大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第3章10~22節

2021-09-12 16:46:59 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月12日日大阪東教会主日礼拝説教「正しいことのために苦しむとは」吉浦玲子 

<義のために苦しむ> 

 ずいぶん前ですが、広島のイエスズ会聖ヨハネ修道院というところにいったことがあります。新幹線の広島駅から乗り換えて、それほど遠くはなかったと思いますが、初めて行ったので、行くのは少々ややこしかった記憶があります。広島市内ですが、郊外の、自然が豊かにある地域に修道院は建っていました。まだ牧師への献身を志すずっと前で、いろいろ思うところがあって、一人でいって、一泊して黙想をしました。その修道院は純和風の建物で、ミサを行う聖堂は畳敷きでした。一見、修道院と教会とはいうようには見えません。むしろお寺のようでした。その修道院は、広島に原爆が投下された時、被害を受けましたが、倒壊は免れ、幸い、当時いた修道院のメンバーにも重傷者はいなかったそうです。そして続々と助けを求めてやってくる被災者を修道院内に受け入れ、救援活動を行ったそうです。その時の修道院長は医師の資格を持つ人であったので、積極的に重傷者の治療も行ったそうです。当時、イギリスやアメリカといった敵国出身の司祭やブラザーは別の場所に拘留されていて、修道院に残っていたのは当時でいうところの枢軸国側のメンバーだったそうです。それでも、ドイツ人の司祭が、パラシュートで降り立ったアメリカの軍人と勘違いされて暴行を受けそうになったりといった不穏な状況はあったそうです。そのような過去についてはその修道院を訪問した時は知らなかったのですが、その修道院の敷地内を散策していて印象に残ったことがありました。敷地内に、小さな墓地がありました。そこに並んでいる墓標を見ますと、いろいろな国の方の名前が書かれていました。司祭やブラザーとしてこの地にやって来て、広島の地で人生を終えられた方々だと思います。はっきりと国名は覚えていませんが、たしかヨーロッパはもちろん、南米などの地名もあったかと思います。遠いところから来られて、日本で天に召されたんだなあと思いました。まさに日本の地に骨を埋められたのです。生まれ育った国を離れて、遠い遠い島国に来て、現代よりももっと文化は異なっていたであろう地で一生を終えられたことを思うと深い感慨がありました。その時私はまだ洗礼を受けて、二年目くらいでしたけど、ごくごく単純にすごいなあと思ったのです。そもそも私が、クリスチャンホームの出身でもなかったのに、教会に行くようになって、すんなりとキリスト教を受け入れた背景には、出身地の長崎でキリスト教の雰囲気に親しんでいたということも要因としてあります。道を歩くとシスターさんとすれ違うような土地柄で、さらに少し郡部に行けば隠れキリシタンが当時もいたようなところでしたので、キリスト教に対して特に嫌な思いを持っていなかったのです。いやな思いを持っていなかったというより、遠い国から命をかけて伝道に来たり、迫害されても隠れキリシタンとして生きていた人々がいるということを肌身で感じ、ごく単純な意味で、それほど命をかけて熱心に信じていた人々がいたのだから、漠然とキリスト教って良いものだろう、信頼できるものだろうと考えていたと言えます。 

 善を行って苦しむこと、これはペトロの手紙の中で繰り返し語られています。「義のために苦しみを受けるものであれば、幸いです」そうペトロは語ります。原爆の被爆者を助けているのに、暴行を受けそうになったドイツ人司祭もそうですが、義をなしても、報われるとは限りません。むしろ、逆の場合も多々あります。まわりの雰囲気に同調して、場合によっては悪を行なったり、悪を見逃す方が、かえって苦しまない、そういうことがこの世には多いでしょう。 

 一人一人のこの世の人生を考えるなら、善のため、つまり神の義のため、神に忠実に生きるということは、ある意味、ナンセンスなことかもしれません。しかし、ペトロは語ります。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」善を行って苦しむ苦しみは、人を救いへと導くからです。善を行うのは自分が救われるためではありません。救いの条件として善行があるわけではありません。私たちはすでに救われているからです。善を行うことは誰かの救いのためなのです。広島の修道院では、被爆前の長年に渡る宣教活動よりも、被爆者を救援した半年余りのほうが、地域の人々にキリスト教が受け入れらる結果となったと言われます。もとより、キリスト教の宣伝のために、救援活動をしていたわけではなく、行きどころのない被災者が次から次に押し寄せて来たので、それに対して修道院側は精いっぱいに対応しただけなのです。被災者に対して、助ける代わりにキリストを信じろと説いたりも、もちろんしなかったでしょう。そういう姿を被災者を始め、地元の人々は見ていたのです。それが自然に「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活」を示すことになったのです。 

<キリストの苦しみ> 

 さらにペトロはキリストの受難を語ります。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。」キリストは十字架において、父なる神の裁き、神の怒りをお受けになりました。キリストは、残虐な刑としての十字架刑の肉体の苦しみのみならず、神の怒りを受けるという、それまでの人間がだれも経験したことのない苦しみをお受けになりました。「罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。」正しくない者とは、主イエスを十字架にかけた当時の人々だけでなく、人間すべてです。私たちです。私たちのために正しいお方であるキリストが苦しまれました。「あなたがたを神のもとへ導くためです」そうペトロは語ります。たしかに私たちはキリストの苦しみのゆえに神のもとへ導かれました。罪人であったにもかかわらず、キリストを信じるゆえに神の子とされました。神と共に歩む者とされました。キリストの苦しみは、私たちの救いの源となったのです。 

