大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2017年3月26日主日礼拝説教 マタイによる福音書27章15~31節

2017-04-20 16:57:54 | マタイによる福音書

説教「茨の冠を載せた王」

 今日の聖書箇所では主として三パターンの人間が出てきます。ポンテオ・ピラト、バラバ、群衆です。それぞれに立場が違います。もちろんこれ以外にも主イエスを十字架につけることに最も積極的に関与した祭司長たちや長老もいました。しかし、今日の聖書箇所ではこれまでいくたびか言及してきた祭司長や長老と言ったイスラエルの権力者以外の人々に目を向けて行きたいと思います。これらの人々は、もともとは祭司長たちのように明確に主イエスを十字架につけようという意思は持っていなかったように思われます。しかし、結果的に、それぞれがイエスを十字架につけることに関わっていくのです。

<権力者ピラト>

 まず、ローマから派遣された総督のピラトが出てきます。イスラエルを支配していたローマの権力を握っていた人物でした。在位期間26年から36年と言われます。今日の聖書箇所を読みますとピラトは「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」とあります。ピラトはイスラエル人から見たら神から遠い存在とされる異邦人でした。しかし、分かっていたのです。主イエスには罪がないということを分かっていました。今日の聖書箇所の少し前のところにピラトが主イエスを尋問する場面がありますが、その場面で、主イエスがご自身に不利な証言をされても答えられないのでピラトは非常に不思議に思ったとあります。権力者として多くの人間を見て来たピラト、ことに反逆者と言われる罪人を多く見て来たであろうピラトからしたら、主イエスはたいへん不思議な存在だったでしょう。なんとも捉えどころのない、判断に困る人物だったでしょう。仮に訴えられている罪を実際に犯した人間であったなら、ピラトに対してさまざまに情状酌量を願ったでしょう。まして罪を犯していないとすれば、最高権力者のピラトに、ありとあらゆる訴えをしたでしょう。しかし、主イエスはお答えにならなかった。そのイエスさまの様子を見て、そしてまた主イエスを訴える人々の様子を見て、ピラトは主イエスがいってみれば冤罪、罪もないのに訴えられていることを見抜いたのです。

 権力の座にある人間としてそれは当然の判断力であったとも言えます。しかしまたピラトにとって、主イエスは見たこともない存在であったでしょう。彼の政治家としてのそしてまた実務家としての判断を越えた存在であることもおそらく彼は感じ取っていたでしょう。そしてピラト以上にそれを感じ取っていたのは彼の妻でした。妻はピラトに伝言したとあります。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」それに対してピラトがどのように思ったか、その詳細は聖書に記されていません。しかし、あえてこの妻の伝言が聖書に記されていることから考えられますのは、この妻の言葉はピラトに対して何らかの影響を与えたということです。主イエスはピラトにとってどうにもとらえどころのない不可思議な存在で、かつ、妻からも奇妙な伝言が届き、権力者とは言え、ピラトの心になんらかの不安というか、嫌な感覚が兆したであろうことは想像に難くありません。

 ピラトはどうにかして罪なき罪人であるイエスを釈放しようとしました。それは上に立つ人間としてのまっとうな判断から来るものでもあり、そしてまた、なにか捉えどころのない不安のようなものからも来るものでした。「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」そうピラトは問います。しかし、祭司長たちに扇動されていた群衆は「バラバを釈放しろ」と叫びます。この時点で、すでにピラトは弱腰なのです。自分自身の判断でどちらを釈放するということを決定できないのです。群衆に委ねているのです。そもそもピラトも総督と言っても、最高権力者ではありません。ローマに仕える役人に過ぎません。騒動が起これば責任をとらされる立場でした。ですから、結局、暴動が起こりそうだと恐れたピラトはバラバを釈放します。

 24節でピラトは群衆の前で手を洗って「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言います。ここでは完全にピラトは自分の責任を群衆に転嫁しています。本来、死刑を決定する立場にありながらその立場を放棄したのです。

 これはピラトがローマ皇帝ではなく、一官吏であったからということだけのせいではありません。ここに権力者の限界があるのです。この世の最高の権力を持っていても、悲惨な最期を遂げる権力者は古今東西、歴史上いくらでもいました。権力が人間の世界によって立つ以上、それは普遍なものでも、永劫続くものでもなく、容易に崩れ去るものだからです。

と ころで、私たちが毎週告白します使徒信条においてはピラトは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と信条中、出てくる名前です。この使徒信条を読みますと、ピラトはなんて悪い奴だろうと感じます。しかし、実際には彼は積極的には主イエスを十字架へつけようとはしていないのです。しかし人間の世界の権力の限界としての象徴であるともいえます。また権力者がその権力を放棄した、権力を正しく用いることのなかった権力者の罪そのものも問われているといえます

<群衆は赤面しない>

 そしてまたそのピラトを追いつめたのは祭司長やユダヤ人の権力者たちともいえますが、群衆たちでもありました。主イエスがエルサレムに入ってこられた時、「ホサナ、ホサナ」と熱狂して迎えた群衆がそのわずか数日後に主イエスを十字架につけろと叫んでいます。もちろんそこには祭司長たちの誘導があったわけです。そしてまた独特の群集心理というものもあったのです。バラバと呼ばれる囚人はおそらく政治犯ではなかったかと言われています。反ローマ活動をして、おそらくそこで暴動なり殺人なりを犯したのでしょう、それで捕えられた人物であったと推測されます。16節にバラバ・イエスという評判の囚人がいた、とあります。人々にとってローマへ抵抗する人物というのは一定の人気があったと思われます。そうであったとしても、バラバではなく、主イエスを十字架につけろと叫ぶ群衆は残酷であると思います。長時間にわたってじわりじわりと殺されていく十字架に一人の生身の人間をつけることを熱狂して叫ぶ群衆の姿は醜悪です。

 教会学校の教案誌もこの箇所を扱っているのですが、この箇所の群衆についてこう記されていました。「群衆は赤面をしない」と。個人の人間、たとえばピラトであれば、ピラトという個人の名前が使徒信条に残る、そういう形である意味、その罪の責任が問われます。しかし、「バラバではなく、主イエスを十字架につけろ」と叫び、ピラトを恐れさせた群衆はその自らの行いについて、後に赤面することも恥じることもありません。責任を問われることもありません。それこそが群衆が群衆であるゆえんと言えます。なにかそのときの特別な状況で、熱狂してしまう、そういう恐ろしいことが起こったのです。群衆の中の一人一人にしてみたら、のちに主イエスが十字架の上でおっしゃる言葉である「自分で自分が何をしているのかわからないのです」という状況なのでしょう。その自分で自分が何をしているか分からないままに、救い主を、神の御子を、十字架につけろと叫ぶ、それが赤面しない群衆であるといえます。しかし赤面しない群衆が熱狂して異常なことをしているとき、一人一人が別人に変化しているわけではありません。もともとあった一人一人の罪が浮き上がってきているのだと考えられます。

