大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書14章32~42節

2018-03-26 19:00:00 | マルコによる福音書

2018年3月25日大阪東教会主日礼拝説教 「飲むべき杯」吉浦玲子

<罪は信仰によらねば分からない>

 人間の罪ということを思います時、それは信仰によらなければけっして理解をすることはできないものです。もちろん人間は、犯罪を犯すことはいけないことだと分かっています。さらに、法律を犯すような犯罪ではなくても、人を傷つけたり、迷惑をかけたり、ずるいことをしたりすることは良くないことだと分かっています。そしてまた自分自身が、これまで生きてきて、何一つ、悪いことをしてこなかった人間だなどとは誰も思ってはいないでしょう。

 そして、自分が悪かった、失敗したと思うとき、「自分は悪かった」と反省をして心を入れ替えて、それからの生き方を変えていく、それは常識的に考えますと、この世におけるいたってまっとうな人間のあり方です。現実に努力してやり直してやり直せたように感じられるときもあるでしょう。しかし、一方で繰り返し同じ失敗をしてしまう、悪いことをしてしまう、そしてああ自分はだめだ、進歩がないと沈み込む場合もあります。しかし、神の前での罪、聖書における罪というのは、反省して心を入れ替えてやり直すというようなことですまされるものではありません。パウロは「罪の報酬は死である」と書いています。罪というのは神に対する罪であるからです。人間を造られた神から離れることが罪です。自分をお造りになった神、自分の存在の根源に対する罪である以上、その犯した罪に対して、人間はその存在の根源において問われるのです。犯罪を犯した、その償いとして規定の罰金を払ったり、刑務所に入る、そういうことと、神への罪というのはまったく次元の違うことです。神への罪に対して私たち人間は自分の力で償うことはできません。償うこともできませんし、自分の力で、罪を犯さないようにすることもできないのです。人間には罪の性質というものが根源においてあるからです。

 今月、壮年婦人会で映画「パッション」を鑑賞しました。昨年の受難節、マタイによる福音書を共に読みつつ受難のことを覚えました時にも触れたことですが、私は10年以上前、あの映画が封切られたとき、映画館で初めて見ました。その数カ月後、受難週にたまたま聖書の受難の箇所を読んでいるとき、まさに自分自身が、あの2000年前のエルサレムにいたという感覚をもちました。それは数か月前にみた映画のイメージも大きかったと思います。その時思ったのは、私はあのときのエルサレムで十字架を担って歩んでいかれる主イエスを、嘆いていた婦人ではなく、まさに主イエスをいたぶるローマ兵であったということです。そしてまたわたしは唾を吐きかける沿道の野次馬だったと感じました。さらに十字架上の主イエスを「メシアならそこから降りてみろ」と侮辱した祭司たち、あの祭司たちこそほかならぬ私自身だと感じました。

 ただ、今月、壮年婦人会でひさしぶりに「パッション」を観た時感じたのは、あまりに映画の登場人物たちが酷すぎるということでした。人権意識が現代とは異なる古代とはいえ、あそこまで、死刑となった人間をいたぶり、あざけるのかなあと感じました。あの登場人物たちはあまりに酷すぎる、あそこまでわたしは酷くない、そんなことを感じました。

 しかし、やはり思ったのです。あれが人間の罪の姿なのだと。あのひどく醜い姿がやはり自分の罪の姿なのだと感じました。わたしの胸を開けば、人間の肉をえぐりとる鉤(かぎ)のついた鞭で、鞭うつ回数を数えながら楽しそうに鞭うつローマ兵が出てくるだろうと思いました。さらに鞭うたれて血だらけのキリストをさらにいたぶる民衆やら、民衆を扇動する大祭司や、沿道の野次馬たちがわたしの胸からわらわらと出てくると感じました。

 とはいえ、一方で、どうしても自分の心の中にはどこか自分はあそこまではひどくない、そんな思いもあります。結局のところ、自分の罪の姿というのは信仰によらなければ見えてこないのです。聖霊によってしか自分の罪を悟ることはできないのです。罪というのは、到底、人間がどんなに深く自分を顧みて反省しても、やり直せるようなものではないのです。自分の中にいるローマ兵や大祭司や野次馬たちのえげつない姿は信仰によってしか知ることはできないのです。

<裁きとしての死>

 そんな私たちの罪のため、主イエスは、十字架の死へと向かわれました。それは特別な死でした。それまでどの人間も体験したことのない死でした。

 今日の聖書箇所前半の主イエスのお姿はそれまで数々の奇跡をなし、律法学者、祭司、権力者たちを相手に恐れることなく論争をなされ、宣教の業をなしてこられた様子とはずいぶんと異なります。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」

 意地悪な見方をすると、何だイエス様も結局、逮捕が近づいてきたら、怯えておられる、イエス様も逮捕されることや死ぬことが怖いんだ、と、感じられるかも知れません。ある文学者は実際「この場面の主イエスは情けない」とこの部分について書いていました。

 しかし、もちろん、ここで考えないといけないことは、さきほど申し上げましたように、主イエスがこれから迎えようとされている十字架の死は、普通の死ではないということです。単に十字架という長時間に渡って苦しみながら死なないといけない残虐な死刑に処せられること以上の恐ろしさがあったのです。主イエスがお受けになる苦しみは、肉体的に極限の苦しみを長時間受け、また人々の嘲笑と侮蔑にさらされる苦しみ、それだけではありませんでした。これから主イエスは、父なる神からの罪の裁きをお受けになる、神の怒りをお受けになる、その恐怖があったのです。そしてその裁きによって主イエスが経験されるのは神との決定的な断絶でした。かつて人間の誰もが経験したことのない、もっとも恐ろしく孤独な死を、イエス様は迎えようとされていました。それゆえに恐れ、もだえ始められたのです。

<人間を伴われる主イエス>

主イエスの死はいまだかつてない死であった、そのことを覚えつつも、しかしまた一方で、来るべき苦しみの前に、おそれ、もだえ、悲しまれる主イエスのお姿は、いろいろな意味で私たちの慰めとなります。私たちが人生において味わう恐れは、主イエスの味合われた恐れに比べたら、ちっぽけなものかもしれません。しかし、そうであっても、生身の人間として、主イエスが恐れ、もだえられたことは、私たち自身が試練の中にある時、おおいなる慰めとなります。主イエスも恐れられた、「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃった、そのことは、私たち自身が試練の中で、恐れ、おびえるとき、慰められます。苦しい時は苦しいと言っていい、恐れてもいい、もだえてもいい、そのとき、わたしたちと同じ思いをもって傍らに主イエスがおられる、そう感じることができます。もちろん、繰り返しますが、主イエスがこれから味あわれる恐れは人間が経験してきた恐れとは次元の違うものです。しかし、そうであっても、恐れもだえられる主イエスに私たちは心支えられる感覚をもちます。