 19節以降、少し不思議なことが語られています。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」ここはさまざまに解釈されるところです。キリストは肉体において死なれ、陰府に降られた。使徒信条に「死にて葬られ陰府にくだり」とある通りです。この陰府の解釈も様々あるのですが、死者の、一時待機所という解釈が考えられます。最終的な終わりの日の裁きののち、天の国に行く者、地獄へ行く者となるのですが、その前の段階の場所ではないかと言われます。ここでペトロが語っているのはノアの時代に箱舟に乗らず洪水で滅びてしまった人々のいる陰府のことではないかと言われます。そしてその陰府に捕らえられている霊に向かってキリストは宣教をなさったというのです。この部分をもって、ある人々は、ノアの時代の洪水で死んだ人々のところにもキリストが行かれるのだから、地上で生きている間、イエス・キリストを信じなかった人々のところへも死後、キリストが行ってくださり、救ってくださると考える人々もいます。いやいや、それはないだろう。もしそうであれば、この世でキリストを信じなくても、死んだ後、陰府で信じれば救われる、などと考える人が出てくるだろうと反対をする人もいます。いろいろな神学的な意見があり、私自身はどちらとも判断できかねます。ただ、言えますことは、死後について、聖書ははっきりと語ってはいない。この世でキリストを信じなかった人々、その中でも、その人生においてまったくイエス・キリストについて聞くことなく死んだ人々もあれば、聞きながら信じなかった人々もあるでしょう。それらの方々が、みな地獄行きであるかというとそれは明確に語られていませんし、逆に、この世で信じなくても、死後、回心のチャンスがあるとも明確には言えないと思います。キリストを信じなかった家族や友人たちがどうなるのか、それはある意味、切実な問題です。ただ言えますことは、死後のことを含め、すべては神のご支配のもとにあるということです。キリストは陰府にまで降られた、この地上でご自身は恥ずべき罪人として死なれ、人間として一番下の扱いをお受けになった、さらにもっと下の陰府にまで降られた。本来は、天におられた神である方が下の下まで降られた、つまり、この世界で、キリストのまなざしからこぼれるものは何もないということです。この地上に生きる時もそののちもキリストはおられるということです。ですからすべてをキリストに委ねるのです。この地上でのことも、そののちのこともキリストにお委ねするのです。 

<苦しみの実り> 

 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」そうペトロは続けます。ノアの時代の洪水は、洗礼を象徴するものでした。その水をくぐったノアたちは救われました。今や、復活のキリストを信じる私たちもまた、洗礼という水をくぐって救われました。それは単なる肉体の清めではなく、神の正しい良心を求めることでした。人間の正義ではなく、神の正義を求め、神の義を理解できる良心を求めることです。実際、キリストの復活を信じる者は、箱舟に乗ったノアたちのように救われ、洪水の後、箱舟から降りたノアが神を礼拝したように、神と共に生きる者とされました。 

 この世において、キリストは三十歳そこそこで無実の罪を着せられて死んだ哀れな男とみなされました。しかし、そのキリストの苦しみによって、私たちは救われました。いまや「キリストは天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」天から陰府までキリストの支配の及ばないところはありません。ですから私たちは、恐れません。私たちは善い行いのために苦しむかもしれません。しかし、そこにもキリストのご支配は及んでいます。生まれ育った国を離れ、慣れない生活をし時にはあらぬ誤解を受けることがあっても、また、迫害され隠れて生活をしていても、そこにキリストの支配は及んでいるのです。その一人一人の苦しみはけっして無駄なものではないのです。一人一人の労苦の一秒たりともキリストの支配から漏れることはありません。一人一人の涙の一滴もキリストの心に届かぬことはありません。そして何より、キリストがそのご自身の苦しみによって、この世界をご支配されることになったように、多くの人々が救われたように、私たちの苦しみも、誰かの救いのために用いられるのです。名もなく、郊外の修道院でひっそりと人生を終えた修道士の墓碑を見た私が、キリストへの思いを新たにさせられたように、一人一人の苦しみは、神にあって、必ず実を結ぶのです。 

 ペトロは、そのことを身をもって体験した人物です。十字架刑そのものは、ペトロは逃げていて見なかったようです。しかし、それゆえにいっそうペトロはキリストの苦しみを知っていたともいえます。弟子たちにすら捨てられたキリストの苦しみをペトロは誰よりも知っていたと言えます。しかし、その苦しみは報われたのです。ペトロの手紙Ⅰの第1章で「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」とペトロは語っていました。キリストを直接知らない人々が信仰者として起こされている、その奇跡をペトロは目の当たりにしました。キリストの苦しみの実りをたしかにペトロは見たのです。そしてまた、十字架の時逃げてしまったペトロもキリストの苦しみにあずかる者とされました。尋問され、鞭打たれ、牢に入れられました。しかし、それがただの苦しみで終わらないことをペトロ自身もその人生をもって体験しました。苦しみの実りが美しく実るのを見たのです。私たち一人一人がキリストの喜びの実です。キリストは私たちをご自身の苦しみの実りとして喜んでくださっています。私たちもまたキリストに従い、あらたな実りのために神の前に善を行います。キリストの苦しみに続く時、そこに新たな豊かな実りが起こされるのです。 

 


ペトロの手紙Ⅰ第3章1~10節

2021-09-05 18:48:07 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月5日日大阪東教会主日礼拝説教「命の恵みを受け継ぐ」吉浦玲子 

 「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」とペトロは語っています。ペトロは、前の章で、この世の権威、権力者に従うこと、召使、つまり奴隷に対して主人に従うことを促しています。この世の力ある者に従いなさいと言っているのです。その流れの中で、今日の箇所では、妻にとって、当時は絶対的な権力者であった夫に従うようにと勧めています。 

 ペトロの時代、女性の地位は今と比べものにならないほど低かった、低いというより、人間としてカウントされていなかったと言えます。 今日の聖書箇所を読んで、雇用均等世代である私は、正直、すっきりとは受け取れないところがあります。男女平等が一応は叫ばれていて、家族制度も旧憲法下の家長をいただくあり方とは異なっています。一方的に妻に夫に従えということには同意しかねるのです。しかしここは、先ほど申し上げましたように、当時の社会のあり方を基盤にして語られています。主イエスがイスラエルを植民地としていたローマを倒すレジスタンス運動を起こされなかったように、ペトロも皇帝にたてついたり、奴隷に対して自由を得るために蜂起せよとは語りませんでした。そして妻たちに対しても、男女同権を主張するようには語りませんでした。 

 私たちは今ある社会の中で、その権力の構造の中で、生きていきます。理不尽なこと、納得できないことが多々あります。しかし、主イエスを信じる者は、たしかにこの世界で生きながら、実際のところ、すでに別の世界で生きています。すでにイエス・キリストのゆえに、私たちは天に本籍をいただき、天につながれて生きています。いま私たちが生きている家庭、社会、会社、国家はかりそめのものであると考えます。私たちはこの世に生きながら、すでに別のところ、すなわち神の国の住人です。しかし、だからこそ、今、神によって生かされているこの世においても、私たちは誠実に生きていくことが求められます。 

 逆に言えば、神への誠実は、今現実の目の前にある自分が仕えるべき人や社会や組織への誠実な態度によって現されます。妻たちにペトロは言います。夫がキリストを信じない者であっても夫に従えと。それは前の章で異教徒の間で立派に生活しなさいと言われていることと同じです。私たちのこの世における誠実な態度が、相手を神へと導くことになるというのです。そしてその誠実さというのは真面目さとか、杓子定規な律法的な正しさではなく、神への誠実さそのものに基づくものです。神への誠実のゆえに目の前に人に対しても出来事に対しても誠実にならざるを得ないのです。神に従う者はその日々においても誠実に生きるのです。理不尽な相手に対しても、あまり面白くない仕事であっても、神が与えられたゆえに、誠実に向き合うのです。 