 バラバという、政治的な目的であれ本当に罪をおかした罪人ではなく罪なき救い主を十字架につけろと叫ぶ、2000年後の私たちから見たら狂気とも言える出来事です。しかし、それは当時の愚かな群衆が引き起こしたことではなく、人間の心の底にある罪があぶりだされ姿を現した出来事であるといえます。

 私たちもまた罪にある時、「バラバではなく、主イエスを十字架につけろ」と叫ぶ者であるのです。ローマに抵抗してくれる、つまり自分たちの現実を良くしてくれるヒーローを求め、真の救い主、神からは目をそらします。そのとき人間は救い主を十字架につけるのです。教会もまたそうです。この世的なことにおもねっていくとき、教会自身が主イエスを十字架につける過ちをすることもあるのです。教会が世俗化するとき、教会自体が主イエスではなく、バラバを選ぶ、そういうことは歴史的にいくらもあったのです。

<バラバという男>

 それにしてもこのバラバという男もイエスという名であったことは皮肉です。イエスのいう名自体がよくある名前であったということもありますが、この世の人気者と、神の子が同じイエスという名であり、人々がこの世の人気者を選んだというのは実に象徴的な出来事です。

 ところで、「バラバ」という小説がありました。ペール・ラーゲルクヴィストと言う人が1950年に発表したものです。本日の聖書箇所で出てきます死刑囚バラバを主人公にした物語です。もちろん、聖書にはバラバのその後については記されていません。そもそもバラバの氏素性の詳細もわかりません。ですから、この小説は全くのフィクションと言っていいのだと思います。

 その小説では死刑囚の身分を解かれ自由になったのち、最初、キリスト教のことを胡散臭く思っていたバラバが、少しずつ変わって行くという内容になっていました。自分の代わりに死刑になったイエスという男について、また、その後出会ったキリスト者について、最初は怪訝な思いを持ちながら、馬鹿らしい思いを持ちながらも、しかし何か不可思議なことも感じていたバラバの姿が描かれます。そしてまた後半では、キリスト教をしっかりと理解していないゆえに、キリスト教に心ひかれながら、とんちんかんなことをしてかえってキリスト教の迫害に手を貸してしまうようなことも描かれながら、バラバが変わっていくという物語でした。

 現実のバラバのその後がどうであったか、もちろんわかりません。しかし、ラーゲルヴィストの小説を思い起こすとき、私たち一人一人もバラバなのだと改めて思います。

 バラバ自身がピラトに交渉して死刑を免れたわけではありません。バラバが群衆に働きかけたのでもありません。バラバにしてみたら、<棚から牡丹餅>のように死刑を免れ、命を得ることができたのです。いま、<棚から牡丹餅>と言いましたが、こういうことを申し上げると不遜なことの出ようですけれど、わたしがまだ洗礼を受ける前、牧師から聖書の学びを受けておりました時、イエス様の十字架の話を聞いて、それってまさに<棚から牡丹餅>だと思ったのです。イエス様の十字架が私たちの罪の身代わりであり、そのことを信じさえすれば救われるなって、そんな虫の善いことがあるのかと思いました。まさに<棚から牡丹餅>みたいなことがあるのかなと感じました。そんなお気軽な馬鹿げた話があるのかと。

 しかし、現実にそうなのです。主イエスは私たちの代わりに死んでくださった。そして私たちはバラバのように、代わりに生かされたのです。それも死刑を免れただけではなく、永遠の命をいただいたのです。

 ですから私たちは小説のバラバのように変わっていくのです。少しずつ。キリストの方を向きながら変わっていきます。バラバではなく主イエスを十字架につけろと叫ぶ罪人であった私たちが、新しい命の光の中を歩んでいくのです。

 ある方は、この裁判の場面を神が働かれた裁判だとおっしゃっています。祭司長たちがいてピラトがいて群衆がいる、彼らが動かしているように思われるこの裁判の場面が、なお、神の裁判の場面なのだというのです。人間の愚かさ醜さがあふれているこの場面になお神の愛が注がれているというのです。このときイスラエルにおいてピラトに権限を与えらえたのも、イエスと言う名をもつバラバをこの時この場に置かれたのも、つきつめればすべて神の業です。人間の力ではありません。神ご自身がその御子を罪人として裁かれたということです。そしてそこにこそ、限りない神の愛が注がれているのです。<神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された>、神はその独り子を「十字架につけろ」と叫ぶ群衆へ、罪深い世へと与えれました。十字架へと与えられました。父なる神ご自身が御子へ死刑判決を下されたのです。そこに、限りない深い愛がありました。人間を罪から救う愛がありました。

 


2017年3月12日主日礼拝説教 マタイによる福音書27章1~15節

2017-04-20 16:44:08 | マタイによる福音書

説教 「後悔をしない」

<後悔のゆえに死んだユダ>

 人間は罪を犯します。そして自分自身が犯した罪ゆえの苦しみがあります。そんな罪を犯したゆえの苦しみの一つに<後悔の念に囚われる>ということがあるかと思います。なぜあんなことをしてしまったのだろう。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。どうしてあのとき、あのことをしなかったのか。悔やんでも悔やみきれない後悔の念に苦しめられるということがあるかと思います。何年たっても悔やみ続けるそんな苦しみがあります。

 受洗して間もないころ、ふと疑問に思ったことがあります。神の御子であるイエス様は私たち人間の苦しみを何でもご存じの方だと言われます。病いも疲れも喉の渇きも裏切られる苦しみも、人間の味わう苦しみのすべてをご存じだと言われます。しかし主イエスは、その地上での生涯において、罪を犯しにはなりませんでした。ですから罪を犯したゆえに後悔をするという苦しみを味わわれたことはないのではないか?そう疑問に思いました。イエス様は人間の苦しみをすべてご存知だというけれど、後悔の念に囚われる苦しみはご存じないのではないか?

 当時、牧師にその点を聞いたことがあります。それに対する答えは、「罪の苦しみの本質は神から離れていることにあります、後悔の念というのは罪から派生してくる<影>のようなものです。後悔の念そのものと言う点ではたしかにイエス様は感じられたことはないかもしれません。しかし、罪人として十字架の上で、父なる神と切り離され、罪の裁きを受けられた主イエスは、罪そのものの苦しみは味あわれたのです」でした。

 今日の聖書箇所には、自分の犯した罪ゆえに後悔をしている人物、12弟子の一人であったイスカリオテのユダが出てきます。ユダは後悔のあまり、結局、首をつって自殺したと記述されています。なんとも暗澹とする救いのない最期です。逆に言うと後悔の念は、人を死にすら追いやるものだということが言えます。そこには希望がないということです。 しかし、このユダの悲惨な最期から、なお聖書は私たちへ希望の物語を語ります。共にそれに聞いていきたいと思います。

<お前の問題だ>

 26章に最高法院での主イエスの裁判の様子が描かれていました。その裁判において主イエスの死刑は確定していたのでした。しかし、本来は夜の内に正式には死刑判決の手続きを行えないことから、夜があけてから、改めて正式に主イエスを死刑にするということを決めたのが、27章の冒頭の記事です。これは実際には正式な手続きをとらずに最初から主イエスを殺すということありきで行われた裁判を後付けで正当化しようとしたことだと考えられます。一方、当時、ローマに支配されていたイスラエルでは、独自に死刑は執行できず、ローマの許可が必要でした。ですから、祭司長たちは、ローマから派遣されてきていた総督のピラトへ主イエスを引き渡しました。今日お読みした聖書箇所では、ピラトへの引き渡しと、実際にピラトから主イエスが尋問されることの間に、ユダの自殺の記事が挟まっています。

