大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録 2章1~13節

2017-07-14 13:04:44 | 使徒言行録

2017年6月4日 ペンテコステ礼拝 説教「みことばがあなたの近くに」 吉浦玲子牧師

<神の出来事としての教会の誕生>

 御子イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマス、復活を祝うイースターとならび、キリスト教の三大祝祭のひとつであるペンテコステを迎えました。

 ペンテコステは聖霊の降臨を祝います。その聖霊の降臨のときの様子が今日お読みした聖書箇所に記されています。聖霊に降臨の10日前、主イエス・キリストは天に昇られました。そののちキリストは地上には不在でした。そのキリスト不在の9日間を弟子たちは、どのように過ごしていたのでしょうか。かつてキリストが十字架におかかりになり死なれたのちのように怯えて過ごしていたのでしょうか。そうではないようです。彼らはその期間、祈りつつ待っていたのです。主イエスが約束された聖霊が与えられる日を待っていました。彼らはふたたび自分たちの前から主イエスがおられなくなった、そのことにまったく不安や恐れがなかったといえばそうではなかったかもしれません。しかし、彼らは心を合わせて熱心に祈っていたのです。今日の聖書箇所の前の部分を読みますと、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた(1:14)」とあります。また、主イエスを裏切って自殺したイスカリオテのユダの代わりの使徒を選出しています。彼らは、祈りつつ、いまできることをやりながら、来るべき日を待っていたのです。

 その祈りつつ待っていた共同体に聖霊が降りました。今日の聖書箇所には、そのときの激烈な、そしてまた神秘的な様が描かれています。突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたとあります。

 私たちは聖霊というと、霊という言葉がありますから、なにかふわふわした捉えどころのないもののように感じてしまいます。しかし、聖霊は、神です。父なる神、子なる神と並ぶ、神です。その神がおくだりになる、そのときに家中に響くようなものすごい音がしたというのはある意味当然なのです。かつて出エジプトの民のまえで神が顕現する時、シナイ山ははげしく山全体が震えた、そして雷鳴を持って神は答えられたと出エジプト記にはあります。そういうことを考えますと、神である聖霊が降られる時、激烈なことが起こるのは不思議でもなんでもありません。

 そしてまた、<その激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ>とありますが、この天とは、単に上の方、空と言うことではありません。神の支配されている所、つまり人間の世界の外から来たということです。そしてある先生はこの箇所の「風が吹いて来るような」の<来るような>というところが重要なのだとおっしゃっています。つまり、風が吹いてきたわけではない、風が吹いて来る<ような>としか表現できない、人間の捉えることのできない現象が起こったのだということです。人間の理解を越えた出来事、つまり神の出来事が起こったということです。

 ペンテコステは教会の誕生日だと言われます。2000年前のこのとき、神の出来事が起こり、教会が建てられたのです。さきほど、ペンテコステの前に新たな使徒を弟子たちは選出したとありました。しかし、使徒が12人そろったそのときが教会の誕生ではありませんでした。天から風の吹いて来るような激しい音がした、その神の出来事によって、教会は誕生したのだと聖書は語っています。ある神学者は教会はこの世界のどのような組織とも社会とも異なると語っています。神が建てられたのですからそれは当然です。見た目の組織や制度はこの世の組織のように見えることはあります。また人間の集まりとしてそこに人間的なさまざまな思惑や意見もあるでしょう。しかし、教会は神によって建てられ聖霊によって導かれている、それはペンテコステの日から変わらぬことなのです。

<言葉の回復>

 その神なる聖霊がくだったとき、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した出したとあります。たいへん不思議なことが起こりました。120名ほどの人々がそれぞれに語りだした。異様な光景です。しかし、ここで何か熱狂的な陶酔状態が起こったわけではありません。今日お読みした最後のところでは、その光景を見て「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」という人もあったことが記されています。実際、異様な光景ではあったのでしょう。が、それは単なる陶酔状態や酩酊状態ではなく、あくまでも言葉を語り出したのです。それも神の福音をそれぞれに外国の言葉で語り出したのです。その言語を知っている人には、明確に聞き取れる言葉として語られたのです。