 「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」とペトロは語ります。純真な生活というのは混じりけなく真実に神を畏れる生活ということです。学生の頃、家庭教師のアルバイトをしていた先の家のお母さんが、ある宗教に入っておられました。かなり熱心でした。お子さんと勉強が終わって食事をいただくときも、熱心にお母さんは宗教の話をなさっていました。お手洗いをお借りするとお手洗いにもその宗教のパンフレットが置かれていました。それほど熱心なのに、お父さんやお子さんたちはまったくその宗教に興味をもっておられませんでした。家族同士でも、それぞれの信仰には口を挟まないという感じではありましたが、熱心なお母さんに対して、他の家族はひややかであったともいます。しかし、お母さん自身は熱心に伝道はなさっていたのです。今考えますと、親切で気さくなお母さんで学生だった当時の私にはありがたかったですけれど、トイレにまでパンフレットがぶら下げてあるのは、家族としてはちょっとうんざりだったかもしれません。その信仰はキリスト教ではありませんでしたが、そのお母さんにしてみたら、ご自分では信じている神を畏れる生活をしていたつもりかもしれません。しかし、ペトロがここで勧めている「純真な生活」とはトイレに伝道用のパンフレットをつりさげたりするような熱心さではありません。聞かれてもいないのに、たびたび聖書の話をすることでもありません。日々に、神を畏れる姿勢がその人から見えるということです。家ではほとんどキリスト教や聖書の話はしないけれど、礼拝はきちんと守っている、これみよがしに聖書を開いたり祈ったりはしないけれど、なんとなく日々、御言葉を読み祈っているようだ、そのような感じはおのずと伝わっていくのです。 

 ペトロは「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。」と語ります。ここをさらっと読みますと、良い妻は、派手な格好をせず、柔和でしとやかであれと言われているようです。実際、教会によっては、女性が派手な格好をすることをたしなめるところがあります。赤い口紅をつけていたら先輩の女性に叱られたと聞いたことがあります。実際のところは、服装のあり方は、地域や年代、教会の雰囲気によるところが大きいと思いますが。ただもちろんここでペトロがいいたいのは、礼拝におけるドレスコードの話ではなく、内面が大事だということです。口紅の色や髪型の問題ではなく、女性は内面によって装えというのです。とはいえ、ここで語られる「柔和でしとやか」という言葉は、性別や年代によって受け取り方が異なるかもしれませんが、現代では女性を古い固定概念で縛る言葉と受け取られるかもしれません。特にしとやかと訳されている言葉には違和感を持たれるかもしれません。クリスチャンの妻はしとやかでなければならないのか。しかしこの「しとやか」と新共同訳で訳されている言葉の元となっているギリシャ語は、「静かな霊」(quiet spirit)という意味のギリシャ語です。つまりここは「柔和で静かな霊」を内面的に持てということです。柔和で静かな霊とは、言ってみれば、キリストの霊です。前回もお話ししたように、主イエスは十字架におかかりになるときも、権力者たちに従われました。最後まで柔和で静かなお方でした。「メシアだったらそこから降りて見ろ」と侮辱する人々に対して十字架の上で静かにしておられました。妻たちもそのようであれ、とペトロは語っているのです。キリストを内にもって歩めということです。上品そうに口数少なくしていれば良いということではありません。キリストを内に持ち、キリストに倣って歩むのです。 

 ところで、妻に対して、髪の飾りや服装の言及があるのは、女性が、どうしてもおしゃれにかまけがちだから敢えてペトロは言っているのでしょうか。そういう側面もあるかもしれません。しかしまた同時に、女性は本人の意思に関係なく、どうしても外面を求められる存在であることとも関係すると思います。特に聖書の時代、女性の内面など問題とされていなかったともいえます。夫から見て、満足のできる外面、つまり容姿や服装、態度を求められ、内面的なことは求められなかった存在であったといえます。その女性たちに、内面が大事だと述べているのです。当時、その内面など問題とされなかった女性たちの内面を神は深く顧み、支えてくださっているということです。女性も、一人の人間として神の前に立つのだということが語られています。そしてそれは旧約聖書の時代から変わらぬことなのだと、アブラハムの妻のサラをとりあげて語っているのです。 

 そして最初に申し上げましたように、2章から、ペトロは、当時弱い立場にあった人々へ語っているのですが、これは、現代に生きる私たちすべてに言えることです。夫であれ妻であれ、庶民であれ、権力者であれ、皆、キリストを内に持ち、キリストに倣って歩むのです。 

 そしてまた、夫たちに対してもペトロは語ります。夫たちへの言葉は短いですが、むしろ妻たちに対してより、厳しい言葉が語られます。「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを受け継ぐ者として尊敬しなさい」と語っています。当時、妻に対して絶対的な権力を持っていた夫に対して、妻は弱い存在だとわきまえて一緒に生活をしなさい、尊敬しなさいと語っています。弱い者に対して力で抑え込むなと言うのです。いやむしろ我が家は妻の方が強いというところもあるかもしれませんが、大事なことは「命の恵みを共に受け継ぐ者」だということです。神の前にあって、キリストのゆえに、力が強かろうが弱かろうが、共に命の恵みを受け継ぐ者同士なのだというのです。キリストの十字架のゆえに、罪に死ぬのではなく、命に生きる存在同士とされたのです。これは弱い人だから大事にしましょうという力ある者が上から目線でいうこととは異なるのです。薄っぺらなヒューマニズムで弱い人を助けましょうということとは根本的に異なるのです。キリストの十字架の前に共に立つ者として尊敬をするということです。 

 さらにペトロは語ります。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」権力者も庶民も、主人も奴隷も、夫も妻も、どのような職業の人も、多くの人と共にある人も孤独な人も、愛し合い、憐れみ深く謙虚に生きなさいというのです。これは当たり前の人間のあり方のようです。しかし、実際のところ、キリストなしではなしえないことです。信仰者同士だって気の合わない人はいます。意見が対立する人はいます。まして悪を為す人、侮辱する人に対して、私たちは祝福を祈ることは本来できません。キリストが十字架の上で、ご自分を侮辱する人々のために祈られた。そのことのゆえに私たちは祈ります。いや実際は祈ることは難しいのです。キリストのようには到底祈れません。今日の聖書箇所の最後のところはさらっと読むととても美しい言葉ですけれど、たいへん厳しことが語られているのです。厳しいことですが、悪を為す人、侮辱する人々の祝福を祈るのは我慢して、修行のように祈るのではないのです。私たちがすでに祝福を受け継ぐために召されているから祈るのです。私たちはすでにありあまるほどの神からの恵みをいただいています。さらに神の子として神の財産を相続する者でもあります。その豊かさと希望を与えられているゆえに、他者の祝福を祈るのです。自らの祝福を信じているゆえに他者の祝福を祈ることができるのです。何より私たちはキリストをいただいています。そしてまたキリストのものとされています。すでにキリストという貴い宝を私たちは得ています。その宝ゆえに私たちは他者の祝福を祈ります。 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第2章18~25節

