◎腐ったら、負け(1)
★「腐ったら、負け」(篠本634、角川春樹事務所)を読みました
●HKT48の結成が発表されたのは、2011年5月1日である
1期生のオーディションの日は、バスケ部に打ち込んでいたはるっぴの、中学3年最後の大会の日でもあった
はるっぴはバスケよりもオーディションを選んだ
・オーディション会場にやってきた中学2年の少女、宮脇咲良
少女は小学2年生のときからミュージカル教室に通った
ミュージカル教室では、歌、ダンス、演技すべてを習った
その後、いろんな作品のオーディションを受けたが、最終段階で落ちた
そんな中で、少女が出した結論は「何ごともポジティブに受け止めること」
そうして、劇団四季の「ライオンキング」のヤングナラの役を射止めた
・さくらは中学1年生のときに、ニューヨークのブロードウェイに2週間ほど留学した
初の日本人留学生のひとりだった
最終日、ひとりずつ歌のパフォーマンスをした
先生が言った
「1番よかった生徒に、もう1度歌ってもらいます…
さくら!」(写真集「さくら」より)
・さくらは産婦人科医を目指して勉強していたが、その夢をすてたのである
・秋元氏が言う
「今回は、3年後に輝く原石を選んだつもりです
夢というのはみんなが全力で両手を伸ばした1mm先にあるものです
そのときに諦めて手を下ろしてしまった者には、絶対に届かない」
・1期生は言い合いとか、意見のぶつかり合いとかもなかった
「なんでも言い合えるぐらいの仲じゃないとダメだと思うよ
相手のことを考えて言い合うことが大切なんだよ」(高橋みなみ)
・スタートしたけれど、劇場公演のチケットの応募数は激減し、2012年2月に入った頃、とうとう「定員割れ」を起こした
●2012年3月、チームHが結成された
穴井千尋がキャプテンに選ばれた
「人前でしゃべるとか、誰かに指示したり、怒ったりっていう経験がまったくなかったんですよ。むしろ陰でおとなしくしていたほうだったから」(ちーちゃん)
・デビューしてから半年ほどたっても、劇場公演のチケットの応募数は増えなかった
「この状況を変えるには、どうしたらいいんだろう?ってみんな悩んでいました」(さくら)
●2012年6月6日、第4回AKB48選抜総選挙
さくらは母にひとつの約束をした
「64位以内にランクインできなかったら、HKT48を卒業する」(写真集「さくら」)
結果は、HKT48からただ一人ランクインした(47位、6635票)
当時の支配人は、HKT48は始まったばかりで、「1人も入らなくていい」と言っていた
この頃は、さくちゃんは自分の魅力にあまり自覚がなかったのではないだろうか
・総選挙後、さくらは鹿児島の実家に帰った
久しぶりの家族の夕食には、父の手料理が並んでいた
父の得意なスンドュブチゲ(純豆腐鍋)
辛いものが苦手なさくらのために、はちみつ入りの特製鍋
中学受験のときは、父は先生になって、仕事に疲れていても、遅くまで勉強を教えてくれました
「HKTを頑張るか、勉強を頑張るかどっちかにしてほしい」
「どっちもやりたい。どっちも中途半端にしたくない
だから両方とも頑張りたい」(「あなたがいてくれたから」朝日新聞出版)
●2012年6月16日、指原莉乃がAKB48のチームAからHKT48への移籍が発表された
秋元氏の発言より
「指原莉乃の「不屈の精神」、「何があってもあきらめない気持ち」は、AKBのメンバーとして模範となるものです
この強さを後輩に伝えて欲しいと思い、結成して間もないHKT48に移籍させることにしました
指原莉乃に新たな挑戦をさせたかったこと
若いHKT48のメンバーの刺激になればいいと
そのうちにグループ最強のHKT48を率いてやって来るかもしれません」
「今まで、お手本となる人が上にいなかったのはマイナスだったし、さっしーが来ることで、そういう存在になってもらえるかもしれない
当時のHKT48は、毎日の公演で慣れが出てきていたし、ただ仲がいいだけのなれ合いグループになっていて、何も進歩してなかったから」(ちーちゃん)
「さっしーが入ってくることに関しては、私は楽しみでした」(さくら)
・指原莉乃の移籍は左遷ではなく、チャンスだった
・2012年7月5日、さっしーがチームHとして劇場公演デビュー
さっしーは、メンバーが3か月ぐらいかかった「手をつなぎながら」公演のダンスを3日間で覚えてきた
さっしーに一番最初に話しかけたのは、村重杏奈だった
「村重が一番最初にさっしーを打ち解けさせてあげようと思ってました」(むらしげ)
●さっしーには、HKT48の問題点が見えていた
一番大きかったのは、MCが下手だったこと
MCで話すことをフリートークではなく、台本のセリフのように全部前もって決めて、練習していた
だからおもしろくなかった
「お題だけ決めてあとは何も考えなくていいから」というさっしーのアドバイスで、うまくいくようになった