 今日の聖書箇所の少し前で、大祭司のところで主イエスの裁判が行われ、その外の中庭でペトロの裏切りがあったことを共にお読みしました。ここでは、旧約聖書の預言の成就としての主イエスの死刑判決とメシア宣言があり、その傍らでペトロという一人の男の裏切りが記されていました。壮大な神の救いの歴史と人間の物語が並行して、また交わりながら進んでいるのだとお話しました。

 本日の聖書箇所でもユダの裏切りもまた旧約聖書の預言の成就として描かれています。その神の壮大なご計画の歴史と、ユダ、そしてまたピラトという人間の物語が交錯して進んでいきます。

 ユダに着目しますと、ユダは「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとした」とあります。ユダはまさか主イエスが死刑になるとまでは思っていなかったのでしょう。後悔したユダは「わたしは罪のない人の血を売渡し、罪を犯しました」とはっきりと祭司長たちに語っているのです。しかし、もともと何とか理由をつけて主イエスを殺してしまおうと考えていた人々にとって、いまさらユダがみずからの罪を告白しても何の意味もありませんでした。

 しかし、本来なら、祭司長たちは宗教家であるのですから、罪の告白をしている者に対しての誠実な対応ということが求められるはずです。しかし、彼らの答えは「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と恐るべき冷酷なものでした。主イエスが繰り返し批判されていた祭司長たちの問題はまさにここにあったのです。聖書は罪からの救いについて記されていると言って良いものです。その聖書の専門家である祭司長たち、長老たちが、罪を告白する者に対して「知ったことではない」と答えているのです。祭司長たちは人の罪の赦し、そして救いを語ることはありませんでした。「それはお前の問題だ」。この言葉は「お前が自分で処理しろ」という意味です。それが祭司長たちの愛のないそのままの姿でした。マタイによる福音書二十三章にイエス様ご自身が律法学者やファリサイ人を非難された言葉が記されていました。「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」あるいは「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」これはユダに対する祭司長たちの態度でもありました。

 ユダの苦しみを知りながら、その苦しみの重荷を「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」自分で処理しろと彼らは今日の場面でも言っているのです。

 しかし、人間には自分の犯した罪であっても、それを担いつづけることはできないのです。自分で処理することはできないのです。しかしなおユダは自分で担おうとしたのです。まさに祭司長たちがいうように自分の問題として自分で解決しようとしたのです。自分で本来担いきれない罪を自分で処理しよう、解決しようとしたとき、結局、人間は自分で自分を殺すしかないのです。ユダは後悔した。取り返しのつかないことをしてしまったと後悔して、死にました。罪を自分の問題として自分でどうにかしようとしたら、後悔して死ぬしかないのです。

<ユダは何を後悔したのだろうか>

 前にもお話ししましたが、おなじく裏切ったという点ではペトロも同様でした。しかし、ペトロは「あなたは鶏が鳴く前に三回わたしを知らないという」とおっしゃった主イエスの言葉を思い出し、涙を流し、とどまりました。主イエスの言葉にとどまったのです。それゆえ、ペトロは救われたのです。

 ペトロとユダはどちらが人間的に見て責任感が強かったのか、誠実だったのか、難しいところです。しかし、ユダはどうにか自分で責任を取ろうと思った、自分で自分を裁いたとも言えます。そしてそこには救いはなかったのです。一方、ペトロは言ってみれば、ただ泣いていただけでした。何もできない、罪深い、どうしようもない自分を知らされ泣いているだけでした。自分で自分をどうにかできるとはペトロには思えなかった。だからとどまったのです。人間的な目からみたらユダの方がむしろ自分で責任を取ったのであり、ペトロは情けなく泣いていただけの人でした。

 さて、ユダは祭司長たちからもらった銀貨を彼らに返すことができず、神殿に投げ入れて自殺しました。その額は銀貨三十枚でした。銀貨三十枚は前に申し上げましたように、当時では、奴隷一人も買えないような安い値段でした。ユダにとって、そしてまた祭司長たちにとって、主イエスはそのくらいの値踏みをされる存在でした。

 ペトロは主イエスの言葉にとどまりました。ペトロは主イエスの言葉を思い出すことができたのです。しかし、ユダは主イエスの言葉を思い出すことはなかったのでしょう。なぜ思い出すことができなかったのでしょう。おそらく彼にとって、銀貨三十枚で値踏みした程度の主イエスの言葉は彼の心に届いていなかったのでしょう。

 ユダの罪は、罪のないキリストを銀貨三十枚で売ったことそれ自体だけでははなく、神であるキリスト、主イエスから離れていたということです。神から離れていた、主イエスの言葉から離れていた、むしろそちらのうが本質的な罪です。その罪の表れとして銀貨三十枚で売るという裏切りはなされたのです。

 ユダは自分の行為の悪はわかっていたのです。だから後悔をしました。ユダとて、悪ではなく善を生きたかったでしょう。でも、罪がある以上、ユダでなくても、人間は善く生きることはできません。本章としての罪がある以上、人間は悪を犯すのです。ユダは自分の罪は分ってはいなかったのです。だから良く生きることのできない自分を自分でさばいて死ぬしかなかったのです。

<取り返しのつかないことなどない>

 ユダが神殿に投げ入れた銀貨で陶器職人の畑を買ったとあります。これはゼカリヤ書十一章十三節の言葉がもとになっています。<主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀30シュケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた>という言葉です。またエレミヤ書18章2節には陶器師のたとえ話があります。つまり、この出来事は神の大きな計画の中にあったということです。

 その大きな計画の中に、今読み進んでいます主イエスのご受難もありました。すべてが神の歴史の中で、一歩一歩確実に救いの成就に向かって物語は進んでいるのです。その物語の中にユダというひとりの人間の物語もありました。本来は、救いのなかに入れられるべきユダが、主イエスに留まることなく、後悔の果てに死んでしまった。罪を知り、悔い改めるのではなく、その罪の影である後悔のなかで死んでしまいました。罪の本体を、罪の本質を知ることなく後悔したのです。しかし、ペトロは罪そのものを知ったのです。キリストの言葉のゆえに。キリストにとどまったがゆえに。

 復活のイエスと出会い、罪の赦しにあずかり、後悔ではなく、悔い改めて、主イエスと共に歩むことのできなかったユダの物語を読むとき、あらためて思います。私たちは自分たちの罪を後悔をするのではないということを。

 私たちはすでに復活のイエスと出会ったのです。公に信仰告白したとき罪は赦され救われました。ですから、私たちはもう後悔をしないのです。すべてを赦されているからです。現実には後悔という名の過去の罪の影によって苦しむこともあるかもしれません。しかし、復活のキリストの光の中でみるとき、後悔は影にすぎません。キリストの光の中で、かききえてしまうものです。後悔をするとき、それは赦されたはずの罪の影ををまだ自分で握りしめているということです。そもそも罪の影を自分で握りしめても、後悔してもどうしようもないのです。繰り返しになりますが、後悔は突き詰めると自分を殺してしまうものなのです。

