2018年12月30日 大阪東教会主日礼拝説教 「天使の歌声より素晴らしいもの」吉浦玲子
<普通の人々に告げられた>
羊飼いたちは夜通し羊の番をしていました。その羊飼いたちに救い主の誕生が知らされました。この場面は、クリスマスの降誕劇のクライマックスとなる箇所です。毎年のようにクリスマスの時期に読まれる箇所です。この羊飼いたちは野宿をして羊の世話をしていたのです。羊飼いは夜も羊から離れられない、羊の世話のために安息日も守ることができなかった、ですから人々から軽んじられ差別されていた人々だとも言われます。しかし諸説あって、羊飼いは社会的、宗教的に差別されていたとまで考えられるのか、それは不明です。イスラエルにおいて羊飼いはもともとはけっして軽んじられるような仕事ではありませんでした。救い主としてお生まれになったイエス・キリストの血筋である偉大なダビデ王ももともとは羊飼いでした。さらにさかのぼってイスラエルの父祖たちであるアブラハムやイサクやヤコブも羊を飼っていました。しかし、主イエスの時代、羊飼いは貧しい階層であったことは事実でしょう。先ほども申し上げましたように、そもそも羊飼いというのはイスラエルの人々にとって親しい存在でした。ヨハネによる福音書ではイエス様ご自身が「わたしは良い羊飼いである」とたとえ話として語られています。しかし少なくとも豊かな階層ではなかった。当時のイスラエルの庶民はほとんどみな貧しかったことを思うと、普通の人々であるともいえます。しかし、羊飼いは人々が眠っている夜に働かなければならなかった人々であったということは確かです。現代でも、夜、働いておられる方はたくさんおられます。人々が眠っているときに、あるいは人々が夜通し楽しんでいるときに、働きづくめに働いている人は多くいるのです。個人的に思い出しますことは、私の亡くなった母も、特にこの年末年始は夜なべして仕事をしていました。和裁の仕事をしていたので、お正月や成人式向けの駆け込みの注文がたくさん入ってきたのです。高価な晴着を早い時期に購入するのではなく、年末ぎりぎりや年明け手から購入される方もおられるんだと感心したものですが、とにかく仕事をこなさなければ収入が得られませんでしたから、ほかで断られた注文や納期の短い仕事も母はとりました。ですから年末年始は夜遅くまで仕事をしていました。いつの時代も、貧しく働く人々はいます。
羊飼いに救い主の誕生が告げられたということは、この世界で貧しく精いっぱい働いている人々を神はお選びになったということです。言ってみればごく普通の人々に神は救い主の誕生を告げられたということです。この世の働きで精いっぱいの人々に神は告げられたのです。宗教的な活動をしている人であるとか、特別に敬虔な人であるということではなく、貧しく精いっぱい働かざるを得ない、ごく普通の人々を神は選ばれたということです。そして人が皆寝静まっている夜、主の栄光によって照らされたのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」そう天使は語りました。言葉は天使、神の使いから発せられていますが、お告げになるのは神ご自身の意志です。御心によって、喜びが告げられました。
<啓示>
ところで、先週のクリスマス礼拝の時、聖餐式を執行しましたが、あの聖餐のパンとぶどうジュースは礼拝が始まって、聖餐式の直前まで布で覆われていました。あの布は埃よけでもありませんし、なんとなく儀式を美しくするためにかけられているのではありません。神の出来事は隠されている、ということの象徴です。キリストの十字架の出来事は神の救いの業の奥義であり急所であり秘儀です。それは本来、隠されているのです。そもそも人間には本来、世界の創造者であり、全知全能の支配者である神の出来事を知ることはできません。しかし、神が人間には理解できない、そしてまた隠されている神の出来事を人間に分かるように顕してくださることがあります。それが啓示です。隠されていることが明らかにされる、それが啓示です。
旧約聖書の時代、神の御心はアブラハムをはじめとした族長たちや、預言者と呼ばれる特別な人々にのみ伝えられました。しかし、今日の聖書箇所では、羊飼いに、直接、み使いから救い主の誕生という、人間の救いにとって極めて重要なことが告げられました。ごく普通の人々に神のもっとも重要なことが示されたのです。これは、まさにこれは啓示の出来事でした。キリストの誕生を知らされるという特別な啓示でした。アブラハムの時代から数えても2000年にわたって隠されていた神の救いの秘儀が、このとき普通の人々に開示されたのです。
なぜこのとき羊飼いたちに知らされなくてはいけなかったのでしょうか?さらにいえば、マタイによる福音書では東方の博士たちに救い主の誕生が知らされています。羊飼いたちにせよ、博士たちにせよ、その後の福音の宣教においてなにかの役割を担ったということは記されていません。ただ御子の降誕の場面にだけ、まさに神に救い主の誕生を知らされた者、啓示された者としてのみ登場するのです。羊飼いたちが飼い葉おけの中のイエス・キリストを見たということは羊飼いたちにといっては大きな出来事であったかもしれません。博士たちにも主イエスとの邂逅は感動に満ちたことであったかもしれません。しかし、それらのことが、主イエス・キリストの働きになんらかの影響を与えるとは思えません。しかし、聖書は敢えて、羊飼いたちに救い主の誕生が知らされたことを記しています。それはせめて神の御心の誕生をそれなりのエピソードで彩りたかったからでしょうか。羊飼いや天使や天の軍勢の合唱で華やかにしたかったのでしょうか。
