ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

こけし君の写真見せて。

2011-08-06 17:01:01 | 家族のこと
娘に彼ができたらしい。
私が心配そうな顔をしたのだろう。
娘が「悪い人じゃないよ」とすぐ言った。

名前はこけし君(仮名)というらしい。

「名前がかわいいので気に入ったのね」

そう言えば1年くらい前<こけし>っていう名前の人いるんだよなんて言っていた。

いろいろ聞くけど情報はほどほどにしか流してくれない。
どうも携帯に写真が入っていたみたいなので、
「見せて」と言ってもダメだという。
私がおしゃべりなので警戒しているのだろう。

あ~あ見たいな。
どんな人なのだろう。
そのうち会えるといいんだけど。

最近の私は悩みが増えてきたんですけど、この話は70パーセントはうれしいニュース。

夫の遺伝子

2009-07-15 21:28:59 | 家族のこと
青森に住む次男からメールが届いていた。
画像つき。
開いてみると、こんな感じ。


おお。余興で女装をするとは聞いていたが、なにメイド服?
こんな女の子いそうだな~
こういうふざけ方が好きなのはうちの夫の遺伝子だな~
子どもは3人いてそれぞれ顔など似ていないけど、性格は私に似てそうでいて、それぞれ父親に似たところがあるのは、不思議ではないことだけど、おもしろい。
愉快な写真ありがとう。

モモと長男

2006-10-20 20:29:51 | 家族のこと
長男の仕事はきつそうだ。火・木・土が基本的に仕事で、夜勤つきなので週6日は拘束される。
仕事もおもしろくないらしく、辞めたいといっていたがまだ4月に入社したばかりだし、早く辞めるといろいろと不利であることなどなど考え直して今に至っている。
そんな長男もモモの顔を見ると癒される~という。

入社して初めての3日続けての休暇。午前中休んでから、おもむろにちょっと旅してくるという。
長男が出かける支度をすると、モモが気づく。追っていくので、私が抱いて玄関外にお見送り。
すると長男はモモを抱いて、なぜて、モモの匂いをかいでお別れ!
彼特有の愛情表現か。
ちょっと変わっているよね。
でも彼もモモが好きで、暇なときは遊んでやるけど、今は忙しいからね。
「ネコ砂がないよ」というと買ってきてくれる、優しい男でもあります。


写真は出勤前の長男のお膝の上のモモ。

今日、9月21日は

2006-09-21 18:34:38 | 家族のこと
もうこの2日半の間、うちの電話とインターネットがつながらず、淋しい思いをしました。パート先でちょっとはのぞいてましたが・・・
今朝、NTT東日本の故障センターに7時台に電話したら、午前中きてくれて直してくれました。なんか始めから設定し直したら、直ったとか・・・
私もいじくり回していたのですが、私だけの力では駄目でした。
IP電話って安いからいいかと思いましたら、けっこう時々変になりますね。

それはそれとして、今日9月21日は実家の父の誕生日なんです。もう12年前に亡くなっていますけど。
父はすご~く子煩悩で優しい人だったんですよ。叱られたことなんて、三度くらいしかありませんよ。
鼻が大きくて、身体はけっこう弱かったですね。よく働いた人ですけど、
高血圧で、糖尿病で。
でも何かちょっとひねくれたところもあって、プレゼントをしても素直に喜んだことはなかったみたいな気がします。何だまたこれかなんて言って。

でも子どもたち4人を平等にかわいがってくれて、平等に教育もしてくれたし
接してくれました。私に会いたがってくれたのも父だったし、十分かわいがられたって気がします。
昔は嫌だと思った時期もあったけど、晩年のお父さんはいつもニコニコしてて、
仏様みたいなとこあったよね。
私が子どもを連れて訪ねて行くときにはよくバス停のベンチで待っていてくれました。ありがとうね。お父さん。
とってもいい父でした。

おじいちゃんの誇り

2006-06-17 14:07:52 | 家族のこと
おじいちゃんが呆けたとか、頑固だったとかすぐ言ってしまうので、おじいちゃんのいいところも書こう。

義父は九州に本社のある新聞社の記者だった。人付き合いは嫌いだったが、ちょっと変わったところがあるので目だったのだろう。義母とは恋愛結婚だったらしい。
昭和19年だかに結婚したようだ。
しかし母一人子一人だった義父は、実母にべったりで、義母の入る隙間もなく、義母は百年の恋もさめた・・・という状態だったらしい。でも二人の間には3人の息子ができ、うちの主人は末っ子の三男である。祖母にも父にも母にもかわいがられたみたいだった。
主人が5歳くらいの頃、もう義父と義母は一緒に住むこともなく、義父は祖母といつも一緒に転勤していたようだ。