 ところで、祭司というのは神と人間の間に立って執り成しを捧げる存在ですが、ヘブライ人への手紙4:15には神への執り成しを行う大祭司として主イエスのことが記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

 主イエスは大祭司である、しかしその大祭司は、愚かな人間を高みから見下ろし、神へと執り成しをなさるかたではないとヘブライ人への手紙では記されています。主イエスご自身が恐れ、痛み、悲しみ、みじめな思いを経験されたのです。だからこそ私たちの恐れ、痛み、悲しみ、みじめさのその傍らにいてくださり神へと執りなしてくださるのです。

人間の思いをご存知であった主イエスは、ご自身の思い、感情をも、折々に、弟子たちにお見せになっています。神殿で自分たちの利益を上げるために商売をしていた商人たちに怒りを現わされたり、親しくしていた友人のラザロの死に涙を流されたりされました。そしてこのゲツセマネの場面でも、主イエスはただ一人で祈っておられたのではないのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて来ていたのです。このとき、連れてこられた弟子たちはこれから何が起こるのか分かっていませんでした。主イエスの逮捕、そして十字架と復活の意味も分かっていませんでした。分かっていないゆえ、主イエスが恐れと悲しみのうちに祈っているそばで眠りこけている弟子たちでした。弟子たちをゲツセマネに連れてきても、そのような体たらくであろうことは、そもそも主イエスはご存じだったでしょう。ご自身の命と死のきわみにあって、そしてすべての人間を救う決定的な業へと向かわんとするとき、弟子たちは実際のところ無力である、それはよくよくご存じだったでしょう。しかしなお、主は弟子たちをともなわれました。そこに主イエスの人間をご覧になる深いまなざしがあります。主は、奇跡を起こす強いお姿ではなく、おびえもだえるご自身を弟子たちにお見せになりました。たいへんな危機が迫っている時に眠りこけることしかできない弟子たちになお主イエスはご自身のまことの姿を現し、共におられる方でした。そしてまた弟子たちに共にいることを求められる方でした。主イエスはただ主イエスお一人しか飲むことのできない杯を受けようとされていました。主イエスお一人しか飲むことのできない神の裁きの杯であるなら、弟子たちを置いて、ただ一人で向かわれれば良かったのです。しかし、主イエスは愛と憐れみのまなざしをもって弟子たちを一緒に伴われたのです。弟子たちが共にいることを願われたのです。

映画のヒーローが誰にも告げずに、孤独にただ一人、戦いに出ていくのとは違うのです。もちろん主イエスは十字架においてただ一人戦われました。しかしなお、その戦いのぎりぎりのところまで弟子たちを伴われました。そこに主イエスの愛があります。

<目を覚まして祈っていなさい>

 さて「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という有名な主イエスの祈りの言葉があります。わたしたちはこの後半の「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という主イエスの言葉に感銘を受けます。しかし、ある註解者は、もともとのギリシャ語のニュアンスでは、前半の「この杯をわたしから取りのけてください」という言葉はとても強い言い方だとおっしゃっていました。英語だと命令形に訳されるような言葉です。

 主イエスはご自身がメシア、救い主であると自覚をして歩んでこられました。罪なきご自身が神の怒りの杯を飲むことによって、すべての人間が救われる、そのことを良く良くご存知でした。そもそも主イエスの生涯はまさに十字架へと向かう歩みでした。しかしなお、主イエスは「この杯をわたしから取りのけてください」と願われました。神の怒りの杯がいかなるものかを御子である主イエスはよくよくご存知であったからです。

 ご自身の思いを注ぎ出す祈りのうちに主イエスは神のご計画をご自身の意志として受け入れられました。「この杯をわたしから取りのけてください」という切なる強い祈り激しい祈りと、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という神への服従の祈りの間には、とてつもない大いなる祈りの戦いがあったのです。

 主イエスはその祈りののち、眠りこけていた弟子たちに「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい」と語られます。ここでいう一時は、二時間程の時間です。祈りの時間としてはけっして短い時間ではありません。主イエスの全身全霊を傾けられた戦いの祈りからすると弟子たちの祈りはちっぽけなものでした。「心は燃えても、肉体は弱い」と主イエスはおっしゃいます。祈りたい気持ちはあっても体力的な限界によって人間は祈り続けることができない、と私たちはこの言葉を取ります。しかしこの「心」という言葉は霊、スピリットと訳せる言葉です。肉体というのはその霊に対する体です。神を求める霊に対してこの世に生きる肉として体のことです。つまり「心は燃えても、肉体は弱い」は霊は強くても、肉、この世を生きる現実の姿は弱いということです。私たちはそもそも霊的なものを求めきれない弱さをもっているということです。霊的なものを求めて祈り続けることができない、たえず祈ることができない、祈りの戦いをすることができない者であるということです。

<立て、行こう>

 主イエスは三度目に戻って来られた時、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。」とおっしゃいます。

 時が来たのです。それは十字架の時、神の怒りが現わされる時であり、救いの時です。そして眠りこけていた弟子たちに「行こう」とおっしゃっています。そしてこののち弟子たちは主イエスと共にたしかに行くには行きますが、主イエスが捕らえられる時には逃げてしまうことを私たちは知っています。主イエスはそれもご存じだったでしょう。しかしそんな弟子たちに「立て、行こう」とおっしゃっています。ゲツセマネに弟子たちを伴われたように、ご自身が捕らえられる現場にも主イエスは弟子たちと共に行かれます。時が来たからです。救いの時が来たからです。眠りこけていた弟子たちが目を覚ます時が来たからです。祈れなかった弟子たちが祈ることができる新しい時が来たからです。

 さあ行こう、主イエスはおっしゃいます。新しい時が来た。

私たちの罪ゆえの杯は飲まれました。救い主であるキリストイエスによって。神が共におられる新しい時が開かれました。クリスマスの時に神は共におられます、インマヌエルなる神が来られたと良く語られます。たしかに十字架の前、そして十字架を私たちが信じる前、私たちが罪人であったときも神はおられました。主イエスが弟子たちを伴われたように私たちと共に神はおられました。いま、その神との間の隔たりが取り去られました。だから私たちは立つことができます。いえ立つことができるように主イエスが杯を飲んでくださったのです。祈りの戦いをしてくださったのです。今私たちは「立て、行こう」その主イエスの言葉に従うことができます。主イエスが祈られた祈りの戦いを私たちも戦うことのできる、燃える心を立たせる新しい体で生きる時が始まったのです。


マルコによる福音書10章35~45節

2018-03-19 19:00:00 | マルコによる福音書

2018年3月18日 大阪東教会主日礼拝説教「身代金となられる主イエス」吉浦玲子

<切実な願い>

 私たちにはいろいろな願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。

 ヤコブとヨセフ、これは先週お話ししましたイエス様のお姿が変わられる場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でもとくにイエス様に近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。

