散歩のコースはどこですか

79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

行く年来る年

2018-12-31 10:05:54 | 日記

朝の寒さは、厳しいが、散歩で太陽の陽を浴びて歩くのは、気持ちがいい。ここ、1-2

週間は東京は晴天に恵まれているが、北の地方の人は、雪で大変のようだが申し訳ない

気持ちだ。今年も残す所、15時間ほどとなってしまったが、今年の10題ニュースが

発表されたが、何といっても、西日本を襲った災害が1番であった。来年は、平成の

最後の年となるが、その次の年号はどのような呼び名になるだろーか。大晦日は、

いつものように大掃除をして、年越し蕎麦をたべるが、最近は、コンビニで売っている

出来上がり品を電子レンジで温めるだけでよいので、カミさんは助かるようだ。

その後は、いつもは、紅白歌合戦をみるのであったが、最近は、知っている歌がない

ので、他の番組をみることにしている。この後は、除夜の鐘がなりはじめるが、

今年の重大ニュースには、ゴーンの逮捕が最後に挙げられていたが、留置所で

ゴーンとなる鐘を何と思って聞くのであろうか。


鯨のスキヤキが懐かしい

2018-12-28 09:48:50 | 日記

戦後に鯨のスキヤキをよく食べたものだ。その味がわすれられないが、ここ数年食べ

てない。終戦後は、牛肉や豚肉は高価で牛のスキヤキの代わりに鯨のスキヤキが我が

家では定番であった。このころは、鯨は安価であり、今では、牛や豚の肉は当たり

前であるが鯨は見ることは、なかなかできないばかりか高価である。これは、昔は、

安く、現在は高いものとしての代表の松竹やあさり貝などと同じだ。この効果になった

原因が、今話題の捕鯨調査委員会による捕鯨の制限の実施であり、南極での捕鯨は、

調査によるものに限るとなり、その捕獲したものが、日本に入ってくるだけとなった

ためであった。この委員会を構成している多くの国は、ほとんど食肉として使用する

のではなく、その代表國がオーストラリアとニュージーランドであり、旗振りを行っている。

この国は、鯨は、サチやイルカと同様とみなして、かわいそうと思うらしい。しかし、

牛や豚や羊やカンガルーとどう違うのか我々には理解できない。たしかに、戦後には、

無制限に鯨をとっていたのは確かであるが、その後の規制で、相当に増えてきたのは、

確かである。つい最近、東京湾内で見つかった鯨が、それを表している。昔は、

アメリカの捕鯨船が漂流していたジョン万次郎を助けたのは有名であるが、このころは

無制限に、捕鯨が行われていた。これは、食料とゆうより、むしろ、油をとるためが

主て゛あったようだ。現在、鯨が多くなってきて、小魚がその餌食になり、漁民が

こまっている。このようなことから、政府がこの委員会を脱退し、近海での捕鯨に

踏み切ったことは、良かったと思う。すでに、この委員会を脱退している、

ノールウェーは捕鯨の大国であり、日本よりも早く実施したのは、賢いと思う。


公園でのスキヤキは最高

2018-12-26 09:56:48 | 日記

22日の日曜日は、山の会で、八王子の片倉城址公園でのスキヤキ会に参加した。

写真のように、輪になって、女性の人が手分けしての材料を持ち込んでスキヤキを

料理するのだ。昔と違って、小型のガスボンベがあるので、簡単に料理が完成する。

天気は良くなかったが、寒さは、腹に入るスキヤキとお酒で温めたので、きにならない。

この片倉城址公園は、100mほどの高台にあり、昔は北条氏の砦があった場所で、

八王子の市内の光景が眼下に美しい。帰りに公園に、美しい石像をみつけたので

写真を撮った。山の会では、12月にいつもこの場所でスキヤキ会を実施しているので

あるが、今回始めて参加した。高い山では、登るのに歳をとってからは大変であるが、

このような場所で、わいわい騒ぐのは最高だ。

 

 


海外派遣協力に思う

2018-12-23 15:10:34 | 日記

テレビで、こんなところに日本人と言う番組があり、良く好んで見ている。

これは、後進途上国への海外経済支援としての政府からの援助活動と個人

でのボランティア活動の双方が現地で活躍する番組であり、おもしろい。これは、

日本が幕末から明治にかけて、ヨーロッバや米国から西洋の文化や技術を伝授する

ために後進国である日本へ来た外国の人達と比較すると大きな違いを感じる。

それは、日本へ来た人は、その目的のほとんどがカトリック教の宣教活動と植民地

獲得の一環としてであり、その代償として、いち早く産業革命を成し遂げた

技術や文化を伝えている。これに対して、現在の日本の活動は、宗教とは無関係

で゛あり、後進国のアフリカや東南アジアや中南米などと各地に行き、医療や

教育や農業や工業などの各種技術を教えて、その国の人達が幸福になることへ

の支援活動を行っている。これは、中国などが行っている一対一路の経済支援

とは大きな違いである。このような、日本の行っているボランティア活動を行って

いけば、必ず、第二次世界大戦で不名誉なことを行ったことを取り返すことの

良い結果が生まれてくると思う。

 