あの頃水俣病のことが話題になり、義父はそれを記事にして告発する立場だったの
で、「俺は水俣病のMといわれた」と
まだ頭が確かな頃、義父はよく誇りを持って喋っていた。

義父は電話が好きだったので、私はしょっちゅう呼び出された。ある日すぐ来いというので行ってみると、義父はあのアパートで古い水俣病関係の記事が見つかったと
私に見せるのであった。見せると、もう帰っていいと追われる。
愛想のない、すごいマイペースな性格だった。

新聞が好きで、もう読めなくなったら終わりだといっていた。20年前くらいは
投稿マニアで、朝日の読者欄によく投稿していたみたいである。採用されたこともあったようだ。
亡くなる3年前くらいから、パーキンソン病が進んで、前立腺肥大で尿も出なくなってしまったから、カテーテルをつけて、ベッドと車椅子。亡くなる半年前くらいからは足も曲がって、車椅子にのるのも苦しくなり、ベッドのみとなったと思う。
好きな新聞を読めなくなってから、3年は過ごしたこととなる。
亡くなったのは2002年(平成14年)12月5日夜中、ちょうど次男の入試の日であった。

写真はヒメシャラですよね。近所に咲いていました。

おじいちゃんの呆け方

2006-06-16 23:55:13 | 家族のこと
おじいちゃんの最後の病院は老人病院だったので、それなりの臭いとかがあるせいか、主人はあまり行きたがらなかった。
私は週2~3回行くようにしていたので、おじいちゃんも私の名前は覚えてはいなかったが、どうやら顔を見せれば自分の関係者、使用人か何かとわかるらしかった。ある日主人を伴っていくと、おじいちゃんは息子の姿を見たとき、「金もっていそうな人だな~」といったのはおもしろかった。それを思い出して笑い話にしていた。
おじいちゃんがこんなこと言ったとか、ああだったとか、笑いながら話すことができたのは、好運だった。明るく話せることができたのは、主人が明るい人であったからかもしれない。

おじいちゃんは家庭的には不幸な人だったせいか、看護婦さんの手をにぎったりすることもあった。看護婦さんや、介護士さんと結構たのしく過ごしていた時期もあったようだ。
お昼にはなるべくいって、食事の介護をしたので、最後の口からの
食事は私がスプーンで差し出したゼリーだったのかなと思う。

おじいちゃんはよく食べる人でした。施設にいたときは、人の分までとることもあったみたいです。
自分のお母さんとは仲良かったけど、奥さんや嫁さん運はなかったね。
今度会ったときには何か文句言われるでしょうね。

私も書いておこう

2006-06-15 18:58:06 | 家族のこと
隣のS駅までの私の好きな田んぼ道の続くところに、実は主人の父が住んでいたアパートがある。その家はまだ残っていて、今はほかの人が住んでいるのは、洗濯物がだされていることでわかる。

主人の父は4年前に亡くなった。一緒に暮らすことはなかったが、夫が面倒を見るからということで、私たちがここへ越したときに、同じ町内に越してきたわけだ。
このアパートは2件目だ。3年くらい住んだだろうか。

義父は少し変わった人であった。それは母一人子一人で溺愛されて育ったせいと思われる。義母と離婚はしなかったものの、仲が悪く、主人たち子どもとも一緒に暮らすことも少なく、実母(義母のお姑さん)とずっといっしょに暮らしていた。
その義父の母(主人の祖母)が亡くなってからは、しばらくは長男親子と共に暮らしていたが、長男の奥さんと折り合いが悪く、一人暮らしとなった。
私たちが結婚した年である。
次男夫婦は義母と暮らしたので、お父さんは他に頼るところもなく、何となく三男である主人に頼っていたと言える。
身体が悪くなり、病院、施設、病院と場所をかえ、駅二つ向こうの病院で亡くなった。享年85歳であった。
他人には冷たい嫁と映ったかもしれないが、私は私なりの努力で、義父に接した。
でも義父が亡くなったときは、至らぬ自分を嘆く気持ちがあり、涙が止まらなかった。主人は私の努力を認めてくれ、苦しいときには力になってくれた。
父は花など好きではなかった。好きだったのは、新聞だった。地方の新聞記者だったので、呆けるまでは新聞を離さなかった。