 今日、この記事を読みますわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で、彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるためにこの世界に来られたわけではないことを私たちは知っています。わたしたちはヤコブとヨセフがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んできながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向と言いますか権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係をみていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。先ほども言いましたように、彼らは、弟子の中でも、ペトロと並んで特別な三人のうちのふたりでした。ですから、この場面はある意味、ヤコブとヨハネの兄弟が結託して、もうひとりの特別な存在であるペトロを出し抜こうとした場面とも取れます。そういうことを考えますと、仮にも主イエスと共に歩んできた宗教者にあるまじき行動とも感じます。

 しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いが、ごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それはそれで不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前には、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」と表題のついた記事があります。ここでは、その表題通り、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細の予告がなされているのです。つまり受難というものがリアリティを帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさにそのエルサレムへと上って行く途上だったのです。弟子たちは三度受難の予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはいったいどういうことが起こるのか分からないなりに、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはそれがどういうことなのかはっきりとは分からないなりに、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのときイエス様は栄光をお受けになる、イエス様のご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いはあるはずだと彼らは考えたのです。

 だからといって私たちは彼らが報いを求めることを世俗的だと非難をできる立場にはないと思います。私たち自身もまた信仰生活においても全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて、主イエスを信じました。イエス様を信じたら、心がゆったりとして生活ができるかと思ったのです。いろいろなことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った私と同世代のある女性は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は彼女の「居場所」という言葉に多少違和感を感じていました。信仰的というより、なにか教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ私たちは皆、多かれ少なかれ、なんらかの自分にとってのプラスとなることがあると願って信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識的にも無意識的にも、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。その私たちの願いの中にはひょっとしたら神様からご覧になったら見当違いのものもあるのかもしれません。

そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。

 わたしたちの信仰生活におけるちょっとずれたような願いも、信仰生活に直接かかわらないけれど、はたからみたらそれってどうなんだろう?と思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。

<神だけが担えるもの>

 ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲むを杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らは出来るつもりだったのです。私たちはそう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。これから主イエスが逮捕される時、彼らが逃げだしたことを知っています。ですから、彼らのこの答えが愚かしいように感じます。

  そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。ハイデルベルク信仰問答の問17には、私たちの罪を贖ってくださる方が、人間というだけではなく神の性質をもっておられる方でなければならないことに関することが記されています。問いは「なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。」これは罪の贖いをなす方が人間であると同時になぜ神でなけらばならないのかという問いです。その答えは「その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性に担われ、わたしたちのために義と命を獲得し、再びそれをわたしたちに与えてくださるためです。」つまり神の怒りの重荷は神でなければ担うことができないということです。人間には到底担いきれないことだということです。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。

 ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが神の御子イエス・キリストでした。

 そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは到底できませんでした。これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマはただお一人神の御子だけが担うことのできるものであるとはまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。

 しかし、主イエスはその場で「いや、お前たちには無理だ」とはおっしゃいませんでした。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」と主イエスはおっしゃいました。それは、神の御子ただ一人が担うことができる杯とバプテスマによって、新しい世界が開かられるからです。主イエスお一人が担われるもの、神の怒りと裁きは、当然、主イエスご自身が担われるのです。しかし、それによって開かれる新しい世界があるのです。その新しく開かれた世界にあって、やがてヤコブとヨハネもそれぞれに杯とバプテスマを担うようにされるということをここで主イエスはおっしゃっています。

<自分の力によるとき上下関係ができる> 

 さてその主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めた、と話は進んでいきます。普通に考えてもヤコブとヨハネの抜け駆けを良く思う人はいないでしょう。抜け駆けという行為にも、そしてまたヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたというところにも他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし、抜け駆けが腹立たしかったのは自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは自分たちもまた、人間を上と下に分けて見ていたということです。

 そんな弟子たちに主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いんだ、自分は誰よりも人のために頑張っているから一番上だということになります。

 そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。しかし、上だ、下だ、誰が偉い偉くないという価値観は、私たちが、自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものです。

 ヤコブとヨハネはまじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさ熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。ヤコブとヨハネの願いはなにか滑稽なようで、私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2No3にという思いが入り込んでくるのです。逆にどうしても自分はまじめにやっても人より劣ってしまうという劣等感がわいたり、熱心にやりたくても遣れない状況に自分が置かれたとき絶望してしまいます。

 人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させます。いま教会学校では、十戒を学んでいます。その10の戒めの中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。神はそのように罪深く生きるために神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために主イエスはお越しになりました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。身代金として来られました。この身代金とは負債、借金を返済するためのお金という意味です。私たちの罪の負債、借金を返すために来られたのです。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。

 すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこに仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。

<願いは聞かれる>

 私たちはかつて自分の願っていることの意味をわからず願っていました。それは上に行きたいという願いであったかもしれません。また人より上に行けない自分はダメだという思いに捉えられていたかもしれません。神の恵みであったものを恵みと受け取れず、別のものを願っていたかもしれません。でも、私たちはすでにキリストの十字架によって自由にされています。自由にしていただきながら私たちはなお愚かなことを願う時もあるかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちの願いをすべてお聞きくださる方です。私たちの願いを聞き、そしてその願いを私たちの思いもよらない形で豊かなものとして成就してくださるのです。私たちが罪の心で願っていたことが、むさぼりの心で求めていたことが、気がつくと、自分のもともとの願いを越えて隣人のために用いられるように実現したりします。ヤコブとヨハネがやがて本当に人に仕える者とされたように私たちもまた私たちの願いが聞かれ、人に仕える者と変えられていきます。

 私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。そしてまた自分の欲望を無理に抑え込むのではありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられたものに仕えるのです。


マルコによる福音書9章2~10節

2018-03-12 19:00:00 | マルコによる福音書

2018年3月11日 大阪東教会主日礼拝説教 「死を越えられる方」 吉浦玲子

<私たちに示される十字架への道>

 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書8章のイエス様の死と復活の予告の場面に続くものです。さらにその予告の前にはイエス様が、ご自身がメシア、救い主であることをペトロに語られています。マルコによる福音書は、このあたりから、主イエスのご受難の道のりの記述へと進みはじめます。その受難物語の入り口部分で記されているのが、今日のいわゆる<キリストの変容>と言われる場面です。

 ですからこの場面は、単にイエスさまが神々しいお姿に変わられ、しかも、旧約聖書の偉大な登場人物であるモーセとエリアまで出てくる華々しい奇跡物語であるというわけではありません。十字架と復活の意味を指し示す箇所となっています。