 主イエスは、私たちが後悔して自分を殺してしまうことがないように、命の中でいきていくことができるように、十字架にかかってくださいました。罪も、その罪の影ももうありません。

 ユダは取り返しのつかないことをしてしまったと後悔して死にました。しかし、主イエスの十字架のゆえにこの地上から取り返しのつかないことはなくなりました。

 ただひとつ取り返しのつかないことは、神に立ち帰らないことです。

 主イエスの言葉に留まらないことです。

 赦されない罪はありません。罪を後悔する人生ではなく、罪赦されて、光の中に生きる人生を主イエスは与えてくださいました。

 長い長い神の救いの歴史によって、私たちにそれは与えられました。

 罪の影である後悔ではなく、春の光のような赦しと救いの中を私たちは明るく歩みます。


2017年3月5日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章69~75節

2017-03-08 12:07:30 | マタイによる福音書

説教「神なんて知らない」

<赦されたコソ泥>

 聞いたことがある方もおられるかもしれませんが、神様の愛についての、おそらく外国のものだと思うのですが、ちょっとした小話があります。コソ泥が盗みをして、カトリックの神父さんのところへ「盗みをしてしまいました」と懺悔をしにいきます。神父さんはコソ泥が反省している様子を見て「キリストの名によってあなたは赦されました」とコソ泥に罪の赦しの宣言をします。しかしまた、コソ泥は盗みをして神父さんのところへ行きます。神父さんは懺悔するコソ泥に「あなたの罪は赦されました」とふたたび宣言します。ところがそれが何回も続きます。コソ泥は盗みをしては懺悔をしに来るのです。七回目になったとき、神父さんはついに腹を立てて、「もうあなたを赦すことはできません、出て行きなさい」と叫びます。コソ泥はびっくりして、これは困ったどうしよう、赦されなければ地獄に落ちると泣きながらおろおろしながら教会から出ようとすると、「私はあなたを赦します」という声が聞こえました。えっと思ってコソ泥が振り返るとそこには十字架にかかったキリストの絵があって、その絵の中のキリストが、つまり十字架につけられ血を流しているキリストが、「あなたを赦します」と語っていたのです。そのとき、コソ泥ははじめて、自分の罪を心から悟りました。そして同時にキリストに赦されたその喜びを感じました。その喜びはずっと続いて、もう二度と、コソ泥は盗みを働くことはなくなりました、そんな話です。これは別にカトリックの神父やざんげのありかたを馬鹿にしているわけではなく、罪の赦しの本質に迫る小話だと思います。神父であれ牧師であれ、聖書に七の七十倍まで人を赦せと書いてあっても、人間である以上、赦すことができないときはあるのです。いやそもそも人間には赦せないのです。そして本当の赦しはただ神から来るものなのだとこの話は語ります。そしてその赦しはただ十字架のキリストから来るのだと語ります。そしてその赦しを知ったとき、本当に人間は自分自身の罪をはじめて知り、そこから新しく生まれ変わることができるのだと言っています。不思議ですが、赦しが先にあって、赦されたとき、私たちは本当に自分の罪を知るのです。逆に言えば罪を本当に知ったとき、すでに私たちは赦されているのです。また別の言い方をするならば、赦されたことを知るということは神の愛を知るということですから、神の愛を感じた時、人間ははじめて自分の罪を知るといえます。先に愛があるのです。その愛によって私たちは自分の罪を知り、悔い改めることができるのです。そしてそのとき新しく生まれ変わることができるのです。人間は反省をしても生まれ変わることはできません。神の愛を知って自分の罪を知ったとき生まれ変わることができるのです。

<神の物語と人間の物語>

 さて、今日の聖書箇所は、イエス様の一番弟子であったペトロが主イエスを三回知らないという有名な否認の場面です。この場面に限らず、イエス様の受難の物語を読む時、どうにも苦しくなるようなところがあります。それは人間の罪、愚かさが福音書の他の箇所より、鮮明に描かれているからです。「ホサナ、ホサナ!」と熱狂してイエス様を迎えた群衆が、やがて、「イエスを十字架につけろ!」と叫びだす、その出来事の進行の中に、とてつもない人間の愚かさを見てしまいます。ですからなにか息苦しさのようなものを感じます。今日の聖書箇所にしても、私たちはこのペトロの物語を読んで、これは愚かなシモン・ペトロという男の物語であって、自分とは関係ないとは、はっきりとは思えないのではないでしょうか。もちろん思う深さは人それぞれであるかもしれません。ある人は、このペトロは自分自身だと感じる人もいるでしょう。自分は確かにおくびょうで情けない人間で、このペトロのような裏切りをしてしまう、そんなペトロのような人間だと感じる方もいるかもしれません。そこまでは思えなくても、このペトロの裏切りの場面を読む時、どこか心の底が小さくうずくような人間の世界の悲しみとか辛さを感じる人もいるでしょう。

 そんなペトロの物語ですが冒頭に、ペトロは外にいて中庭に座っていたとあります。先週お読みしました58節にペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事のなりゆきを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていたとありました。大祭司のもとで救い主であるイエス・キリストの裁判が行われている、これは神の救いの物語、十字架への物語が進んでいるということです。単なるキリストが不正な裁判を受けたということだけではなく、旧約聖書から続く、大きな神の救いの歴史の一大転換の場面であるということです。その壮大の物語の外で、今日お読みしたペトロの物語があります。庭の内側と外側で神の壮大な物語と一人の人間の愚かな物語が並行して進んでいます。しかし考えてみればこれは神の出来事は、一人一人の人間の生身の生、人生と深くかかわって行くということでもあります。私たちの毎日毎日が、神の物語、黙示録へと進んでいく神のご計画と鋭く交わりながら並行して進んでいくということでもあります。

<弱さはあきらかにされる>

 さて、いったん逃げたペトロですが、それでもイエス様のことが気になったのでしょう。遠く離れてイエスに従って、裁判が行われている大祭司の屋敷の中庭にまでついてきたのです。ここには精一杯のペトロの誠意があります。イエス様を思う気持ちがあります。しかし、もちろんイエス様を見捨てて逃げたことには違いありません。遠く離れて従った、というのも小心者で臆病者です。それでも彼なりの精一杯であったと思われます。

 そんな精一杯だった彼が見たものは、裁判で偽証する者のまえで黙っておられるイエス様です。死刑が宣告されて唾を吐かれ、殴られ、侮辱されているイエス様です。多くの奇跡を起こされ、力強く語っておられたイエス様はどうなさったのか?ペトロはこの事のなりゆきに驚き動転したと思います。

