宗教的な意味づけを持つ石(縄文の石棒、神社のイワクラなど)やアクセサリー(勾玉など)を別にして、日本人が趣味として石を愛でたのはいつ頃からか。そんな疑問を持ってやんわりと調べてみた。
どうも、日本最初の天然石コレクターは、後醍醐天皇(1288-1339)らしい。文献に残る限りでは。
「異形の天皇」ね。相貌はあんまり特徴がないみたいだけど。
彼は王政復古に猪突猛進する傍ら、中国文化に傾倒し、様々な文物を入手・蒐集し、時に人に惜しげもなく配っていたという。その中に多数の「石コレクション」があった。いつもたくさんの石を持ち歩いていて、隠岐に流された際には、世話になった地元民たちにも石を分け与えたという。彼ら平民たちにすれば「こんなん、うちの畑にいくらでもあるぜよ」という感じだったろうけれど。
外国から買い込んで蒐集する。今のあちきらがやっていることを、七百年以上前にやっていたわけですな。
その中で、彼が最も愛したという石が遺っている。「夢の浮橋」と銘打たれたもの。隠岐流罪の時も、吉野逃亡の時も肌身離さず持っていたという。徳川美術館蔵。
《盆石中の王者として古来有名な品です。後醍醐天皇が笠置・吉野へ遷幸した際にも、常にこれを懐中していたと伝えられ、石底に朱漆で書かれた「夢の浮橋」の銘は、後醍醐天皇筆と極められています。銘の「夢の浮橋」は、『源氏物語』の最終巻である「夢浮橋」にちなんでいるとみられます。石は中国江蘇省江寧山の霊石と伝えられています。》徳川美術館
長さ28.8cm、高さ4cm、奥行5cm。「懐中」はちと無理じゃね? 江寧山というのは現・南京市の近郊らしい。
まあ、実物を見たわけではないから何とも言えないけど、ううむ……の世界。
現代の愛石家の解説によると、
《この石は、当時から有名石種であった、中国産の霊碧石とも見える真黒の石で、形は、いわゆる長石(ながいし)と言う名石形の石で、左に丸い小山があり、その前に平たい岡があって、右に延びるに従って、土坡(平野)があるという段石形の土坡石で雄大な景をもち、長年月にわたる、持ち込み味を深ませているものである。
この石を水平の地板などの上に置くと、底部の中央付近が少し浮き上がり、空間の出来る石なので、「夢の浮橋」の名がある。》「山水園」ホームページ
ちょっと見てみたくはある。(猫に小判猫に小判)
ちなみに、夢窓疎石を見出し重用したのは後醍醐。夢窓は日本の禅宗庭園作庭の祖となる人物で、石とは関係が深い。龍安寺のあの石庭だって夢窓がいなければ生まれなかった。
後醍醐は日本の石観賞文化の鼻祖と言えるかもしれない。(なんかすごい言葉使うじゃんw)
「夢の浮橋」は、その後豊臣秀吉・徳川家康へと伝わり、尾州徳川家収蔵となったという。けど、これちょっと不思議。秀吉はどうやってこれを手に入れたのだろう。
後醍醐は吉野に落ち延び、その末裔はなんとなく雲散霧消した。後醍醐は三種の神器は返しても、この秘蔵っ子を誰かに渡すことはなかったろう。秀吉とこの幻の南朝を繋ぐ何かがあったのか。どうも秀吉というやつ、アヤシイ。土木技術の職能民集団と関係が深かったのは確かだし。
後醍醐のコレクションが完全な形で残っていたら、面白かったでしょうね。
ちなみに中国では北宋・南宋時代に石鑑賞が盛んになり、11世紀の文人・画家・収集家にして奇人・米元章(1051-1107)、12世紀の北宋最後の皇帝徽宗のコレクション「花石綱」、13世紀前半の画家・趙希鵠による『洞天清録』などが知られている。
付記:ただし、後醍醐の「夢の浮橋」の前に、親鸞が京都・西洞院で発見した「本願霊石」なるものがあるという説もある。高野山巴陵院に現存するけれど、これに関する史料はネットでは見つからなかった。親鸞が石コレクターだったということになるかどうかは不明。
