散歩のコースはどこですか

79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

今年は秋の茶葉だ

2018-10-31 10:37:06 | 日記

今日はあさから素晴らしい天気で、久しぶりに多摩川の土手を上流へ向かって歩いた。

遠くに富士山が真っ白な姿を現し、多摩川では白鷺が20羽ばかり、泳いでいた。しかし、

多摩川の土手の木の色は、茶色に染まり、見るからに元気がない。これは、台風24号がもたらした

塩害の影響か、紅葉の秋とは程遠い。私の近くの並木通の木も写真のように、茶色に染まっていた。

イタリアのベネチヤで洪水が発生したり、インドネシアでは、地震で津波が発生し、相当な被害が

出たと報じているが、地球は異常になっている。人間も異常にならないようにしたいものだが、トランプ

のような大統領がブラジルでも出てきた。これも世界の一国主義の表れか、変化が起こりつつあるのが

恐ろしい。


昼の高速バスは老人向き

2018-10-30 11:34:27 | 日記

仙台、松島の旅行は24日が帰りの日であったが、新宿バスタの高速バスに乗ってみたかった

ことから、丁度24日の旅行の帰りに時間に余裕があったので、楽天を通じて予約していた。

朝九時に仙台を出発し午後2時30分に到着する正味5時間30分の高速バスであった。しかし

当日、秋保温泉を定期バスが8時10分に出て、仙台西口に8時50分に着くとフロントで聞き、

十分間に合うかと思っていた。しかし到着が5分遅れで、間に合うか判らないことから、バス会社

に連絡したが、待ってくれないとのことで、駆け足で出発場所までいそいだが、西口の手前に

定期バスが止まったことから、結果的には2分遅れで乗れなかった。次のバスはと調べたがなく、

コンビニへ行って、パソコンで次の空きの高速バスを検索し、幸いに、jr東北高速バスに11時発

で午後4時30分に到着するバスの空きを見つけ、券を購入することができた。値段は行きに

使った新幹線の1/3の3500円で、それに3人座席のゆったりしたバスで、わたしが乗った時には、

まだ少々の空き席があった。途中は、天気も良く、車窓からの眺めは素晴らしく、それに、トイレも

車の後部にあり安心だ。高速のサービスエリアに3度ほど止り、10分ほどの休憩もあり、買い物も

容易で快適であった。昼間の高速は、当日でも空きがあることから、時間に余裕のある老人には、

大変便利であると思った。

いま、リニアー新幹線が名古屋までの間で工事しているが、トンネルばかりで、楽しむ子間もなく

1時間数十分で着くなど、ビジネスマンにはよいかもしれないが、老人には不向きだ。

私は、時間に余裕があれば、名古屋と仙台までの間は、高速バスに、今後はしようと思った。


伊達藩の延命は政宗から

2018-10-28 11:32:11 | 日記

先日はの23日は、一日中仙台市内の名所旧跡を見学した。青葉城恋歌に出てくる広瀬川を挟んで

沢山の公園があり、杜の都と言うように、緑が多い、住みやすい所であると感じた。この町を

作り上げたのが、かの有名な伊達政宗である。瑞鳳寺を見学してきずいたが、写真のような伊達政宗の

墓と道を挟んで2代目と3代目の墓である感仙寺と善応寺が同様に豪華絢爛な廟としてたてられている。

伊達藩は、伊達政宗が豊臣秀吉が北条の征伐の小田原攻めの時、有名な白装束で十字架を背負って参戦して

許された政宗の時代にはじまる。領国の会津地方を没収されたが、その後の関ヶ原の戦いでは、徳川側に付き、

徳川家康からは、62万石の大大名として東北一の藩となっている。しかし、3代目に入るころには外様大名は、

国替えや縮小などを徳川が実施している。伊達藩の場合は、3代目がすぐに江戸へ隠居し、4代目の子供に

譲っている。このため62万石は維持され、徳川が大政奉還するまで、続いている。このことは、3代目までは、

豪華な墓であるがその後の墓は、現在の石の墓にかわっている。このことは、青葉城の天守閣を取り壊し、