 この出来事は、最初にお読みしました創世記のなかのバベルの塔の出来事と関連していることを御存じの方もおられるかと思います。ノアの箱舟で有名なノアののちの時代、人間は思い上がって、その傲慢の象徴と言うべき高いバベルの塔を造ろうとしました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言ったとあります。天まで届く、というのはまさに神への挑戦です。神の領域を犯そうとする思い上がりがあったということです。そして自分自身が有名になる、それは神を第一にするのではなく、自分が第一になろうとすることです。その人間の愚かさを見て、神は人間の言葉を混乱させられました。それまで同じ言葉をしゃべっていた人々の言葉を互いに聞き取れない言葉にされました。そして人間が集まって、一緒になって愚かなことをなすことを止められました。バベルというのは混乱という意味です。バベルの塔以来、人間の言葉は混乱していたのです。人間の自己中心的な心により、言葉が混乱したのです。神が混乱させられたのです。

 しかし、ペンテコステの日、言葉の混乱が取り去られたのです。ひとりひとりが自分の国の言葉ではなく外国の言葉を話しだしたのです。もちろんペンテコステのまえにも、違う言語を話す同士の人間も、外国語の習得は行っていたでしょう。また通訳なり翻訳を通して意思の疎通を図ることはできていました。実際、この当時、ローマと言う強大な帝国があり、その帝国は、力によってさまざまな言語をもつ多くの民族を支配していたのです。ローマの意思はローマの標準語を話す人々以外にも伝えられたのです。

 しかし、ペンテコステの日に伝えられたことは、神の言葉でした。

 愛の言葉でした。その愛は単に優しい言葉とか、困った人を慰める言葉とか、社会的に差別されている人を解放する言葉といったようなヒューマニズムの言葉ではありませんでした。その言葉は神の救いの言葉でした。人間の愚かさ、罪から救う言葉でした。罪によって切り離されていた神と人間の関係を回復させる言葉でした。十字架と復活の言葉でした。人間のすべての苦しみの根源にある罪から救われるための言葉でした。天まで届くバベルの塔を造ろうとし、たえず神に成り替わろうとする人間の心には平安がありませんでした。たえず<もっと高く><もっと強く>と際限なく駆り立てられ、疲れていく病んでいくような人間を安らかにする慰めの言葉でした。

<聖霊の働き>

 ペンテコステの日、今日の聖書箇所ののちの場面となりますが、ペトロの大説教が行われ3000人の人が洗礼を受けたとあります。これは神の業が言葉によって伝わったということです。確かにそれは人間の言葉によって語られたのです。神がテレパシーや超常現象を使って人間に伝えられたのではありません。ペトロ自身の言葉として伝えられました。神は人間を用いられ、そしてその言葉は聞いていた人々に通じたのです。それはペトロの説教が巧みだったからではありません。まさにペトロに聖霊が与えられていたので、その語る言葉が命の言葉として人々に伝わったのです。実際、ペトロは、ある意味、とんでもないことを語っているのです。人々の罪をはっきりと語ったのです。普通なら、聞いている人々は怒り狂いペトロや弟子たちは酷い目に遭っても仕方のないことを語ったのです。「ですからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」とペトロは語っています。イスラエルは十字架にイエスをつけて殺した、つまり「あなたがたは殺人者だ、罪人だ」と言っているのです。この場には出身地はさまざまであっても、ユダヤ教徒もしくはユダヤ教への改宗者がいたと思われます。つまりまさにイスラエルに連なる人々がいたのです。そのイスラエルの罪をはっきりとペトロは語りました。それに対して、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれた」とあります。聖霊によって自らの罪を悟り人々は悔い改めたのです。その人々が3000人洗礼を受けたのです。

 この聖霊はいまも私たちに働いています。その働き方はさまざまです。最初のペンテコステの時のように、時として激しく聖霊が働かれる時もあります。しかし、多くの場合は、そうではありません。むしろ私には聖霊の力は及んでいるのだろうか?と思うこともあるくらい感じにくいかもしれません。しかし、教会に導かれている、ここにおられるすべての方に聖霊の力は及んでいます。聖書を読み、御言葉に心打たれる時、聖霊は働いています。

 熱狂主義と混同されては困るのですが、聖霊が働く時、涙がこぼれる時もあります。悲しいわけでもなく、映画や小説を読んで感動するのとは違う不思議な思いに囚われて涙がこぼれる時があります。いつものように普通に祈りながら涙がこぼれるときがあります。あるいは、ふとした人の言葉に神の御旨を感じ打たれてふるえるようなこともあります。

 そしてさらにキリストを主と信じ洗礼を受けるとき、なお聖霊は私たちの内側に与えられます。今日の聖書箇所の3節に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまった、とあります。<大きな>炎のような舌が、皆の上にとどまったのではなく、<分かれ分かれ>に現れ、ひとりひとりのうえにとどまったのです。これは、聖霊が十把一絡げにあたえられるのではなく、一人一人に個別に与えられるということです。そして、その聖霊を与えられた一人一人が言葉を語り出したのです。