★「腐ったら、負け」(篠本634、角川春樹事務所)を読みました
●HKT48の結成が発表されたのは、2011年5月1日である
1期生のオーディションの日は、バスケ部に打ち込んでいたはるっぴの、中学3年最後の大会の日でもあった
はるっぴはバスケよりもオーディションを選んだ
・オーディション会場にやってきた中学2年の少女、宮脇咲良
少女は小学2年生のときからミュージカル教室に通った
ミュージカル教室では、歌、ダンス、演技すべてを習った
その後、いろんな作品のオーディションを受けたが、最終段階で落ちた
そんな中で、少女が出した結論は「何ごともポジティブに受け止めること」
そうして、劇団四季の「ライオンキング」のヤングナラの役を射止めた
・さくらは中学1年生のときに、ニューヨークのブロードウェイに2週間ほど留学した
初の日本人留学生のひとりだった
最終日、ひとりずつ歌のパフォーマンスをした
先生が言った
「1番よかった生徒に、もう1度歌ってもらいます…
さくら!」(写真集「さくら」より)
・さくらは産婦人科医を目指して勉強していたが、その夢をすてたのである
・秋元氏が言う
「今回は、3年後に輝く原石を選んだつもりです
夢というのはみんなが全力で両手を伸ばした1mm先にあるものです
そのときに諦めて手を下ろしてしまった者には、絶対に届かない」
・1期生は言い合いとか、意見のぶつかり合いとかもなかった
「なんでも言い合えるぐらいの仲じゃないとダメだと思うよ
相手のことを考えて言い合うことが大切なんだよ」(高橋みなみ)
・スタートしたけれど、劇場公演のチケットの応募数は激減し、2012年2月に入った頃、とうとう「定員割れ」を起こした
●2012年3月、チームHが結成された
穴井千尋がキャプテンに選ばれた
「人前でしゃべるとか、誰かに指示したり、怒ったりっていう経験がまったくなかったんですよ。むしろ陰でおとなしくしていたほうだったから」(ちーちゃん)
・デビューしてから半年ほどたっても、劇場公演のチケットの応募数は増えなかった
「この状況を変えるには、どうしたらいいんだろう?ってみんな悩んでいました」(さくら)
●2012年6月6日、第4回AKB48選抜総選挙
さくらは母にひとつの約束をした
「64位以内にランクインできなかったら、HKT48を卒業する」(写真集「さくら」)
結果は、HKT48からただ一人ランクインした(47位、6635票)
当時の支配人は、HKT48は始まったばかりで、「1人も入らなくていい」と言っていた
この頃は、さくちゃんは自分の魅力にあまり自覚がなかったのではないだろうか
・総選挙後、さくらは鹿児島の実家に帰った
久しぶりの家族の夕食には、父の手料理が並んでいた
父の得意なスンドュブチゲ(純豆腐鍋)
辛いものが苦手なさくらのために、はちみつ入りの特製鍋
中学受験のときは、父は先生になって、仕事に疲れていても、遅くまで勉強を教えてくれました
「HKTを頑張るか、勉強を頑張るかどっちかにしてほしい」
「どっちもやりたい。どっちも中途半端にしたくない
だから両方とも頑張りたい」(「あなたがいてくれたから」朝日新聞出版)
●2012年6月16日、指原莉乃がAKB48のチームAからHKT48への移籍が発表された
秋元氏の発言より
「指原莉乃の「不屈の精神」、「何があってもあきらめない気持ち」は、AKBのメンバーとして模範となるものです
この強さを後輩に伝えて欲しいと思い、結成して間もないHKT48に移籍させることにしました
指原莉乃に新たな挑戦をさせたかったこと
若いHKT48のメンバーの刺激になればいいと
そのうちにグループ最強のHKT48を率いてやって来るかもしれません」
「今まで、お手本となる人が上にいなかったのはマイナスだったし、さっしーが来ることで、そういう存在になってもらえるかもしれない
当時のHKT48は、毎日の公演で慣れが出てきていたし、ただ仲がいいだけのなれ合いグループになっていて、何も進歩してなかったから」(ちーちゃん)
「さっしーが入ってくることに関しては、私は楽しみでした」(さくら)
・指原莉乃の移籍は左遷ではなく、チャンスだった
・2012年7月5日、さっしーがチームHとして劇場公演デビュー
さっしーは、メンバーが3か月ぐらいかかった「手をつなぎながら」公演のダンスを3日間で覚えてきた
さっしーに一番最初に話しかけたのは、村重杏奈だった
「村重が一番最初にさっしーを打ち解けさせてあげようと思ってました」(むらしげ)
●さっしーには、HKT48の問題点が見えていた
一番大きかったのは、MCが下手だったこと
MCで話すことをフリートークではなく、台本のセリフのように全部前もって決めて、練習していた
だからおもしろくなかった
「お題だけ決めてあとは何も考えなくていいから」というさっしーのアドバイスで、うまくいくようになった