散歩のコースはどこですか

79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

幼児期の記憶

2018-07-30 08:29:11 | 日記

私は昭和16年1月に満州の大連で生まれた。その後、父の会社(満州電業社)の転勤で、満州の

首都である新京(現在の長春)に移りすんだ。終戦の昭和20年8月の記憶はある。ソ連兵が

土足のままで社宅へ入って来て、タンスなどを開けて、金目なものを持ち去ってゆくのを、

押し入れの地下に掘った穴に隠れて、恐る恐る見ていた記憶である。しかし、これが始めの記憶

ではなく、その前の年の秋に行われた、近くの公園でのお祭りであった。この祭りには、一家全員で

でかけたのであるが、私だけ迷子になったらしい。皆はさがしたが見つからず、もしかして、自宅へ帰って

いるかもと、帰宅すると、玄関で待っていたとのこと。私の記憶は、玄関でおおきなカエルが鳴いている

だけであるが、これが最初の昔の記憶である。だれでも、幼児期の記憶はあるが、人によって、異なっている

が、この差は、強烈な出来事によって起こるのであろう。このことから私は4歳だと思う。

皆さんはいかか゛ですか。写真は昨日の多摩川の増水した光景です。

 


散歩のコースはどこですか

2018-07-29 19:51:40 | 日記

昨日の台風12号は、思ったよりも東京では風雨も強くなく、朝には、なにもなかったように、太陽が

顔をだしていた。猛暑を避けて、夕方に、下流の福生南公園への散歩にでかけたが、多摩川を見ると

水かさを増して濁流が渦をまいていた。奥多摩方面では、昨夜は相当に雨が降ったのであろう。

しかし、天気が回復して、今夜は、隅田川の花火大会がじっしされるとのこと、また福生の夏祭りも今日

やっていることを掲示版でしり、明神公園に来てみるとこの写真のように、盆踊りの舞台と、バザーのテント

が目についた。今晩には、沢山の人で、賑わうのであろう。関西、九州に去った台風12号のその後を気にしながら

自宅に帰って、シャワーをあびた。この度は、東京では今回も被害がなかったが、今後は度に大きな災害に襲われない

ことを願うばかりである。

 


ゲリラな自然

2018-07-28 10:39:30 | 日記

昨年の春の桜の開花は、当初の予測より2週間もおそかった。そのため、事前に準備

していた、桜まつりが咲いていない日になってしまい、町内会が競って準備していたバザーの

料理が売れなくて、持ち帰ったことがおこった。このようなことが、今日にも起こりそうである。

台風12号が小笠原諸島の太平洋からせまってきている。この台風が普通ではない。通常は、偏西風

に乗って西からくるのであるが、この度の台風は、南の寒冷渦により東から押し寄せるとのこと。

この地球の自然現象の変化と言えば、タライの水をかき回しているようで、いたってゲリラ的である。

この日は、丁度、花火大会や夏祭りの予定を以前から企画されており、否応なく取り止めたり延期したり

である。隅田川の花火大会、昭和記念公園の花火大会、は有名だが、福生祭りもこれに便乗している。

このように自然の変化は、2週間前には、予測ができないのが現状でありが、なんとかならないものか。?


記憶の水害

2018-07-26 08:55:06 | 日記

私が小学生の頃の昭和28年の6月26日だったと思う。三日間で雨が900ミリ  阿蘇の外輪山の内側のバケツの中に

降った。最後の日に、大水害が起こった。阿蘇山からの川は熊本市の真ん中を流れているがこの白川を濁流が

襲った。午後の5時ごろに、ラジオで上流で人家が数十件流されたとの放送を聞き、200mほど離れた川を見に行ったが

橋の欄干には、大木や家の残骸が引っ掛かり、水があふれだしそうであった。ただちに、家に帰り、母に知らせたら、

すぐに、井戸から、水をバケツやあらゆる空きの入れ物へ入れるように言われ、行っていると水が押し寄せて来た。

6時頃であったと思うがただちに全員で、1階にある家財や食器などのほか畳まで2階へ上げた。7時頃には、床下まで水

がきており、庭に鶏がいることを思い出し、取りにみずをかき分け運んだ。その夜は、みるみる内に水笠が上がり、床上

6尺まできたが、階段から見ると渦を巻いてながれているのが判るほどであった。次の朝には水は弾いたが、残された後でには

阿蘇から運ばれた、火山灰が床下一杯に堆積していた。死者も数百にんにのぼったが、近くの警察所には、テントが張られ

死者があっめられていた。まずは、食物をと言うので、母が、近所で死んだ鶏を買いにゆき確保したのを思い出す。

その日からは、復旧作業である。1か月かけての作業であったが、土砂を道まで運び上げるのであるが、道が

盛り上がり通れないほどになったが、その土砂を自衛隊の人が、ブルトーザーやスコップでトラックに積み運んでくれた。

小学校は当然休校となり、元の生活に戻るのに、長い月日がかかったことを思い出す。このころは、九州だけでなく

全国各地で水害が発生していたが、これは、川の整備や排水路の整備の不具合があったことも原因であった。

しかし、その後の整備から、つい、最近までは、水害も減ってきたようにおもっていたが、この2-3年の異常気象に

よる、豪雨災害は、私の頃の水害とは、違って、短時間に想定しえない雨量に達し、激流が襲うことである。

これからは、これに対応するための対策が求められているが、自然の変化にはたしておいつけるであろうか。

 


