散歩のコースはどこですか

79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

空中タクシーは必要か

2018-09-28 10:28:14 | 日記

先日、スマホでニュースをみていたら、空中タクシーを検討していることの記事に

目が止った。この空中タクシーをアメリカの事業者が実現するために、日本のトヨタあたりと

国の運輸省の役人たちを集めての懇談会を行ったとの記事である。すでに、タクシーはアメリカ

や中国などで完成しているらしい。このタクシーをもし、日本で導入するば、新宿から

横浜まで約10分で行けるとのこと。しかし、問題は、これを導入するためには、国で

認めてもらう必要があり、いろいろの国を訪問して、導入を行うための試行を行う国を選ぼうと

している。目標として平成35年をといっているが、トヨタは、このタクシーの開発はやらないとの

方針であり、また国も説明を受けても、躊躇しているようだ。当然のことと思う。空の上を

ドローンのように、人を乗せたタクシーが飛ぶこと自体危険だ。このように、スピードを要する

必要がはたしているのであろうか。緊急患者の輸送としては、すでに、ヘリコクターがあるではないか。

このような、タクシーはどこかの国にまかせて、その様子を見ればよい。まったく手塚治の漫画の

世界をみることがおこるのであろうか。恐ろしい時代になるのでは。?

 

 


原発処理に疑問

2018-09-26 09:09:13 | 日記

最近の新聞記事で疑問に思ったことを述べたい。

国の原子力岡芳明委員長が廃炉作業が始まった高速増殖炉の後継として政府が進めようと

しているもんじゅと同じナトリュウム冷却型は経済性がなく、無駄な予算と優秀な人材を

浪費していると述べている記事を毎日新聞で見た。政府が進めようとしている開発は、フランス

との共同で、実証炉であるが、この高速炉が電力会社で利用すれるためには現在の軽水炉並みか

それ以下の建設コスト、発電コストである必要があるが、膨大なコストがかかり、造ってもうまく

動くかの疑問を呈している。それに、ウランは地殻上には実質的には無限に存在するがこのウランが

枯渇するから高速炉サイクルが必要と言うのは間違っているとも。原子力の委員長が言っているのには驚く。

私は、むしろこの技術は、廃炉技術に向けるべきであると思う。廃炉技術は生産性がないようだが、

世界中の原発が寿命やら、再生エネルギーへの転換で廃炉になるのがこれからは多くなってくると思う。

この技術を政府は力を入れてゆくべきだ。

日本は地震大国だ。猶更、必要な技術となると思うし、この技術は地球の安全のためにも夢と希望を与えると思う。

写真は散歩の途中に撮った趣味の野菜栽培のゾーンである。

 

 


