川越の神社
今日は、朝は寒い。大寒の時期にもどったようだ。昨日、昔の会社での友達から、手
紙をもらった。年賀状をだしたのであるが、返事の年賀状もこないので心配してい
たが、昨年もこのような時期に、年賀状に代わって送られてきたのを思い出した。
今年の手紙では、昨年まで元気でやっていた卓球も80歳を超えて止めたとのこと
で、今は、何もやる気がしなく、やっと手紙を書くことにしたが、これを最後にしたい
との書いてあった。内容は、若い時に、信州大学を卒業して最初に就職した会社の
頃に、しばしば、訪れた新宿歌舞伎町の思い出を、便せん5枚ほどに書いてあった。
私もいった(ともしび)の歌声喫茶などへいったことがあるがこの場所や、最近テレ
ビで最近見たという ドギュメンタリー(ラストトーキョーはぐれ者たちの新宿・歌舞伎町)の感
想文として書かれていた。彼と一緒に仕事をしたのは、約20年間ほどであったが、
思い出のひとっとしては、農村の町に各家に通信ネットワークとして、電話とスピーカーを
農村電話として取り付ける工事を福井県の三方五湖の農協で、昭和の末期頃行っ
たことがあった。この時取り付けたスピーカーで、ボリュームを操作すると、ガリガリと音が
するとのクレームが入り、その原因調査と取り換え工事で、何回も、現地まで二人で、出
張したことがあった。ボリュームが悪いのか部品を調べたが、他の施設に収めた所で
は、そのようなことはなく、いろいろ調べたところ、出荷した2月から、取り付けた8月
までの間に、農協側では、倉庫にダンボルに居れたまま、保管していたが梅雨の間に、
段ボールが地面からの湿気を吸収して、ガスが発生して、ボリャームのカーボン部分を腐
食していたことが判った。このことで取り換え工事は、実施したが、会社の責任を回
避したことを思い出す。これも、今回の手紙が昔を思い出すきっかけを作ってくれた
のだと友達に感謝している。
最初に就職し、げ
昨年の今頃の多摩川土手の様子の写真
昨日は、大学入試の共通テストが実施されたのであるが、前日から雪になるかも
との天気予報であったが、雨に変わり寒い一日となってしまった。しかし、受験
生にとっては、ありがたかったかもしれない。今朝は、昨日と変わって、朝から
青空に恵まれ、暖かい日になった。メールで昨年の今頃に書いたブログが送られて
きたので、見てみた。この記事を再度紹介しよう。タイトルは(いつまで続く青い空)
昨年の記事と比べてみると、今年も昨年と同様に、暖かい日が続いていることが判
る。日本では、雪がふらないことから、スキー場が困っているとのことだし、オースト
ラリアでは、乾燥で、森林火災が発生しているとの報道をみるに、温暖化が地球を
おそっていることがよくわかる。
明日は、国分寺の遺跡巡りの予定であったが、雨か雪とのことで中止の連絡が山の
会から入った。このところ、予定の散策ができない。この頃の報道では、中国の武漢
で新型肺炎が発生して、41人の内2人が亡くなったとのこと。何もこんなに死者の
数で驚くのかと思うが、この恐ろしさは、人から人への感染するかが不明であること
だ。どうして中国から、発生する新型インフルエンザなどがおおいのか。昨年、中国
の南のチベットに近い桂林に旅行したが、いつもどんよりとしていて、晴天の青空を
見ることは無かった。ましてや、北の北京などでは、今の時期は、スモッグで、町を歩
くときにはマスクが必ず必要であろう。それ以外に、中国では、水が汚れていて、炊
事、洗濯をする水が、川や池に流れて、いつも淀んでいる。このような環境の中で
は、当然、新型肺炎が発生するのは、当然かもしれない。日本で、白く雪で覆われた
富士山や水道の水を飲めることを中国から日本へ旅行で来た人は驚くであろう。し
かし、世界的流行に繋がらないことを願うだけである。中国からの帰国者は、咳や発
熱がある時は、検閲官へ自己申告することになっているが、この程度で防げること
を祈るだけである。
中国桂林の公園
暖かい冬の日が続いています。今朝も、青空に恵まれ、富士山を拝むことができ
ました。先週の話題は、アメリカとイランの対立でした。トランプ大統領の命令で
イランの革命防衛隊のソレイマン司令官を殺害したからその報復から米軍基地を
ミサイルで攻撃したのだ。しかし、米国はでは、その攻撃を事前にキャッチして、
死者はでなかったが、これに対して、アメリカが反撃しなかったことは、懸命で
あったと思う。このアメリカとイランはどうしてこんなにも仲がわるくなったので
あろうか。私がイランに仕事で出張した1973年の頃は、パーレビー王朝のマホメット・レザ
ー・シャーがアメリカのCIAの主導により、モサッデグ政権を打倒して、復権していた。
そのことは、あらゆる家々では、このシャーの王様の写真を掲げており、アメリカが
内政干渉していた時代であったことを後で知った。しかし、この頃は、日本からは、
NECや東芝などの沢山の企業がイランの国の各地で通信設備や電力設備などで
活躍していた。 このころは、お酒も飲めるし、服装も西洋化が進んでおり、貿易も
盛んに行われていたようだ。しかし、これは、1952年に民族主義者のソサッデグが英
国の所有する石油会社の国有化したが、これをCIAの策謀によって、イラン石油利