 その動転の中、大祭司の中庭まで主イエスに従ってきたペトロの精一杯は、やがてもろく崩れていきます。女中のひとりが、ペトロがイエスの一味であることに気づきます。そして近寄ってきて言います。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。」すぐそばにいた人が「あっ」と気づいたわけではないのです。少し離れたところにいた女中が気づいてわざわざ近寄ってきて言ったのです。それほどガリラヤの漁師であったペトロの風貌はエルサレムの人々からしたら特徴的だったということかもしれません。ペトロはどきっとしたでしょう。そしてペトロの本当の姿があらわになっていきます。神はあらわになさるのです。あらわにするために、わざわざ近づいてきてペトロの心を揺さぶるのです。「何のことを言っているのかわたしにはわからない」おそらく動転しながら、うちけし、それでも平静を装いながら門の方へ向かいました。するとまた別の女中からも言われます。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」。周りの人に聞こえるように言われたのです。さらにペトロは動揺したと思います。「そんな人は知らない」と誓って打ち消したとありますが、強く否定したということです。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」別の人々も言いだします。言葉遣いでというところから、ペトロにはガリラヤの人らしい言葉の訛りがあったのでしょう。さらに言えば、最初の女中が「ガリラヤの」といい次の女中が「ナザレのイエス」と言っているところにはガリラヤやナザレへの侮蔑のニュアンスも含まれています。そんな悪意をも含んだ言葉に対してペトロは「そんな人は知らない」と呪いの言葉さえ口にしながら誓いだしたのです。これは「そんな人を知っていたとしたら自分は呪われてもいい、誓ってそんな人などは知らない」と徹底的にペトロはイエス様のことを否定したのです。ここでついにペトロの本当の姿があらわにされました。

 ここで、裏切り者で弱いペトロの本当の姿を、ペトロ自身の言葉によってあらわにしてしまったのです。「イエス様なんて知らない」「そんなものを知っているとしたら呪われてもいい」そこまで激しくイエスなんて知らないと自分がイエス様を否定するときが来るとはペトロも思っていなかったでしょう。

 するとすぐ鶏が鳴いた。そのときペトロは思い出すのです。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と最後の晩餐の席で主イエスがおっしゃった言葉を。その言葉を思い出したとき、ペトロは激しく泣いた、とあります。激しくという言葉は痛切にということです。身を切るように泣いたのです。そしてまた、苦く泣いたとも言えます。ペトロは自分の本当の姿を知って苦く泣いたのです。

<すでに愛されていたペトロ>

 今日の聖書箇所はペトロのこの号泣で終わっています。自分の本当の姿を知らされたペトロが打ちのめされている、後悔している、そこには救いがないように思います。ただ愚かでみじめなペトロの姿で終わっているようにも見えます。しかしそうではないでしょう。ペトロは門の外に出て、とありますが、実際はすでに彼は救いの戸口に立っていたのです。ペトロは思い出したのです。イエス様の言葉を。

 イエス様はご存じであった。ペトロが、やがて自分を裏切り、呪いの言葉すら口にして<イエスなんて知らない>ということになる自分をご存じであった。知っているということはそれは愛であります。愛する人のことは知っているのです。愛する相手のことは本人すら知らないことも知っているのです。イエス様は、「そんな弱いお前だから呪われるのだ」とはおっしゃっていなかった。そんな弱いペトロであることを知りながら、イエス様は愛をもって受け入れておられたことをペトロは知ったのです。

 そもそも弱い弱いと申し上げて来ましたけれど、イエス様が逮捕されるときペトロはいったんは剣を抜いたと考えられます。今日の場面では、人に気づかれないと思っていることが愚かではありますが、心配して大祭司の中庭までついてきているのです。ペトロには弟子たちのリーダーとしての責任感もあったでしょう。ある意味、彼は充分に強いのです。ペトロは十分に強い人なのです。一人の大人として、できる限りの責任を果たそうとして生きてきた人です。そしてまたすべてを捨ててイエスに従うだけの強さがあった人です。人間として見たら十分に強くて愛すべき人物です。

 しかし、イエス様はペトロにおっしゃるのです。もう強くなくていい、と。「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないという」その言葉は断罪の言葉ではありません。非難の言葉ではありません。愛に満ちた言葉でした。人間の強さは神の弱さより弱い。人間の強さなどはいらない。わたしは三度わたしを知らないというあなたの弱さを知っている、その弱さのままでわたしと共に生きよう、そうおっしゃっているのです。その言葉を思い出した時、ペトロは泣くことができた。涙をこらえて強くなるのではなく、自分の弱さの中で身を切るように苦く泣くことができた。強くなろう、しっかりしようとしていた自分、そこにこそ自分の愚かさがあったことに気づいたのです。

 そしてペトロは涙を流しました。大の男が激しく泣いたのです。そして、すでにペトロは救いへと向かっていたのです。イエス様の言葉のゆえに。イエス様の言葉の内に自分がとらえられていたことに気づいたがゆえにペトロは救われます。イエス様に愛されていることを知ったがゆえにペトロは自分の強さを捨て、その弱さのままで新しく生き始めるのです。

 冒頭に語りましたコソ泥の小話でもコソ泥はおそらく懺悔をしたときは、「もう盗みをすまい」と心から思っていたでしょう。どうにか盗みをしない自分になろうと思っていたことでしょう。しかし自分でこうあろうとする自分になろうとしてもなれないのです。自分の力で自分を変えることはできないのです。もちろん人を変えることもできません。ただ神だけが変えてくださる。十字架にかかられた主イエスだけが人間を変えてくださるのです。

 ペトロはやがて大伝道者となります。このおくびょうだったペトロはおそらく最後は殉教したと考えられます。ペトロは反省して強くなって大伝道者になったのではありません。自分の弱さを知ったから、そして苦い涙を流したから立ち直ることができたのです。自分が強くなるのではなく力は神から与えられることを知ったのです。イエス様の愛のゆえに自分の弱さを知ることができた、本当の罪を知ることができた、そして涙を流すことができた、だからイエス様によって変えていただいたのです。変えていただくと言っても、まるっきり別の人間になるわけでも、二度と失敗をしない人間になるわけでもありません。実際、使徒言行録などを読みますとその後のペトロもパウロに非難されるような失敗をしています。しかし、苦い涙を流したペトロは強くあろうとしたかつてのペトロとは違うのです。その個性はそのままに弱さもそのままに新しくされたのです。

 わたしたちも試みにあいます。一度だけではない、三度も試されます。ペトロのように繰り返し揺さぶられます。近くにやってきて心臓を掴まれるように、罪をあらわにされます。しかし、そこに愛があります。十字架にかかられたイエスの愛があります。イエスの愛によって私たちは罪を知らされ、そして赦されます。心から涙を流し、神の前で泣くことができ、そしてイエスの十字架の愛に向かって歩んでいきます。


2017年2月26日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章57~68節

2017-03-03 14:27:24 | マタイによる福音書

説教「神を裁く人間」

 三年前に母が召されてからのち、もう実家もありませんから、故郷に帰ることはなくなりました。故郷への思いは人それぞれで、必ずしも故郷を素直に懐かしいと思える人ばかりではないでしょう。さまざまな事情で故郷に帰ることのできない人もいます。また、ふるさとは遠くにありて思うものという言葉もあります。