  その場面で、イエス様はペトロとヤコブ、ヨハネだけをお連れになって高い山に登られました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていく、という場面が、福音書には何箇所かあります。それはたとえば会堂長ヤイロの娘が生き返る場面であったり、ゲッセマネでの祈りの場面です。それらはいずれもイエス様とはどなたなのかということに関するたいへん重要な場面です。聖書を読んでいますと、イエス様のまわりには同心円状に人々の輪があったことがわかります。一番近い輪はこのペトロ、ヤコブ、ヨハネでした。彼らにはもっとも深い主イエスや神の国の秘密が明かされました。その三人のまわりにそれ以外の12弟子のうちの9人からなる輪があったといえます。さらにその外の輪に、イエス様に従っていた他の弟子たちの輪があったのでしょう。そしてさらにその外に、弟子として従ってはいないけれど、イエス様のお話しになることを喜んで聞いていた人々の輪があったでしょう。イエス様ご自身と、神の国の秘密は、より内側の輪にある人々に多く語られ、また示されました。

 しかし、一方で、いま、わたしたちはこの物語を聖書において、今、読んでおります。ペトロとヤコブ、ヨハネにだけ最初は告げ知らされていたことが、今は私たちにも知らされています。主イエスの十字架と復活の前は限られた三人にだけ告げられていたことがらが、いまはすべての人に告げられているのです。主イエスは9節で「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」とおっしゃっています。逆に主の復活ののち、三人は語りだしたということです。三人に始まり同心円状にどんどんとそれは広がって行きました。さらに時代を越えて語られていきました。つまり、主の十字架と復活は、神の国の秘められていたことがらが、すべての人に明らかにされるための出来事であったともいえるのです。

<山の上の出来事と神のご計画>

 さて、その三人だけをお連れになって、高い山にイエス様は登られました。高い山とあるだけで、どこの山なのかはわかりません。しかし、聖書においては「山」というのは神の力の現れるところとされているということは、昨年、共に読んでいましたマタイによる福音書においても同様でした。今日の聖書箇所に出てくるモーセは、シナイ山で神から十戒を賜りました。そしてまたエリヤが、バアルの預言者たちと戦い勝利し、なお王妃イザベルから命を狙われ身も心も疲れ果てたときに、神によって導かれたのがホレブ山でした。ちなみにシナイ山とホレブ山は同じ山ではないかと言われます。エリヤはそのホレブ山で神の声を聞きます。そして主イエスご自身も、たびたび、おひとりで山に登られ神に祈っておられました。

 神が現れられるところ、神と交わるところが山であったのです。ただこれを日本にもある山岳信仰みたいなものと同一視してはなりません。特に今日の場面では、いってみれば、ある種の神秘体験のようなものをペトロ、ヤコブ、ヨハネはするのですが、それだけを読むと、特に日本人は、山そのものに神秘的なものを誘発するなにかがあるように感じられるかも知れません。しかし、そうではないのです。あくまでも、神の存在の高さを象徴的に現わすのが山なのです。

 その山で三人はイエス様のお姿が変わるのを目の当たりにします。3節に「イエス様の服が真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」とあります。ヨハネの黙示録では、白く輝くというのは神の力の現れとして描かれています。まさにこの場面の主イエスは、神の御子としてお姿を現わされたといえます。その本来の栄光のお姿を現わされたのです。

 そこにモーセとエリヤまで加わります。ここでモーセは律法を象徴しています。エリヤは預言を象徴しています。つまりモーセとエリヤで旧約聖書を象徴していることになります。ではイエス様は新約聖書であって、モーセとエリヤとイエス様で聖書全体を指していることになるのでしょうか?そうではありません。律法も預言もイエス・キリストを指し示しているのです。旧約聖書はイエス・キリスト到来以前の書物で、そこには、<イエス>という名前は出てきません。しかし、旧約聖書39巻は、やがて来るべき救い主、キリストを指し示すものです。旧約聖書の成就としてイエス様はこの世界にお越しになりました。

 それは言い換えるならば、旧約聖書から続く神の壮大なご計画の中で主イエスは来られ、そしてその計画の中に十字架と復活もあったのだということです。今日は礼拝後に壮年婦人会で映画「パッション」を観る予定ですが、この映画はキリストの十字架の出来事を描いたものです。そのなかで主イエスを「十字架につけろ!」と叫ぶユダヤ人たちの姿もリアルに表現されています。それがあまりにリアルなため、これはユダヤ人をおとしめユダヤ人を排斥する、反ユダヤ的な映画であるという批判も公開当初あったそうです。

 たしかにキリストを2000年前、十字架につけるように扇動したのはユダヤ人の祭司長たちでした。そしてユダヤの人々は「キリストを十字架につけろ」とたしかに映画のように叫んだのです。そこには確かにユダヤ人の罪があらわにされました。しかし、それはユダヤ人だけでなく人間全体の罪をも現わしています。キリストの十字架は人間すべての罪の贖いのためでした。そして、その十字架は人間の思いを越え、神の壮大なご計画のうちに、なされたことなのです。単にユダヤ人のせいでキリストが殺されたということではありません。モーセとエリヤに象徴される旧約聖書全体で十字架に至る神のご計画が現わされ、そしてそのことが成就したのです。今日の聖書箇所の、山の上での出来事は十字架の出来事がまさに神のご計画によってなされたということを示しているのです。

<新しい時代へ>

 その今日の場面では、モーセとエリアが登場しますが、7節から8節をみますと、主イエスとモーセとエリヤを雲が覆い、そののち、主イエスのみが弟子たちと一緒におられたことがわかります。7節には雲の中からの声が記されています。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」つまり、律法と預言の時代から、主イエスに聞く新しい時代がはじまったことをこの言葉は示しています。たしかに新しい時代が始まったのです。

 そして主イエスと共に弟子たちは山を下りました。新しい時代というのは山の上で神秘体験をすることではなく、主イエスが山を下りて来られたところに始まるのです。主イエスは山の上での御子らしいすばらしい姿ではなく、いつもの貧しいお姿となられ、弟子たちと共にこの地上への日々に戻られました。

 私たちの信仰生活も同様です。私たちは山に登って神秘体験をして霊的に成長していくのではありません。ごく普通に日々の生活をしながら主イエスの御言葉を聞いて生きていくのです。

 ペトロは山の上で、モーセとエリアとイエス様のお姿を見た時、「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」と言います。ペトロはユダヤ人でしたから、幼いころから聖書(この場合は旧約聖書)に親しんでいたでしょう。預言の言葉を学び、律法を守って生きて来たのです。そのペトロにとって、目の前にモーセとエリアが現れたことは、現代を生きる私たちには想像できないほどの素晴らしいことだったでしょう。<仮小屋を建てましょう>といったのは目の前の素晴らしい光景に圧倒されて何を言っていいのか分からない状態で、後先考えずに発した言葉です。でもそのペトロの何を言っていいのかわからなくなるような気持ちは理解できます。あまりにも素晴らしい体験のゆえに、目の前の素晴らしい光景をずっとずっととどめておきたい、自分もまたここにとどまりたい、そういう思いになるのは自然なことです。

 しかし、ペトロたちはイエス様と一緒に山を下りました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」という言葉の通り、キリストに聞きながら普段の日々を生きていくのです。「聞け」という言葉は「聞き従え」という言葉です。つまり、単に言葉として耳で聞くのではなく、キリストのうしろからキリストに従って歩む歩みをしなさいということです。

 キリストの歩みとはなんでしょう。それは十字架を担って歩む歩みです。実際、ペトロたちはやがてキリストと同様、迫害の中を宣教しました。それぞれにキリストの十字架を担って歩んだのです。わたしたちもまたそれぞれに自分の十字架を担って歩みます。では私たちの信仰生活は山の上の素晴らしい体験ではなく、十字架を担う、なにか辛い歩みの連続なのでしょうか?