できるだけ目につかないようにして、延命をしてきた伊達藩の知恵ではないかと思った。写真の馬上の伊達政宗

の銅像の姿がこのことをものがたっている。


支倉常長はどうしてローマへ行ったのか

2018-10-26 09:55:51 | 日記

23日は松島から仙台へ行き、仙台市を一回りできるシティーバスに乗って観光地を巡った。

瑞鳳寺、青葉城、三居沢水力発電所、大崎八幡宮、と巡り、最後に仙台博物館へ行ったがその時、目に入ったのが

写真の船だった。この船は、1613年に支倉常長が太平洋を横断してローマまで行き、7年後に帰ってきているが

この船た゛ったのだ。しかし、関ヶ原の戦いが終わり、徳川の時代に入った矢先にどうして、ローマまで行ったのか

疑問であったが、案内員の説明で理解できた。すなわち、この当時は、世界をスペインが牛耳っていたのだが、その目的

は、植民地の獲得とカトリック教の普及活動であった。日本には、ザビエルで有名な宣教師が、その活動をすでに活発に行な

われていたが、この渡航する数年前に、スペインの船が日本の近辺で座礁して帰らなくなったのを徳川家康が船を造り、

送り返すことをおこなった。しかし、この船は、日本を出てすぐに、難破していまい帰れなくなった。この時、伊達政宗が

カトリック教に興味があり、家康に申し出て、船を造ることを引き受けた。直ちに、支倉常長に命じて、再度、船をスペイン人と

船専門の製造人とで作らせ、この船で、太平洋を渡り、スペインのマドリードをおとずれているのだ。

そのコースはアフリカのマゼラン海峡を経由するのではなく、メキシコのアカプルコまでこの船で行き、そこから陸地を渡り、

スペイン海軍の船で大西洋を渡ている。その後、宣教師のソテロとともにローマへ行き、法王パウロ5世に会いカトリック教の

洗礼をうけ、改宗している。帰りはどうしたかであるが、逆コースでかえるのであるが、メキシコからは、フィリピンのマニラ

に着き、日本で作った船は取り上げられ、その後、この地で2年間滞在してから、帰国している。しかし、日本を後にした翌年

には、すでにキリスト教の禁止令が出て、宣教師の追放令がでており、帰国したが政宗は、歓待するでもなく、領内に禁教令を

はっしている。1621年に支倉常長は没するのであるが、その後ソテロはマニラより密入国するのであるが、つかまり、処刑

されている。この後、島原の乱等のカトリック信者による戦いが勃発するのは有名であるが。


大学寮の同期会旅行

2018-10-25 09:53:14 | 日記

私は、熊本の高校を卒業して、東京の大学に昭和37年に入り、武蔵市にあった寮に3年間生活した。

その間に、いろいろのことを習得したが、同じ仲間が今も、年に1度、同期会として旅行を兼ねて集まっている。

今年は仙台松島で22日から23日で行われた。約20回ほどになるが、参加者は、今回は7人であった。遠くは広島

から飛行機できているが、午後の2.30時に松島海岸駅に集合したが、毎年1人づつ参加者が減っていくのは残念だ。

松島海岸の復興はすばらしい。津波の影響は、湾を覆う防波堤の役目の桂島などから最小限にくい止められたのか

死者も出ず災害も最小限になったようだ。遊覧船で湾内を一回りしたが、250近くの小島がつくる景色は、天候にも

恵まれてすばらしかった。宿は、海岸に面した、魚の漁師が経営する居酒屋兼ホテルの場所で新鮮な魚の料理が

とてもおいしく、昔の寮生活を思い出しながらの雑談で懇親を深めた。この宿の夕食までの間、時間があったので

近くの瑞巌寺を訪れてみた。途中、境内に1メートルのところまで海水が来たとの看板を見かけたが、海岸から約

200メートルほど入ったところであり、災害の大きさを再確認した。しかし、瑞巌寺の本堂までは、海水は到達

しなかったようで、伊達政宗による建造物は、江戸初期に建造されたままの姿をのこしていた。本殿の襖に描かれた

絵のすばらしさはさすがに国宝だと思った。写真を撮れないので紹介できないのが残念だ。

 


