てきます。からし種はとても小さな種だけれども、成長すると大木になる、小さな信仰もそのように成長することができるというたとえです。からし種の種を実際に見たことがありますが、ほんとうに小さくて、ゴマ粒よりも小さな種でした。ひまわりの種はからし種よりはずっと大きな種です。教会学校の生徒さんが、花のあとから種をとってくれましたが、薄い楕円形の1センチから2センチほどの大きさの種です。からし種より大きいと言っても、種は小さなものです。その小さな種から、身長の高い男性でも見上げるくらいの高さのものが成長するというのは驚きます。茎も支えをしなくても2メートルの高さを自分で支えるようにがっちりとしているんです。花のあと、切り倒すのがけっこう大変だったとお聞きしています。小さな種が大きく育つ、それは植物の神秘です。そしてそれは同時に命の神秘でもあります。吹けば飛ぶような種の中に、命があるのです。その命は豊かに大きく成長をするのです。同じような大きさや形の砂や石や鉄くずからは当然ながら何も生まれません。命がないからです。信仰もまた、命を持っています。命のない信仰はないのです。血の通った生き生きとした信仰は、神の命によって生かされています。私たちは、信仰の命を神からいただきました。また、その命は、キリストによって与えられた命と言っていいでしょう。クリスマス、キリストの到来は、私たちがまことに命の信仰に生かされるためのものものでした。 

 ところで、今から8年前の12月にこの大阪東教会で日本基督教団大阪教区の准允式がありました。私自身もそのとき准允を受領いたしました。そしてまた5年前に按手礼式がやはりこの会堂で行われ、私は按手を受けました。実は、自分が仕えている教会で准允・按手共に受けるというのは珍しいことです。いずれの時も、当日、120名もの人々がこの会堂に集いました。それまで、いくたびも無牧を経験し、教勢も落ちていたこの教会に、ひとときとはいえ、入りきれないくらい人々が集いました。神の憐れみが注がれた出来事であったと言えます。今日は新たに任職された執事の任職式がのちほど行われます。牧師、伝道師、長老、執事、それぞれに役割は異なりますが、それぞれに神によって立てられた者です。牧師も長老も執事もそれぞれに立てられるにあたって、テストであったり選挙であったり推薦であったりといったプロセスがあります。そのプロセスは人間が決めて人間の思いによって進められているように感じるかもしれません。もちろん、そこに人間の思惑やさまざまな事情というものはあります。そういったものがまったくないなんてことは逆にないのです。しかし、神に立てられるということは、そのような人間の思惑や事情を越えた出来事なのです。そのことを私たちはしっかりわきまえて教会生活を行わなくてはなりません。人間の思惑や事情というものを越えて、私たちの信仰や教会には神の力が働くのです。そこに信仰の命があるからです。逆に信仰の命がなければ、人間の思いだけですべてが進んでいき、個人の信仰も、信仰共同体である教会も壊れていくのです。 

 今日の聖書箇所には偽預言者、偽教師という言葉が出てきます。神の言葉を歪めて伝えるのが偽預言者であり、神の真理を偽って語るのが偽教師です。この偽預言者や偽教師は、当然、神から立てられた者でも、神から遣わされた者でもありません。旧約聖書の時代、繰り返し偽預言者が現れました。神に遣わされた本当の預言者は、イザヤにしてもエレミヤにしても、神へ立ち帰るように人々に語りました。神を軽んじていた人々に対して警告を送ったのです。それに対して、偽預言者は、人びとにおもねった言葉を語りました。人々が聞きたい言葉を語ったのです。「大丈夫だ、神はあなたたちを救ってくださる。イスラエルは滅びたりしない」「あなたたちは今のままでいい、神は愛の深い方だ、イスラエルはこれからも繁栄する」そういう言葉を語ったのです。一方で、「このままでは神の裁きが下る、国が亡びるぞ」と、神から遣わされた預言者たちは声をあげました。しかし、神から遣わされた預言者たちがどれほど声をあげても、人々は聞きませんでした。信仰の命を失った者たちは、自分の聞きたい言葉を聞きたいのです。神の言葉ではなく、自分の耳に心地よい言葉を聞きたいのです。それはひととき心地よく響いても命はなく、死へと、滅びへと人々を向かわせる言葉です。 

 そしてまた新約聖書の時代、ペトロやパウロたちの時代に偽教師は現れたのです。たとえば彼らは「律法を守らなくてはいけない」「割礼を受けなくてはいけない」と語りました。これらは、一見、宗教的でまじめな言葉のように聞こえます。しかし、キリストが完全に成し遂げてくださった救いの業を軽んじ、人間の行いによって救いを勝ち取らなくてはならないという教えであり、福音を根っこから否定する言葉です。そのようなことを語る偽りの教師たちが教会の中に入り込んで来たのです。また特にこのペトロの手紙Ⅱの時代はグノーシスという人間の知恵を重んじる異端が入り込んで来ていました。しかし、いずれにしても、旧約の時代の偽預言者たちは、国を破滅へと向かわせました。それに対して、新約時代の偽教師は、教会の中に対立を生じさせたかもしれませんが、旧約時代の偽預言者より、さほど害は大きくないと思われるでしょうか?そうではありません。偽教師も偽預言者も、神の救い、神の命から人間を引き離す存在です。せっかく神が命へと導いてくださっているのに、偽預言者や偽教師は人間を死へ導くのです。 