 そうではありません。そもそもペトロたちが目の当たりにした山の上での出来事は、キリストがふたたび来られる終わりの日の出来事の先取りでした。イエス様の服がとてつもなく輝いていたというのはさきほども申しましたようにヨハネの黙示録の中の救い主のお姿と同じなのです。ペトロたちは山の上でイエス様が、救い主、裁き主、世界の王となられた姿を見たのです。

 その素晴らしい体験自体の感動のゆえにペトロたちは十字架を担い続けることができたのでしょうか?あるいは、その体験によって終わりの日の希望に確信を持てたゆえに、ペトロたちは苦しい宣教の働きをその後なすことができたのでしょうか?今は苦しくても、終わりの日にはあの素晴らしい山の上での光景のような神の国に入ることができると思って耐え忍んだのでしょうか?

 それだけではないでしょう。ペトロたちがその人生の終わりの時までキリストの十字架を担って歩み続けることができたのは、いつかまた素晴らしい体験ができるという期待だけではなく、その日々においてもキリストが共にいてくださり、山の上の体験のような、栄光に輝くキリストのお姿を示されていたからでしょう。その栄光のお姿は、まず礼拝において示されます。いま、私たちは肉眼で栄光のお姿を拝することはできません。しかし、私たちは礼拝において、栄光のキリストと出合うのです。そしてまたそれぞれの祈りのうちに、御言葉に聞く日々において示されます。

 私たちもまた、山の上に登ることはなくても、キリストの輝くお姿を折々に示されます。繰り返し示されます。キリストが示してくださいます。そのことのゆえに、私たちはそれぞれに十字架を担って歩んでいくことができるのです。

<十字架と栄光>

 ところで、まだまだ寒い日が続きますが、教会の庭には、水仙やクリスマスローズをはじめ少しずつ花が咲き始めています。花というとき、だれもが、花が突然ある日咲くのではないことを知っています。寒い季節、冬枯れたような植物の姿を見る時、そこには花の面影はまったくありません。しかし、その植物から、やがて花のつぼみが現れ、花が開きます。

 例えとして必ずしも適切ではないかもしれませんが、栄光のキリストもまた、終わりの日に突然そのお姿を現わされるのではありません。私たちの日常から切り離された別次元の天上の出来事として突然現れるのではありません。

 栄光のお姿は、十字架のキリストのゆえに、私たちに示されます。キリストが血まみれになられ、ぼろぼろになられ、この上なく惨めなお姿で十字架の上で死なれた。それは栄光のお姿とはまったく違います。しかし、キリストがその惨めなお姿で十字架にかかってくださったゆえに私たちは罪を贖われ、栄光のキリストのお姿を見ることができるのです。十字架のキリストのゆえに栄光のキリストを示されるのです。

 私たちは罪深い者です。この世界も悲惨に満ちています。しかしなお、私たちはこの世界で、山の上ではなく日常の場所で、栄光のキリストと出会うことができます。それはキリストの十字架によって開かれた出会いです。キリストの十字架は、栄光のキリストと出会うための入り口であり、この地上と天をつなぐ大きな楔なのです。その楔のゆえに私たちは喜びをもって日々十字架を担うことができるのです。苦難はあっても、キリストの栄光のお姿を示していただきながら、歩んでいくことができるのです。


ローマの信徒への手紙16章1~27節

2018-03-05 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2018年3月4日 大阪東教会主日礼拝説教 「主にある家族として」 吉浦玲子

<名前を呼ぶこと>

 今日は月初めで、礼拝ののちの報告-正確には報告までが礼拝になりますが-その報告の中で、今月、受洗と誕生の記念日を迎えられた方の名前を読み上げさせていただきます。また昨年の11月に行われた逝去者記念礼拝でも、逝去者のお名前が長老から読み上げられました。皆さまにとって、なつかしいお名前もあれば、まったく存じ上げられないだろうなという方の名前もあったかと思います。名前を呼ぶということは、それ自体は大きな意味を持たないようにも感じられますが、実際のところ、名前を呼ぶという行為はその個人の人格とか命を重んじることです。たとえ存じ上げない名前であっても、わたしたちは名前を聞く時、そこに一個の人間の存在を感じ取ります。名前は人間としての存在を確かに現わすものです。逆に、人間の人格や命が軽んじられているところでは、人はその個人の名前では呼ばれないのです。たとえば番号で呼ばれます。歴史を見ても、さまざまな理由で自由を奪われ囚われている人は囚人番号といった番号で呼ばれたりしてきました。

そして聖書においてはことに名前には大きな意味があります。旧約聖書では、アブラハムは<すべての国の父>という意味ですし、その子どものイサクは<笑う>でした。それぞれに名前によって現わされた物語がありました。そしてなにより、「神の名」というときそれは単に、神の個別の名前を指すのではなく、神ご自身を指します。「神の名」というのは神の存在そのものを示すものなのです。主の御名を賛美します、ということは主ご自身を心から賛美しますということなのです。

 さて、ローマの信徒への手紙16章は、いよいよ手紙の最後となりました。今日は、片仮名の多い読みにくいところを長く読んでいただきました。ここでは個人の名前をあげて、パウロが挨拶をしています。とてもたくさんの人名がでてまいります。名前が挙がっている人々の多くは有名な人々ではなかったようです。もちろんたとえば3節のプリスカとアキラは他の手紙にも名前が出てきますし、プリスキラとアキラという少し違う名前で使徒言行録にも出てきます。パウロを支えた有名な人だといえます。しかし、ここに名のある多くの人々は無名の人々で、当時、ローマの教会につながっていてパウロと知り合いだった人々です。聖書の中でもここだけに出てくる名前がほとんどです。これがまだ古い名前であっても漢字で書かれた名前であれば、私たちは多少はイメージができます。あるいは現代風の欧米人の名前であっても少しはイメージがわくかもしれません。しかし、当時のローマの教会に集った人々のカタカナの名前からは、2000年後の日本で生活をする私たちにはほとんどなにも感じ取ることはできません。しかし、その無名の人々の名前がでてくる挨拶の部分を、教会はあえてそのまま正典である聖書の中に残しました。これにはどういう意味があるのでしょうか?