限界集落

2018-07-24 08:52:49 | 日記

私は、つい今年の3月まで、現役で仕事をしていた。仕事は、一人暮らしの老人宅に、設置する介護用の緊急

装置であり、市や区などの役所の管理で、首からさげたペンダントみたいなボタンを押すことで、救急車を

よぶとことがでるものである。この装置を取り付ける工事ゃ一年間に一度、点検作業をすることが私の仕事であった。

この装置の取り付けは、ほとんどが市街地であるが、時たま、山間部である場合がある。東京都での代表的なところは、

奥多摩町であるが、この場所を紹介しよう。この場所は、小河内ダムからこの湖にそそぐ川に沿って、約6キロほど山を

登った奥と言うで東京都で最も奥地である。昔は、100人ぐらい住んでいたそうだが、現在は、10人ほどに

なっている。昔は、炭焼きや林業で生計をたてていたので人が多かったが、現在は、仕事か゛なく、だんだん減って

残ったのは、高齢者ばかりとのこと。畑で野菜を作り、その他の食品は、週に1度に軽トラックで売りにくるものを

買って生活している。昔は、小河内まで、山道を歩いて、買い物に行ったとのこと、そのため足腰は丈夫で

空気もよく、いがいに長生きのひとが多い。一人暮らしであるので、緊急の場合を想定して、このような装置

以外に、安否を確認できる装置もついている。すなわち、天井に人が歩いていると、それをキャッチし、役所に

自動的にその情報が電話回線を経由して伝わるものである。しかし、このような装置をつけても、一人暮らしの

人が寝込んだ場合には、病院に移り、この装置は撤去される。この撤去にも、仕事で行くことがあるが、荒れ果てた

家には、猿の群れが、わが物顔で、住んでいることもあった。このままで進むと、このは、どうなって行く

のであろうか。全国にもこのような、過疎地のが沢山出来てきている。ますます、少子化が進み、人口が1億人

を切るのは、すぐそこである。国は、このような、限界集落対策には、あまり取り組んでいないようであるが、

皆さんはどうおもいますか。


私有地活用

2018-07-22 09:09:18 | 日記

この猛暑の日には、朝の散歩を中止している。このため、ツイッター的な記事投稿としました。

今日は、私有地活用とのタイトルでの投稿です。大阪で国有地を学校設立の土地として、安価な価格で売却し、

問題となったことが報じられたが、日本には、私有地が沢山ある。山林や島や水田ゃ畑など以外に使用していない

荒れ放題の民家などである。この私有地の登記上の人が亡くなって、その子供が複数いても、引き継ぐことを行わなかった

場合、、例えば、明治時代に、最初に登記されていていた人が亡くなり、その後、手続きをしない場合、子供、孫

ひ孫と、その権利が残るが、固定資産税もはらわずに、放棄してある土地が、相当あるとのこと。

その総面積は、九州の土地と匹敵するとのことである。今国会では、国が、条例で、10年間借り上げ、自由に

使用できることになったようであるが、申し出があれば、10年後に返すとのこと。市街地なら保育所や公園など

に活用できるが、あくまでも借用とのこと。これでは、抜本的ではない。今、日本の土地は、外国から狙われて

いる。日本の水資源のよさ、土地の緑地などのよさから、いろいろの手段で買い取られている。

これを防ぐ方法は、明治時代にやった、土地改革である。これは、地主へ国債を発行し、小作人へ土地を

タダで提供した方法が参考になると思う。私の提案は、その対象の私有地が複数の親族に関係したばあい、3年間ぐらいの

間に、申し出がなければ、国が取り上げてしまう。しかし、申し出があれば、その土地を国債などで買い上げる

か、または、決められた相続人へ再登記させ、その人はには固定資産税を課せる。このようにすれば、その買い上げた

土地は、国有地となり、自由に活用できると思うがどうだろうか。皆さんのご意見をお聞きしたい。

 