 現実的な故郷がその人にとってどのようなものであれ、人間にとって帰っていくことのできる場所があるというのは支えになることです。どのようなことがあっても、帰っていくことができる。受け入れられる、そんな場所があるのは力強いものです。

 キリスト者の帰るべき場所は、いうまでもなく「天」です。私たちは地上を歩みながら故郷としての天を持っています。そしてまた日々祈りによって帰っていく神の御もとがあります。私たちは帰っていくのです。神の御もとへ。

<無力なイエス>

 ところで、教会に一日おりますと、いろいろな人がきます。また、郵便物以外のいろいろなものがポストに入ります。だいたいは近辺のお店の宣伝が多いのですが、以前にも少しお話ししましたが、新興宗教のビラというのも時々入ります。キリスト教の教会だとわかっていながら入れるのですから、伝道熱心といえるかもしれません。嫌がらせかもしれませんが。

 あるビラにはこう書いてありました。「キリスト教はその教祖がたかだが30歳くらいで死刑になって死んでいる。いくらなんでもそんなに若死にしたような無力な教祖の起こした宗教に力があるわけない」と。イエス・キリストは教祖ではありませんし、十字架の死は復活につながるものです。そのビラにいくらでも反論はできるのですが、主イエスをご存じない人から見たらこういう見方もできるという参考にはなりました。

 今日の聖書箇所は、主イエスの裁判の場面です。ここに描かれているイエス様の様子はたしかに力ある様子には見え難いものです。無力といってもよいようなお姿です。これまで読んでまいりましたマタイによる福音書では力強く福音をお語りになる様子がありました。湖を鎮めるような奇跡を起こされる様子もあり、たくさんの病気を人々を癒される様子がありました。驚くような神の奇跡の業を主イエスはなさいました。そんなイエス様を人々はある時は熱狂して迎え、また追いかけました。そもそも、そんな群衆の主イエスへの熱狂への、祭司長や律法学者たちの嫉妬、妬みが今日の聖書箇所の裁判への伏線としてありました。

 祭司長や律法学者にとって主イエスはなんとしても葬り去らねばならない相手でした。自分たちを差し置いて聖書を語り、神の国を語り、自分たちの権威を無視して自分たちを批判して活動をしている主イエスをゆるすことはできませんでした。民衆から支持されている主イエスは祭司長たちにとって自分たちの足元を脅かす存在でした。いま、時は、過ぎ越しの祭りの最中でした。もともとは祭りの最中に主イエスを捕えるのはやめておこうと考えていた祭司長たちでしたが、ユダの裏切りによって、すんなりと主イエスを捕えることができました。あとは死刑にするだけというのが本日よまれた聖書箇所の状況でした。

 その状況においての主イエスのご様子は、かつての様子とは打って変わった弱弱しい様子でした。新興宗教のビラに、死刑にされた無力な教祖と書かれていましたが、たしかに無力に見えるお姿です。

 裁判自体について言いますならば、実際に、当時の法律や慣習に照らし合わせてみて、夜に突然行われたことやその審議のあり方が、法的手続きとして妥当であったかどうか、それは疑問です。この裁判については、さまざまな学者によって、さまざまに研究され、議論されているところです。

 そもそも当時の裁判においては律法にもとづき証人は二人以上が必要とされました。最初、何人もの偽証人が現れたとあります。しかし、彼らはいうことが、ちくはぐで、二人以上で話が一致せず、証拠としては採用できないものだったようです。そんななかで、ようやく二人の者が一致する内容を語りました。それは主イエスがエルサレム神殿を打ち倒すと語ったという告発でした。そして倒した神殿を三日あれば立てることができる、こうもイエス様はお語りになったと告発しました。これは確かに主イエスがお語りになったことでした。神殿の崩壊については主イエスは語っておられました。ヨハネによる福音書に記されています。もともと主イエスがおっしゃったのは、これは目に見える神殿ではなく、十字架の死の三日後に自分は復活することを語られたのでした。そして、そのとき、人間の心の中にまことを神殿を建てるという意味で主イエスがおっしゃったことでした。しかし、主イエスの言わんとされた本当の意味がわからなければ、神殿に対する冒涜ととれる言葉です。これに対して大祭司は「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と問いますが、主イエスは黙り続けておられた、とあります。主イエスは、神は、沈黙しておられたのです。

<神の沈黙>

 ある方はおっしゃいます。神の沈黙は神の意志の固さを表している、と。人間は神が沈黙しているように感じる時、勝手なことを考えます。神が黙っておられるとき、神などいないと人間は思うこともあるでしょう。あるいは沈黙している神は無力な神だと思うこともあるでしょう。弁舌さわやかに、大祭司たちにがつんといえる神こそ力ある神と感じるかもしれません。

 しかし、人間は、信仰をもって神に聞かない時、仮に神がどれほど語られてもそこに神の声を聞き取ることができません。そしてまた神は聞き取ることのない人間の前で沈黙をなさるのです。神の沈黙の前で人間は自分の好きに振る舞うのです。しかしその神の沈黙は人間を見捨ててさじを投げた沈黙ではありません。先ほど申し上げたように、神の意志の固さを表す沈黙です。人間を救うという神の意思を表す沈黙です。

 主イエスは、十字架にかかり罪の贖いの業をなさることを決めておられた。父なる神の御業を為す意志が固かった。その意識の硬さゆえに沈黙をされたのです。不利な証言がなされようとも主イエスは口を開くことはありませんでした。主イエスが黙られ裁判が硬直状態となり、大祭司は再び言います。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」それに対してイエスは「それはあなたが言ったことです」とお答えになります。これは不思議な言葉です。ギリシャ語でも「あなたが言った」となっています。これは「あなたが言っているのであって私が言ったわけではない」という否定的な回答とも取れますが、むしろ大祭司の言葉を肯定されたと取る方が良いでしょう。口語訳ではここは「そのとおりです」となっています。そしてひきつづき、主イエスはご自身の再臨のことを語られます。御自身が世界審判者としてふたたびやってこられることをダニエル書7章などを下敷きにした表現で語られます。自分はメシアであり、世界審判者としてやがて来る者だとここで主イエスは宣言されています。

 沈黙されていた主イエスはここでみずからのメシア宣言をなさいました。

 メシアがメシアであると宣言なさったそのことのゆえに死刑判決が下されました。主イエスの奇跡を見ても福音を聞いても、主イエスを神から来た者であると信じることのできなかった人間は主イエスご自身のメシア宣言を聞いても、それは神を冒涜する言葉にしか聞こえないのです。

 神を神として信じることのできない人間は神を裁き、神に死刑宣告をすることができるのです。私たちも折々に神を裁きます。この神は私たちに何をしてくれるのか?大したことをしてくれないではないか。自分中心に考える時、私たちは神を裁いています。神への信頼のない時、私たちは私たちの中で神を殺すのです。

人間から死刑判決を下された主イエスは、たしかに新興宗教のチラシに書いてあったように無力で情けない神に見えます。力のない神に見えます。実際、唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれる神です。「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と侮辱される神です。