 聖書学者という方々は昔からたいへん探究熱心で、この無名の人々のことをいろいろな手段を使って調べてこられたようです。その結果、ある程度はここに名を記されている人がどういう人であったかが類推できるようです。このような研究というのはすごいものだと思います。その研究の結果を加藤常昭先生の書いたものから孫引きのような形で知ることができました。

 そして結論から先に言いますと、ここで名前が挙がっている人々は、人種も身分もさまざまな人々であったということです。おそらく今日の日本の教会とは比べ物にならない多様性を持った人々の名前がここに挙げられているようです。たとえば12節に出てくるペルシスというのは「ペルシャの女」という意味なのだそうです。この名前から分かることはこの女性はおそらく奴隷であったということです。奴隷の身分であった、おそらく遠くペルシャから売られてきた女性であったであろうと言われています。その女性が主のために非常に苦労をしたとさりげなく記されています。自分の身分にまつわることや生活上の苦労ではなく、宣教の活動において、教会を支えることにおいて苦労をしたということが書かれているのです。それ以外にも名前から奴隷であることが分かる人々が何人か混じっているようです。一方で11節にはヘロデオンという名前があります。これは「ヘロデ家の人々」という意味です。ヘロデと言えば、新約聖書においては悪名だかい名前です。ヘロデ大王は主イエスがお生まれになった時、その命を狙って二歳以下の子どもたちを虐殺した王です。そしてまたその息子のヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを殺した人物でした。しかし、その親族たちで、当然、身分が高くて、ローマに住むことができた人々の中に、キリスト者になった人々がいたということです。主のなさることは実に驚くべきことです。ある神学者はここで、パウロはさりげなく、ヘロデに象徴されるこの世の暴力、悪の力へのキリストの勝利を書きこんでいるのだと語っています。10節にあるアリストブロも詳細は分かりませんが、身分の高い人であったようです。

<さまざまな人々>

そういった名前をパウロは、無作為に並べているのです。いえ、パウロ自身はなんらかの筋道をもって並べているのかもしれません。しかし、読み手から見ると、実にランダムに並んでいるように感じられるのです。たとえば身分の高い人から順番に名前があがっているわけでもありません。人種別に並んでいるわけでもありません。男女も混じり合っています。そもそも最初に名前を挙げられているのは女性ですが、このことも男尊女卑が徹底していた当時としては驚くべきことです。パウロを男性優位論者、差別主義者のように批判する人も多いのですが、ここでの名前の挙がり方を見ると、パウロが性別をはじめとしたその人の外的なことがらで人間を差別をする人物ではないことがわかります。共に神を見上げている人々に、手紙の最後でパウロはこの世の序列や気遣いからは解き放たれて実に朗らかに挨拶をおくっているのです。

 この手紙は、ローマの教会で実際に読み上げられたと考えられます。その読み上げられる手紙の最後に人々の名前が読まれるのです。ちょうど今日、わたしたちの教会で、記念日を迎える人が名前を呼ばれるように、名前が読まれたのです。ローマの教会で2000年前、名前が読まれた人は突然自分の名が出てきて恥ずかしかったり、驚いたり、あるいは喜んだりしたでしょう。その名前を読み上げるというその行為が、まさに教会の交わりを現わしているのです。そのことをパウロはよくよく理解して、一人一人のことを喜びをもって祈りをもって名を記したのです。そして、さまざまな背景を持った人々の名前が性別やこの世の身分や人種と関係なく読み上げられていくのです。パウロ自身は今はその教会の交わりの中にまだいないけれども、たしかにローマの地で手紙が読まれ、名前を読み上げられる人々がいる、その情景を思い描きながら、心を込めてパウロはひとりひとり名前を書いたのでしょう。

 もちろん、ローマの教会のなかにも問題があったであろうということは、多くの教会を牧会してきたパウロには分かっていたでしょう。皆が皆、なかよくしていたわけではないかもしれません。いやむしろ対立だってあったでしょう。しかし、それらを越えて、そこに教会という愛の共同体があることをパウロは確信して、名前を記したのです。

 そして名前を記したのち、16節には「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」とあります。当時は、礼拝の中で口づけをして挨拶をするという慣習があったようです。これは特に聖餐を祝う礼拝においてなされたと考えられるそうです。現代でも実際に口づけを交わすところも残っているようですが、形を変えて行われているものもをあります。たとえば以前もお話しいたことがあると思うのですが、教会によって、聖餐のある礼拝の中で「平和の挨拶」というものを礼拝の中でするところがあります。わたしの母教会でもそうでした。「平和の挨拶」は両隣や近くの席の人と、実際に挨拶をするのです。「主の平和」といって挨拶したり、握手をするときもあります。これは、慣れないと、日本人にとってはすこし気恥ずかしさのあるものです。しかし、口づけにせよ平和の挨拶にせよ、それは主の食卓である聖餐にあずかる人々が神の前の家族として交わるということを象徴的に現しています。

 パウロは多くの名前を書き「よろしく」と言っていますが、この「よろしく」という言葉の語源には祝福がありますように、平安がありますようにという意味のあるそうです。ですから多くの人々の名前を出してそれぞれに「祝福がありますように」とパウロはあいさつをしているのです。そしてまた、みなさんたちもまた互いに祝福がありますようにと挨拶をかわしなさいとパウロは語っています。祝福を祈りあう共同体が教会だからです。

<主に応答して生きる>

 さて、いま私たちは主イエス・キリストのご受難を覚える受難節を迎えています。その受難節に特に覚えておきたい名前が今日の聖書箇所にあります。13節の「ルフォスと、およびその母」です。イエス様が十字架を担ってゴルゴダの丘まで歩まれていた途中で、道で倒れられてしまわれた。そのとき、たまたまその場にいたキレネ人のシモンという人が代わりに十字架を背負って歩いたという記事が福音書の中にあります。マルコによる福音書では、15章21節に「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が」と記されています。マルコが福音書を記したとき、おそらくアレクサンドロとルフォスというのは当時の教会では良く知られた名前だったと考えられます。<あのアレクサンドロとルフォスの父であるシモンがイエス様の十字架を背負ったのだよ>とマルコは記しているのです。そのマルコが記しているアレクサンドロとルフォスのうちのルフォスが今日の聖書箇所の13節に出てくるルフォスだと考えられています。つまり、主イエスの十字架をむりやり担がされたシモンの家族がそののちキリスト者になり、その家族がパウロとも知り合いであり、パウロの宣教を助けていたということがここで分るのです。

 マタイによる福音書でも共にお読みしたことですが、シモンはおそらく祭りを祝うために田舎から出てきていたのです。ある意味、旅行気分でエルサレムにやってきていた。それなのにたまたま主イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩いていくところに遭遇してしまったのです。ひょっとしたらシモンは体格が良かったのかもしれません。ローマの兵隊から無理やり主イエスの十字架を背負わされて今いました。シモンにしたら迷惑千万なことです。しかし、それがキリストの恵みにあずかる祝福の始まりでした。

