2017年7月30日 主日礼拝 「かならず実をむすぶ生活」 説教 吉浦玲子
<花より実>
永遠の命へ向かう歩みは実が実る生活、聖なる生活の実が実る生活なのだと、6章の終わりでパウロは語りました。そのことを再度、パウロは律法との関係を確認しながら語っているのが今日の聖書箇所です。
ところで、教会の中庭に教会学校のお子さんたちが種をまいた朝顔が育っています。2週間くらい前までは毎日20輪以上、にぎやかに花が咲いていたのですが、あるときから、ぱったりと花が咲かなくなりました。うっかりしていたのですが、たくさん花が咲いていることに気を取られて、花がらを摘んでいなかったため、咲いた花がすべて種をつけるようになったようです。種が入った袋が丸々とたくさん成長をしています。その種の成長のために養分がとられて、花が咲かなくなってしまったようです。朝顔に限らず、植物には花の時期があり、実りの時期があります。実ったものを食用にする場合もありますが、どちらかというと人間は花の時期を楽しみます。しかし、植物の美しい花が枯れ、実りの季節を迎える、花を愛でたい人間の目には少しさびしい感じでも、植物の命としてはその実りこそ、次の年につながる大事なことです。
芸術の世界でも、若くして才能を発揮して、早熟な、華々しい活躍をする人がいます。しかしその人が年を経て、さらに良い作品を残していくかどうかというのは分りません。若い頃のきらきらした、才気あふれた感覚が失われ、凡庸になってしまう場合も多くあります。短歌の世界でも10代や20代のとき、まぶしいような作品で世に出てきた才能ある人がある時期から消えてしまう、そういうことがあります。実際、まさに天才的な早熟な人を私は何人か見てきましたが、余りにも若い時がすごかっただけに、その後、うまくいかず挫折したり、過去の栄光にすがるようになってしまった方もいて残念でした。
芸術の世界であれば、若い時期だけに創作できる、世阿弥がいうところの「時分の花」というような魅力ある、花のある作品もそれはそれで価値があります。でも私たちの日々のあり方は、花よりもむしろ実を実らせることを大事にしていくべきだと聖書は語ります。パウロも6章でもまた今日お読みしました7章でも<実り>ということを語っています。
私たちは<もう一花咲かせよう>という言い方を一般的にはします。もちろん人生において、花は咲いたらいいと思います。中庭の朝顔もせっかくなので、もう少し花が咲いてほしいと少し手入れをしたりします。しかし、永遠に咲き続けることはできませんし、その必要もありません。命ということで考える時、先ほども言いましたように、実が実っていくことの方が大事なのです。私たちはキリストと共にある日々を歩みながら、毎日毎日変わり映えのしない生活をしていくではありません。豊かな実りへと向かう生活をするのです。それこそがいったんキリストの十字架と共に死に、復活の命に新しく生かされている者の新しい生き方です。
<律法に死んだ者>
1節から4節までにおいて、パウロはキリストに結ばれた者は律法に対して死んでいるということを語ります。結婚を比喩にして語っています。律法は生きている者に対して有効なのだと語ります。夫婦がいて、夫が死ねば妻を夫と結びつけていた律法からは自由になるというたとえをパウロは語っています。夫が死んだ後、妻が他の男性と一緒になっても姦通の女とはならないと。だからといって、律法自体がなくなるのでも律法が無効になるのでもありません。4節で「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者になっています。」。律法は生きている者と結ばれるものなのであって、洗礼によってキリストと結ばれて死んだ者は律法から自由なのだとパウロは語ります。夫婦のたとえでは夫が死んだたとえでしたが、律法に対して死んでいるのは、キリストの体と結ばれた人間の方です。
そもそも律法とは罪をあきらかにするレントゲン写真のようなものだと以前、お話ししました。律法がなければ、罪は罪とあきらかにされないのです。律法は罪を図るものさしであったともいえます。しかし5節には「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」とあります。これは不思議な表現だと思います。罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働くというのです。まるで律法が悪いもののように感じます。本来は、律法は神から与えられたもので、それ自体は良いものであるはずです。しかし、罪に支配されている人間、つまり肉に従って生きている人間の体のうちには、その本来善いものである律法によって、むしろ罪への欲情が働いてしまうというのです。単純にいうと律法で「こうやりなさい」と言われたらやりたくないし、律法から「やってはいけない」と言われるとやりたくなる、ということです。以前、お話ししましたように、肉に従って生きている時、私たちは罪をコントロールはできなかったのです。罪を支配することはできなかった。だから心と体の中で、むしろ律法に反することへの誘いが頭をもたげてくるのだというのです。そしてその結果、わたしたちは死に至る実を結んでいました。
これはモーセに与えられた律法を守ってきたユダヤ人だけの話ではありません。モーセ5書に記されている律法を持たない異邦人であっても、それぞれに神の戒めは与えられています。その戒めに従って、それぞれは罪に定められます。
しかし、今は違うのです。キリストに結ばれた者はユダヤ人であれ、それ以外の人間であれ、律法・戒めに対して死にました。もはや律法は私たちを縛りません。では、律法から自由であるなら、何をしてもいいのかという、繰り返しの疑問がまたここでも出て来ます。律法で罪と定められ、神から罰されることがないのであれば、何をしてもかまわないのかということがここでも疑問となります。
<聖霊に従って生きる>
