説教「茨の冠を載せた王」
今日の聖書箇所では主として三パターンの人間が出てきます。ポンテオ・ピラト、バラバ、群衆です。それぞれに立場が違います。もちろんこれ以外にも主イエスを十字架につけることに最も積極的に関与した祭司長たちや長老もいました。しかし、今日の聖書箇所ではこれまでいくたびか言及してきた祭司長や長老と言ったイスラエルの権力者以外の人々に目を向けて行きたいと思います。これらの人々は、もともとは祭司長たちのように明確に主イエスを十字架につけようという意思は持っていなかったように思われます。しかし、結果的に、それぞれがイエスを十字架につけることに関わっていくのです。
<権力者ピラト>
まず、ローマから派遣された総督のピラトが出てきます。イスラエルを支配していたローマの権力を握っていた人物でした。在位期間26年から36年と言われます。今日の聖書箇所を読みますとピラトは「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」とあります。ピラトはイスラエル人から見たら神から遠い存在とされる異邦人でした。しかし、分かっていたのです。主イエスには罪がないということを分かっていました。今日の聖書箇所の少し前のところにピラトが主イエスを尋問する場面がありますが、その場面で、主イエスがご自身に不利な証言をされても答えられないのでピラトは非常に不思議に思ったとあります。権力者として多くの人間を見て来たピラト、ことに反逆者と言われる罪人を多く見て来たであろうピラトからしたら、主イエスはたいへん不思議な存在だったでしょう。なんとも捉えどころのない、判断に困る人物だったでしょう。仮に訴えられている罪を実際に犯した人間であったなら、ピラトに対してさまざまに情状酌量を願ったでしょう。まして罪を犯していないとすれば、最高権力者のピラトに、ありとあらゆる訴えをしたでしょう。しかし、主イエスはお答えにならなかった。そのイエスさまの様子を見て、そしてまた主イエスを訴える人々の様子を見て、ピラトは主イエスがいってみれば冤罪、罪もないのに訴えられていることを見抜いたのです。
権力の座にある人間としてそれは当然の判断力であったとも言えます。しかしまたピラトにとって、主イエスは見たこともない存在であったでしょう。彼の政治家としてのそしてまた実務家としての判断を越えた存在であることもおそらく彼は感じ取っていたでしょう。そしてピラト以上にそれを感じ取っていたのは彼の妻でした。妻はピラトに伝言したとあります。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」それに対してピラトがどのように思ったか、その詳細は聖書に記されていません。しかし、あえてこの妻の伝言が聖書に記されていることから考えられますのは、この妻の言葉はピラトに対して何らかの影響を与えたということです。主イエスはピラトにとってどうにもとらえどころのない不可思議な存在で、かつ、妻からも奇妙な伝言が届き、権力者とは言え、ピラトの心になんらかの不安というか、嫌な感覚が兆したであろうことは想像に難くありません。
ピラトはどうにかして罪なき罪人であるイエスを釈放しようとしました。それは上に立つ人間としてのまっとうな判断から来るものでもあり、そしてまた、なにか捉えどころのない不安のようなものからも来るものでした。「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」そうピラトは問います。しかし、祭司長たちに扇動されていた群衆は「バラバを釈放しろ」と叫びます。この時点で、すでにピラトは弱腰なのです。自分自身の判断でどちらを釈放するということを決定できないのです。群衆に委ねているのです。そもそもピラトも総督と言っても、最高権力者ではありません。ローマに仕える役人に過ぎません。騒動が起これば責任をとらされる立場でした。ですから、結局、暴動が起こりそうだと恐れたピラトはバラバを釈放します。
24節でピラトは群衆の前で手を洗って「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言います。ここでは完全にピラトは自分の責任を群衆に転嫁しています。本来、死刑を決定する立場にありながらその立場を放棄したのです。
これはピラトがローマ皇帝ではなく、一官吏であったからということだけのせいではありません。ここに権力者の限界があるのです。この世の最高の権力を持っていても、悲惨な最期を遂げる権力者は古今東西、歴史上いくらでもいました。権力が人間の世界によって立つ以上、それは普遍なものでも、永劫続くものでもなく、容易に崩れ去るものだからです。
と ころで、私たちが毎週告白します使徒信条においてはピラトは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と信条中、出てくる名前です。この使徒信条を読みますと、ピラトはなんて悪い奴だろうと感じます。しかし、実際には彼は積極的には主イエスを十字架へつけようとはしていないのです。しかし人間の世界の権力の限界としての象徴であるともいえます。また権力者がその権力を放棄した、権力を正しく用いることのなかった権力者の罪そのものも問われているといえます
<群衆は赤面しない>
そしてまたそのピラトを追いつめたのは祭司長やユダヤ人の権力者たちともいえますが、群衆たちでもありました。主イエスがエルサレムに入ってこられた時、「ホサナ、ホサナ」と熱狂して迎えた群衆がそのわずか数日後に主イエスを十字架につけろと叫んでいます。もちろんそこには祭司長たちの誘導があったわけです。そしてまた独特の群集心理というものもあったのです。バラバと呼ばれる囚人はおそらく政治犯ではなかったかと言われています。反ローマ活動をして、おそらくそこで暴動なり殺人なりを犯したのでしょう、それで捕えられた人物であったと推測されます。16節にバラバ・イエスという評判の囚人がいた、とあります。人々にとってローマへ抵抗する人物というのは一定の人気があったと思われます。そうであったとしても、バラバではなく、主イエスを十字架につけろと叫ぶ群衆は残酷であると思います。長時間にわたってじわりじわりと殺されていく十字架に一人の生身の人間をつけることを熱狂して叫ぶ群衆の姿は醜悪です。