 とても奇妙なやり方で神様はシモンとその家族を選ばれたのです。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。」主の十字架を背負うということに選ばれたシモンの子供という特別の選びがここにあったのです。主に結ばれるという選びがたしかにここにあったのです。そして選ばれた者はその選びに応えて生きていくのです。パウロは「その母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」と心を込めて書いています。彼らがどれほどパウロの宣教のために心を砕いたのかがわかります。

 しかし、ルフォスとその母だけではありません。ここに名前を記されているすべての人々はさまざまな経緯でキリストに結ばれた人々です。キリストに選ばれた人々です。そしてそれぞれに宣教の苦労を担った人々でした。主イエスの十字架と復活によって明らかにされた神の愛に突き動かされた人々です。

 わたしたちもまたキリストに選ばれて今日この場にいます。私たちも十字架を担われるキリストと出会いました。いばらの冠をかぶせられて頭から血を流され、また鞭打たれ体からも血を流され、いくたびを倒れながら十字架を担ってくださったキリストを肉眼では見ていません。しかし、聖霊によって出会わせていただきました。私の罪のために血を流されたキリストと出会いました。それぞれにキリストご自身から招かれました。

 ですから私たちもまたそれぞれに十字架を担います。キリストの御後を歩んでいきます。それは新たな苦労を背負い込むことではありません。わたしたちの最も重い荷はすでに取りさられています。罪という最も重い荷物は取り去られ、私たちは身軽になりました。解放されました。その身軽になった自由になった私たちは喜びをもってキリストから与えられる新しい使命に生きます。新しい十字架を負うのです。それは担いきれないほど重いものではありません。担う力をもキリストから与えられて、私たちは喜びの内に歩んでいきます。


ローマの信徒への手紙15章22~33節

2018-03-05 17:11:00 | ローマの信徒への手紙

2018年2月25日 大阪東教会主日礼拝説教 「信仰者は旅をする」吉浦玲子

<現実と希望>

 パウロはローマ訪問の希望を今日の聖書箇所で語っています。パウロの宣教のあり方は、先週お読みした箇所にあるように「他人の築いた土台の上に建てたりしない」ものでした。つまり、自分で土台から建てていくことがパウロの宣教の使命だとっています。コリントの信徒への手紙で、「私は植え、アポロが水を注いだ」とあります。最初にコリントの教会の教会の土台を建てたのがパウロであり、その後、アポロが働いたということです。パウロはコリントにかかわらず、どちらかというと教会を新たに開拓して建てていく役割をしていました。教会がどうにか形を持った後の牧会は後継者に委ねる形であったようです。しかし、パウロは創立者である自分がえらいとは言っていないのです。コリントの教会の中で、パウロ派、アポロ派と争っている人々に「私は植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と語りかけます。教会の仕事に限らず、この世界には新しいことを切り開くパイオニアタイプの人もいれば、すでにある程度形の整った仕事を継承し、成長させていくタイプの人もいます。どちらのタイプがえらいということではもちろんなく、どちらのタイプの人もこの世界には必要です。そのどちらもが必要なうちのパイオニア型であったパウロは、さらにパイオニアとして前進をしていきたいという願いがありました。先週も申し上げましたように、ローマ帝国の支配下の西側の地域にパウロは歩みを進めたかったのです。その歩みの途上でローマにいき、また、さらにイスパニア、つまりスペインまで行きたかったようです。それが今日お読みした箇所の最初の部分に記されています。

 新約聖書を長くお読みの方はご存知でしょう。このパウロの希望がこののちどうなったかということを。それは使徒言行録を読みますとわかります。パウロはたしかにこの後、ローマに行くことになります。しかし、それは自由な宣教者としての立場でいくのではありませんでした。パウロは囚人として護送されてローマに行くことになります。それは一説にはこのローマの信徒への手紙を書いた10年後くらいのことではないかと言われます。このローマの信徒への手紙を書いていた時には、パウロ自身、まさかそのような形で、将来、自分がローマに行くことになろうとは思ってもいなかったでしょう。いま使徒言行録の中のパウロの歩みを詳細には追いませんが、パウロはエルサレムで逮捕され、さまざまなところで何回も取り調べを受け、それに対して弁明をしました。パウロはローマ市民権を持っていましたから、最終的にローマ皇帝に上訴をしました。それゆえにパウロはローマへと向かうのですが、そのローマへ向かう途中、船が暴風に襲われ難破するということもありました。たいへん困難な状況でパウロはローマへとたどり着くのですが、使徒言行録の中のパウロは、逮捕されても、反対者から批判をされても、船が難破してマルタ島で過ごすことになっても、首尾一貫した態度をとり続けます。それはイエス・キリストを証しするということです。自分の状況を良くしようとか、良い待遇を受けようということにはまったく無頓着でした。たとえば法廷において自分を取り調べている相手に対してもイエス・キリストの伝道を始めたりするのです。

 「こうして神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」とパウロは今日の聖書箇所の最後に記しています。しかし使徒言行録を読む限り、パウロのローマ訪問は「喜び」とは程遠い現実であったように感じられなくもありません。

<織り物とジグソーパズル>

 ところで、ある牧師は、神の御業は織物のようなものだとおっしゃいます。縦糸と横糸を織って行く、いろんな色が混じり合い、織っている途上では、最終的な織物の柄はわかりません。あるときは、なんだか汚いくらい糸ばかり織っているような時が続くこともあるかもしれません。しかし、最終的にできた織物をみるとき、その暗い色によってくっきりとかたどられた見事な柄ができていることに気づきます。美しい明るい糸も、あまりきれいとは思えない暗い糸もその織物の中でそれぞれに生き生きと用いられてすばらしい模様を編み出していくのです。神と共にあるわたしたちの日々もまたそうであるとその牧師は言います。わたしたちはこの糸が織り物のなかでどのようなものになるのかはっきりとはわからぬまま人生の織物を織っています。でも、日々織って行くどの糸も、一本も無駄なく素晴らしい模様のために用いられるのだと。私たちの人生は神のご計画によって素晴らしい織物を織っていくようなものだとその先生はおっしゃいます。

 それはまたジグソーパズルにも似ているかもしれません。わたしはあまり根気がないのでジグソーパズルはしませんが、ご存知のように、ジグソーパズルはたくさんのピースをはめ込んでいき、その最後の1ピースがおさまったとき、絵が完成します。最初、いくつかのピースをつないで、部分だけを見ていた時には全体の絵とは程遠い印象です。それがどんどんピースがつながって、ようやく最終的な絵を見ることができます。もっともわたしたちの人生のジグソーパズルはさきほどの織り物のと同様、最初から完成の絵が分かっているわけではありません。途上では、いったいどのようなものが完成するのか想像もつきません。しかし、わたしたちが日々ピースをつなげていく歩みをしていく時、最終的に神は私たちには想像のつかない素晴らしい絵を完成させてくださるでしょう。私たちは自分が手に持っているピース一片一片の意味をわかりません。それでも根気よく、そのピースをつなげていくとき、素晴らしい絵が神によって完成されていきます。

