23日は松島から仙台へ行き、仙台市を一回りできるシティーバスに乗って観光地を巡った。
瑞鳳寺、青葉城、三居沢水力発電所、大崎八幡宮、と巡り、最後に仙台博物館へ行ったがその時、目に入ったのが
写真の船だった。この船は、1613年に支倉常長が太平洋を横断してローマまで行き、7年後に帰ってきているが
この船た゛ったのだ。しかし、関ヶ原の戦いが終わり、徳川の時代に入った矢先にどうして、ローマまで行ったのか
疑問であったが、案内員の説明で理解できた。すなわち、この当時は、世界をスペインが牛耳っていたのだが、その目的
は、植民地の獲得とカトリック教の普及活動であった。日本には、ザビエルで有名な宣教師が、その活動をすでに活発に行な
われていたが、この渡航する数年前に、スペインの船が日本の近辺で座礁して帰らなくなったのを徳川家康が船を造り、
送り返すことをおこなった。しかし、この船は、日本を出てすぐに、難破していまい帰れなくなった。この時、伊達政宗が
カトリック教に興味があり、家康に申し出て、船を造ることを引き受けた。直ちに、支倉常長に命じて、再度、船をスペイン人と
船専門の製造人とで作らせ、この船で、太平洋を渡り、スペインのマドリードをおとずれているのだ。
そのコースはアフリカのマゼラン海峡を経由するのではなく、メキシコのアカプルコまでこの船で行き、そこから陸地を渡り、
スペイン海軍の船で大西洋を渡ている。その後、宣教師のソテロとともにローマへ行き、法王パウロ5世に会いカトリック教の
洗礼をうけ、改宗している。帰りはどうしたかであるが、逆コースでかえるのであるが、メキシコからは、フィリピンのマニラ
に着き、日本で作った船は取り上げられ、その後、この地で2年間滞在してから、帰国している。しかし、日本を後にした翌年
には、すでにキリスト教の禁止令が出て、宣教師の追放令がでており、帰国したが政宗は、歓待するでもなく、領内に禁教令を
はっしている。1621年に支倉常長は没するのであるが、その後ソテロはマニラより密入国するのであるが、つかまり、処刑
されている。この後、島原の乱等のカトリック信者による戦いが勃発するのは有名であるが。