船の製造技術の歴史

2018-10-21 09:43:02 | 日記

先日は、日本が幕末から明治維新にかけて、船建造の遅れから外国から大量の船を購入したことを述べた。しかし

日本は、その後、急速に、自国で開発できる技術を養い、第二次世界大戦のときには写真のように、世界一の戦艦を製造し

完成させるまでにいたっている。この製造技術はどのような、経過を経てな繁られたのかをのべたい。

1576年に、織田信長が毛利の水軍と戦った木津川口の戦いでは、伊勢の大名に製造させた、木造の船体を鉄板で覆い

火矢攻撃から防ぎ、鉄船の走りといわれているが装甲艦とは違う。日本で最初に実用蒸気船を製作したのは、佐賀藩主が

1865年に三重津製造所に造らせた木製外輪汽船で田中久重(のちの東芝の創業者)が責任者となっている。この船は

長さ18m幅3.3mの小船で有明海での輸送で活躍している。この後の日清戦争や日露戦争で活躍する戦艦や巡洋艦

は、ほとんどヨーロッパから購入した戦艦である。ペリーが浦賀に現れた時の外輪式軍艦のはしりの蒸気船は

船の中央を蒸気機関に占領され、また外輪は波に弱く、当初は、ハドソン川などの商船として使用され、それが改良

されて、外輪式軍艦となったのである。この戦艦は外輪式からスクリュー式へ移っていくのであるが、その最初は、1846年

にフランスの海軍がナポレオン号としてを完成させているがこれに使われたのがスクリュー式の汽走91門戦列艦であった。

この種の戦艦を日本は、国力を増強することから、イギリスなどから大量に購入し、ロシアと日本海海戦に挑むのである。

すなわち、日本の戦艦は、その当時の性能の最先端をゆくものであり、ロシアの戦艦に比べて、数段すぐれていたと

思われる。

 


ペルー来航と日本の造船技術の先駆けは

2018-10-18 10:45:00 | 日記

今日は、西郷どんで出てきた坂本竜馬が長崎で設立した(亀山社中)に絡めて、日本の造船技術がどうして

世界指おりの国となったのかを紹介しよう。それは、ペルーの来航の1853年にはじまる。この当時、徳川幕府は

世界の変化を長崎のオランダ人から知り、翌年蒸気軍艦を招き、いち早く、薩摩や佐賀藩などがその技術を理解した。

この技術を見て、日本では、すぐにこの蒸気船をつくることができないことから、西洋から購入することに専念し始め

1866年までの間に、輸入船の数は、110艘の内82艘が蒸気船であった。幕府が軍艦と輸送船を含めて27艘

他は、諸藩で、特に、薩摩が16艘、長州が6総であった。この薩摩と長州などへの売買をおこなったのが坂本竜馬である。

幕府は輸入に伴って、実施学習と輸入船の訓練教育を行うべく、いろいろの背策をおこなっている。

すなわち、運転の習熟を行うための船用機関の製造技術を習得するために、石川島に設置している。

これがのちの石川島播磨重工となるのである。1862年には、オランダへ16名を派遣留学生として、渡航させているが、

その中に、榎本武揚、中島兼吉などがおり、榎本は戊申戦争のあと北海道の開拓に一躍名をとどろかせ、中島は後の

中島飛行機のもとになるのだ。教育機関としては、徳川幕府は、神戸に1862年に付属、勝海舟に操練所を建設提案し、

その付属機関として長崎製鉄所を発足している。しかし、この操練所が解散したあと、その生徒であった坂本竜馬が

かの亀山社中を長崎に貿易商社とした設立していることは有名である。その後、勝海舟は再度、海軍伝習係となり

イギリス教師のもと英国式海軍伝習がはじまり、この後戊申戦争を経て、明治維新となるのである。この後は、輸入した

蒸気船には、老朽化に伴って故障もひんぱっしたが、これを自力で修理することが国として必要となり、国内各地に、

修理工場ができていった。これが、その後、日本の造船技術を完成させていくのである。

 

 

 