権を英40%、米40%、仏6%、蘭14%の割合で25年間分割する契約を結ばされて
おり、この外国資本により、急発展していたのである。この契約時、この調印をしな
い場合は、石油は、販売禁止するとこれらの国々が行ったのに対して、日本は、現在
の出光に当たる石油会社が、強引にイランの港まで輸送船を送り、日本まで輸入し
たのだ。このことが、現在も、日本に対して、イラン国民が好意を持っているのにつな
がっているのである。しかし、その後、イスラム的な宗教集団を政権から遠ざけるこ
とに反発が起こり、亡命先から、イスラムの指導者のホメイニが帰国し、革命を実施
するのである。その1978年以降は、それまでに行ったアメリカの政策に対する反発
の事件が頻発して行くのである。これが、今回の事件の背景にあることは、明らかで
あろう。
日光猿軍団の猿回し と川越七福神の看板
寒い雨の朝がつづいている。しかし、今日も散歩はかかさない。昨日も寒い天気
であったが、この日は山の会での川越七福神巡りの予定になっていたので、午後
3時ごろに雨になるがそれまでは、曇りで町をあるくことは可能と思い出かけた。
川越駅に10時に集合で、駅を見渡しても、誰も知った人がいない。リーダーへ
電話してみたら、中止とのこと。しかし、ここまで来たのであるから、一人で
川越の散策マップを取り寄せて歩くことにした。川越七福神のコースの順序にした
がって歩いたが、各地から来ている団体が歩いているので、コースを間違えること
はない。三代将軍家光が、江戸城より移築した春日局の化粧の間で有名な喜多院
には、大黒天が祭られいた。その後、成田山川越別院の恵比寿天を見て、その後
は武家屋敷が並ぶ蔵造りの街並みを探索しながら江戸時代の暮らしを堪能した。
この町には、古い建物だけでなく、川越でしか食べられない飲食店が多いことに
気が付く。時間がゆるせば、中へ入ってお菓子とコーヒーを飲みたい気分になる
のは、私たけではないであろう。町の中心には、天台宗の蓮磐寺には福禄寿神が
まつられていたが、境内では、日光佐野軍団の一匹が出張公演を行っていた。保育
園の子供達が、大勢猿の曲芸で披露する芸に合わせて、拍手をおくっていた。この
ような、イベントに遭遇するのも、お正月の風物で、昔をおもいだす。今日は、午後
は、雨がふることから昼食を取って、川越を後にしたが、楽しい思い出の日となった。
今年は中止となった多摩川でのどんど焼き(昨年の写真を再掲)
今日も素晴らしい天気である。2日から3日行われた箱根駅伝は昨年に敗れた
青山学院大学がリベンジを果たし優勝した。私の長男の嫁さんが青学出身で
いっも応援するようになったが、今年は、若手を中心として総合優勝をはたしたが
そのタイムが歴代1位で5分あまり短縮しての優勝とのこと。この優勝には、原
監督が若手を育成して、新人を選手采配したことにあったのであるが、そのメンバー
を見るとすべて文武にとんだ偏差値の高い高校からの出身校であることに驚かされる。
2区を走った1年生の岸本選手は新潟県の燕高校の進学校から原監督が見出し、抜擢
したのであるが、驚くほどの活躍であった。何事をやるにしても、一つにかけて頑張
る若者の姿は素晴らしい。恨まやしいばかりだ。しかし、青学での駅伝メンバーは、
原監督の寮で学業をやりながらの生活であったとのことであるが、原監督の奥さんの
努力なくしては、実現しなかったかもしれない。私も、大学の時、3年間、寮生活を
送ったが、そこで学んだ経験は、学業と違って、同年代の仲間と一つ屋根のした一致
した目標に向かって進む力が、このような駅伝での優勝に繋がったと思う。この若さ
はいっ見ても、我々の老人を励ましてくれる。
多摩川の土手を新春に走る子供達
新年あけましておめでとうございます。東京は正月に入って、素晴らしい天気が
つづいている。今週はすべて晴天とのこと有難い。我が家の正月は、いつも長男
一家が泊りがけで元日にくるが、今年は、ジジ、ババが歳を取って来たことから、
日帰りでの訪問となってしまった。しかし、長女の孫も、八王子から集合して大賑
わいとなった。私の孫には、茨城の牛久市に長男に2人の孫と長女に2人の孫か
いるが、すべて男である。この日は、長女の上の孫が、今年大学受験で来なかった
が、残りの3人が訪問してくれた。男ばかりであるので、大学受験と、将来どの
ような職業を選ぶのか気になるが、やはり、勉強と身体づくりの話と自然となる。
訪問に当たっての準備としては、事前に不動産屋に行って、駐車場を確保していく
ことと、当日に、スシローへ行って予約していた寿司を取りにゆくことであったが。
しかし、正月には、昔は、いろいろの料理を、大晦日から準備していたものである
が我が家では、これも徐々に減少して、お雑煮をいただくほどになってきている。
これもどの家も、自宅でお正月におせち料理を作るところは少なくなってきている
ようだ。この証拠に、コンビニでのおせちの予約が一般的になってきているようだ。
しかし、孫達がいつまで、このジジとババ宅を訪問してくれることになるのか
を考えると、私どもが健康であることが第一で、何も十分な準備がなくとも
良いと思うのも歳のせいか。それにしても、孫達の一家が訪ねてくれることに感謝
しているお正月である。