徳川幕府と尊王攘夷

2018-09-24 10:20:37 | 日記

秋である。写真は、黄色く実った稲であり、もうすぐ収穫だ。今日は、先日の続きとして、徳川幕府は

どうして、天皇を上位に据えて、幕府体制を返上せねばならなかったのか。信長は、天皇を嫌って、自分が

征夷大将軍として上位に位置図けていたものが。この考え方がどうして生まれたかを調べた。

これは、水戸光圀が編纂した「大日本史」が、幕末水戸藩の尊王攘夷思想のバックボーンとなったことからわかる。

「徳川の御三家にもかかわらず」である徳川一門の水戸藩が、なんで反幕府思想の温床みたいになっちゃったのか、

を考えないと、まず前提として、「尊王攘夷=反幕府」では全然ない。尊王攘夷というのは「正統な君主のもとに団結し、

外国に屈するな」という思想であることは日本人の一般常識である。その先頭に立つのが征夷大将軍であるが、平安時代、

鎌倉時代、室町時代までは、天皇が政権を任せている幕府を中心に「尊王攘夷」を進めるべきだであると言う思想が

常識的な考え方であった。つまり、水戸はべつに「反幕府思想」を広めていたわけでは決してない。しかし、徳川のなか

でも水戸家がとくにこの思想に熱心だったのはなぜか、これは「水戸は、御三家のなかで三番手だから」だ。石高も官位も

尾張、紀州に比べて一段下、万が一のとき将軍位を継ぐ資格だって、尾張や紀州をおしのけて回っていく可能性ない。

そんな水戸が、存在感を示したいと思うなら、何か他にない特色を持たなきゃならない。それが「水戸学」だと考えれば

分かりやすい。この国の主君が将軍ならば、水戸は未来永劫、絶対服従の家来にすぎない。しかし、天皇が主君であれば、

他の大名はすべて天皇の臣下であると考えるられる。将軍も水戸藩主も同じく天皇の臣下だ、というふうに考えることが

できたのである。「永久に将軍になれない御三家」の水戸家で、「天皇絶対」という学問が隆盛するのは、ある意味、

自然の流れ、ともいえるわけです。幕末の水戸藩主・徳川斉昭は、この「水戸学の本家」の立場をフルに利用して、

幕政にグイグイ食い込んできます。「今こそ、尊王攘夷の総本家であるウチの出番だ、さあ、オレの言うことを聞け、

幕府の実権をこっちに渡せ」というわけです。光圀の「三番手戦略」は、ある意味ここにきて効を奏した、ともいえる

わけです。この思想に乗ったのが長州と薩摩です。これは関ヶ原の戦いで西軍に付き、その後いじめられた藩てあり、

いち早く外国の動きをキャッチし、藩政の改革に取り組み力をつけて来た藩でした。この幕府が先代の将軍が若くして

亡くなり、その後の後継者として、水戸家の徳川慶喜が引き受けたことが御三家のバックアップを受けずらく、戊辰戦争

へとなり、会津藩などの東北勢の徳川を押す体制がこの徳川御三家の協力をえられなかったことが江戸時代の終わり

となったことの原因かと思える。皆さんは、どう感じますか。


徳川幕府はなぜ衰退したのか

2018-09-22 08:50:45 | 日記

この疑問は、私だけではないのでは。すなわち、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、日本の覇者となり、

戦のない社会をつくることから、参勤交代や鎖国、宗教弾圧、身分制度などを設けて、諸国の大名が力を

付けてたちあがらないようにしたはずと思っていた。関ヶ原で西軍にまわった薩摩や毛利(長州)などには、

国を小さくさせられただけではなく、参勤交代、江戸城や神社や河川などの修理を命じて、金を使わせた。

また、江戸には、妻子を置かせて人質的に屋敷まで作らせている。このように、徳川の権力は、強大であった

ものが、江戸の末期において、何が原因で政権をてばなしたのであるか。一般的には、尊王攘夷の風潮と

外国の圧力に屈した幕府が薩長などの諸藩の力に耐えられなくなったとして伝えられているようだが。

はたして、それだけだろうか。私は、それをいろいろと調べてみた。

江戸時代を通じてゆっくり手工業が発達し、それに伴って商品経済が発達しました。しかし、幕府の財政の基礎は、

税として徴収する米であったわけで、これが江戸幕府がこけた理由のひとつある。すなわち経済である。

18世紀以降の江戸時代は、小氷河期ともいえる世界的な低温期にあたっており、飢饉や不作が頻発したことが、

このようなシステムに基礎をおく幕府を弱体化させてしまった。

さらに、開国以降は、急激な貿易の発展によって、極度の輸入超過の状況となり、その結果、幕府の財政を支える

はずの金(小判)が急激に流出して、財政の弱体化に拍車をかける状態となった。ちょうどこのようなタイミングで、

倒幕の動きが集約されたため、幕府は政治の舞台から降りざるをえなかったのある。

そもそもこの倒幕が、「尊皇攘夷」として始まり、いくつかの経過で攘夷が不可能とわかるや、倒幕に転じたことも把握

すべきである。倒幕の中心となった薩長が、ともにいち早く外国と結んで藩政の転換を成功させている。

今の政治を見ても解るように一党独裁政治は国民のためにならず、永い年月のうちに更新されていくのです。

まして朝廷をないがしろにしての300年間には意識改革が自然と起こり、タイミングよくペルーによる開国要求が引き金と

なり崩壊へとつながっていったのある。あの時天皇を奉る勤皇派がそれ相当の力をつけていなかったら、又徳川家がいち早く

鎖国を解き外国からの武器弾薬を取り入れ、その上で近代政治を行っていたらあるいは江戸時代がもっと続いていたかもしれませね。


テレビの西郷のイメージ

2018-09-20 10:12:14 | 日記

西郷どんのNHKのテレビを見ての感想を述べたい。

私は、このテレビでは西郷隆盛をよく理解できない。好戦的策士として好感が持てないんだな。

 テレビで報じた庄内藩による、江戸薩摩藩邸襲撃事件・・・これは、西郷と庄内藩

の出来レースだったのかな?。相当の死者が出て大事件だったが・・幕府攻撃のきっかけにした。

テレビの劇中で西郷が「江戸の、大商家を襲って、幕府を刺激しろ」

と言うようなことを言っていたから、庄内藩と示し合わせてやったのでは??

幕府と徳川慶喜を滅亡に追い詰めるきっかけにする策略ではと作者は言っているが?