2021-08-29 15:07:59 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月29日日大阪東教会主日礼拝説教「帰ってきたあなたへ」吉浦玲子 

<不当な苦しみを望まれる神?> 

  今日の聖書箇所で語られています召し使いとは、奴隷のことです。ここでいう奴隷と 

は、戦争で捕らえられた捕虜が、家に連れて来られてその家の奴隷として仕えることになった人々を指すようです。当時、ローマ帝国には6000万人くらい奴隷がいたようです。キリスト者の中にも奴隷が多かったと考えられます。ある神学者はペトロの手紙の中でこの部分が一番熱心に読まれたのではないかと語っています。今日の私たちからすると召し使いとか奴隷と言われるとピンとこないのですが、この手紙が書かれたころはむしろ切実に読むキリスト者が多かった部分のようです。ペトロは、その奴隷たちに主人に仕えなさいと説きます。それも上っ面ではなく心からおそれ敬って主人に従いなさいと言うのです。戦争捕虜であったのであれば、奴隷の中には、かつては身分の高かった人、学識のある人もいたでしょう。そういう人々に、場合によって自分より明らかに学識や能力的に劣る主人もあったでしょう。その場合でもその主人に心からおそれ敬って従いなさいというのは厳しい言葉であったと思います。ましてや「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」というのはたいへんな難題だと思います。 

 ところで、現在、私たちは、戦争捕虜でも奴隷でもありません。様々な制約やしがらみの中で生きていますが奴隷ではありません。今日でいうところのブラック企業に勤め、パワハラ上司のもとで酷使されていたとしても、奴隷ではありません。ですから、ペトロが奴隷たちに語った言葉は、現代の私たちには関係がないことのようにも思えます。当時の社会制度の中、奴隷は奴隷として生きるしかなかったのです。良い主人であれ、無慈悲な主人であれ、奴隷は主人に従って生きるしかなかったのです。従わなければひどい目に遭わされたでしょう。いや従ったとしても、不当な苦しみを受けることも実際あったでしょう。その状況で、「心からおそれ敬って」主人に従いなさいと語られているのです。 

 しかし一方で思うのです。私たちは身分としては奴隷ではありませんが、やはりまた、どうしても抗えない、不当な苦しみを受けることがあります。不当な苦しみというのは、因果応報ではない苦しみです。悪事を働いて報いを受け、苦しむのは不当ではありません。しかし、こちらに何の原因もないのに受ける苦しみは不当な苦しみです。あるいは、こちらにまったく非がないわけではないけれど、起こってしまう苦しみというのもあります。できるだけ健康に気を付けようと思っても、つい不摂生をしてしまう、不摂生せざるをえない環境の中に置かれることもあります。そのために病気になってしまうこともあります。自業自得と言われればそうかもしれませんが、世の中には、不摂生をしても元気で長生きする人もいます。もともとの体質や環境など複雑な要因もからみます。そこまでの不摂生はしてないのに、なぜ自分は病気になって、もっと不摂生をしているあの人はなぜぴんぴんしているのか、そう考えていくと、やはりそこには因果応報とはいえない苦しみがあります。苦しみというのは、ある意味、受ける者にとっては、すべて不当な苦しみともいえます。 

<御心に適う苦しみ?> 

 さらにいえば、この世界には人間の罪が満ちています。その罪の世界のゆえに、不当な苦しみは生じるともいえます。私たちは理不尽な社会や組織や人間関係のゆえに苦しみを受けることもあります。私の友人の息子さんが新型コロナ感染症に感染し、現在の医療崩壊の事態の中で医療も受けられない状態です。息子さんは一人暮らしで、現時点では発熱はありますが、重症化はしていないそうです。しかし、一人で自宅で療養する日々はとても不安であろうと思います。未知のウィルスへの対応は想定外のことが多く、簡単なことではありませんが、現在の日本の医療の状況には人災的な側面が大いにあると考えられます。その状況の中で数万人もの人々が苦しんでいます。そこにはもちろん病自体の苦しみもありますが医療を受けられない不安恐怖というものがあります。コロナによってこの世界の罪の現実が明らかにされている側面があります。私たちはまさにそのような世界に生きています。そういうことを考えますと、私たちは今日のペトロの言葉は奴隷でもない私たちにも大いに関係する言葉として聞き取ることができます。 

 しかしまた、自分に関わる言葉として聞く時、その不当な苦しみということについて納得できないところもあります。「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」こうペトロは語ります。神が人間が苦しむことをお望みだなどということはあまり信じたくないことです。そして苦痛を耐えることが御心に適うことというのも解せない気がします。神は人間を愛しておられるのではないか?なのに人間に苦痛を耐えさせ、それが御心に適うというのは、愛なる神のなさることとは思えないとも感じます。 

 そもそも私たちは、ご利益を求めて信仰に入ったわけではありません。キリスト教はご利益信仰ではないということは繰り返し言われることです。しかし、だからといって、苦しむこと、それも不当な苦しみを耐えることが神の御心だと言われるとどうにもやり切れません。私たちはお金持ちになりたいとか長生きしたいと思って主イエスを信じているわけではありませんが、日々に平安や希望を持ちたいと思います。また切実な願いを神に聞いていただきたいとも思います。 

 しかし、聖書を読みますと、不当な苦しみに遭う人々が多く出てきます。代表的な人はヨブ記のヨブでしょう。なんの悪いところもない、正しい人、義人と言われるヨブが、子供を奪われ財産も奪われ、自分自身もひどい病にかかってしまいます。そのヨブの言葉に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というものがあります。主は与えられ、主は奪われる。その主はほめたたえられなければならないというのです。私にとって良いものを与えてくださるから神をほめ、賛美するのではない、私にとって大事なものを奪われたとしても、神はほめたたえられるべきお方なのだとヨブは語るのです。しかし、そう語ったヨブも見舞いに来た友人たちと口論になり、その議論の流れの中で、ついに神に叫びます。自分には非はないのに自分は不当な目に遭っていると叫ぶのです。ヨブ記の最後のところで、神と出会ったヨブは神のなさることの意味を人間には悟ることができないことを理解します。しかしそこには因果応報的な明確な答えはありません。そういう意味でヨブ記は難解な書物といえます。 