<神の良き道具として>

 ギリシャ語の原語では、3節の「舌」という言葉と、4節の他の国々の言葉とある、「言葉」は、同じ単語になります。「舌」というギリシャ語には「言葉」という意味もあるのです。つまり舌が分かれ分かれに現れた時、それぞれの人に言葉が与えられたのです。人とつながる言葉を与えられたのです。宣教の言葉を与えられたのです。だからといって、皆が皆、講壇の上に立って説教をする役に召されているわけではないでしょう。毎日、だれかに神様のことを話ししなさい、自分の信仰を証する機会を持ちなさいということでもないでしょう。しかし、なお、私たち一人一人は、それぞれの場でそれぞれのあり方で、宣教をする言葉を与えられているのです。それは私たちの力で行うことではありません。聖霊に満たされた私たちのうちで聖霊が働いてくださり、私たちを用いてくださるのです。

 言ってみれば私たちは神の良き道具として用いていただけるのです。道具と言われると、何か主体性がなくてつまらないように感じられるかも知れません。しかし、本当に聖霊に満たされて用いられる時、本当の意味で、私たち一人一人の個性、神からの賜物が生かされるのです。そして用いられた時、私たちも喜びに満たされるのです。

 聖霊について、ある神学の先生はこうおっしゃっていました。父なる神、天地創造の神はあまりにも大きな存在で、人間には理解することができない、だから人間の姿をとってへりくだってこの世界に来られ人間に理解できる言葉を語られたのが子なる神、イエス・キリストである、そしてさらに、その神が小さくへりくだり、とうとう私たちのうちに存在してくださるようになった、それが聖霊なる神である、と。

 小さく小さく私たちのうちにいてくださる神、聖霊ですが、聖書には「聖霊に満たされ」とあります。前にも言いましたが、満たされというと、気体か液体のように、充満しているイメージがあります。しかし、最初に言いましたように聖霊は神なのです。その神である聖霊に満たされるとはどういうことでしょうか。それは聖霊なる神に人間が委ねた状態であるといえます。存分に聖霊が働いてくださっている状態と言えます。聖霊はペンテコステの時以来、そしてまた洗礼を受けた時以来、確かに私たちのうちに働かれますが、私たちの勝手な思いで、聖霊の働きを邪魔するようなこともあります。しかし私たちが心素直に聖霊なる神に委ねる時、聖霊は私たちのうちで大きく働いてくださいます。聖霊が私たちを存分に用いてくださいます。愛の言葉を語る者としてくださいます。まことの喜びの言葉を伝える者としてくださいます。


ローマの信徒への手紙 3章1~8節

2017-07-14 12:57:28 | ローマの信徒への手紙

2017年5月28日 主日礼拝説教 「神は真実な方」 吉浦玲子牧師

 リュティという神学者は今日読まれましたローマの信徒への手紙3章1節からを「天国への門」であると言ったそうです。今日読まれた箇所は、日本語としては難解なところはなく、なんとなく理解できても、背景がわからないとスッと入って来ない所かと思います。ただ、どうもパウロは厳しいことを言っているらしいと、まず感じます。神の誠実とか人間の不誠実、また神の怒りや裁きといった言葉が出て来ます。この箇所は「天国への門」なのかもしれないけれど、多くの人がその先に進みがたい雰囲気があります。

 一方で、ある神学者は今日の聖書箇所を「人間の屁理屈が現れている箇所」といった言葉で説明をしておられます。実際、伝道者パウロは多くの自分への反対者に対して、その反対者たちの言葉が屁理屈であって信仰的でないことを、多くの手紙に置いて指摘しています。今日の聖書箇所でも、パウロは自分への反対者を想定して、言ってみれば仮想的な議論を展開しているのです。議論のシュミレーションをしていると言ってもいいかもしれません。意味の取りにくいところは、パウロ自身が、当時自分へ向けて非難された言葉をそのまま引用して反論していることからくるようです。

<ユダヤ人の優れた点>

 まずパウロはユダヤ人の優れた点について述べています。今日の聖書箇所の前の2章では、ユダヤ人であれ異邦人であれ、神の裁きの前では公平なのだということをパウロは述べています。律法を与えられているから、また、肉体的に割礼を受けているから、神の裁きをまぬがれることはないのだと語っています。

