自分には価値があるのだろうか。
答えがYesなら、それは何故?
答えがNoなら、それも何故?
又は、自分を好きですか?
そして、同じように問うことは出来ますか?
それは何故?と。
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自分に価値があると思うか?
自分が好きか?
Yesと答えられることの素晴らしさ・・・私が自己肯定感が極めて低い人間だったため(もしかしたら今も低いかもしれません)、その素晴らしさは身を以て理解することろです。それは、今はその素晴らしさを知っていると言うより・・反対に、それが分らずとても苦しかったので、その苦しさの対極として、素晴らしさを想像することが出来る・・と言った方が正しいように思います。
又、自分は自分でしかなく、そこに価値を付けることや、自分で自分を好き、嫌いとするものでもない。早い話が、そんなこと考えたこともなかった訳です。だから困っていました。「自分を好きになることよ」「自分の価値に気付いてないんだね」と言われる度に。
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心の問題は、一人ひとり、個別のものだと思います。
それぞれの事例が、間違いなく例外です。
例えば私の場合は、自分に不調和が起きているときは、苦しいし辛い。心が重くなるだけでなく、身体にも出ます。筋肉の痛みや胸のしめつけ、発熱。そして、自分の殻に閉じこもりやすく、ついつい塞ぎ込んでしまう。でも、それらの症状がふっと楽になる瞬間があって、そのときの心の変遷のようなものや、楽になった瞬間のきっかけを一つひとつ経験することで、心の仕組みを学び続けているところがあります。
そして、私が私に自分の価値や、自分を好きかを問うたとき、
そこには条件がありました。厳密に言えば、自己肯定がほとんど出来ていない人間ですから、自分を好きか嫌いかの以前に、「ちゃんとしていないと」という思いが非常に強かったのですね。よって、自分のことは、決して好きではなかった。
「自分が好きな自分になりたい」そういう思いも非常に強かったとも思います。
けれども、自分で自分を好きになることに、条件を設けていたようです。
○○ができること。
××であること。
▲▲を達成できたら。
☆☆になれたら。
・・・と。
このように、自分以外の所やものに、自分の価値を形作る重要任務を負わせるとキリがありません。
キリがないとは、○○も××も、▲▲も☆☆も全部クリアしても、次のものを探してしまいます。わざわざ探してしまうといっても良いかもしれません。別の見方をすれば、飽くない向上心とも言えなくもないですが。。外にあるもので自分自身を埋める、この状態ではじめて自分には価値があって、自分のことが好きだということなら、クリアしてもクリアしても、必ず外のものを求める心の仕組みになってしまっても不思議ではありません。
私はこれが出来る、あれを達成できた・・などことは、自信を生んでくれるでしょう。
でも、それが価値ではないと私は思いますし、それがあるから、ようやく自分を好きになれるということでもないと思います。一方で、条件がない、そのままの私で価値がある。だから何もしなくていい、ということは怠惰であり傲慢だと思います。
こうして書いてみると、無条件に自分が好きだと言える心理状態は、理屈では語れないものかもしれないですね。
何が出来なくても・・何を持っていなくても・・何を達成できなくても。
しかし、条件がない=自分自身の価値を自分以外に負ってないだけ、自分を見失ったり、自分は欠けいてるという幻想に追いかけられることはないかもしれません。
自分を好きか?自分は価値あるものか?
とてもシンプルでベーシックな問題かもしれませんが、気が付いたときには、自分に問いかけてみるのも良いと思います。渦中の問題も、そこに起因している可能性が、もしかしたらあるかもしれません。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。
今日も皆さん一人ひとりが慈しまれる一日でありますように。