日本が感謝するのはオランダか

2018-12-20 10:00:39 | 日記

今日も、暖かい、晴天の朝だ。散歩から帰って来て、何を書こうかと思ったが、昨日の

続きで、司馬錬三郎の(胡蝶の夢)の感想的なものを紹介することにした。松本良順が

海軍の医官して、徳川幕府から長崎へ行ったのは、ペルーが来航して、大騒ぎになった

後であるが、それまでは、長崎の出島がに日本の針の先ほどの貿易のできる場所であり、

この外国に、幕府から貿易を許されていたのがオランダである。この時の貿易の日本

から輸出されていたのは、主に有田焼や骨董品などで、オランダからは、鉄砲や大砲

や船であったようだが、どうして、この貿易が続いたかと誰もが思う。これは、当時

日本の金は、大判、小判と抱負であり、ヨーロッパでは、銀が多く、金が少なかった

ことから、金の価値は高価であった。しかし、この日本での貿易は、銀と金がほぼ

同等のレートで売買された。そのため、オランダは、莫大な利益を上げ、ペルー来航

以後は、ヨーロッパの英国、フランスなどが盛んに、長崎に来るようになると、幕府

に咸臨丸を寄贈して、引付ようとしている。このことは、良順が海軍養成所へ行って

たことも、このオランダから派遣された海軍養成の教官からの指導をうけるために

日本の各地から集められた人の医師としてで゛あった。丁度この時、咸臨丸に乗って

きたのが、有名な勝海舟であり、この船で、オランダ人に操縦させて薩摩まで行き、

薩摩斉彬と艦上であっている。これは、まだ、井伊直弼が桜田門外で殺される前の時

である。この咸臨丸は、蒸気船であるが、驚くなかれこの頃には、薩摩と佐賀藩など

では、蘭書を用いて、蒸気船を自力で開発し、馬力は低いが試作し、浮かべている。

このように、日本の人々は、ペルー来航に刺激されて、自力で外国に追いつくことを

考えの力を持っていたことには、驚くばかりである。このオランダは、その後、

井伊が亡くなってからは、徳川慶喜になり、フランスと英国とに主に接したこと

から、長崎を追われ、その歴史から消えて行くが、江戸時代からの日本への貢献を

忘れてはならないだろう。


晴天の日は読書にかぎる

2018-12-18 10:18:08 | 日記

本日も冬晴れの好天である。朝の散歩で、写真のように、近くの保育園の子供達が

公園で楽しく遊んでいるのが目に入り、写真に収めた。帰って来てから、太陽の恩恵

を受ながら、コーヒーを飲みながらの読書て゛ある。今読んでいる本は、司馬遼太郎の

(胡蝶の夢)と言うもので、その内容は幕末の頃に医学伝習所を開設し、日本の医学を

切り開いた人を中心にしたものである。この人の名を松本良順といい、その当時は、

医学といえば、漢方医学であり、江戸の徳川家の医者はすべてが、この漢方の医者で

あったがこの良順は、いち早く、当時の出島にいたオランダの医者から蘭方医学を

本から学んでいる。ペルーの来航後に刺激を受けてからは、実際に幕府が出島に

設けたられた海軍成所の軍医として長崎へ行き、オランダの医師のポンぺから医学

教育を受け、その技術をもって、後に徳川慶喜の主治医になっている。医学はこの後、

急速に現在の西洋医学が日本に伝わってくるのであるが、この人の功績は、日本で

活躍する有名な医者や産業革命で名を挙げた人々を育てる一人であったことが、この

本から読み取れる。江戸時代は、鎖国で、外国との交流は、長崎の出島だけであったが、

その出島から、オランダから持ち込まられたいろいろな情報が、日本の各地から集まった

人々から、本などで伝えられ、その刺激を受けた、良順のような人生まれたのである。

よくも、このような、日本の長崎と言う一部の出島から、良順が育った佐渡の島からも、

蘭方の医学書を入手できるほどに、情報が伝わっていたことには、驚くばかりである。

 