 しかしなお、神に特別に選ばれた民としてユダヤ人には優れた点があると今日の聖書箇所でパウロは語っています。それは先週にもお話したことと関連しますが、旧約聖書のアブラハムの時代から、ユダヤ人は選ばれた民としてあった、特別な存在意義があった、そのことをパウロは認めているのです。そしてそれが具体的に語られているのが2節の「神の言葉をゆだねられたのです」ということです。神の言葉を委ねられているという点に置いてユダヤ人は優れている、その特別な存在意義が認められるというのです。たしかにユダヤの人々はその長い歴史のなかで「神の言葉」を保ち続けていたのです。もちろん、主イエスによって、また、パウロによって、「神の言葉」をゆだねられ、保ち続けてきながら、その神の言葉に本質的には、従順ではない、見かけだけ従順なふりをして、その心において神の言葉を軽んじているという批判は受けています。しかしなお、ユダヤ人は神の言葉を託され、その言葉を担って来たことは間違いないのです。パウロ自身もファリサイ派と呼ばれる聖書の専門家でした。そのファリサイ派をはじめ、神の言葉を熱心に研究し、守ろうとしていた人々がユダヤ人だったのです。紀元前6世紀の王国の崩壊、バビロン捕囚、そのような悲惨なイスラエルの長い長い歴史の中で、「神の言葉」は捨てられることはありませんでした。むしろ、そのような悲惨をくぐってきたゆえにユダヤの人々は「神の言葉」を自分たちの存在の根幹にかかわるものと認識したのです。ですから、国の崩壊という壊滅的な出来事にあってもなお「神の言葉」を歴史のかなたにうずもれさせることなく担って来たのは事実です。そのことにおいてユダヤ人は優れているとパウロは評価しているのです。

 「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで神の誠実が無にされるとでもいうのですか」とパウロは畳みかけていいます。たしかにユダヤ人は「神の言葉」をになって来ました。しかし、担いつつ、先ほども申し上げたように、神を心において軽んじ、神と隣人とに対して不誠実なことをユダヤ人はしていました。それに対して、「神の言葉」を担っている者たちが不誠実だからといって担われている「神の言葉」の主である神ご自身が不誠実であるとは言えないとパウロは言っているのです。

 たとえば主イエスを信じる信仰者が、やはり罪人であり、人から見て不誠実なことをするということも現実的にはあり得ます。あんな人が信じている宗教なんて信じられない、あの人が信じている神なんて価値がないのではないか、そう感じられてしまうということは残念ながらあります。教会の歴史においてもそうです。初めて教会に来られた方と何回かお話しして、かなりの確率で出てくる話題は2000年の教会の歴史の中で、教会が行って来た罪深いことへの質問です。十字軍もそうですし、アウシュビッツを作った国家はキリスト教国だった、そんなこともあります。近年でもさまざまに国際的な紛争においてキリスト教を信じている国や民族が正しいことをしているようには見えないことがいくらでもあります。過去の、そして現在の、キリスト教徒に悪い奴がいたから、また教会が悪いことをしてきた、だから、そんな人たちや教会が言っている神は信じられない、あるいはそんなはっきりとした不信感ではなくても、なんとなく不安を覚えるような感覚を持っておられる方は多いのです。ここでパウロがいっているのはこれと同じような話です。

<神の誠実>

 だからといってここでパウロは神様が不誠実と思われないように信仰者はみんな誠実でありなさい、教会はきっちりしなさいと言っているのではありません。それは人間の罪ということを考える時、無理なことです。あくまでもここでパウロが言っているのは神の誠実です。人間が、それも神の御言葉を担って来た人間が、今日でいえば、主イエスの信仰を持っている人間がどれだけ不誠実であったとしても神の誠実は絶対に変わらないということです。「あなたは、御言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と4節に引用されているのは詩編51編の6節です。これは新共同訳の51編6節と言葉が異なります。言葉の相違は、パウロの引用は、当時、広く読まれていた旧約聖書をギリシャ語に訳したものからの引用だからです。ですから、ヘブライ語から訳された新共同訳と少し違うのです。その詩編51編6節で言われていることは「法廷の裁判で最後に勝利を得られるのは神である」ということです。新共同訳の訳では「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」となっています。この詩編51編はダビデが人妻のバトシェバと犯した罪を背景にした悔い改めの詩でした。人間はどこまでも罪深く、しかし、神はどこまでも正しい。人間の罪の闇の中でむしろ神の正義の光は輝いている、そのことがこの詩編51編の言葉で分かります。