会津藩に対する過酷な攻撃に比べて、あまりに寛大だ。

私は「西郷どん」でも、西郷隆盛の偽善が隠されているのではないかと

疑って見ている。偽善無くして・欺き無くして大業は成せないかもしれないが

別人の意見では西郷は人望があったことは事実と思える。これは、江戸城襲撃を

回避したことからも言える。薩摩藩でも庄内藩でも人望があった。

それが西南戦争を起こさざるを得なかった西郷の悲劇の基だと思う。

私は大久保の方が権謀術策者だと思っているが、皆さんの意見はどうですか。

 


世界の覇者と戦争

2018-09-19 09:35:58 | 日記

今日は下流を散歩して、今帰ってきたところです。秋の涼しい天気になり、彼岸花を見つけたので写真を撮った。歩きながら

今日は何を書こうかと思案した結果、私が好きな世界史を振り返ってみることにした。世界の歴史は、四大文明から発している。

すなわち、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河のそれぞれ、大河のもとに発生している。この時代は、まだ、各地での

営みであるが、この営みをくずしたのが、アレキサンダー大王のギリシャによる遠征であり、エジプト、メソポタミア、インダス、

を含めた世界征服であった。この後は、クレオパトラで有名なエジプトを征服したローマ帝国がこの後を引き継ぎ、世界の半分を

統一している。しかし、このローマ帝国も長続きせず、新ローマ帝国と、旧ローマ帝国に分かれ、弱体化している間に、台頭して

きたのがモンゴル帝国であり、その後は中国に渡り、元として世界を征服している。この後、中東て゛は、オスマントルコが

衰退してきたローマを破り、イスラム教を普及させることと合わせて、地中海を制覇して帝国を築いている。しかしながら、

ヨーロッパのキリスト教の国々は、このことが許されず、十字軍を結成して、このトルコと戦っているが、この時には、ローマ

を中心として、現在のスペイン、フランス、ドイツ、オーストラリア、オランダなどが台頭してきている。しかし、16世紀

にはいり、マゼランが世界一周をなしとげてから、アフリカ、南北アメリカなどがあることをヨーロッパの諸国が知り、

植民地戦争がおこってきている。この時の覇者は、ポルトガルからスペイン、オランダ、フランスへと変化し、その都度

植民地が各地にできている。しかし、この覇者であるフランスは、いち早く産業革命を成し遂げたイギリスにより、

ワーテルローの戦いで敗れ、覇者はイギリスとなり、このイギリスが、世界各地に植民地を造っていくのである。

このイギリスに負じと台頭したのがロシアやフランスのナポレオンであるが、世界の覇者にはなれていない。この列強に

遅ればせながら、覇者をねらったのが、第一次世界戦争を起こしたドイツであるが、この戦いも連合国に敗れている。

その後台頭してきたのが、産業革命をいち早く成し遂げ、ロシアを破った日本と、再度世界征服を狙ったヒットラーを

軸としたナチスのドイツであった。しかし第二次世界戦争により、連合国を推進したアメリカにより、打ち破られ、

この覇者はアメリカに移っている。しかし、今この覇者は、中国の台頭により、変わろうとしているのではないか。

現在の戦争は、原子爆弾がでてきたことから、地球の破滅になることから、第三次世界戦争を起こすことは少ない。

しかし、これに代わって、関税の掛け合いによる経済戦争が現在おこっている。これがいつまで続き、その先は

どうなるか誰もわからない。世界の覇者は歴史を見るにどんどん変わる。これは、日本で、徳川家康が諸国を

征服し、統一したことと同じようにも感じるが皆さんはどう感じますか。

モーコすなわち


明治維新と西郷

2018-09-17 09:28:23 | 日記

西郷どんのテレビが竜馬の死を報じていますが、これから、日本が急激に変化していく

時代に入ります。西郷は戊申戦争で新政府軍の総代将として徳川時代を終わらせるのであるが、

その後明治に入り、新政府のもとで、西郷は桂小五郎、大久保利光、木戸孝允、伊藤博文などの

維新の改革で活躍する人たちと、西南戦争までの約10年間を活躍するのですね。これまでの

テレビを見ていると、この戊辰戦争が起こるまでの江戸末期の日本の状況背景の説明がなく、どうして

寺田屋事件がおこり、長州の久坂源内が朝廷を担ぎだし、日本を改革しようとしたか判りにくい。

もう少し、説明すべきだと思った。その後、長州が京都へ攻め上り、敗北するも、数年で

立ち上がり、下関での戦いでは、徳川幕府軍の10万規模の軍を数千の軍で打ち破り、徳川軍に

勝ったような風潮になってしまつた。その後に薩摩と長州が同盟し、幕府側を鳥羽・伏見の戦いを