 しかし実際、人間には自分がいま遭っている不当な苦しみの理由を知ることはできません。しかし、その苦しみが起こることをゆるされているのは神であり、その神に対して人間は叫び怒りを発することができるのです。逆に言えば、だから苦しみを耐えることができるのです。苦しみの理由は自分から考えると不当で不条理であっても、それは神がゆるされたことなのです。神の手のうちにある苦しみなのです。私たちは苦しみの中にあっても一人ではありません。神の手の内、神のまなざしの内にあるのです。 

 何より、もっとも不当な苦しみをお受けになったのは主イエスでした。主イエスは「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のに、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とペトロが語るように、不当な苦しみを耐え忍ぶということにおいて、模範となられました。 

<すでに癒されている> 

 しかしそのイエス・キリストの苦しみはただ私たちの模範であるだけではありません。キリストの苦しみのゆえに私たちは救われました。私たちは身分の上で奴隷ではありませんでしたが、罪の奴隷でした。罪の泥沼の中にいて、そこから自分の力では抜け出すことができませんでした。罪は振り払っても振り払っても私たちに絡みついてきました。しかし、その罪を十字架において主イエスは担ってくださり、私たちは罪に対して死にました。そして新しく義によって生きるようになりました。キリストのお苦しみのゆえに。 

 私たちは飼い主のない羊のようにさまよっていました。そもそも羊は単独では生きられないものです。目も悪いと言います。飼い主のない羊、はぐれた羊は、道に迷い死ぬしかないのです。そのような羊のようであった私たちはいま飼い主、良い牧者のもとに庇護されています。自分の罪ゆえ、牧者の声を聞きとることができずに迷う出でていた私たちは戻ってきました。そして今や安心してキリストのもとに憩っています。迷い出ていた時、茨や荒れ野で傷めた傷も癒していただいています。私たちは既にもっとも苦しい苦しみからは癒されているのです。 

 そして「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」とあるように、すでに良き監督者のもとに私たちは置かれているのですから、この罪の世において与えられる苦しみにも耐えられるのです。いや実際は耐え難く、弱音を吐くことはあるかもしれません。ヨブのように神に叫ぶかもしれません。神への信頼が揺らぐときもあるかもしれません。しかしなおそこでキリストと出会います。私たちは苦しみの中でキリストと出会うのです。幸せな時、喜びの時もキリストと出会いますが、苦しみの時こそ、私たちはキリストと出会います。キリストの十字架を見上げるのです。皆さんも、これまでを振り返る時、たしかにそうではなかったでしょうか。 

 「ベン・ハー」という1959年に封切られた古い映画があります。主人公のユダヤ人のベンは、もともとは幼馴染であったローマの司令官に疎まれ、無実であるにもかかわらず罪を負わされ、奴隷の身分に落とされます。家族も捕らえられ、地下牢に入れられます。まさに奴隷として不正な苦しみを受けるのです。ベンは移送されますが、長い道のりを歩ませられるときも、司令官の差し金で、他の囚人たちは水を飲むことがゆるされているのに、ベンだけは水すら与えられません。激しい渇きの中で、ついにベンは意識を失って倒れたます。その時、何者かが、ベンを助け起こし水を飲ませます。ローマ兵はそれを制止しようとしますが、ベンに水を飲ませている人物を見て、なぜか引き下がります。その人物の姿ははっきりとは描かれていませんが、キリストでした。 

 詩編37編24節に「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」という言葉があります。まさに倒れたベンの手をとらえてくださった方がありました。私たちはもちろん、いつも元気で自分の足で歩けたら良いと思います。力強く人生を歩みたいと思います。しかしなお、この罪の世にあって、私たちは苦しみを受けることがあります。そして倒れることもあります。しかしなお、私たちはすでに魂の牧者、監督者のもとにあります。倒れても打ち捨てられるのではないのです。かならず私たちの手をとっていてくださる方があります。 

 私たちの信頼と平安はそこにこそあります。自分たちの望みがかなえられ、順風満帆な人生を送るために神があるならば、自分たちの思い通りの人生を歩めなければ神などはいないということになります。そして苦しみの中で、虚無的に生きていくことになります。しかし、どのようなときでも打ち捨てられることなく、手を取っていただける方がおられます。だから私たちはこの罪に満ちた世界を平安に生きていくことができます。苦しみの中にあって、なお、希望を持つことができます。むしろ苦しみのなかでキリストと出会い、キリストの十字架の恵みを覚え、神への信頼を増し加えていただきます。 

 


ペトロの手紙Ⅰ第2章11~17節

2021-08-22 16:53:58 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月22日日大阪東教会主日礼拝説教「神を畏れ人を敬う 」吉浦玲子 

<漂流しているのか> 

 ちょうど一年前になるのですが、天満橋の大川に浮かんでいるラバーダックというものを見に行きました。ラバーダックというのは、巨大なアヒルの模型です。高さ9.5m、幅9.5mで、ちょっとした船よりも大きく、大きさ的にはかなり威圧感があるのですが、見た目は、子供がお風呂に浮かべるようなかわいい黄色のアヒルのおもちゃなのです。そのかわいい黄色のアヒルのおもちゃが巨大化して川にぷかぷか浮かんでいて、ある種、シュールな感じもあります。オランダのアーティストが作成して、ヨーロッパ、アジア、アメリカなど各国の川に浮かべて展示されてきたものです。それが、一年前、大阪の天満橋付近の川にも一カ月ほど浮かんでいたのです。その表題が「漂えど沈まず」でした。コロナを始め、いろいろなことで分断されている世界に、そのなんとも脱力するような黄色いアヒルが漂流している、漂っているけれど、けっして沈まない、というある種の強いメッセージがそこにはありました。とはいえ、かわいいアヒルの、巨大なものがぷかぷか川に浮かんでいる、そのシュールな風景を見て何とも言えない気持ちになりました。「漂えど沈まず」という言葉に、いろいろと考えさせられました。 

 一年たって、今日の聖書箇所を読んで、ふとまた考えました。聖書では、人間は寄留者であると語っています。エジプトを旅立って荒れ野を旅した民のように、私たちもこの世にあって旅人であるというのです。ペトロもまた、キリスト者は旅人であり、仮住まいの身だと語っています。旅人だから、旅人として通り過ぎて行く場所のことはどうでもいいのでしょうか?「旅の恥はかきすて」などという言葉もあります。旅はひとときのことであって、通り過ぎて行くその土地での生活は適当でよいのでしょうか。もちろん、聖書はそう語っていません。この世でしっかり生きなさいと語っているのです。 