<神の栄光のために罪を犯そう?> 

 しかしまた、ここでひとつの「屁理屈」がでてくるのです。人間の罪の闇の中で光が輝くように神の正義が現れるのなら、いっそ罪の闇が深い程、神様の光がわかりやすくなるのではないか、つまり5節にある「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら」というのは、人間は不義であったとしても、それで神様の義が明らかになるなら人間が不義であることはそんなに悪いことではないのではないかという言葉なのです。「人間の論法に従って言いますが」とは、このような「屁理屈」を言うことを人間の論法とパウロは痛烈にいっていることです。7節に「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう」とありますが、これも同じ「屁理屈」です。自分の偽りによって神の栄光が現わされているんだから自分が裁かれるのは不当だと言っているのです。

 実際、パウロを批判する人は、パウロが「善が生じるために悪をしよう」と言っていると責めていたようです。それに対してパウロは反論しているのです。

と ころでもう一度ここで、神の言葉である律法というものを確認しておきます。律法は神と隣人へのあり方を示したものです。しかし、罪人である人間は律法を守ることができませんでした。表面上の文字面での戒めは守りましたが、キリストの十字架と復活、また聖霊の降臨より前は、人間は本当の愛と慈しみに生きることはできませんでした。律法を守れなかったのです。じゃあ律法は無駄だったのかというとそうではなく、律法は、人間の罪を映し出す鏡のようなものとなったのです。ある先生は律法は罪を映し出すレントゲン写真のようなものとおっしゃっていました。律法によって人間は自分の罪を照らし出されるのです。ローマの信徒への手紙の少し先の所になりますが、「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5:20)恵みはキリストゆえの救いと関わることですが、こういうところを、字面だけ都合良く読むと、パウロは「罪が増したから恵みも満ちたと言っている。つまり罪があるから恵みがあるといっているじゃないか、だからパウロは恵みのために悪をなそう、善が生じるために悪をしようといっているのだ」と結論付け、批判するような人々がいたのです。そのような反対者に対して、パウロは「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と厳しく言っています。

<キリストのゆえに神の前に立つことができる>

 パウロでなくても、誰が聞いても、神に栄光が現れるように不義を行おうなどという言葉は愚かで欺瞞的に感じられます。しかし、なおここで考える必要があります。パウロは確かにそのような屁理屈を言う自分への当時の批判者を具体的に想定して語っているのですが、神の前で屁理屈をこねるのは、そもそも人間の性質なのだということを私たちは受け止める必要があります。

 神の誠実ということをパウロは前半で語っていました。人間が、あの人は誠実であるというとき、どういう尺度で誠実だと感じるのでしょうか。嘘をつかない、言うことがころころ変わらない、言ってることとやっていることが一致している、相手によって態度や言うことを変えない、いろいろな要素があるかと思います。たとえば会社員で上役には良い態度をして、部下や立場の弱い取引先などにはひどい態度をとる、そういう人は誠実であるとは感じません。あるいは普段は誠実そうな人が、たとえば、レストランなどに行ったとき、そこのお店の人に傍若無人な対応をしていたら、がっかりします。どんなにその人が自分には親切に丁寧に接してくれたとしても、そういう人は本当の意味では誠実な人とは感じられません。

 一方で私たちはパウロが言うように神が誠実な方であることを知っています。人間である私たちが不誠実であったとしても神はどこまでも誠実な方だと思っています。しかしそう思いながらも、私たちの望む神の誠実は、どこまで行っても、自分を中心に据えた神の誠実さであることを認めざるを得ません。自分に都合の良い神の誠実さをどうしても人間は求めます。

 しかし、神の誠実は、正しくないことに対して怒りを発せられる誠実さであり、裁きの日に厳格に裁きをなさる誠実さです。その誠実は誰に対しても平等なのです。人間にはそのような誠実が耐えられないのです。自分だけはどうにかその平等な裁きから言い訳をして逃れたいと思います。人間の罪の本性のゆえに神の誠実さ、平等さは耐えられないのです。

 最初にリュティがこのローマの信徒への手紙の三章は「天国への門」だと言っていると申しました。パウロはここで厳しいことを書いています。神の前で屁理屈をこねる、神の誠実を自分中心にとらえる人間の姿を描いています。律法は罪を映し出すレントゲン写真だと言いましたが、今日の聖書箇所もまた、人間の罪をパウロによってあきらかにされている箇所であると言えます。