 ここに描かれているのは弱く見える神の姿と神を裁く醜悪な人間の姿です。しかしなお、ここにも神の硬い意志が貫かれています。さきほど主イエスの沈黙は神の意志の強さを表すと申しました。そののちにつづく主イエスのメシア宣言もまた神の意志を貫くものでした。最初に沈黙されていた主イエスは「メシアなのか」という問いに対しても沈黙なさっていれば大祭司たちは決定的なことはできなかったかもしれません。しかしここでみずからがメシアであること、自分が再臨なさることを宣言されたがゆえに主イエスの死刑は確定したのです。ここでも十字架へ向かう意志の固さは貫かれています。神の、主イエスの、人間への憐みの心は貫かれています。この醜悪のようにしか見えない場面を通して、なお神の愛が貫かれています。神の弱さは人間の強さより強いそうパウロがいった神の愛の強さがここにあります。

<本当の強さとはなにか>

 長く教会に来られている皆さんのよくご存じの放蕩息子の話がルカによる福音書にあります。当時のユダヤの社会では本来はありえない父親の生前に財産分与を息子はしてもらいました。この財産の生前分与自体、実に親不孝な無礼なことでした。しかもそれから家を出て行った息子は、財産を使い果たして放蕩して帰ってきます。その帰ってくる息子をまだ遠くから気づいて父親の方から走り寄って首を抱き、接吻したとあります。これは普通に考えて、子供に甘い、愚かな父親の姿です。本来、親はこの息子を厳しく叱らないといけない。この息子の性根は鍛えられ直されないといけない、人間はそう思います。しかし、この父親は実に愚かにもこの息子を抱きしめて受け入れるのです。

 これは単なる甘い父親を描いた物語ではありません。単純に優しい優しい神様を描いた話でもありません。しかし、この放蕩息子の父親として描かれている神は人間には愚かに見える姿でなお人間を愛してくださる神です。まだ父が生きているというのに財産分与を要求して家をでていく、つまり父の存在を無視し、言ってみれば生きている父親を無用な者と考えて、心の中で父親を殺した息子を受け入れる神なのです。

 神のみじめに見える姿、弱く見える姿は、人間によってみじめに弱くされた姿です。愚かな人間によって愚かにされた姿です。神を殺そうとする人間によって殺されたかに見える神です。しかし、愚かに見える神は、一人で十字架におかかりになる神です。父なる神の怒りをおひとりで受けられる神です。人間には絶対に耐えることのできない父なる神の怒りをお受けになる神です。主イエスに死刑の判決をくだしたとき大祭司たちは自分たちが勝ったと思ったでしょう。財産を手にして家を出て行った息子は自分は自由を得たと思ったでしょう。

 しかし、神を裁き、無用な者とした者たちにあるのは罪による死でした。自由な命ではなく死でした。

 一方で、父なる神の怒りを十字架によって受けられ私たちの救いを成し遂げられた主イエスは、わたしたちを神を殺した私たちに永遠の命をあたえてくださいました。そしてまた主イエスは、父なる神の御もとに私たちの場所を作ってくださいました。神を裁き、また神を無用な者と考える者たちのために帰っていくべき場所を作ってくださったのです。

 ですから私たちは帰っていくことができるのです。神を裁き無用な者と考えていた私たちを神は待っていてくださいます。私たちがまことに悔い改めて帰っていくとき、まだ遠くにいる時から走り出て私たちを迎えてくださいます。傷ついてうずくまっているときは探して助け起こしてくださいます。そして、まことの命を与えてくださいます。父なる神の家へ、なつかしい故郷へと抱きしめて連れて帰ってくださいます。


2017年2月19日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章47~56節

2017-02-24 14:57:47 | マタイによる福音書

説教「心を高くあげよ!」

<剣をさやに納めなさい>

 いよいよ事が起こりました。主イエスがまだ話しておられると、と書いてありますので、突然、多くの人々が迫ってきたのです。それまでの静かな祈りの場面が、一気に物々しい状況になります。剣や棒を携えた人々が主イエスと弟子達を取り囲みます。夜ですから、たいまつのような明かりも人々は持っていたでしょう。現代と違い、当時夜は深い闇に包まれていた時代です。しかも、人家があるような場所ではなく、オリーブの園です。その夜の暗闇の中に多くの赤い光が揺れ、取り囲まれた弟子達はたいへん面食らったことだと思います。恐怖に捕らえられたかもしれません。

 主イエスを裏切ろうとしているイスカリオテのユダはぬかりなく祭司長たちと合図を決めていました。他の弟子達はどうでもいい、人々にあらぬ力をふるっている主イエスを、間違いなく捕らえないといけない、そう考えていたのです。その主イエスを指し示す合図が、親愛の情をしめす接吻であるというのは残酷なことです。「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」とユダは言います。最初の行、47節に12人の一人であるユダが、とありますが、これはほかでもない、主イエスの弟子の中でもっとも重要な弟子であった12弟子のうちから裏切り者が出たのだということが強調されています。

 そのユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻をしたとあります。これは一般的な挨拶の言葉です。言葉の意味としては「先生、よろこびなさい」というような意味です。当時の慣用的な挨拶の言葉とはいえ「よろこべ」という言葉でユダが主イエスを裏切ったのは皮肉です。そしてまたここでユダが主イエスに「先生」つまり「ラビ」と語りかけているのは象徴的です。他の弟子達は、過ぎ越しの食事の場面でも、主イエスに「主よ」と語りかけているのですが、ユダだけは「先生」なのです。つまり、ユダにとっては主イエスは「主」という特別な人ではなくなったということなのです。一般的な教師としての呼び名であるラビという言葉でユダは呼びかけています。そして実にあっさりとユダは主イエスに接吻をするのです。この場面でユダには迷いはなく実にスマートと言っても良い言動です。

 そして主イエスは実にあっさりと人々に捕らえられます。それに対して、イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかり耳を切り落としたとあります。この剣を抜いた弟子はヨハネによる福音書ではペトロと名を記されています。ペトロであるとするなら「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と26章35節で言っていたように、ペトロはたしかに勇敢にふるまおうとしたといえます。

 しかし、主イエスはこうおっしゃいます。「剣をさやに納めなさい。」主イエスを裏切ったユダに対しては「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われているのに主イエスを守ろうとしたペトロに対しては、しようとしていることを制止されました。

 主イエスはさらに言われます。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」これは単なる暴力に対する無抵抗主義、平和主義を唱えられているわけではありません。主イエスにとって重要なのは「聖書の言葉が実現すること」でした。それは先週お読みした箇所にある「御心が行われる」ことでした。救いの成就でした。

つまり、父なる神の御心ではなく、自分の力、自分の剣に頼る者は滅びるのだとおっしゃっています。主イエスは群衆に対してもこうおっしゃっています。「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」

56節に<このとき>、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とあります。最初、剣を抜いたペトロも逃げてしまった。それは多勢に無勢で叶わないと諦めたり、恐れをなして逃げたというよりも、むしろ、「聖書に書いてあることが実現する」とおっしゃる主イエスの言葉や、「預言者たちの書いていたことが実現する」という言葉になにがなんだかわからなくなってしまったからではないでしょうか。ですから、「このとき」弟子たちは逃げて行ったのです。

