私が小学生の頃の昭和28年の6月26日だったと思う。三日間で雨が900ミリ 阿蘇の外輪山の内側のバケツの中に
降った。最後の日に、大水害が起こった。阿蘇山からの川は熊本市の真ん中を流れているがこの白川を濁流が
襲った。午後の5時ごろに、ラジオで上流で人家が数十件流されたとの放送を聞き、200mほど離れた川を見に行ったが
橋の欄干には、大木や家の残骸が引っ掛かり、水があふれだしそうであった。ただちに、家に帰り、母に知らせたら、
すぐに、井戸から、水をバケツやあらゆる空きの入れ物へ入れるように言われ、行っていると水が押し寄せて来た。
6時頃であったと思うがただちに全員で、1階にある家財や食器などのほか畳まで2階へ上げた。7時頃には、床下まで水
がきており、庭に鶏がいることを思い出し、取りにみずをかき分け運んだ。その夜は、みるみる内に水笠が上がり、床上
6尺まできたが、階段から見ると渦を巻いてながれているのが判るほどであった。次の朝には水は弾いたが、残された後でには
阿蘇から運ばれた、火山灰が床下一杯に堆積していた。死者も数百にんにのぼったが、近くの警察所には、テントが張られ
死者があっめられていた。まずは、食物をと言うので、母が、近所で死んだ鶏を買いにゆき確保したのを思い出す。
その日からは、復旧作業である。1か月かけての作業であったが、土砂を道まで運び上げるのであるが、道が
盛り上がり通れないほどになったが、その土砂を自衛隊の人が、ブルトーザーやスコップでトラックに積み運んでくれた。
小学校は当然休校となり、元の生活に戻るのに、長い月日がかかったことを思い出す。このころは、九州だけでなく
全国各地で水害が発生していたが、これは、川の整備や排水路の整備の不具合があったことも原因であった。
しかし、その後の整備から、つい、最近までは、水害も減ってきたようにおもっていたが、この2-3年の異常気象に
よる、豪雨災害は、私の頃の水害とは、違って、短時間に想定しえない雨量に達し、激流が襲うことである。
これからは、これに対応するための対策が求められているが、自然の変化にはたしておいつけるであろうか。