◎飛行機 21 ライト兄弟 13
★1903年 動力付き飛行機フライヤーの初飛行
○ライト兄弟は1903年9月23日、デイトンを出発し25日にキティホークに到着した
10月に入り、フライヤーの組立てが始まり、11月初めの初飛行を予定していたが、問題が起こった
エンジンの試験をしていると、プロペラの軸とスプロケット(鎖歯車)の結合がゆるみ、軸がねじきれてしまった
新しいプロペラ軸をデイトンにいるテイラーに作らせ、11月21日にプロペラ軸が到着した
試験を再開すると、今度はスプロケットの固定用ナットがゆるんでしまった
接着剤でナットを固める方法をとった
11月28日、プロペラ軸に亀裂が見つかり、オービルがデイトンに戻り作り直しすることになった
12月11日、新しいプロペラ軸をもって、オービルがキティホークに戻ってきた
・兄弟はフライヤーの発進用に、移動式の発進台を作った
全長約18mの木製のレールで、上面はブリキでおおった
レールの上に2輪の台車(トロッコ)をおき、その上にフライヤーの着陸ソリをのせる
発進台を砂丘の斜面に設置し、フライヤーを助走させて速度が上がると機体が空中に浮かび上がるというわけである
○12月14日、最初のこころみ
・最初の操縦者は兄のウィルバーに決まった
10mほど助走し、機体が浮き上がった
ウィルバーは機首を上げようとしたが、角度が大きすぎて失速して落ちて、左翼を砂にたたきつけた
滞空時間は3.5秒だった
機体は損傷したので、その日の飛行は終了した
この12月14日の飛行は、公式には認められていない
傾斜地から滑り落ちる力を利用せず、プロペラの推力だけで飛び上がらないと本当の自力飛行とは認められない
◎12月17日 ついにフライヤーの初飛行に成功
・キャンプ小屋の前の水平な地面にレールが置かれた
・午前10時35分、オービルが1回目の飛行を試みた
機体が急に3m上昇したかと思うと、今度は急に地面に急降下した
レールの末端から30mあまり、空中に浮いた地点から測れば36mあまりのところで飛行は終わりとなった
飛行時間は12秒だった
・その日、さらに3回の飛行が試みられた
2回目はウィルバーが操縦し、13秒、58m
3回目はオービルが操縦し、15秒、60m
12時の4回目の飛行では、ウィルバーが操縦し、59秒、260mの記録を作った
・再度、飛行を試みようとしたが、強い風が吹き、機体がひっくり返りそうになった
押さえようとしたが、機体はころがっていき、傷みがひどくその年の飛行は終了となった
◎人類初の動力飛行のニュース(おもに「ライト兄弟の秘密」原俊郎、叢文社より)
・人類初の動力飛行のニュースはそれほどセンセーショナルには報道されなかった
当時はテレビもラジオもない
目撃者が5人と少なかったこと、報道関係者でもない
飛行が人里離れた海岸で行われたこと
人間が空を飛べるということが一般に信じられていなかったこと
ライト兄弟が無名だったこと
など
目撃者のひとり、ジョン・ダニエルは午前10時35分の飛行の歴史的な離陸の瞬間を写真撮影したが、この写真は当時報道陣には公開されなかった
○ライト兄弟はキティーホークの気象観測所まで歩いていき、そこからデイトンの父親にあてて電報を打ってもらった
「木曜の午前4回の飛行に成功した
時速21マイルの風のなか、平地からエンジンだけで発進し、平均速度は時速31マイルで、最大57秒であった
新聞に知らせてください、クリスマスに帰る」
電報の中継のさいに、59秒を57秒と打ち間違えたらしい
・ライト兄弟はデイトンの次男ロリンに連絡し、ロリンからニュースを新聞社に流す手はずだったが、ニュースはノーフォークからもれ、まずノーフォーク・バージニアンパイロット紙が入手した
バージニアン紙の記者は全国21の新聞社にこのニュースを売ろうと試みたが、オーダーがきたのは5紙だけ、しかも翌朝の記事にしたのはニューヨークのアメリカン新聞社とシンシナティのエンクイアラー社だけだった