 私たちの罪が明らかにされただけであるなら、この箇所は「天国への門」ではありません。しかしなお、この箇所は「天国への門」なのです。私たちはキリストのゆえに、私たちの罪があきらかにされることを恐れる必要がないからです。私たちはキリストの十字架と復活の救いの業のゆえに、神の誠実の前に、正直に罪の姿のままで立つことができるのです。屁理屈をいって罪を認めないのではなく、恐れることなく罪を認め、悔い改めることができるのです。人間の本性として神の前で屁理屈をこね、自分の不誠実を隠したいところですが、キリストのゆえに私たちはもうそうする必要はなくなりました。

 最近、私は飛行機に乗ることはないのですが、飛行機に乗る前にはテロ対策で厳重に持ち物検査があります。荷物を調べられ、X線装置のなかを通って危険なものを体に身につけていないか隠していないかも調べられます。その結果、なにも危険なものを持っていないと判断されれば飛行機の搭乗ゲートへ向かうことができます。今日の聖書箇所はその飛行機搭乗前の持ち物検査、身体検査に似ています。「天国への門」の前で、私たちは自分を吟味することを求められます。ただ、心素直に神の誠実の前に立つことを求められます。自分の持っているものをすべて神の前に置くのです。自分の罪を差し出すのです。自分の心を神のX線装置にさらすのです。そしてそこで自分の本当のみじめさ、罪の姿があきらかにされます。しかしそれは絶望ではありません。その本当の自分の姿のままで立つ時、キリストが共におられるゆえ、罪を悔い改めることができます。罪を赦されます。そして神の国の門が開かれます。本来は乗ることのできなかった飛行機の搭乗ゲートに案内されるように、私たちは神の国の門へと導かれるのです。

 


ローマの信徒への手紙 2章17~29節

2017-07-14 11:56:11 | ローマの信徒への手紙

2017年5月21日主日礼拝説教 「恵みの戒め」

<ユダヤ人のこだわり>

 わたしは九州出身で、最近はどうか分かりませんが、九州というと九州男児という言葉があるくらい、男性がいばっているような印象があります。もちろん、九州の中でも地域的な差はありますし、また、やはり家庭ごとに違うと言えば違います。また、女性がうまく男性を立てているだけで、実際の力は女性が握っているのだ、九州は本当は女が強いんだという説もあります。でも私が若いころの印象では、その後、住んだ関東や関西に比べて、実際に強いかどうかは別として男性が男性ということにこだわっていて、そのこだわりの強さはやはり九州は特別といえるように感じます。

 でも考えますと、男である、ということにこだわって生きていく、それはそれでしんどいことだと思います。男はかくあるべき、男はこんなことをしてはいけない、逆にこんなことをしていては男の沽券にかかわる、そうやって生きていく男性もしんどいだろうなと思います。

 しかし、九州の昔の男性に限らず、だれにでも大なり小なりこだわりがあります。良い意味でのプライドがあります。自分ではそんなものはないように思っていても、やはりどこかにあると思います。意識していなくても、意識していても、絶対にそこは譲れないものがあると思います。

 ローマの信徒への手紙でパウロは繰り返しユダヤ人に対して警告を発しています。ユダヤ人にも強烈なこだわりがありました。これまでも何回か申し上げましたように、ユダヤ人には自分たちは神に特別に選ばれた民であるという強烈な意識がありました。そしてその特別な民として神から与えられた律法を持ち、また、その律法に記されている割礼というものを持っていました。割礼というのは、特別に神に選ばれた民であるということの目に見える肉体的な証でもあったのです。律法や割礼というのはユダヤの人々にとって、私たちには思いも及ばないほど、存在の根幹に関わるような問題でした。割礼は生後8日目に男子の包皮を切り取ることですが、これは創世記で、まずアブラハムに神が命じられたことでした。創世記の17章、またレビ記12章などに割礼について記されています。その律法に従って、主イエスご自身もまたお生まれになって8日目に割礼を受けられたのです。いまでもユダヤ教徒の方々は赤ん坊に対して割礼をするのです。昔、ヘブル語をちょっとだけ学んでいたころ、イスラエルに留学経験のあったヘブル語の先生が、イスラエルでホームステイ先の家族の実際の割礼の様子を録画した映像を見せてくださいました。家族がみなそろって、赤ちゃんを、ユダヤ教の指導者、ラビのもとへ連れていって、割礼を施してもらうのです。割礼自体はあっという間にすみます。赤ちゃんは泣いているんですけれど、赤ん坊の産まれたユダヤ教徒の家族にとっては、現代においても大きな喜びの瞬間なのです。

