2017年12月3日 主日礼拝説教 「共におられる神」 吉浦玲子
<神に共にいてほしいですか?>
神が共におられる、共にいてくださる神、その言葉を聞く時、私たちはまず、安らぎを感じるのではないでしょうか?神が一緒にいてくださる、それほど心強いことはありません。何があっても大丈夫だと感じます。
しかし、一方で、私たちの日々を、よくよく考えます時、いつもいつも神が共におられるとしたら、少し面倒な気分にもならないでしょうか?困った時にはもちろんすぐに神様に助けていただきたい。しかし、四六時中、そばにいられると、なんとなく困るような気がしないでもないかもしれません。ただそばにいて、見守っていてくださっているだけならまだよいのです。しかし、その神が、私たちに働きかけられる、それ以上に、私たちの生活に介入して来られる。そのとき、私たちは大きな困惑と恐れと、場合によって迷惑な思いをすら持つのではないでしょうか。
しかし、現実に、神は私たちの人生に介入して来られます。それは私たちの救いのためです。そして、喜びのためです。そしてまたそれは同時に十字架の苦しみのためです。私たち一人一人が、それぞれに担うべき十字架の苦しみを苦しむために、神は私たちの人生に介入して来られます。私たちは神が共におられる時、神が共におられるゆえ、豊かに喜び、そしてまた苦しみます。その共におられる神がマタイによる福音書における記事として、最初に人間の人生に介入していった記録が、今日お読みいただいたヨセフへのイエス・キリストの誕生の告知の場面でした
ヨセフという男性、まだ若者であったでしょう。ガリラヤという地域のナザレという田舎の村の平凡な青年でした。しかし、当時のきちんとしたユダヤ教の教育を受けていた、宗教的にもしっかりとした若者であったと考えられます。そのヨセフは救い主の父となるというとんでもない役割を神から担わされました。本来なら、ごく普通に、女性に恋をして、家族や周囲の人々から祝福されて、結婚して、家庭を作り、堅実な、もちろん苦労はありながらも、貧しい生活ながらも、静かな、しかし、おそらく幸せな一生を送るはずであった若者であったでしょう。その若者が、聖書に名前を残すような、大きな役割を与えられました。
その出来事は、ヨセフにとっては、喜びと栄光に満ちた始まりであったわけではありません。たいへんな絶望をともなった事態から始まりした。婚約者であるマリアが身ごもったという驚天動地な出来事から始まりました。いいなずけであるマリアが自分とは関係のない子どもをその身に宿したというのです。結婚を前にした、ある意味、人生で一番幸せであるべき日々に、ヨセフはどん底に落とされました。マリアが裏切ったのか、あるいは何らかの不可効力の状況での出来事があったのかはわかりませんが、ヨセフにとって理解しがたいとんでもないことがおきました。結婚を前にした若者が描いていたであろう未来の希望が、突然、閉ざされてしまったように感じられたことでしょう。
<正しい人ヨセフ>
聖書は、往々にして、その登場人物を丁寧には記述しません。今日の聖書箇所でも、ヨセフの人となりを知るよすがとなる言葉は「ヨセフは正しい人だった」ということだけです。しかし、ここから先ほども言いましたように、宗教的にもしっかりとした若者だったことがわかります。律法をきちんと守って生きていた青年だったのです。そしてまた、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」とあります。正式な結婚前であっても、婚約者同士は法的にはユダヤでは夫婦と見なされますから、ヨセフの子ではない子を宿したマリアは姦淫したとみなされ、石打の刑にあって死んでしまいます。しかし、それをヨセフは望みませんでした。ですから、縁を切り、マリアが姦淫の罪に問われないようにしたのです。しかし、正しく律法に従うならば、ヨセフはマリアを律法に委ねるべきでした。しかし、それをヨセフにはできなかったのです。つまり、正しい人であるヨセフは正しいことができなかったのです。
ここはいろいろな解釈がされるところです。ヨセフに好意的に解釈するなら、ヨセフは杓子定規に律法を解釈する人ではなかった。いってみれば、ファリサイ派のように律法を守る人ではなかったということです。自分を裏切ったかもしれない女性であっても、ひどい目にあわせることは忍びなかった。愛のある人であったという考えです。もちろん「正しい人」であったヨセフが律法に反することを行うことには相当な葛藤があったことでしょう。現代の日本とは違い、当時のまじめなユダヤ教徒としては苦渋の決断だったでしょう。