主イエスが、ユダの裏切りを断罪したり、祭司長たちの不当逮捕を非難しているのであれば、弟子たちは主イエスのために、あるいはもっと闘ったかもしれません。しかし、主イエスはただこのことが「御心がなるため」だとおっしゃった。そのことのゆえに、混乱して、ちりじりに逃げてしまったとも考えられます。

<恐れるから剣をふりまわす>

 私たちもまた神の前で剣を振りかざす者です。神に委ねるのではなく、御心を問うのではなく、自らの力を頼りに戦おうとします。私たちは今日のこの場面のように剣や棒を持った人々に取り囲まれることはないかもしれません。しかし、困難なことが起こったとき、私たちは自分の剣を抜いて立ち向かいます。一方で、クリスチャンであれば、まず神に委ねる、御心を問うということが大事だということは、良く良く聞いていることです。でも私たちは、それを知りながら、神の前でやはり自分の剣を振り回すのです。

 この場面でペトロと推測される弟子の一人が剣を抜いたことに関して、さきほどその弟子なりに、勇敢に振る舞おうとしたのではないかと申しましたが、彼はむしろ恐れのあまり、剣を振り回したのだと解釈する人もいます。ペトロは恐怖に駆られて剣を振り回した、それも人間の心理としては良くわかることです。

 一見、勇敢なようであれ、恐れに取りつかれていたのであれ、私たちは神の力を信じていない時、自分の剣を振り回します。

 ところで、わたしの愛唱讃美歌のひとつは讃美歌21の18番です。はじめて教会の扉を開けて礼拝に行くようになって三回目くらい日曜の礼拝に歌われました。当時は当然、毎週どの讃美歌も初めて聞く讃美歌でしたが、その「心を高く上げよ」は印象的でした。特に二番の歌詞を聞いた時、なぜか涙があふれてきました。「霧のようなうれいも、やみのような恐れも、みなうしろに投げすて、こころを高くあげよう。」別にどうということのない歌詞と言えばそうなのですが、なぜかこの歌詞を聞いたとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。最初なんで涙がでるのか自分でもわかりませんでした。ものすごく感動的な歌詞というわけではありません。「霧のようなうれいも、やみのような恐れも、みなうしろに投げすて、こころを高くあげよう。」思い起こしますと、当時、子供が不登校でした。もちろんそのことをとても心配して、いろいろ専門機関に相談したりしていましたが、一方で自分自身の仕事もあり日々忙しく、毎日、ものすごく落ち込んでふさぎこんでいたというわけではありませんでした。やるべきことは多く落ち込んでいる暇はありませんでした。でも、この「心を高く上げよ」の歌詞を聞いたとき、自分が霧のようなうれいや、やみのような恐れを心の中に持っていることに気が付きました。それは単に、子供のことや、自分自身のそのほかの悩み事といった事柄を越えたものでした。私自身のなかに、もやもやと渦をなすように、うれいやおそれがたしかにあった、その自分自身の中のもやもやとしたうれいやおそれにたしかに響き合う言葉だったのです。

 でも、当時、私はそれを自分自身の力で、いってみれば自分の剣でなんとかしよう、どうにかしようと何年も何年も頑張ってきていた、そのことに気づきました。でも、それらを皆うしろに投げ捨て心を高く上げよ!つまり神を見上げようと、この歌は言っていました。投げ捨てるなんて言葉はいかにも無造作で無責任なニュアンスがあります。いろいろな問題や責任をしっかりと自分で受け止めて、自分で戦っていくことこそほんとうの大人の姿であると当時私は思っていましたし、それは一般的にも考えられていることです。でも「皆後ろに投げ捨て、心を高く上げよ」とこの歌は言います。

 涙を流しながらも、そのときはまだ、投げ捨てることができないから人生はたいへんなんじゃないかという気持ちを持っていました。投げ捨てられたらどんなにいいか。どうして自分の剣を捨てて生きていくことができるのか。ペトロのように負け戦であっても、霧のようなうれいややみのような恐れの中で自分の力で、自分の剣で戦っていくしかないではないか、そういう思いも持っていました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」そうです。たしかに、きりのようなうれいや闇のようなおそれを持ちながら自分の剣を振り回していた私は滅びへの道を歩んでいたのです。

<剣を取らずに戦われたイエス>

 一方で、「剣をさやに納める」これはまた神の意志、主イエスの意志でもありました。「お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」そう主イエスはおっしゃっています。かつて主イエスが地上に降誕なさったとき、ルカによる福音書では、羊飼いたちがみていると、天使と天の大軍が賛美をしたことが記されています。お願いすれば、たしかにまた天の大軍は来たでしょう。そして、いま主イエスと弟子たちを取り囲んでいる祭司長や群衆などひとたまりもなくやっつけることはできるでしょう、しかしそれをしない、そう決められたのは父なる神であり、御子イエス・キリストでした。聖書の言葉が実現するために、預言者たちの書いたことが実現するために。神ご自身が、罪人である人間を打たないと決められたのです。御自身の方を向くことなく、ただ自分の虚しい剣を振り回し罪のための滅びへとむかっている人間を、裁くことなく、剣をむけることなく救うと決められたのです。そしてまた主イエスご自身が剣をさやに納めて、これからのちの十字架への戦いへと向かわれるのです。自分の剣で滅びへと向かっている人間を救うために、ご自身が剣をさやに納め、御自身の体を人間の剣やむちへと捧げ、一人の戦いに赴いていかれます。

 へんなたとえになりますが、この世のヒーロー映画で、ヒーローが一人で敵に向かっていく場面があります。私は女性ですから、そういうヒーローものを好んでは観ませんけれども、古いところでは、シルベスタースタローンとかシュワルツネガーといった俳優が演じるヒーローが並み居る敵を一人でやっつけるような映画はある種のそう快感があります。しかし、主イエスはそんな恰好のいいヒーローにはおなりになりませんでした。悪い祭司長や、律法学者をぎゃふんと言わせるように叩きのめすヒーローにはなられませんでした。

 ただご自身の身を十字架に捧げ、みじめな死をとげられました。罪人として死なれました。自分の剣を振り回そうとして、結局、滅びへと向かっている私たちのために十字架で死んでくださり復活なさいました。主イエスを捕えようと剣や棒をもってやってきた人々のためにも十字架で死んでくださり復活してくださいました。それこそがまことの愛でした。その愛はいまも私たちに注がれています。

 私たちは自分の手にある剣の虚しさを気付かない限り、私たちの剣を振り回し続けるのです。その剣の虚しさに気づくのは、神の愛の業を知る時です。私自身が、がんばって剣を奮って戦っていたつもりであった、しかし、本当に働いてくださっていたのは神だった。私を愛して神ご自身が愛の業をなしてくださっていた、そのことに気づく時、私たちがどれほど虚しく自らの剣を振り回していたかに気づくのです。そしてその剣をさやに納めることができるのです。十字架と復活によって示された神の愛によって私たちは憂いやおそれを投げ捨てることができます。そして自らの剣ではなく愛によって生きていく者とされます。