 旧約時代の預言者エレミヤは、国が滅び、1000キロ以上離れたバビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、そのバビロンの地で、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように」と手紙を送っています。捕囚の民にはやがてイスラエルに戻る、そう神の約束が与えられていることをエレミヤは知っていました。しかし、バビロンにいる間はその土地でしっかりと生きなさいと語っています。もちろんバビロン捕囚は最初の捕囚から解放まで60年ほどで、ある程度分別がついた人間のほぼ一生が費やされるような時間です。数日の旅行とか、数年の滞在ではありませんので、家を建てて果樹を植えて、ということは当たり前かもしれません。 

 しかし、バビロン捕囚の民も数十年間その土地にいましたが、その土地ではない土地を故郷として、あるいは目的地として持っていた点において、寄留者であり旅人でした。神を信じて生きる私たちも同じです。旅人ではあっても仮住まいであっても、その土地でしっかり生きていくのです。ラバーダックの言うように漂流しているわけではないのです。もちろん神は思わぬところに人を導かれることはあります。行きたくないところに行かされることもあります。しかし、それでも波任せの漂流ではないのです。私たちはそこに神の御心を受けて生きていくのです。神の意志を感じながら生きていくのです。だから漂流ではないのです。揺れ動いているようで、ままならないことも多々ありながら、漂流ではないのです。しかし、もちろん、その日々は神の御手の中で沈むことはありません。 

<立派とは> 

 その旅人である私たちはどのように生きなさいとペトロは語っているのでしょうか?「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい」と言っています。さらっと読むと、禁欲的に聖人君子のように生きなさいと言われているようです。しかし、12節には立派に生きるキリスト者を見た異教徒たちは「訪れの日に神をあがめるようになります」というのです。ただ堅苦しく清らかに生きている人々を見て、キリスト者でない人々が聖書の神をあがめるようになるでしょうか。ここで言われる肉の欲とは神から私たちを遠ざけ罪へとひきずるものです。まさに魂に戦いを挑んでくるものです。魂に戦いを挑んでくるというと壮絶なイメージがありますが、私たちを神から遠ざけるものは肉の欲であると言えます。よくスマホ依存症とか言われますが、本来為すべきことを放ってスマホをいじる、時間を費やしている、そういうことも肉の欲に支配されているといえます。そして立派さとは神を第一に生きるということです。ペトロが手紙を送った地域は異教のあふれるところした。さまざまな宗教、そして偶像があったと思われます。そしてまた、異教にまつわる性的な不品行もあったと思われます。しかし、そういうことに惑わされず、ただお一人の神、聖書の神だけを心からあがめて生きていくのです。ことさらにそれを誇示する必要はありませんが、淡々と神を第一にして生きていく、その姿から何かを感じた人々は、自分たちと同化しないあり方に当初は怒りのような、嫌な印象を持っていても、訪れの日には神をあがめるようになると語ります。訪れの日とは、キリストの再臨の時ともいえますし、それぞれの人々にキリストが訪れてくださる日ともとれます。まことの神を知らなかった人々へもキリストが訪れてくださる、そのときまさにキリスト者のあり方が正しかったことを知って、神をあがめるようになるというのです。 

<この世の権威に従う> 

 そしてもう一つペトロが旅人として生きながら、守るべきこととして、「人間の立てた制度に従いなさい」と語ります。私たちは神をただ一つの規範、正義として生きながら、人間の立てた制度に従って生きていきます。今日の社会において、この世の制度に従って生きることは、おおむねそれほど困難ではありません。人権や信教の自由が一応は守られているからです。しかし、ペトロの手紙が書かれた時代は異なります。ローマ帝国によって植民地は搾取されていました。今のような人権の概念もありませんでした。そしてまたこの時代の皇帝は自分を神として敬うことを人々に求めました。そのような社会の中で、何より、クリスチャンはひどい迫害に晒されていました。そのような中で、ローマ皇帝や総督や現行の制度に従えと言うのは厳しいことのように思われます。総督といえば、主イエスの十字架刑を決定したのは当時のローマ総督ポンテオ・ピラトでした。そのことをペトロは目の当たりにしていたにもかかわらず、総督に従えというのです。主イエスが従われたからです。主イエスは総督の決定を受け入れ十字架にかかられました。それが父なる神の御心だと信じ、主イエスは十字架にかかられました。ですからペトロは皇帝にも総督にも従えと語っているのです。 

 そもそも、そのような皇帝でも総督でも制度でも、神にゆるされてこの世界にあるのだと聖書は語ります。そしてまた日本のようにキリスト教国ではない社会においても、なお権力者や社会の制度は神の支配の中にあるのだといえるのです。たとえば、先ほど語りましたエレミヤの時代、イスラエルを滅ぼした異教の国バビロンのネブカドネツァルも、イスラエルへの裁きのために神に立てられたと考えられるのです。 

 同時にまたこのことは難しい判断を迫られるものでもあります。この世界には、たしかに人間をさいなむ人為的な力が存在します。富の不公平な配分、弱者の切り捨て、不条理なことが多くあります。人間の命に関わる重要なことがあります。その中には、人間の力によって変えることができると考えられることもあります。人間が変えることができるものを変えてはいけないと神は語っておられるのでしょうか。現行の権力、権威にやみくもに従えと語っておるのでしょうか。これはとても難しい問題だと思います。ヒトラーのようなホロコーストを行う独裁者にも従うべきなのでしょうか。いま、8月ですが、かつてこの国が太平洋戦争に突き進んだ、そのような時代の権力にも従うべきなのでしょうか。旅人なのだから仮住まいなのだから、そのようなことはどうでもいいと通り過ぎるべきでしょうか。 

 あまり適切な例ではないかもしれませんが、あるクリスチャンの作家が書いた文章を読んで愕然としたことがあります。その方は、聖書は一家の主は夫である、妻は夫に従うべきであると書いていると語ります。男女平等のあり方からはいろいろな考えがありますが、聖書には確かにそう読めるように書かれています。そしてさらにその作家は語るのです。ろくでなしの夫であっても妻は夫に従うべきで、たとえば、夫が万引きをするから妻に店に人に見つからないように見張っておけと命令したとしても妻は夫に従えというのです。ここで言われる夫と、ペトロが語る制度や権威は異なるものかも知れませんし、夫婦のあり方として妻の一方的な服従が聖書において求められているとは考えられませんが、どう考えても、万引きの助けをしろというのはおかしなことです。この世において、権力によって、悪を為すことを強要された場合、私たちは、はいと従うのかという問題はあります。万引きする夫を助けることも、悪を為す権威に従うこともやはりおかしなことでしょう。 