ほかに、「文書に残る最古の愛玩(?)石」として9世紀発見の「千里浜のさざれ石」というものがあったらしい(1977年消失)。貞観5年(863年)の頃、紀伊の国千里の浜で、夜な夜な光っていた石を浦人が拾って、その後有力者の間で伝承されたもの。こちら参照。けど、これは「怪異の石」で、愛玩石というのとはちょっと違うでしょうね。
* * *
日本の歴史的名石というのがありまして。産地のほうではなく個別ものね。
後醍醐天皇コレクション「夢の浮橋」はその筆頭。
その次くらいに来るのが、西本願寺蔵の「末の松山」。
後醍醐と同じくらい中国大好きだった足利義政が、腹心の相阿弥から献上されたもの。相阿弥は中国から来た禅僧から入手したらしい。その後、織田信長の手に渡る。まあ、強奪したのでしょうね。そして信長と石山本願寺が戦争し和議をした際、「石山城」(後の大阪城)を明け渡す代償として、名品の茶碗とともに本願寺に贈られた、と言われている。茶碗と石で城を買ったという見方もできなくはない。
参考画像。
まあこれも……。
「末の松山」にはもう一つ名石があって、徳川美術館蔵のもの。こちらは徳川家康の遺愛品とのこと。
参考画像。
信長も秀吉も家康も、けっこう石好きだったようですな。文人大名の小堀遠州なんかも。
もともとは茶の湯と一緒に「文人趣味・唐風趣味」の一環だったわけで、後醍醐天皇は「闘茶」というお茶の原産地当てゲームに熱狂したとか。小堀遠州は「重山」という自身のコレクションを「茶席に飾るには最高の石」と激賞したとか。遠州のコレクションなんて残っていないのかな。
ちなみに以前、秀吉が作らせたという醍醐寺三宝院の庭を見たことがあるけど、思わず噴き出しましたねえ。「いくらいい石ったって、こんなに集めて並べ立てるんじゃあねえよ」と。秀吉は見る目はあるんだろうけど、幽玄なんてものはちっとも理解していなかったようで。
けれどやがて愛玩石は茶道とは別々になって、江戸時代には「弄石」なんていうけったいなものができてくる。
* * *
まあ江戸人というのは、暇だったのか、いろいろな趣味芸事を発展させた。さらには和算、からくり仕掛けといった科学の先駆となるようなものも生み出している。江戸人恐るべし。
「弄石」は京都などを中心に、山野河海で珍奇な石を集め、会を開いて品評をしたりしたらしい。結晶とか鉱物標本というものではなく、不思議な模様の石や「景色」を漂わせる石が中心。
そこで登場するのが日本最古の考古学者にして鉱物学者、木内石亭。
まあ、この人、すごいみたい。簡単にまとめると、
1725(享保9)-1808(文化5)、近江国坂本村(現滋賀県大津市坂本)生。
近江南部は名石・奇石の産地で「弄石」趣味が流行していたが、石亭も幼時から珍奇な石を好み、物産学者津島如蘭、田村元雄(藍水)に学ぶ。藍水同門にはあのエレキテルの平賀源内(別名風来山人・貧家銭内[ひんかぜにない])がいた。諸国を旅し2000種を超える石を収集、独自に分類して『雲根志』『蔵石目録』『曲玉問答』『天狗爪石奇談』『竜骨記』などを著した。また「弄石社」を結成し、諸国の愛好家を結集、指導的役割を果たした。享和3年(1803年)の弄石社名簿には156人の弄石家の名が記されている。
石亭は学問的な態度を持ち石鏃の人工説も唱えており、日本の鉱物学・考古学の先駆者とも評される。シーボルト『日本』の石器・勾玉の記述は彼の業績の引用。
近代の文献として中川泉三編『石之長者木内石亭全集』全6巻、斎藤忠『木内石亭』がある。
なかなかの怪物ですな。時々こういう人って出る。石亭コレクションは残っていないのでしょうかね。
「弄石」は明治以降は「水石」「盆石」などの呼称で庶民の間で生き続けたらしい。水石・盆石は石の飾り方の名称でもあり、流派の名前でもあり、複雑。
以前は骨董屋の店先によく大きな岩石が置いてあった。誰が買うのだろうと思っていたけど、弄石の伝統を脈々と継いでいる人たちがいたのでしょうね。
なお、日本の石鑑賞には、もう一つ、平安以来の「州浜」の伝統(「蓬莱台」「島台」)があるらしいけれど、それは不明なところが多いのでパス。