 パウロは確信をしていたのです。自分自身が神に用いられてキリストの証し人として生きていくとき、その日々に困難があり、自分が願っていたこととは違う状況になろうとも、最終的には、神はなにがあっても、素晴らしい絵を完成させてくださることを信じていたでしょう。パウロのジグソーパズルには鞭うちというピースがあったり、船が難破するというピースがあったり、反対者から陥れられて法廷に立つというピースがありました。しかし、その一枚一枚を神に捧げて生きていく時、どの一枚も無駄にはならない、最終的に美しい絵を神様が完成させてくださることをパウロは確信していたのです。

 自分の一日一日は、神の前にあって、ジグソーパズルの1ピースに過ぎない。でもそれを自分で無理につなげて絵を完成させるのではなく、神が完成させてくださるという確信があったのです。ですから、自分の思っていた通りには必ずしも物事が進んでいかなくても、その日々はパウロにとっては喜びに満ちたものでした。いやもちろん、日々にあって、パウロも恐れ、嘆き、悲しむことは多くあったでしょう。なかなかものごとが思っていたように進まず、不安で押しつぶされそうな時もあったでしょう。しかし、日々のさまざまな思いもありながら、神に信頼していたのです。ですから、パウロ自身、囚人としてローマに向かうとき、こんなはずじゃなかったと困惑はしなかったでしょう。神に信頼する時、未来は本当の意味で希望になります。ローマの信徒への手紙の5章で「わたしたちは知っています、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」とパウロが語っているのを少し前に共にお読みしました。これは困難の中でも忍耐して希望を失わないようにしましょうということではありませんでした。神ご自身が欺くことのない希望を私たちに与えてくださるから私たちは忍耐ができ練達できるのです。その日々が神によって希望を生みだしていくものとなるのです。

<祝福をまとって行く>

 ところで今日お読みいただいた29節には「そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところへ行くことになると思っています。」とあります。また、今日最初にお読みいただいた創世記12章は、アブラハムの旅立ちの場面でしたが、神はアブラハムに「あなたは祝福の源となる」とおっしゃっています。神はアブラハムを祝福して旅立たせました。しかしその神の大いなる恵み、祝福はアブラハム個人にとどまるものではありませんでした。その祝福はアブラハムからあふれ出ていきました。いまや、そのアブラハムへの祝福が全世界に及んでいるのです。あなたを祝福の源とするとおっしゃった神の言葉のように、アブラハムに始まった祝福はまずイスラエルへ広がり、キリストの到来ののちには、イスラエルの枠を越えて、全世界に及びました。

 パウロは29節の前のところで、当時財政的に苦しかったエルサレム教会を支えるための援助金をもってエルサレムへ向かうことを書いています。この援助金を取りまとめてわざわざエルサレムに向かうということ自体、たいへんな困難なことでした。その困難な業をパウロはあえて自分でやったのです。しかし、そのあとにある「キリストの祝福をあふれるほど持って」という言葉は、援助がうまくいった喜びのうちに、ということではありません。そちらにいって、一緒に喜びあいましょうということではありません。「キリストの祝福をあふれるほど持って」という言葉は原語では「キリストの祝福の充満のうちに」という意味があります。つまりパウロ自身が祝福の中にすっぽりと包まれているというイメージなのです。

 パウロがなにか手土産のように祝福をたずさえていくのではなく、パウロ自身が充満する祝福の中に包まれている、そしてパウロがゆくところゆくところ、パウロと出会う人にも祝福が注がれていくというイメージです。かつてアブラハムは祝福の源とされました。アブラハムは旅立ってのち、生涯ほぼ定住はしませんでした。転々と旅をしました。神から最終的な行き先は告げられず、転々としたのです。その旅の途上でアブラハムが寄留する土地にはいつも祝福がもたらされました。それはアブラハムの息子のイサク、ヤコブでも同様でした。さらにその子どものヨセフもそうでした。ヨセフは、エジプトに奴隷として売られてしまいますが、売られていった先で祝福をもたらす存在となりました。つまり私たちの信仰の遠い祖先たちもまた、パウロと同様、自分自身の思いではなく神のご意志により旅をする人生でした。アブラハムもイサクもヤコブもヨセフも、必ずしも自分の願っていた人生を生きたわけではなかったでしょう。しかし、その歩みは神の祝福の充満のうちの歩みでした。それはアブラハムとかパウロといった信仰の巨人だからそうだったのではありません。私たち一人一人もすでにそうなのです。わたしたちもまた祝福にすっぽりと包まれているのです。その祝福は、キリストの十字架の死と復活によって与えられたものです。

 ところで、先日、クリスチャンの友人と話をしました。その方はわたしと同年代でしたが、なかなか自分の家族が教会に行ってくれない、洗礼を受けてくれない、信仰を持ってくれないと嘆いておられました。それは自分の信仰生活がちゃんとしていないからだろうかと思いつめておられました。家族への伝道というのはどの家庭でも難しいものです。その方には、月並みなことではありますが、気長に祈りつつ待つしかないよ、というようなことを申し上げました。ただ、話しつつ思ったのです。その方自身がすでに祝福の源となっていることをもっと感じてほしいなと思いました。その方自身にあふれる程の祝福があり、すでに祝福に包まれている。たしかにご家族への伝道はいろいろな要因があり、むずかしいでしょう。しかし、その方を包む込む祝福はかならずその方の周囲に影響を及ぼしていると思うのです。ですから自分の「信仰生活がだめだから」なんて落ち込むことはないのです。もちろん、だからといってなにも伝道をしなくてよいということでもありません。しかし、既に自分を包んでいる祝福の充満を感謝しつつ歩む生活がもっとも大事なのではないかと思います。

 私たちひとりひとりは、祝福にすっぽりと包まれて、神と共に旅をしていく人生です。そして美しい織物をおっていく、またジグソーパズルを完成させていただく日々です。思いもかけないこともあります。こんなはずじゃなかったということもあります。ローマに向かっているつもりなのに、ぜんぜん違うところに回り道をするような日々もあります。エジプトに放り出されるような日々もあります。しかしなお、その歩みの中で、わたしたちはそれぞれにキリストの祝福に充満されて歩んでいくのです。私たち自身には祝福に充満されている感覚はないかもしれません。それどころか辛いことばかりある日々かもしれません。しかし、わたしたち自身にははっきりと気づけなくても、わたしたちもまた、アブラハムと同様、祝福の源とされているのです。パウロと同様、キリストの祝福の充満の中にあるのです。

 私たちが意識しようとしまいと、わたしたちは、祝福の充満の中を旅していきます。美しい神のご計画のうちに信頼して歩んでいきます。