否定的な解釈としては、ヨセフは、自分の身に起きたとんでもないことを引き受けることができなかったのだというものがあります。彼はおそらくマリア自身からも「聖霊によって身ごもったのだ」という説明は聞いていたでしょう。そんなとんでもないことをいうマリアも、ましてその子供も自分には引き受けることはできない。そう考えたのかもしれません。もし本当に聖霊によって身ごもっていたとしても、いえそうであればなおさら、自分がその子どもの父となっていく自信はないと感じたのかもしれません。聖霊、つまり神の力によって身ごもったなんて、信仰深いヨセフにとっては、むしろとてつもなく恐ろしいことだと感じられたでしょう。そんなとんでもないことに自分が巻き込まれてしまうことは耐えられない、だから縁を切ることにした、、、、そういう解釈もあります。ただこの場合、マリアの生むことになる子はヨセフの子であると周囲の人は解釈することになったと考えられます。そうでなければマリアは姦淫したことになりますから。ですから、ヨセフは、婚約期間中にもかかわらず、婚約者と関係を持ち、その身ごもらせた相手を捨てた男として非難を受けることになるでしょう。しかしその非難を覚悟をしたうえで、なお、マリアと子供を受け入れることができなかったとも解釈できるのです。それほどにヨセフにはマリアとその子供を受け入れがたかったと考えられるのです。
おそらくどちらの解釈も間違いではないでしょう。混沌とした思いがうずまくなかでのヨセフの決心であったでしょう。思い悩み、ヨセフは何とかして自分で取りうる最善の方法を考えたのでしょう。どちらに転んでも、けっして平安はない、悩みの縁でもがき苦しんで、自分なりに結論を出したのです。
<変えられたヨセフ>
そのヨセフが変えられました。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。この天使の夢のお告げの後、ヨセフはすぐにマリアを迎え入れます。主の天使が夢に現れて、直接に、諭されたのですから、当然、変わるだろうと皆さんは思われますか?しかし、夢での天使の言葉で背中を押されたとしても、それが逆らい得ないものと考えて、仕方なく受け入れたのであれば、これからのちのヨセフのてきぱきとした父らしい態度は生まれなかったでしょう。ヨセフはマタイによる福音書の2章では、残虐なヘロデ王から幼子イエスを守るためのエジプト逃亡と、その後のイスラエルへの帰還という幼子を抱えての困難な旅を、立派に若い父親として、そして一家の長としてまっとうしています。そこには思い悩んだ姿はありません。その根本には天使からの言葉でヨセフ自身が変えられたということがあったからです。
天使は「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とまず告げます。そうです、ヨセフは恐れていたのです。マリアが石打の刑で死ぬことも、そして自分が不可解で困難な人生を受け入れることも。しかし、恐れる必要はないと天使は告げたのです。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスという名は「神は救い」という意味があります。もっとも、当時のイスラエルとしては珍しい名前ではありませんでした。では、その救いとは何か?罪からの救いなのです。この天使の言葉の後にイザヤ書7章からの言葉が引用されて、このことが旧約聖書の時代の預言の成就であることが説明されています。そのイザヤ書の引用の中に、特にこのアドベントからクリスマスにかけ賛美歌などでもよく出てくる「インマヌエル」という言葉が出てきます。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。