そうではないでしょう。神は知らせたかったのです。ご自身を人間に顕したかったのです。それは人間が自己顕示欲にかられてなすような事柄とは根本的に違います。神は人間に知らせることなく、救いの業を成し遂げることもおできになる方です。実際、ほとんどの神の働きは人間には見えることのないところでなされています。しかし、救い主の誕生の場面においては、つまり人間の救いにおいてもっとも重要な場面においては、神は人間にその出来事を告げられたのです。それは救いにもっとも重要な出来事であったからということももちろんあるでしょう。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」そう天使は語りました。神は特別な喜びを人間に告げたかったのです。それは喜びを分かち合うにふさわしい者として人間を見てくださったということです。語るに足る存在として人間を信頼してくださっているということです。イザヤ書に「あわたしの目にあたは値高く、貴い」という言葉がありますが、神にとって、人間は貴い存在であるがゆえに、最も重要な知らせを人間にお告げになったのです。
<神と共に歩む時代>
しかし、神はたしかに旧約の時代から人間を値高く貴いとおっしゃっていましたが、人間はほんとうに神の前で値高い存在であったでしょうか?旧約聖書には人間の罪の歴史が克明に記されています。主イエス・キリストの血筋にあたる偉大な王ダビデすら、多くの罪を犯しました。不倫と不倫相手の夫の殺人という現代でも赦されないような大きな罪も犯しています。ダビデだけではありません。人間はみな神の前で罪を犯してきたのです。その人間に対して神は喜びを知らせられました。知らせるに足る者とみなしてくださったのです。最初に申し上げましたように、特別に信仰深いわけでもない、宗教的な人々でもない、ごく普通の人々である羊飼いに告げられました。世界の片隅で地味に働いてる人々に告げられました。特別に宗教的な人々でないとはいっても、天使の言葉を羊飼いたちは恐れました。当然です。特別に宗教的な人々ではないといっても、実際に神と接するとき人間は恐れるのです。神の前で自分の罪を感じるからです。自分の汚れを感じるからです。神がそばに来られた時、人間は否応なく、自分の罪を感じて恐れるのです。神を見ると死ぬと当時の人々は考えていました。それほどに神との出会いは本来は恐ろしいものなのです。
そしてまた一方で、当時のイスラエルには救い主の誕生を良く思わない人々もたしかにいたのです。マタイによる福音書には実際、イエスの誕生を東方の博士たちから聞いたエルサレムの人々は不安になったと記されています。人々は救い主の誕生を喜んでいないのです。幼子イエスを殺そうとしたヘロデ王の話も出てきます。人間の罪はそれほどに深かったのです。人間の罪がなくなったから、人間が十分に悔い改めたから神は救い主の誕生を告げられたわけではないのです。むしろ告げることにはリスクがあったのです。誰にも告げずメシアは誕生した方が安全だったのです。しかし神は告げられたのです。喜びを告げる、それは神の大きな愛の意志でありました。
そして「恐れることはない」と。救い主メシアが誕生したことを告げられました。それは、新しい時代の始まりを告げるものでした。恐れるべき対象であった神が人間と共に歩まれる時代の始まりでした。預言者などの特別な人々ではなく、普通の人間と共に親しく神が歩んでくださる時代の始まりでした。その最初の出来事として、神は羊飼いたちに救い主の誕生を告げられました。
<みどりごイエス>
実際、羊飼いたちが見ることになる救い主は小さな赤ん坊でした。人間に世話をしてもらわなければならないような非力な赤ん坊でした。天の大軍が現れようが、大いなる賛美がなされようが、救い主はごくごく小さな存在でした。人間が抱き取ることのできるような存在でした。やがてその赤ん坊は世界を変えるような偉大な人物になったわけではありません。罪人となったのです。非力なまま十字架に釘打たれる人となりました。あるリベラルな神学者が言ったそうです。「神が人間になられるほどの奇跡はない」と。神がこの罪深い世界で人間となって生きてくださった。たしかにそれこそが奇跡でした。
その奇跡は今も続いています。日本ではもうすっかりお正月を迎える季節となってクリスマスは遠い過去のことのようになっています。しかし、いまもクリスマスの奇跡は続いているのです。私たちの内側で続いています。それは私たちがクリスマスのことを心で思っているということではありません。神がおられるのです。2000年前赤ん坊として来られた神は、いま、聖霊として私たちの内側におられます。小さな赤ん坊してこられた神は、さらに小さくなり私たちの内側におられます。私たちは聖霊によって、日々、神の御心を知らされます。2000年前、羊飼いたちに告げられた喜びの知らせは、今、聖霊によって、私たちが日々知らされているものです。
神は私たちと共にいてくださいます。それは黙って寄り添ってくださるお方ではないのです。語り掛けてくださるお方として私たちと共にいてくださるのです。「恐れるな」そう語り掛けてくださる方です。私たちは神を恐れる必要はありません。神を恐れる必要がなければ、この世界で神以上に恐ろしいものはないのです。私たちは新しい年に向かって恐れずに歩んでいきます。あなたは値高い、その言葉を聞き続けていきます。値高いわたしたちであるゆえ、神はなお語り続けてくださいます。喜びの知らせを語り続けてくださいます。慌ただしい季節です。しかしなお、神の愛の語り掛けを心静めて聞きつつ歩みましょう。