へて、朝廷側を引き寄せ、日本の統一にいたったのだが。この明治維新の改革は、世界から見たとき、

いかに、早かったかがわかる。アメリカの南北戦争が4年の歳月を要したのに対して、日本は、

1年半で終わらせている。これが、列強の侵入を遅らせたのである。この維新で、良かったのは、

やはり、徳川慶喜の行動であると思う。この背景には、天皇を立てて、日本を列強の脅威にさらさない

と言う確固たる決意があったからだと思う。そのため、大規模の戦争を避けたのだ。この西郷どん

を見て、西南戦争で薩摩の有志とともに戦士した西郷は、この戦争では、本当は慶喜と同じく戦いた

くなかった思う。

 

 


分水と水車

2018-09-16 10:07:14 | 日記

玉川からの分水について、もう少々勉強しよう。江戸時代に造られた玉川上水は、

東京の多摩地方では人口が増加するに合わせて、水田を増やすことが各地でおもなわれた。

この時玉川の水をこの水田に引き込むために、分水がひかれたのである。この水は、飲み水

ではなく、洗濯や炊事などに使われるだけでなく、水車などを利用して、動力として使用

されたのだ。すなわち、米の脱穀や和紙の製作、絹糸の製作などに、明治に入ってきた電気

の動力に置き換わるまでは、盛んに使用されたのだ。水車は610年ごろに中国から入ってきたようだが

発祥の地は、ギリシャとトルコらしい。このように、分水の役目は、江戸時代は、非常に

重要で、そのため、この分水を引くためには、その大きさ(水量)に応じて売買されたとのこと。

この大きさは、単位を坪と称し、五寸角の間口で水を取り入れると5×5で25坪となるのだ。

この坪が増すと動力がそれだけ豊富に使用できるのだ。現在の電気料と同じだ。所で、人が

飲む水はどうしていたかと言うと、やはり井戸が利用された。写真のように、井戸が各地で

掘られ、利用されたが、今でも、この福生の地頭の井戸呼ばれて観光の一つとなっている。

 


健康ウォーキング

2018-09-13 09:07:28 | 日記

昨日は、やっと秋らしい涼し、日となり、今朝も温度23度と最適です。

昨日は、福生市の保険センターが実施している、健康ウォーキングに参加した。

初めての参加で、すでに数回実施されており、今回が第三回目だことが

配られたパンフレットから判った。拝島駅での集合であったが、集合時間を30分

間違えており、自宅からの電話で、すでに出発したとのことで、最初の見学場所の

熊川神社で待つことにした。時間を間違えたことも、注意不足の歳のせいか。

待つこと15分で、健康づくり推進会の黄色い旗のもと、20数人の団体が来た。

今回のウォーキングのコースは、いつもの私の散歩コースの一部が入るっており、

石川酒造などでは、私が皆に説明することになってしまった。写真は、今まで

いったことがなかった惣洞宗の千手院で目についた、可愛い子供の石像である。

12時に熊川駅での解散であったが、約10000歩のコースで、体を

鍛えるのに最適な距離であった。次回も是非参加しょうと思う。

 


自動車免許の認知症再試験

2018-09-11 14:31:12 | 日記

今日は、小金井の府中試験場での認知症の再試験を受けて、丁度帰ってきたところである。

この認知症の再試験を受けることになったのは、昨年に、相当数の認知症による交通事故が発生したことから

、予防のために、自動車免許を持っている75歳以上の人が、違反を実施した場合には、再度認知症試験を

受けることに制度が改正されたようだ。そのため、3ケ月前に試験を受けるように、書類がおくられてきた。

これは、昨年、新宿で、黄色の線をまたいで、路線変更をしたときの違反が原因であった。

試験場には、75歳以上の対象者が多数来ており、11時30分から約45分間での試験であった。

試験の内容は、前回の75歳時の高齢者更新の時に実施された認知症試験と同じであった。メイン

の試験では、16個の絵を6分間に4回に渡って見せ、その後沢山の数字の書いた中のものから、

4と1の数字に30秒で斜線を付ける試験が行われ、其のあとに、16個の以前に見せた絵を思い出して

書くことの試験が行われた。そのあと、時計の絵を支持のあった時刻で書く試験がありすべてが終了した。

この結果が30分後に、点数として、書類でわたされた。76点以上は問題なしで青紙、76点から

49点では黄色で再試験、49点以下は赤紙で医者に見てもらうことの必要との判断である。

私の結果は、青紙で86点であり、安心した。2020年の次回までは、事故を起こさなければ

受けることもないのであるが、このような再試験の実施は、私はつらかったが事故防止としては、

良いことだとおった。