 ところで、有名な「ニーバーの祈り」というものがあります。ご存知の方もあるかと思います。この祈りの出だしの部分はことに有名で、宇多田ヒカルの歌の歌詞にも取り入れられていて耳にしたことのある人もいるかと思います。こういうものです。「神よ、変えることのできないものを平静に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する知恵を与えてください。」 

 ここで注意すべきことは、変えることができる、変えることができないというのは、人間側の力や希望、意思によって決まることではないということです。私の手には負えないから受け入れましょう、自分で変えることができそうだから変えましょうということではありません。神が変えることを望んでおられるかどうかということを問う必要があります。私たちはこの世の権威、制度に従って生きていきます。しかし、それ以上に神に従うのです。神に従うとき、変革することを神が示されているなら、私たちは私たちに力のあるなしに関わらず、神に依り頼みつつ変える努力をする必要があります。 

<自由に生きる> 

 しかし何より大事なことは、私たちは神の僕として神に従って生きていくこと以外においては自由な者であるということです。ペトロの時代、身分的には奴隷もありました。聖書の中には実際、奴隷も出てきます。しかし、神の前で、この世の身分はどうであれ、奴隷ではなく、自由人なのだとペトロは語ります。私たちは自由な者として、この世の権威に従うのです。無理やり従うのではなく、自由な選択の内に従うのです。私たちには従うことも、従わないことも選択することができます。しかし、その選択の自由の中で、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とペトロは語ります。私たちは自由というとき、奔放に傾きがちです。自由を、「悪事を覆い隠すことに用いるのではなく」とペトロは語ります。私たちは自分が正義を為しているつもりで、時には悪い権威を懲らしめているつもりで、実際のところは自分の欲を満足させている場合もあります。そしてその罪を隠すために自由を用いたりします。しかし、そうではない。私たちは私たちに与えられた自由を、なにより神のために用いねばなりません。神を讃え、神に従い生きています。そしてまた神が今ゆるされているこの世の権威、制度に従います。しかしまた自由であるということは、縛られないということでもあります。現行の制度、権威を最上のものとは考えないということでもあります。私たちが旅人としてひとときこの世にあるように、この世のさまざまなこともひとときのことです。絶対のものではありません。そのひとときのことに固執しないで生きます。固執しないからと言ってラバーダックのようにひょうひょうと漂うのではないのです。この世の権威、制度にしっかりと向き合いながら、神から知恵をいただきながら歩むのです。変わらぬものはただひとつ神の言葉だけです。神を第一にして、神に従うとき、私たちは私たちの自由の用い方を知らされます。主イエスも十字架におかかりなる最後まで自由でした。ペトロもパウロも最後は処刑されましたが、牢の中にあっても自由でした。肉体は拘束されても、誰よりも自由に生きました。私たちの先人である戦中の大阪東教会の霜越牧師も逮捕され収監されましたが、その牢の中で自由でした。私たちはこの世の権威や制度に向き合うためのまことの知恵と力が与えられます。ただお一人なる神、その神の国、全き正義の国に入るその時まで、この世界にあって自由に神を讃え、神に導かれながらこの世界に地に足をつけて歩んでいきます。 

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第2章6~10節

2021-08-15 16:57:27 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月15日日大阪東教会主日礼拝説教「かけがえのないもの」吉浦玲子 

<石> 

 西日本を中心に全国的に大変な量の雨が降り続いています。とんでもない積算降水量で、関西を含め、今後も、災害の危険性が高く、予断を許しません。私の出身地は昨日、特別警報の対象地域になっていました。実際、子供のころ、水害にあった記憶があります。もともと雨は多かった地域ですが、ここ数年の豪雨は子供のころの水害とはまた全然スケールが違うと感じます。地球全体の環境の変化のせいなのか、雨が降り続くと、昔には感じなかったような不安を感じます。それに加えて、終息の気配が見えない新型コロナ感染症もガンマ株が猛威を振るっているというニュースもあれば、ラムダ株が国内で発見されたというニュースもあり、不安が募ります。不安が募りますが、しかしなお、私たちは神に期待をします。キリスト教2000年の歴史の中で、むしろ危機的な状況のなかで、信仰者は神に期待をしてきました。ローマ帝国が崩壊する末期に生きたアウグスティヌスも、ペストの危機の中に生きたルターも、神への期待に生きました。そしてその期待が裏切られることのないことを伝えて来ました、今、御一緒に読んでいますペトロの手紙もまた、クリスチャンの少ない、どちらかというと小さな貧しい地方に住み、迫害に晒されていた少数者だったクリスチャンに送られたものです。現実的には明日の不安に怯えながら生きていた人々に希望と励ましの言葉をペトロは語ったのです。 

 実際、聖書は希望を語ります。ですから繰り返し説教でも希望を語ります。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」これは旧約聖書のイザヤ書から引用された言葉です。私たちは、現実の社会の中で多くの失望を経験します。小さな子供ですら失望を経験します。家族や会社や友人や社会に失望し、自分自身にも失望します。しかし、聖書は語るのです。「シオンに置かれたかなめ石を信じる者はけっして失望しない」と。シオンはもともとはエルサレムにある丘の名前ですが、エルサレム自体を指す言葉して使われます。そのシオンに、貴いかなめ石を置くというのです。ここで言われているかなめ石と7節に出て来る隅の親石は、建築用語的には、異なるものですが、いずれにしても建築物の重要な石といえます。それはキリストご自身を指します。竹森満佐一牧師の語られていることのなかに出て来たのですが、ある神学者が、キリストを例える例が聖書には96出て来るそうです。主イエスご自身が、私は真理である、とか、命のパンであるとおっしゃっているわけで、そのほかにも道や羊飼いという言葉もあるわけですが、ここでは石に例えられています。しかもこの石は7節によると捨てられた石だと言うのです。7節は詩編118編から引用されていますが、「家を建てる者」が捨てた石だというのです。この世の家を建てるには不要な石として捨てられたのがキリストなのだと語るのです。 

 石と言えば、ここ数カ月、庭の手入れのご奉仕を多くの方がしてくださっています。ドクダミなどの雑草の勢いがたいへんで、抜いても抜いても、かなり根の深いところから開墾しても生えてくるそうです。そのような雑草の対応と合わせて、多くの瓦礫がでてくるのもたいへんなことのようです。何回かお話ししたことですが、1945年3月の大阪空襲で旧会堂は全壊しました。おそらくその時焼け落ちた会堂のものと思われる瓦礫が今でも掘っても掘っても出てきます。 