先ほども言いましたが、律法は無効になったわけでも滅んだわけでもありません。神の奴隷として新しい命に生きる私たちは、キリストと結ばれて生きていくのです。パウロは「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」と語ります。ここで<文字に従う古い生き方>とはなんでしょうか。たしかに律法は紙に書かれた文字ではありました。しかし、もともとは神から与えられた愛の戒めでした。その根本の精神は、神を愛し隣人を愛するということでした。マタイによる福音書を共に読んでおりました時、繰り返し、安息日の戒めに関する主イエスと律法学者の争いがありました。安息日に腕の萎えた人を主イエスはお癒しになりました。安息日に働いてはいけないという律法に反していると律法学者たちは怒りました。お腹を空かせた弟子たちが麦の穂を摘んで安息日に食べたことに対しても律法学者たちは怒りました。麦の穂を摘むということは安息日にしてはならない労働にあたるからです。本来、神の愛の戒めであった律法が、ただ紙に書かれた文字として人間を縛っていくのです。本来は人間を健やかに生かしていくはずのものが、まさに紙に書かれた文字としてだけ解釈され人間を縛っていきました。紙に書かれたもの、文字には従わなくて良いということは、なんでもありということではないのです。本来の、神を愛し、人間を愛するという根本の戒めに従うことなく、律法主義的に生きることが文字に従う古い生き方です。
<文字に従う古い生き方>とは神の戒めに自分の力で従おうとする生き方でもあります。ユダヤ人であれ、それ以外であれ、自分自身の力で正しく生きようとする生き方が<文字に従う古い生き方>です。そもそも、律法それ自身には救いの力はないのです。律法に従おうとして生きる時、人間は無力さを感じます。どこまで行っても従いきれない自分の罪深さを嘆くことになります。キリストの十字架によって救われた、それにふさわしく頑張って生きて行こう、そう思うとき、すでに自由になっているはずの律法にとらわれているのです。パウロの言うところの<文字に従って>いるのです。それは古い生き方であり、実を結ばない生き方です。人間が人間の力で律法を守ろうとするとき、それは「文字に従う」生き方であり、それは実を結ばないだけでなく、自分は律法を守っているという自分自身の誇りへとつながります。自分はこんなにちゃんとしているのに、あいつは何なんだという思いを持ち人を裁くことになります。自分では律法をまじめに守っているつもりで、実際は人を見下している、そこには神への愛も隣人への愛もないのです。
ネットを見てて憂鬱になるのは、クリスチャン同志で裁き合っているのを見る時です。まじめなクリスチャンほど、そうなのです。他の人の行いを批判している、男女関係のあり方であるとか、あなたは悔い改めが足りないとか、それは聖書に書かれていることに反している、そう指摘して糾弾するのです。愛をもって相手に助言をしたいのなら、それこそ聖書に書いてあるように、他の人の目につかないところで、物陰で、直接いうべきです。批判をする人はまじめなつもりですが、これはまさに「文字に従って」生きている人なのです。でも本当に心配なのは批判をしている人本人です。その人自身が、しんどいのではないかと心配になります。実際、そういう人はまじめさが続かなくなって、自分自身で無理をしているので、やがて信仰的に折れてしまうことが多いのです。
そういう「文字に従う」生き方ではなく「“霊”に従う新しい生き方」をパウロは説きます。“”つきの霊は聖霊ということですが、聖霊に従う生き方をするのだとパウロは言います。すでに神の愛が私たちには注がれているのです。キリストはそのために死んでくださった。そして、私たちには神の愛を知るための霊、聖霊が与えらえています。その信仰に生きる時、私たちの内なる聖霊に従うことができるのです。
キリストと共に生きるとは、高速道路をいったん降りて向きを変えて走り出すようなものだと申しました。これまでは死へと向かっていたのが、向きを変えて、永遠の命へと向かって走り出すようなものだと申しました。そのとき、車を運転しているのはたしかに私たちです。私たちがハンドルを握っています。確かに自分でハンドルを握って運転をしているのですが、聖霊がその運転を支えてくださいます。安全に運転できるようにしてくださるのが聖霊です。逆に自分勝手にスピードを出しすぎたり、勝手な判断でハンドルを切ることはできなくなります。自動車教習所で、横に先生が座って運転をしているようなものです。ハンドルの切り方が悪ければ補助してくれますし、危険なことをすれば、ブレーキを引いてくれます。そしてまた、それまで見えなかったいろんな標識も良く見えてきます。世界が違って見えてくるのです。神のなさることが見えてくるのです。この世界に、そして自分の日々に神が働いておられることが見えてきます。それは世界が新しくされたといっていいことです。私たちはしゃにむにハンドルにしがみついて運転を続けていく必要はないのです。ゆったりと周りの景色を楽しみながら走っていくことができるのです。神の御業を喜びながら生きていくのです。
私たちはすでに新しい世界に生かされています。救いは律法からではなくキリストからきました。私たちの手で救いを勝ち得たのではありません。私たちの手で守ってゆくものでもありません。聖霊を求め、聖霊に従って生きてゆくとき、救いの現実はたしかなものとされます。いままさに、キリストのゆえに死から命へと移され、まったく新しい日々を歩んでいることを実感します。聖霊を求め、聖霊によってその新しい世界を、そして日々をさらに見せていただきましょう。その聖霊に従う日々の中で、私たちは、キリストによって、豊かに実らせていただくのです。
ふとこのホームページにたどり着き、このメッセージのご内容に恵を得ましたことお礼申し上げます。
仕事の合間にて、今週来週いつになるかわかりませんが、必ず参加できる思っておりますので、その節には何卒よろしくお願い申し上げます。
聖書を読む会、お待ちしています。
(ちなみに次週の17日は残念ながら休会です。今週、また24日以降は通常通りです)
暑い日々が続きます。主の祝福と守りがありますように、