 2000年前のパウロの時代、まだキリスト教がユダヤ教に対して新興勢力であったとき、当時のキリスト教の教会で、ユダヤ人以外の人が、つまり異邦人が、主イエスを信じるようになっても、割礼をさせるところがあったようです。それに対して、パウロは異を唱えていました。使徒言行録の15章ではクリスチャンである異邦人に割礼を施す必要があるかどうか議論されたことが記されています。これは有名なエルサレム会議と言われる会議です。結論としては必要はないということになったのですが、初代教会で大きな議論となるほど割礼というのは大きな問題でした。

 しかし、これは単にユダヤの人々が勝手に自分たちの伝統や習慣に誇りを持っていたということではありません。旧約聖書から新約聖書の流れの中で、たしかに神はイスラエルを特別に選ばれたのです。神はユダヤの民を特別なものとして選ばれました。創世記12章で、信仰の父と呼ばれユダヤ人の父祖であるアブラハムに対して、<あなたを祝福の源とする>と神はおっしゃいました。そして「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われました。神は地上のすべての民を祝福へと入れるご計画を持っておられました。しかし、その祝福の源としてアブラハムが選ばれその子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人が選ばれたというのは明確に聖書の中に記されています。ある方は、これを湖に投げた石の波紋に例えておられます。石がぽちゃんと水に落ち、波紋が同心円状に広がっていきます。石が落ちたところがイスラエルであって、そこから救いがはじまります。その救いが波紋のように人類全体に広がっていく、そんなイメージです。救いはイスラエルから、神の壮大なご計画の中で、そのイスラエルから始まった救いの波紋はこの日本にも届きました。その神のご計画のなかでの律法であり、律法で定められた割礼なのです。ですからパウロも単純に律法や割礼を否定しているわけではないのです。なによりパウロ自身がユダヤ人であり、律法のエキスパートであったのですから。17節や18節「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」という言葉はけっして皮肉でパウロは言っているわけではありません。あなたたちは確かに律法を重んじ、神を誇りとしていたでしょう、ということをパウロは言っています。

<何を誇るか>

 では、パウロはどこに問題を見ていたのでしょうか?ひとつには福音書の中でイエス様ご自身も繰り返し、律法学者たちを批判なさっていたことと通じるのですが、律法の形骸化の問題がありました。律法は神と隣人への愛に生きるための戒めでした。律法は一人一人が生活の中でその愛の精神を実践するものでした。しかし、21節以降を読みますと、律法は実践はされていないようでした。23節に「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」とあります。24章の「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」という言葉はイザヤ書の52章に預言されていた言葉です。

 そしてもうひとつは「誇り」という問題があります。ローマの信徒への手紙で、こののちも繰り返し出てくることになるのですが、さきほど、17節に「律法に頼り、神を誇りとし」とありました。また23節には「律法を誇りとしながら」ともありました。本来、特別に神に選ばれた民であるイスラエル、ユダヤ人は、神を誇りとして生きる民であったはずです。

 しかし、パウロの時代、ユダヤ人は、神を誇りとするのではなく、律法や割礼を誇りとしていたのです。律法そのものは誇るものではなく、さきほど申し上げましたように実践するものです。たとえばどんなに優れた法律を国や自治体がもっていても、それを床の間に飾っているように実践しなければまったく無意味です。その法律の精神を生かした、まちづくり国つくりをしないと意味がないのと同じです。割礼は律法の実践がなければただの肉体的な傷にすぎません。

 それは、本来、誇るべき神以外のものを誇るようになったからだとパウロは語っているのです。神を誇らず、自己中心的な民族愛に陥ったからだというのです。神への誇りのない律法や割礼への誇りは、偏狭な民族愛であり、自己愛に過ぎないのです。その結果、表面的には律法を守っているようでも、その心には神への愛も隣人への愛もない、欺瞞があふれるようになります。そしてまた、そのような自己愛は排他的になります。自分と異なる他者を排除する者となります。エルサレム会議で議論された異邦人への割礼の強要も自分と異なる他者の排除の風潮の中で、自分の文化への同質化を強要するものでした。

 神への誇りが自己愛にすり替わり、排他的になる、これは誰でも陥りやすいことです。律法や割礼というとなにか遠いことのようですが、私たちの日々でも往々にしてありがちなことです。信心深い、敬虔そうな態度はとりながら、本当の意味での愛の実践に生きていない、そういうことは2000年にわたって教会において起こってきたことです。神への誇りのない自己愛は、罪の本質である人間の自己中心性のあらわれそのものだからです。ですから、神を愛そう隣人を愛そう、排他的にならないようにしようと願っても、なかなかそれは難しいことです。