 神の建てられた会堂が破壊され、瓦礫になりました。先人の献身の証しである建物が跡形もなくなくなりました。残ったのは焼け焦げて崩れた石、まさに捨てるしかない石になりました。その焼け焦げた瓦礫を見る時、まさに捨てられた石であるキリストを思います。神の教会を破壊する人間は、キリストをもこのように捨てたのだと思います。アメリカが悪いとか、日本が悪いということではなく、すべての人間はキリストを捨てたのです。しかし神はそのキリストを捨てられたままにはなさいませんでした。復活させられたのです。復活を信じる者は、その捨てられた石が隅の親石となったとことを知っています。 

<本当の希望> 

 この尊いかなめ石であるキリスト、家を建てる者が捨てた隅の親石を信じる者は失望することはないとペトロは語るのです。パウロもローマの信徒への手紙で「希望は欺くことがない(5:5)」と語ります。ローマ書のここは口語訳聖書では「希望は失望で終わらない」と訳されていたところです。「なぜならわたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と続きます。私たちは自分たちに注がれている神の愛を聖霊によって知らされる。だから希望は私たちを欺くことがないのです。失望で終わらないのです。 

 さきほど、空襲の話をしましたが、今日は76年前、天皇によるいわゆる玉音放送、つまり終戦の詔勅(しょうちょく)を天皇が国民に発表した日です。戦後の高度経済成長期に生まれ育った私には、戦争というのは子供のころから遠い昔のことのように思っていたのですが、今、考えますと、私が生まれたのは戦後20年もたっていない時でした。若い方はそうではないかもしれませんが、ある程度長く生きた人間には、20年と言う歳月は、もちろんけっして短くはありませんが、人生全体から考えると、とてつもなく長くはないとも言えます。つまり、それほど長い歳月を経ず、少なくとも子供の目には、戦争の傷跡は見えないくらいには日本は復興していたと言えます。高度経済成長期は、去年より今年、今年より来年と物質的に豊かになっていっていた実感がありました。当時、田舎のまずしい家庭でしたが、それでも、家の中に、少しずつ電化製品が増えていったことを覚えています。戦後25年目の1970年に開催された大阪万博には、当時、大阪に叔父がいた関係で、九州から大阪に来た記憶があります。太陽の塔が希望の象徴のように建っているのを見上げた記憶があります。それから半世紀が過ぎ、バブルがはじけ、多くの自然災害に見舞われ、長い沈滞した状況から抜け出せない日本の地に今も太陽の塔は建っています。その太陽の塔は、先週まではコロナによる非常事態宣言の告知のために赤くライトアップされていたようです。希望の象徴のはずであった太陽の塔が、50年後、感染症の拡大を警告するために不気味にライトアップされている、76年前、焼け野原であった日本は、たいへんなスピードで復興しました。しかし、21世紀の今日、感染症や自然災害に怯え、現実に明日の生活もままならない人々が多くある世界です。その現実だけを見る時、私たちは希望を見ることはできません。もちろん貧しさゆえの悲劇はありますから、物質的に豊かになっていくことも、大事なことです。しかし、モノやお金だけではない、そのことを日本において私たちはずいぶん前から心の底で気づきながら、ではほんとうの幸せや希望とは何かということがぼんやりとしているのです。でも聖書は語るのです。本当の希望を。希望はキリスト以外にはないということを。 

<恥を受けない> 

 しかしこういうことを言っても、結局宗教に頼るのかと、世の人々は言うかもしれません。宗教に頼るのは弱い人間のすることだと。実は6節の「失望で終わらない」という言葉は「恥をかかない」「面目を失わない」というニュアンスを持つ言葉でもあります。文語訳聖書では「辱められじ」と訳されているところです。私たちは普段の生活の中で不安を持つかもしれません。こんなことをして人からどう思われるのかと。特に日本の社会では世間体を気にする傾向があります。同調圧力があります。さらに宗教に関しても寛容なようで、実は厳しい側面を持っています。その社会の中で、宗教に頼るなんて恥ずかしいことだと人は考えているのではないかとか思うかもしれません。しかし聖書は、キリストという石を信じる時、私たちは恥をかくことはないのだというのです。 

 しかし、実際のところ、キリストは恥をかかれました。身ぐるみはがされ、十字架にかけられ、人々の嘲笑の的になられたのです。神であるお方が人間から恥ずかしい存在として面目を失われました。家を建てる者にとって役に立たない恥ずかしい石として捨てられました。現実社会の中で人間のニーズにはそぐわないものとして捨てられたのです。主イエスの時代で言えば、ローマ帝国を倒し、イスラエルの困窮を救うためには役に立たないとして捨てられたのです。主イエスは信じる者にはかけがえのない者が、「つまずきの石/妨げの石」だったのです。 

 今、私たちは聖霊によって、キリストという石が尊い石であることを知っています。恥ずかしいどころか、本当に人間を生かす石であることを知っています。信徒のころから、私は死に近いクリスチャンを何人も身近で見てきました。肉体の死ということを前にしても、キリストという石は、その人を揺るがせることのない、希望を失わせることのない石であることを繰り返し覚えさせられてきました。それは死を恐れない堂々たる姿というわけではなく、むしろ苦しみの中でも神に委ね切った姿でした。そこに根本的な平安がありました。 

 しかしまた、この世を生きる時、私たちは、現実ではいろいろなものにつまずきます。教会の中でもつまずきます。教会の人間関係、牧師にもつまずきます。人間である以上、ある意味、つまずきは避けられないことです。神をしっかり見上げていればつまずかない、神に信頼しなさい、人間を見ず神を見ろ、そういうことは分かっていても、人間はつまずきます。つまずいて、そして結果的に恥を受けるのです。 

 ペトロ自身、つまずきました。いくたびもつまずきました。主イエスを信じきれなくてつまずいたのです。復活のキリストと出会ったのちですら、福音を信じきれずつまずくことがありました。「つまずきの石」という言葉は、引用しているペトロ自身が胸に堪える言葉であったでしょう。 

 しかしつまずく都度、ペトロは聞いたのです。神の言葉を聞きました。「あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。」 

 私たちはすでに神の民とされているのです。私たちがつまずいたときも、神ご自身が憐れんでくださり、「わたしの民」「わたしの子よ」呼んでくださるのです。その声を聞きとめるのです。そして神の手に自らをゆだねて、新しく立ち上がります。私たちはつまずきますが、神によって、立ち上がらせていただく者です。尊い石があります。私たちがよろめいても、変わることなく、私たちを支えてくださる石があります。その石に支えられて私たちは立ちます。「わたしの民よ」「わたしの子よ」という言葉を、繰り返し、聞きます。