猛暑

2018-07-21 08:36:44 | 日記

大水害の後から今日までの全国に襲い掛かってきた猛暑は、このまま、年々続いてゆくのであろうか。

東京店は35度が1週間つづいているがついに岐阜県では40度を記録した。でも、世界でも

この猛暑は続いている、インドでは、40度は普通とのこと。インド人は、長い間に、暑さに対応できる

身体をつくりあげているからよいのだろうが、日本の人は、急には、その体をつくりあげることができない。

そのため熱中症が増加している。私が中学生のころ、夏の暑い日に、海水浴で有明海に行ったことをおもいだしたが、

この時の暑さが、34度で新聞で取り上げられていた。しかし、クーラーはなかったし、扇風機は電気代がかかるので

できる限り短時間で、ほとんどは、団扇をつかっていた。また、冬期の江戸の中期の忠臣蔵の討ち入りの冬のころや

末期の桜田門外の変の冬のころは、どちらも雪が相当に降っていたが、多分氷点下2-3度で、あっただろう。これが

この時代の普通の温度であったとおもうが、今の東京では、冬に氷点下になるのがめずらしい。

夏も、昔は、暑い日は、風鈴と日よけにより、夕方に水まきをして暑さをさけていくだけでよかったものが、現在は

扇風機やクーラーがなしには、暮らせていけない夏場となってしまった。地球の誕生から数十憶年たっているが、

この数十年の温度の上昇は、誰がつくついいるのかと言うと、人類の生活手段が影響していることは明らかである。

しかし、変化に対応して行くには、人間対応できる体をインド人のように作る以外にないようにおもうがいかがかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


空きアパート

2018-07-20 16:38:41 | 日記

福生市は、ごらんのようなアパートがおおいが、4-5年前から、空きのアパートが多くなってきている。

この理由は、アパートで暮らしていた、若い夫婦は、子供が生まれると1軒屋を購入して住むことが、近々では、

多くなってきたことと、ビジネスで都心に通っていた人は、近々に都心に多く建設されてきた高層ビルに、通勤が

便利であることから、引っ越していったことなどがあるようだ。これらのアパートを造った大家さんは、家賃収入

がほとんどなくなり、余裕のない人は、固定資産税も払えず、歳を取っていくようだ。もし、このような人が、

一人暮らしで、死亡した場合に、相続する人が、身近にいないケースの時は、この売れないアパートを撤去して

さら地にして売りにだすことができないので、そのままにして、あれるがまましていることが多くなってきているようだ。

このケースは、福生など、多摩川の立川よりは、少ないが、奥多摩や、青梅など奥地に行くほど多く見かける。

このことは、アパートだけでなく、一軒屋でも、起こっている。昔は、大所帯で、大きな家が必要だったろうが、

子供達が育って同居しなくなり、歳を取った老人だけでは、大きな家は、必要なく、このような状況に陥っている

人をよく見かける。このような、空きで放置されている家や、アパートなどが全国には、相当あるが、政府は、踏み込まず、

役所にまかせているように思える。条例で取り上げている市などもあるが、国として、どうすべきかの議論が足らないように思う。

介護施設、保育所、民宿、学生寮、集会場、民泊、など活用する方法は沢山あるのではと思う。現状を追っておくだけでは、

なにも解決しない、国の税金をリニア新幹線のような、無駄遣いをするより、このような、ことの対策に使用することがより

建設的で大切と思うが、いかがしょうか。

 


山小屋合宿

2018-07-19 10:03:06 | 日記

今日は、昨日から、相模原の津久井湖の近くの青野原と言うところにある、山小屋に泊まって、朝を

迎えています。この山小屋は、大学を卒業して、早々に入社した会社の同期の仲間が、10数年前

に自作で造った場所であり、奥さんがスタンドグラスの学校を最近までやっていたが、それに使う子枠などを

得意の木工技術を屈して作り、その一部の作品を展示する場所として使用されていた。しかし、昨年に奥さん

が亡くなったことから、今は、別荘として、このような飲み会などの場所となっている。丹沢に行く道の

脇の高台に造られており、周りは、草木に囲まれ、デッキでの食事はさいこうである。とくに、よいのは、

夕食の後に、おそくまで飲んでいても、すぐに、二階で寝ることができることである。この主のSIさんは

私のブログの先輩でこの山小屋を題材として、いろいろの記事を投稿しています。(自作の山荘)でブログ

を検索してみてください。

 


散歩のコースはどこですか

2018-07-17 08:44:50 | 日記

下流の散歩で、いつも気になる光景がある。福生南公園のベンチには、いつも、寝起きをこの場所で

している人がいる。2年前からみかけているが、冬の寒い日や雪の日は、寝袋で、雨の日は、

笠付きのベンチでと、新聞や本を読んでいたり、ラジオを聴いたりと、いつもベンチに

腰かけている。この猛暑の中、熱中症にならなければと心配であるが、今までに、救急車で担ぎ込まれた

形跡はない。しかし、食事はどうしているのか、気になるが、近くのコンビニで見かけることもなく、

多分、誰かが、食べ物を運んでいるのだろうか。戦後、フィリピンの小島(サイパンだったか)で小野田正一と言う

兵隊が戦争の終結を知らずに、10数年後に見つかったことが新聞をにぎわせたことがあった。この人は、穴を

掘って、その中で、暑さを避けて、昼間は、果物や昆虫、カエル、蛇などを採って、生活していたのであるが、

人間、粗食でも、水があれば、十分生きていけることをしめしている。しかし、今の時代、このように、長期

に渡って、ベンチのみで生活している人は、珍しい。ボランティアらしき人と、話合ってしるのを見たことがあった

が、このまま、いつまで、続くのか、見守っていきたいが、心配である。