 4年ほど前、わたしが大阪東教会に赴任してまだ間もない頃、教会におりましたら、来訪者がありました。この教会の隣の教会と言っていい、ルーテル教会のかたが来られました。実はその方はもともと私が所属していたY教会の教会員だったのですが、その2年ほど前にルーテル教会に転会されていた方でした。彼女は、私がすぐ近くの大阪東教会に赴任したことを知って訪ねてきてくださったのです。実は彼女とはY教会時代、もめたことがありました。二人とも教会の役員をしていたのですが、意見が合わなかったのです。わたしはけっこうきついことを彼女に言いました。当時ずいぶん彼女を傷つけたと思います。私はその時、自分は正しいと思っていました。実際、けっして私は間違ったことは言っていなかったと思うのです。でも、自分の正しさを盾に彼女の思いを切り捨てるようなことをしていたのではないかという悔いもありました。そういう苦い思い出があったので、余計、彼女が訪ねてくださったのはうれしかったです。短い時間、話をして別れました。彼女と和やかに話をする機会をあたえてくださった神様に本当に感謝でした。でも改めて私はやはり彼女と揉めたとき、神よりも自分の正しさを盾にしていたと悔い改めました。

<霊によって>

 パウロは律法を破りながら律法や割礼を誇っている人々を批判し、その最後で「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」と語っています。新共同訳聖書の“”付の霊という言葉は聖霊を指しますが、聖霊によって心に与えられた割礼、これは何でしょうか。わたしたちキリスト者はすでに神のものとされています。神の恵みのもとにあります。そのことを聖霊によって知らされます。

 私たちが神を誇るのではなく自己愛へと陥るのは、神の恵みが見えなくなっている時でもあります。厳しい現実のなかで神を見失っている時、私たちは神以外のものに頼ります。自分に頼るといってもいいでしょう。逆に自分に頼るとき、神を見失うとも言えます。

 ある牧師がある地方の教会に赴任をしたときのことを語ってくださいました。その教会は市内でも規模としては大きな教会だったそうです。しかし、数年前に分裂した経緯がありました。多くの人が教会を出て行った過去がありました。教会の中で激しい対立があったのです。それぞれに自分が正義だと、それこそ双方が御言葉を盾にして主張した。聖書にこう書いてあるだからこうすべきだとそれぞれに主張したのです。でもそれは御言葉を自分の正しさの盾として利用していることであって、神に聞くという姿勢ではありません。それは律法や割礼を誇っていたユダヤの人々の姿勢にも通じます。その結果、教会が分裂してしまうという悲しいことになってしまった。その教会が揉めてどうしようもない時期に無牧となり、そののちその牧師は赴任したそうです。そしてどうにか教会は落ち着いていきました。その牧師はどっちが正しいとか問題点を整理したり、理屈や道理で問題を解決しようとしてもできないのだとおっしゃいました。もどかしいような、そんなことで良いのかと思われるかもしれませんが、結局、共に御言葉に聞いていく、その時間を淡々ともっていくとき、意見の違いや争いを越えて、そこに神が働かれることが見えてくる、そこから痛んでいた傷が回復していくのだとおっしゃいました。御言葉を盾にして争っていた人々が、御言葉によって癒されていったのだとおっしゃっていました。

 パウロは聖霊による割礼と言いました。私たちはユダヤ人ではなく異邦人ですが、すでに私たちには割礼があるのです。聖霊によって刻まれた割礼があります。神のものとされたしるしがあるのです。イスラエルから始まった救いがすでに私たちに及んでいます。神は私たちの上に豊かに働いておられます。その働きにゆだねたら良いのです。自分の力を振り回すときその働きが見えなくなってしまいます。そしてますます自己中心性に陥ってしまいます。でもそれは自分の力で自己中心でないようにしようとしてできることではありません。神にゆだね神に求めることです。そのとき私たちは自分の周りにある神の働きに気がつきます。最初に九州男児の話をしましたが、神の働きに気がつく時、自分のこだわりやプライドからも自由になります。ほんとうに平安が与えられます。

 先週、教会学校の子どもたちが蒔いたアサガオの種から昨日、芽が出ていました。硬くて小さな種から青々とした芽が出てきていました。私たちもまた時として頑なで罪に陥ってしまうものです。自分のこだわりの中に閉じこもるものです。でも、聖霊が、そのかたくなさの殻を割ってくださいます。神の恵みの中を生かしてくださいます。そして豊かに成長させていただきたいと思います。