私のライナスちゃん

2006-02-28 20:35:17 | 家族のこと
こどもがかわいいのは赤ちゃんのときから、ずっと知っているからじゃないでしょうか。
私も子ども3人をそれぞれかわいいと思っていますが、次男は外見に少しハンディキャップをもっていますので、心配もあり、かわいがってしまいます。
小さいときの次男はスヌーピーに出てくる、いつも毛布みたいなものをくわえているライナスのようでした。次男はいつも赤ちゃん用シーツをくわえていました。2歳くらいまでどこにいくのもシーツをもっていました。その様子はとってもかわいいものでしたが、3番目の子が生まれることもあり、ある日だめ!と取り上げましたら、エ~ンと泣いていました。
娘の生まれたとき、退院のときに主人に連れられて来たのですが、5歳の長男が
「ああ、そうか」といって、納得したのに対し、2歳2ヶ月だった次男は、車の助子席で赤ちゃんを抱いた私の足元に来て、子犬のように泣いていたのに、私は抱き上げることもできず、主人ともども、もらい泣きをしそうになった覚えがあります。
まあ、今も彼は感情豊かで、泣き虫なところがありますね。
21歳になり、いまは一人暮らしをしていますけど。青森で寒いとこなのに、部活のきついところに入ったので、少し体調を壊しましたが、部活をやめ、他の活動をして、今は持ち直したところです。
あまりかわいがりすぎは、駄目ですよね。離れているとついいろいろ心配なのですが。

よく職質を受ける男

2006-02-22 20:11:10 | 家族のこと
うちの長男はちょっと変わっている。何が変わっているかは説明しにくいのだけれど、風貌はドランクドラゴンの鈴木の、背を高くしたような感じだ。身長は188センチある。
性格はのんびりしていて、暇なときには自転車で近所をうろうろとしている。コンビニへ行ったり、スーパーでお菓子を買ったり、ジュースを買ったりするのが好きだ。その長男が自転車でスーパーの自転車置き場などにいると、よくお巡りさんに職務質問されるのだ。
今日も自転車の鍵が壊れたので、ホームセンターで新しい鍵に換えてもらい、自宅そばのコンビニ前の信号でお巡りさんとすれちがったという。そのまま2,3分先の自宅まで帰ってくると、なんとお巡りさんが玄関までついて来たと言うのだ。
運の悪いことに、今長男が乗っている自転車は、2,3ヶ月前に妹が友達からもらったものだった。まだ前の持ち主の防犯登録のステッカーがついている。お巡りさんからみると、長男がどこかから盗んできたという風に見えるらしい。
さっき、確認の電話が長男の携帯にかかってきた。私が出て妹が高校の友達から
もらったものだといっても、娘さんに確認したいなどとしつこくいう。
いい加減にしてもらいたい。
長男は自転車のことで職務質問をされるのは3回目だという!
「ああ変わっているんだから、いっそお笑い芸人にでもなってよ」というんだけど、「思いつきでモノを言うな」とご立腹なのである。

パリパリするもの~父と私の好きなもの

2006-02-07 12:57:37 | 家族のこと
12年前に亡くなった父が、昔お煎餅好きで、勤め先に近かった御徒町で丸いお煎餅をよく缶で買ってきてパリパリ食べていたせいで、私も缶では買わないがお煎餅が家にないと寂しい。今日もお煎餅売り場に立ち止まり、選んでしまった。
草加に住んでいるときは家の近くに手焼きの煎餅やさんがあったのでうれしかった。
草加から引っ越してきたときもその煎餅を買って、近所に配ったのだが、近所の旦那さんが堅焼き煎餅が嫌い、誰かが食べているのも嫌いだと聞いて、へ~煎餅の嫌いな人もいるのだとびっくりした。
父は煎餅のほかにも柿やトマト、さつまいも、干し芋など素朴なものが好きだった。お酒もタバコもやらず、働き者で子煩悩、真面目な人だった。煙たく思ったときもあったけど、晩年はいつも笑顔で堀コタツの定位置に座っていて、優しい人であった。もうその家はないけれど、夢ででてくる実家はいつもあの家だ。父はいつもあそこに座っている。今年の3月はその父の十三回忌だ。