 いま、アドベントを私たちは迎えています。世の中もクリスマスモードのこの時期、教会でも、クリスマスにふさわしく、天使やマリアや羊飼いたちの話をしたら、クリスマスを待ち望む喜びが増し加わるように思います。正直、今週と来週の聖書箇所は、まったくクリスマスらしくない箇所のように思えるかもしれません。 

 でも、皆さんに考えていただきたいのです。キリストは何のために来てくださったのか?いうまでもなく、皆さんに、救いを、命を与えるために来られたのです。私たちが罪による滅びではなく、信仰によって永遠の命を得ることができるように救い主が来られた、それがクリスマスでした。飼い葉桶に寝かされた赤ん坊は、布にくるまれていました。それは死者をくるむ布を暗示していました。つまり生まれたばかりの赤ん坊は、死の陰を帯びて飼い葉桶に眠っていたのです。キリストは死ぬためにお生まれになったからです。もちろん私たちの日々も肉体の死に向かって進んでいます。私たちもいつか死にます。しかし、キリストが死を帯びて、死者を包む布にくるまって、この世界に来られたということはまったく違う意味を持っています。キリストはご自身の死をもって、すべての人間に命をお与えになるために来られたからです。その命は福音を信じることによって与えられます。福音は命を与えるのです。しかし、福音ならざるものは命を与えないのです。宗教的に立派な生き方をしても、人に親切にしても、身を粉にして誰かのために働いたとしても、そこには命がないのです。そしてまた信仰の命のないところに、愛はないのです。 

 主イエスの時代、立派な宗教家であったファリサイ派が目の前にいる腕の動かない人や中風の人への憐れみよりも、安息日の規則を優先したように、命のない信仰は、愛のない形式的な教条主義になります。本来の安息日は神から人間に与えられた平安であったはずなのに、宗教的に生きようとしていた人々は、むしろ神の愛から離れていったのです。 

 今日の聖書箇所で、ペトロは、偽預言者や偽教師への批判をしています。偽教師は、現代の教会にも入り込んできます。ペトロの言葉を読みますと「みだらな楽しみ」とか「嘘偽り」という言葉があり、いかに偽教師がよこしまな者であるかが強調されています。しかし、実際に偽教師というのは、偽教師の顔をして入り込んでくるのではないのです。柔和で親切で謙遜そうな態度で入り込んでくるのです。おそらく本人にもまったく悪気はないのです。むしろ本人は信仰的な思いに満ちてすらいるのです。そして彼らは聖書の言葉を語ります。愛や福音という言葉を語るのです。十字架の犠牲だって語ります。ですから多くの場合、すぐには判別できないのです。一つの手立てとしては、教理的な基礎をしっかりともっておくということがあります。愛や十字架を語りながら、偽教師の言葉は、突き詰めると教理的に破たんしているからです。偽教師は、三位一体や復活をきちんと理解していないということが往々にしてあります。 

 ただ、理屈で彼らを論破しようと思っても難しいところがあります。理屈と理屈で対抗しても不毛になることが多いのです。信仰の本質は聖霊によって与えられる真理に支えられているからです。2000年前に降誕されたキリストが神であること、処女懐胎や肉体の復活などという非科学的な事柄を理屈で語ろうと思っても困難です。そこは信仰的な事項だからです。人間の理性ではとらえられない事項だからです。 

 では私たちは偽教師に対してなすすべがないのでしょうか。そうではありません。私たち自身の信仰の命を十分に養っていくことによって、悪しき教え、歪んだ信仰姿勢に対抗することができます。ウィルスや細菌に対して特効薬がなくても、人間の側のもともとの基礎体力や免疫力が十分にあれば撃退できるように、私たちは自らの信仰の健やかさが養われているとき、偽教師に引きずられたりしなくなります。その養いは、信仰の命を与えてくださる神ご自身がなさってくださることです。その神への信頼に固く立つことが大事です。神を信頼し「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈り続けることが必要です。私たち自身の信仰が健やかであれば、偽教師がどれほどフレンドリーに近づいて来ても、それに教理的に対抗できなくても、なんらかの違和感を感じ取ることができます。表面的なあたたかさ、和やかさの奥にある、自己中心性や傲慢さを感じとることができます。 

 もちろん無理に感じ取る必要はありません。私たちはひたすら神に信頼して、自らの信仰の命を養っていただきます。信仰の命の養いの源は礼拝です。御言葉の礼拝につながっているとき、信仰は豊かに養われます。み言葉を聞くことはお勉強ではありません。聖霊によって今日の私自身に与えられる命の糧としていただくのです。悔い改めと恵みを与えられるのが命の言葉です。新しく生きようという思いをもって礼拝の場からそれぞれの生活の場へと戻るのです。そして、共に御言葉を聞き、共に聖餐に与る共同体にある時、私たちは物理的な交わりを越えて、まことの愛の交わりのなかに入れられます。今日、聖餐式を行いますが、そこで、十字架で死なれ、肉体をもって復活されたイエス・キリストと出会います。飼い葉桶に布をまかれて寝かされていた御子が、まさに私たちに命を与えてくださった、そのことを聖餐において覚えます。そして、御子を与えてくださった神の愛に触れます。人間が勝手に考える形式的な宗教ではない、まことの神の愛が示されます。まことの神の愛が示されたのがクリスマスの出来事です。その愛に触れましょう。聖餐において触れさせていただきましょう。その愛に触れる時、私たちの信仰の命は豊かに息づくのです。