鉄砲の弾と火薬の歴史

2018-10-16 09:55:36 | 日記

今朝の天気は、曇りの間から、青空がのぞいてはいるが、相当に寒い。富士山に雪が積もったとの報道で、

散歩の途中に薄っすらと見えるのを確認できたが、まだ、冬の白い富士山の景色とは程遠い。それにしても、

朝晩の冷え込みと、夕暮れの速さは、10月に入って健著になってきた。今日は、昨日の鉄砲の歴史につづいて、

火薬と鉄砲の弾についての歴史を調べたので紹介しよう。

鉄砲の製作には「張り立てる」という製法が使われた。 鉄砲のシンになる棒を立てて置き、そのまわりを薄い鋼

の板で巻いてゆき、その間、焼いたり打っ たりして、何枚も張り重ね、最後にシンの鉄棒を抜き取るのだ。この製法に

より当時の日本の鉄砲 は諸外国と比較しても格段に質がよかった。なかでも国友製の鉄砲は高級鉄砲として高い値で売買

されていた。南蛮渡来の鉄砲 は日本と同じ製法だが、鍛造や張り立てにおいて粗末だったといわれている。この鉄砲に

使用されていた弾には、先込め火縄滑腔丸弾であって、獣猟にも鳥猟にも1個の丸弾( マルダマ)が使用され、軍用銃

と猟用銃との区分はなかった。  種子島に伝来した2丁の銃のうち1丁は、和歌山県の根来(ねごろ)に持ち込まれ、

根来は鉄砲の一大生産地となりました。伝来の2年後には、堺の商人が早くも鉄砲生産を開始。堺は日本最大の鉄砲産地

となり、戦国大名に鉄砲を売りさばき、大きな利益を上げました。さらに滋賀県の国友村にも鉄砲の生産地は広がります。

国友ではこの技術を貰いうけて、火薬の製法と合わせて射撃法も伝授している。この火薬は黒色火薬が使用されたが

木炭、硫黄、硝酸カリュムを粉末化して混合したものであった。当初は、日本では、硝酸カリュムが取れなく、人の

尿を利用して作っていた。すなわち、尿のアンモニアをわらに浸み込ませ、腐らせると硝酸カリュムの液ができるのだ。

その後は明治時代にはいり、チリから安い硝酸カリュムが輸入できるようになった。この火薬がその後、いろいろな

兵器の弾丸と使用されることにったのだ。



鉄砲伝来と国友鉄砲鍛冶

2018-10-14 08:59:15 | 日記

以前から鉄砲はどのようにして作られてきたのかとの興味があったので調べた。1543年に種子島に漂着したポルトガル人 が初めて2挺の火縄銃をもたらしたことになっている。しかし最近の研究ではこのろから鉄砲の国内生産が始まり諸国に普及していったことは、 まず間違いないようであるが まだ鉄砲が珍しい時期、大名たちはこぞって領地確保のために室町将軍家に鉄砲や大砲を 進上していた。しかし、いったん合戦での有効性が認められると 諸大名は鉄砲の確保・装備を急ぎだし、そのスピードは大変なものであった。その結果、鉄 砲伝来わずか半世紀で日本中あらゆる所で使用されるようになり、織田信長が1575年の長篠の合戦で日本で初めて大量の鉄砲を組織的に使い、当時最強 の騎馬軍団を有していた武田氏を打ち負かし、その勝因は鉄砲にあるとのことは有名である。 また、江戸時代の日本人は積極的に鉄砲を排除した理想的社会であったとする説があり、徳川幕 府は銃火器を非合法化したが実際は、江戸中期の鉄砲調査記録をよると仙台藩3984挺、尾張藩3080 挺以上、長州藩4158挺という具合に、民間に大量の鉄砲が存在していた。つまり鉄砲 は、太平の世には鮮明な形で世に現れなくなっただけのことである。 しかし、そんな鉄砲も幕末維新の動乱期には再び世に鮮明に現出する。この時期、西洋式の最 新銃が大量に日本に輸入され、国内は旧式銃と最新洋式銃が混在しながら、膨大な量の鉄砲が出 回るようになった。国内での製造は、「国友鉄砲鍛冶」 が担っていた。現在の長浜市国友地区は、室町末期から江戸幕府の終末まで一貫して鉄砲鍛 冶の町として栄え、その規模・歴史においても国内随一で、最盛期には鉄砲鍛冶が八十戸も存在 していたという。種子島に 鉄砲が伝来した鉄砲は鹿児島藩主の島津家に贈られ、島津家はそれ を室町将軍足利家に贈ったという。そしてその鉄砲をモデルに同じものを作るよう命じられたの が国友鍛冶であり、その仕掛けを見極め、伝来の翌年には国産鉄砲を完成させた。 国友と戦国武将との関係は織田信長から始まる。信長は早くから鉄砲に関心を寄せ、また合戦 武器として着目していたこともあり、鉄砲伝来わずか6年後には国友鉄砲鍛冶たちは、信長から鉄 砲五百挺の注文を受けている。さらにはこの注文により国友は鉄砲による生活・生産の基礎がで き大いに繁盛した。そのような関係から当時の国友は、はじめ京極家、次いで浅井家の支配地だ ったが、経済的には織田信長と深く結びついていったのである。しかし、国友鉄砲鍛冶が量産体 制を整えるのは徳川家康との関係が密接になって以後のことであり、大阪の両陣がその契機にな った。というのは、家康は大阪方に対する戦備から、国友鉄砲鍛冶の集団を直接支配下におき、 銃砲製造工場としての役目を担わせ、大量の大砲などを発注し、本格的に量産体制を整えさせた からである。


散歩のコース

2018-10-12 09:42:19 | 日記

 

雨が少々ふっていたが、笠をさして、多摩川の上流の土手を歩いた。中央公園から永田橋までの途中には、今まで気を

つけていなかったが、いろいろな石物があった。中央公園の真ん中には、河童のような2人のモニュメントがあり、

永田橋の近くの公園には、交通安全の子供を抱えた女性3人を刻んだ石物があった。このような石物は、やはり、

公園の名前を引き立たせる役目を担っているのだなあと思った。ないと公園の印象がうすれるのか、公園には

外せない物かもしれない。