教会学校の教案誌もこの箇所を扱っているのですが、この箇所の群衆についてこう記されていました。「群衆は赤面をしない」と。個人の人間、たとえばピラトであれば、ピラトという個人の名前が使徒信条に残る、そういう形である意味、その罪の責任が問われます。しかし、「バラバではなく、主イエスを十字架につけろ」と叫び、ピラトを恐れさせた群衆はその自らの行いについて、後に赤面することも恥じることもありません。責任を問われることもありません。それこそが群衆が群衆であるゆえんと言えます。なにかそのときの特別な状況で、熱狂してしまう、そういう恐ろしいことが起こったのです。群衆の中の一人一人にしてみたら、のちに主イエスが十字架の上でおっしゃる言葉である「自分で自分が何をしているのかわからないのです」という状況なのでしょう。その自分で自分が何をしているか分からないままに、救い主を、神の御子を、十字架につけろと叫ぶ、それが赤面しない群衆であるといえます。しかし赤面しない群衆が熱狂して異常なことをしているとき、一人一人が別人に変化しているわけではありません。もともとあった一人一人の罪が浮き上がってきているのだと考えられます。
バラバという、政治的な目的であれ本当に罪をおかした罪人ではなく罪なき救い主を十字架につけろと叫ぶ、2000年後の私たちから見たら狂気とも言える出来事です。しかし、それは当時の愚かな群衆が引き起こしたことではなく、人間の心の底にある罪があぶりだされ姿を現した出来事であるといえます。
私たちもまた罪にある時、「バラバではなく、主イエスを十字架につけろ」と叫ぶ者であるのです。ローマに抵抗してくれる、つまり自分たちの現実を良くしてくれるヒーローを求め、真の救い主、神からは目をそらします。そのとき人間は救い主を十字架につけるのです。教会もまたそうです。この世的なことにおもねっていくとき、教会自身が主イエスを十字架につける過ちをすることもあるのです。教会が世俗化するとき、教会自体が主イエスではなく、バラバを選ぶ、そういうことは歴史的にいくらもあったのです。
<バラバという男>
それにしてもこのバラバという男もイエスという名であったことは皮肉です。イエスのいう名自体がよくある名前であったということもありますが、この世の人気者と、神の子が同じイエスという名であり、人々がこの世の人気者を選んだというのは実に象徴的な出来事です。
ところで、「バラバ」という小説がありました。ペール・ラーゲルクヴィストと言う人が1950年に発表したものです。本日の聖書箇所で出てきます死刑囚バラバを主人公にした物語です。もちろん、聖書にはバラバのその後については記されていません。そもそもバラバの氏素性の詳細もわかりません。ですから、この小説は全くのフィクションと言っていいのだと思います。
その小説では死刑囚の身分を解かれ自由になったのち、最初、キリスト教のことを胡散臭く思っていたバラバが、少しずつ変わって行くという内容になっていました。自分の代わりに死刑になったイエスという男について、また、その後出会ったキリスト者について、最初は怪訝な思いを持ちながら、馬鹿らしい思いを持ちながらも、しかし何か不可思議なことも感じていたバラバの姿が描かれます。そしてまた後半では、キリスト教をしっかりと理解していないゆえに、キリスト教に心ひかれながら、とんちんかんなことをしてかえってキリスト教の迫害に手を貸してしまうようなことも描かれながら、バラバが変わっていくという物語でした。
現実のバラバのその後がどうであったか、もちろんわかりません。しかし、ラーゲルヴィストの小説を思い起こすとき、私たち一人一人もバラバなのだと改めて思います。
バラバ自身がピラトに交渉して死刑を免れたわけではありません。バラバが群衆に働きかけたのでもありません。バラバにしてみたら、<棚から牡丹餅>のように死刑を免れ、命を得ることができたのです。いま、<棚から牡丹餅>と言いましたが、こういうことを申し上げると不遜なことの出ようですけれど、わたしがまだ洗礼を受ける前、牧師から聖書の学びを受けておりました時、イエス様の十字架の話を聞いて、それってまさに<棚から牡丹餅>だと思ったのです。イエス様の十字架が私たちの罪の身代わりであり、そのことを信じさえすれば救われるなって、そんな虫の善いことがあるのかと思いました。まさに<棚から牡丹餅>みたいなことがあるのかなと感じました。そんなお気軽な馬鹿げた話があるのかと。
しかし、現実にそうなのです。主イエスは私たちの代わりに死んでくださった。そして私たちはバラバのように、代わりに生かされたのです。それも死刑を免れただけではなく、永遠の命をいただいたのです。
ですから私たちは小説のバラバのように変わっていくのです。少しずつ。キリストの方を向きながら変わっていきます。バラバではなく主イエスを十字架につけろと叫ぶ罪人であった私たちが、新しい命の光の中を歩んでいくのです。
ある方は、この裁判の場面を神が働かれた裁判だとおっしゃっています。祭司長たちがいてピラトがいて群衆がいる、彼らが動かしているように思われるこの裁判の場面が、なお、神の裁判の場面なのだというのです。人間の愚かさ醜さがあふれているこの場面になお神の愛が注がれているというのです。このときイスラエルにおいてピラトに権限を与えらえたのも、イエスと言う名をもつバラバをこの時この場に置かれたのも、つきつめればすべて神の業です。人間の力ではありません。神ご自身がその御子を罪人として裁かれたということです。そしてそこにこそ、限りない神の愛が注がれているのです。<神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された>、神はその独り子を「十字架につけろ」と叫ぶ群衆へ、罪深い世へと与えれました。十字架へと与えられました。父なる神ご自身が御子へ死刑判決を下されたのです。そこに、限りない深い愛がありました。人間を罪から救う愛がありました。