★1903年 動力付き飛行機フライヤーの初飛行
○ライト兄弟は1903年9月23日、デイトンを出発し25日にキティホークに到着した
10月に入り、フライヤーの組立てが始まり、11月初めの初飛行を予定していたが、問題が起こった
エンジンの試験をしていると、プロペラの軸とスプロケット(鎖歯車)の結合がゆるみ、軸がねじきれてしまった
新しいプロペラ軸をデイトンにいるテイラーに作らせ、11月21日にプロペラ軸が到着した
試験を再開すると、今度はスプロケットの固定用ナットがゆるんでしまった
接着剤でナットを固める方法をとった
11月28日、プロペラ軸に亀裂が見つかり、オービルがデイトンに戻り作り直しすることになった
12月11日、新しいプロペラ軸をもって、オービルがキティホークに戻ってきた
・兄弟はフライヤーの発進用に、移動式の発進台を作った
全長約18mの木製のレールで、上面はブリキでおおった
レールの上に2輪の台車(トロッコ)をおき、その上にフライヤーの着陸ソリをのせる
発進台を砂丘の斜面に設置し、フライヤーを助走させて速度が上がると機体が空中に浮かび上がるというわけである
○12月14日、最初のこころみ
・最初の操縦者は兄のウィルバーに決まった
10mほど助走し、機体が浮き上がった
ウィルバーは機首を上げようとしたが、角度が大きすぎて失速して落ちて、左翼を砂にたたきつけた
滞空時間は3.5秒だった
機体は損傷したので、その日の飛行は終了した
この12月14日の飛行は、公式には認められていない
傾斜地から滑り落ちる力を利用せず、プロペラの推力だけで飛び上がらないと本当の自力飛行とは認められない
◎12月17日 ついにフライヤーの初飛行に成功
・キャンプ小屋の前の水平な地面にレールが置かれた
・午前10時35分、オービルが1回目の飛行を試みた
機体が急に3m上昇したかと思うと、今度は急に地面に急降下した
レールの末端から30mあまり、空中に浮いた地点から測れば36mあまりのところで飛行は終わりとなった
飛行時間は12秒だった
・その日、さらに3回の飛行が試みられた
2回目はウィルバーが操縦し、13秒、58m
3回目はオービルが操縦し、15秒、60m
12時の4回目の飛行では、ウィルバーが操縦し、59秒、260mの記録を作った
・再度、飛行を試みようとしたが、強い風が吹き、機体がひっくり返りそうになった
押さえようとしたが、機体はころがっていき、傷みがひどくその年の飛行は終了となった
◎人類初の動力飛行のニュース(おもに「ライト兄弟の秘密」原俊郎、叢文社より)
・人類初の動力飛行のニュースはそれほどセンセーショナルには報道されなかった
当時はテレビもラジオもない
目撃者が5人と少なかったこと、報道関係者でもない
飛行が人里離れた海岸で行われたこと
人間が空を飛べるということが一般に信じられていなかったこと
ライト兄弟が無名だったこと
など
目撃者のひとり、ジョン・ダニエルは午前10時35分の飛行の歴史的な離陸の瞬間を写真撮影したが、この写真は当時報道陣には公開されなかった
○ライト兄弟はキティーホークの気象観測所まで歩いていき、そこからデイトンの父親にあてて電報を打ってもらった
「木曜の午前4回の飛行に成功した
時速21マイルの風のなか、平地からエンジンだけで発進し、平均速度は時速31マイルで、最大57秒であった
新聞に知らせてください、クリスマスに帰る」
電報の中継のさいに、59秒を57秒と打ち間違えたらしい
・ライト兄弟はデイトンの次男ロリンに連絡し、ロリンからニュースを新聞社に流す手はずだったが、ニュースはノーフォークからもれ、まずノーフォーク・バージニアンパイロット紙が入手した
バージニアン紙の記者は全国21の新聞社にこのニュースを売ろうと試みたが、オーダーがきたのは5紙だけ、しかも翌朝の記事にしたのはニューヨークのアメリカン新聞社とシンシナティのエンクイアラー社だけだった