平成の次の年号は

2018-12-16 09:44:21 | 日記

平成も終わりになってきたが、次の年号が何になるかの話題が聞かれる。今の天皇は

125代目であるが、私が戦後聞いた歌に紀元2600年があった。天照大御神が

日向を出て瀬戸内海を東に進み、大和を平定して、神武天皇が初代の天皇となった

と日本書記にかいてある。その後、豪族の曽我氏が権力を奪ったものを中丈兄皇子

(後の38代目の天智天皇)が中臣鎌足と大化の改新を経て626年に倒して

飛鳥時代を築いている。この後奈良時代を経て、有名な桓武天皇の50代目が

平安京を京都へ造り、平安時代が794にはじまっている。しかし、武士の平家

が実験を握り、その後、武家の時代にはいり、後醍醐天皇が天皇家を戻す試みを

起こし、南北朝時代へとつながるが、この天皇家の系図では、南朝が正統となっ

ており、北朝側の天皇は5天皇が存在しているが、脇に平行して存在している

にすぎない。その後、戦国時代から江戸時代まで武家の時代がつづいたのであるが

天皇家はその時代の将軍が日本の国民の精神の支えの元となっていることへのこと

からか大切にしてきている。この後、ペルーの来航を皮切りに、鎖国では、封建

時代を維持できないことから、天皇の力を頼って、日本は、産業革命を成し遂げ

明治時代にはいっていくのである。この明治天皇が122代目である。このように、

世界でも、大家が続いている国はないと思う。私は、昭和、平成とその次の年号

の3代になるとおもうが、それも、2020年の東京オリンピックを見てのこと

であるが。

 

 

 


12月の朝のひと時

2018-12-14 11:05:06 | 日記

今日は、朝から、ちょっと寒い風が頬をよこぎるが、太陽からの暖かい陽が体に

当たってこころよい。遠くに真っ白な富士山が青空に、うかんでいたので、スマホ

で撮ったが、その写真では、目で見たようには、その山と空の区別が判らず載せる

ことを諦めた。多摩川の土手をいつものように上流へあるいたが、中央公園の所で、

写真のように、太陽の陽を浴びて、まるくなっている2匹の猫が目にはいったので

撮った。猫は、人間と同様にやはり暖かいところが判るようだ。帰り道でこんどは、

写真のようなきれいな冬に見かける綺麗な花壇に遭遇したので、すぐにカメラに手が

伸びた。だんだん、寒い冬にはいっていくが秋の残りのひと時であろうか。


阿蘇山はどうして世界遺産にならないのか

2018-12-11 09:42:05 | 日記

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先日の熊本で、中学時代の友達と行った高千穂での写真を私がスマホで撮った

写真とメールで交換するため、やり取りしたが、あいにく、カメラのメモリへ

入れるのを忘れたれていたとのメールがはいり、その代わりに最近行った阿蘇

の写真を送ってきた。この写真を見て、小学生の頃、阿蘇山の噴火口の中に、

沢山の町があり、その中に、中岳、高岳、猫岳などの5つの山があることを知って

驚いた。そのあと中学生の頃は、よく夏休みなどには、泊りがけで、数回行っ

たことを思い出す。中には、温泉が沢山あり、特に地獄温泉は、お湯が黒く

硫黄の匂いが強く、最も思い出す温泉である。この写真は、丁度、中岳の火口から

の噴火の煙が見えるが大観峰と言う外輪山の上から阿蘇の5岳を撮った写真で、

真下に、内牧町山が見える。次の写真は、この山のススキの光景が素晴らしい。

またこの外輪山を超えると別府へ通じるハイウエイに繋がるのであるが、この先

には九重山の黒川温泉と湯布院温泉へと延びているのだ。しかし、富士山が世界

遺産に登録されたのにどうして阿蘇山は世界遺産にならないのであろうか。やはり、

中心になる旗振りの人材の不足が最大の原因かもしれない。


人はどうして野営がすきなのか

2018-12-08 09:49:11 | 日記

多摩川の土手の散歩で、今朝、写真のような、藪の中に、スラムの小屋を見つけた。

これは、昨年までは、無かった色の建物で、どうも、9月の台風24号の後に造られ

たもののようだ。日本では、農耕で竪穴式の住居にすむことに、なれているのか、

このような笹薮や木立の所に、住まいをつくることが好きなのか。私は、37-38歳の

頃、子供が小学生であるころに、ボーイスカウトの隊長にさせられてしまったことがある。

この小学校の1-2年生が入る隊をカブスカウトと称し、この隊をまとめるのであるが、

夏休みなどの折は、泊りがけで近くの山へでかけることがあった。この場所での活動は、

4人ぐらいのグループに分かれて、自分達のすみかを自然に生えている材料を集めて造る

ことをやらせるのである。この場合、まず、どの場所に造るかをみんなで話し合って

決めることからスタートする。大木の割れ目とか、竹やぶの場所とか、川のそばをさける

とか、それ相応の工夫している。この作業には、自然の材料のみで、竹や笹や草や木材

を蔓などで結んで作っていた。また、食事の時は、火を起こすのは、摩擦の道具を使用

することを教え、それを使って食事を作り食べていた。このように、人は、本来大昔

の暮らしのような生活をしてみたいと思うのであろうか。この多摩川の土手で生活する

人も、このような自然を愛する人かもしれない。しかし、現在の子供達は、このような

自然の生活を経験していないし、また環境も恵まれていないのは寂しい。