今日も、暖かい、晴天の朝だ。散歩から帰って来て、何を書こうかと思ったが、昨日の
続きで、司馬錬三郎の(胡蝶の夢)の感想的なものを紹介することにした。松本良順が
海軍の医官して、徳川幕府から長崎へ行ったのは、ペルーが来航して、大騒ぎになった
後であるが、それまでは、長崎の出島がに日本の針の先ほどの貿易のできる場所であり、
この外国に、幕府から貿易を許されていたのがオランダである。この時の貿易の日本
から輸出されていたのは、主に有田焼や骨董品などで、オランダからは、鉄砲や大砲
や船であったようだが、どうして、この貿易が続いたかと誰もが思う。これは、当時
日本の金は、大判、小判と抱負であり、ヨーロッパでは、銀が多く、金が少なかった
ことから、金の価値は高価であった。しかし、この日本での貿易は、銀と金がほぼ
同等のレートで売買された。そのため、オランダは、莫大な利益を上げ、ペルー来航
以後は、ヨーロッパの英国、フランスなどが盛んに、長崎に来るようになると、幕府
に咸臨丸を寄贈して、引付ようとしている。このことは、良順が海軍養成所へ行って
たことも、このオランダから派遣された海軍養成の教官からの指導をうけるために
日本の各地から集められた人の医師としてで゛あった。丁度この時、咸臨丸に乗って
きたのが、有名な勝海舟であり、この船で、オランダ人に操縦させて薩摩まで行き、
薩摩斉彬と艦上であっている。これは、まだ、井伊直弼が桜田門外で殺される前の時
である。この咸臨丸は、蒸気船であるが、驚くなかれこの頃には、薩摩と佐賀藩など
では、蘭書を用いて、蒸気船を自力で開発し、馬力は低いが試作し、浮かべている。
このように、日本の人々は、ペルー来航に刺激されて、自力で外国に追いつくことを
考えの力を持っていたことには、驚くばかりである。このオランダは、その後、
井伊が亡くなってからは、徳川慶喜になり、フランスと英国とに主に接したこと
から、長崎を追われ、その歴史から消えて行くが、江戸時代からの日本への貢献を
忘れてはならないだろう。