冒頭に申し上げましたように「神が共におられる」ということは、ただそのことだけでは人間にとって必ずしも喜ばしいことではないのです。正しい神の前で、正しくないことを憎まれる神の前で、胸を張って堂々としていられる人間などはどこにもいないのです。神が監督者として、また上司として、恐ろしい支配者として、共におられるならば、けっしてうれしいことではありません。しかし、その神は、「自分の民を罪から救う」子供を与えられるのだと天使は告げたのです。「自分の民」とは誰のことでしょうか?マタイによる福音書の最後の章28章の主イエスの大宣教命令といわれる箇所で、主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とおっしゃっています。つまり主イエスにとって「すべての民」がご自身の弟子となるべき民なのです。つまりすべての民が主イエスにとってご自分の民なのです。つまり、主イエスの時代から2000年後の日本に生きる私たちをも含めた民をご自分の民として、マリアの身ごもった子供は罪から救うと天使は告げているのです。
<神と共に新しく生きる>
ヨセフは罪からの救いということが分かったのです。ヨセフは正しい人で、律法をきちんと学んでいました。何が罪であり、何が神から喜ばれることであるか、理屈としては知っていたのです。しかし、天使に告げられたとき、初めて、ヨセフは自分の罪が分かったのです。心の深いところから分かったのです。自分自身の存在の深い深いところから、自分の罪が分かったのです。いま自分が受け入れよと言われているマリアの胎のなかにいる子供が、自分自身の罪をも救う存在であることが分かったのです。
ヨセフは、悩み苦しんだのです。自分の力ではどうしようもない現実の中で、自分の力でどうにか解決しようともがいていたのです。聖霊によって宿った、などというとんでもない神の介入の前に、どうにか自分なりに自分の力で自分の人生のつじつまを合わせようとしたのです。そのなかで、ヨセフは救いを知らされました。それは自分の罪を知らされたことでもありました。ヨセフの姿は、苦しみの中で悩みの中で神と出会う人間の姿そのものでもあります。
そして天使が告げたのは、マリアの胎の中の子供は、神が守るからあなたは安心して良いというようなことではありませんでした。その子を育てたらあなたには素晴らしい報いがあるというようなお告げでもありませんでした。ただ、その子は「自分の民を罪から救う」と告げたのでした。しかしそれで十分でした。すべての民が罪から救われる、その民の中に自分も入っている、それだけで十分だったのです。
確かにヨセフは人間の歴史の中で、とんでもない役割を担うことになりました。しかし、自分の人生に神が介入してこられる、神が共にいてくださるということの素晴らしさを知りました。人間の苦しみの根源は神から離れていること、つまり罪です。神から離れて自分の人生を自分でどうにかしようともがいているとき、それは蟻地獄のような日々です。どうにか問題を解決しよう苦しみから逃れようとしても、むしろ深く深く、沈み込んでいく日々なのです。しかし、神がそこから救い上げてくださいます。神は苦しむヨセフを、そして私たちを救い上げてくださるのです。私たちは苦しみと孤独と暗闇の中で神と出会います。そして救いを知らされるのです。
それはクリスマスの出来事そのものです。旧約聖書の時代から長く長く続く、どうしようもない人間の罪の歴史、暗黒の歴史の中に、神は介入されました。イエス・キリストをこの世界に送るというやり方で介入されました。この神から離れた世界の苦しみのただなかに、暗闇の中に、幼子がやってきました。そして世界は変えられました。
ですが、現代でも世界は人間の目には明るくは感じられません。もちろん、都会にはイルミネーションが輝き、クリスマスソングが流れ、クリスマスを祝う人々の顔には笑顔があります。しかし、それがひととき、この世界の暗さを忘れるためのものであるなら、クリスマスほど、この世界で虚しいものはありません。しかし、確実に世界は変えられたのです。主イエスの民がすべて救われるその日まで世界は更に変えられていきます。なにより私たちが変えられていきます。神がわたしたちの生活に入ってこられました。私たちは罪から救われました。罪から救われた私たちと共に神がいてくださいます。怖れるな、と、ヨセフに告げられたように、私達も、もう恐れることはないのです。変わり映えのしない混沌とした、試練の連続であるような日々を、もう恐れる必要はないのです。神が共にいてくださいます。どのような日々をも、力強く生きることができるのです。