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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸天狗党集結の地、府中 (茨城県石岡市) 

2020-04-28 | 茨城県南 歴史と風俗

  藤田小四郎ら祈願した鈴ノ宮稲荷神社


天狗党、府中集結と筑波への出立  
 
 元治元年(1864)2月15日、京都では朝儀が開かれた。
 この席には、親王・関白以下が参内、朝儀に参与する諾大名も陪列していた。
席上孝明天皇から鎖港間題について下問があり、島津久光、伊達宗城は急に横浜を鎖すことは無理であると答えたので、鎖港論に変っていた 一橋慶喜らと激しく対立、朝儀は紛糾した。 

 しかし、19日に至って将軍家茂が横浜鎖港の成功を期すべき方針を明示したので朝廷もこれを容れ、重ねて鎖港の成功を期し、まず摂海の防備を急ぐべき旨を公示、幕府もまたこれを諸大名に布告した。
 ここにおいて多年朝幕間の懸案であった攘夷問題は一応横浜鎖港に局限され、摂海防備を当面の急務とするに至った。

 これを受けて幕府は、12月25日、一橋慶喜の将軍後見職をやめて、新たに禁裏守衛総督・摂海防備指揮の職を設け、慶喜をこれに補した。
 在京中の慶喜は、4月3日付で武田耕雲斎に大任を命ぜられたことを報ずるとともに、武田に「人数三百人斗相率ひ出京侯て小子を扶助」するよう要請した。

 幕府にしてみれば、将軍・老中がいつまでもそろって京都に滞在しているわけにはいかない。
 かといって、この役目は守護職や所司代の職掌を超えているため従来の幕府の職掌では、対応が難しかったからである。 
 

 武田は慶喜の要講を受けたが、慶喜が京都で新しい職に任ぜられた2日後の27日、藤田小四郎ら激派が撰夷断行の先陣となるべく、筑波山挙兵に至ったからである。

       藤田小四郎の像と書 
       (像
は筑波山神社境内に立っている) 
           
       (石岡市民俗資料館蔵)

 かねて水戸藩の尊撰派が、
「長州説ノ者国権(水戸藩政の実権)ヲ取、
最早当君(藩主慶篤)幕府ニ構申さず、
只々天朝之命を奉じて攘夷致ノ論、近来愈盛ニ相成、
諸方之浪士多数集リ近国へ金子を募リに出侯者少なからず」という状況にあった。

 2月の朝儀によって横浜鎖港が改めて確認され、幕府もこのことを諸大名に布告したことは、小四郎はじめ激派有志からみれば、自已の主張の正統性が公認されたものと考え、いよいよ挙兵への自信を深めることになった。 

 ところで、2月末、山田一郎は小四郎との約束にしたがって同志10人余を連れて江戸から府中(石岡市)へ戻り、岩谷信成(敬一郎)は潮来(潮来町)から17、8人、竹内延秀(百太郎)は小川(小川町)から10人ばかりをそれぞれ引き連れて府中に来た。 

 小四郎は、いったん水戸へ帰って、かねて同意の根本義信(新平)、三橋弘光(金六)、高畠孝蔵、須藤孝正(敬之進)、中村重明(親之介)、尼子久贇(久次郎)、小野信之(藤五郎)、戸牧有格(行蔵)ら20人余を連れて府中へ戻ってきた。

 これにより、総勢60人ほどになったので、小四郎を中心に挙兵の段取りについて協議をはじめた。

 当時、小四郎らは府中新地金丸町の紀州屋に滞在していた。
 新地には、紀州屋、三好屋、井関屋、山本、大和屋、金升屋、近江屋、松屋という八軒の旅宿が並んでいたが、小四郎のいた紀州屋が本陣格で一隊は八軒にそれぞれ分宿していた。 

 

 紀州屋の2階で評議がはじまると、竹内が 「一隊をまとめていくには誰か犬将になる人物が必要だ。藤田君は若いから(当時23才)参謀の任には結構だが、願くば老巧の名望家を一人欲しいものだ」 という。

 それならば山国共昌(兵部)がよかろう、という声もあったが、小四郎が「水戸町奉行田丸稲之衛門(山国の弟、60才)なら必ず承諾」てくれるだろう。

 僕が今から出かけて勧めてみよう」といい、斎藤彦(佐次衛門)とともに直ちに水戸へ向った。
 2人が田丸邸をたずね大将就任を要請すると、田丸はこれを受諾した。 

 そこで田丸は3月20日頃、藤田・斎藤とともに上下20人余で府中に到着、27日を期して筑波山挙兵のことを定めると、田丸は一旦水戸へ戻った。

 この決定にともなって、畑以義(弥平)を筑波へつかわし、寺院の借受けのことを相談させると、早速承知してくれたという。

 その27日、田丸の到着をまって勢ぞろいした60人余は、鈴ノ宮稲荷に目的遂行を祈願し、企図秘匿のため隊伍を組まず、三々五々、府中を出発、筑波山へ向かった。
 
        鈴ノ宮稲荷神社 新地八軒
    
                 (石岡市民俗資料館蔵)

       紀州屋の女主人 いく子


                         (石岡市民俗資料館蔵) 

   紀州屋の女将いく子の墓がある本浄寺 
       (石岡市府中2丁目4番) 

 寺号は大光山本浄寺,宗派は浄土真宗東本願寺大谷派。
 本尊は阿弥陀如来である。創建は天平宝字年間(757~764)で,開基者は順誓法橋という人と伝わる。
 建暦2年(1212)に親鸞が常陸国に布教、
鹿島神宮に数回参拝の途中この寺に立ち寄り、
その時の住職が親鸞の念仏門に帰依し,浄土宗に改宗,寺号を大光山本浄寺とした。 

     鈴ノ宮稲荷神社 (石岡市国府2丁目 ) 

 祭神は宇迦魂命(うかのみたまのみこと)。
 稲荷神社の社名「稲生(いねな)り」から「いなり」となったものである。 
 鈴ノ宮稲荷神社の創建年代は不明であるが江戸中期以降のことで、
それ以前の文書は、「鈴の宮」と記している。

 常陸国府が置かれた時代に官人の交通のため駅馬や駅令が置かれた駅舎があった地といわれる。
駅制では、官人の往来する時に駅使が鈴をならして通行した。
 駅制が廃絶したあと、この駅鈴を神社に奉納し、その神社を鈴の宮とした。
 

 元治元年(1864)、尊王攘夷の旗印に天狗党の田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め、60余名が勢ぞろいして出発した地である。

 金子の呼称は、府中6名家(税所・健児所・香丸・金丸・中宮部・弓削)の一つ「金丸氏」に由来する。 

〔大瑑氏との関わり〕 

 常陸大瑑国香の守護神として尊崇された。
 大瑑氏一族である税所氏が大瑑氏鎮護の神として祭祀を執り行っていたと伝えられている。

       鈴ノ宮稲荷神社と新地八軒の跡地   
          (石岡市国府2丁目1番 )



     往時の建物はない。駐車場など になっている。 
 
  
        照光寺 (石岡市府中2丁目4番9号)
   
   

  照光寺は常陸大掾高幹(浄水)を開基として、
良善上人(下野国円通寺開山良栄上人の高弟)開山として、
応安7年(1374)鹿の子の地に創建されたと伝えられる。
 第12世良夢上人のとき大掾氏が佐竹義宣にために滅ぼされ、寺院は兵火にあって焼失した。 

  その後、佐竹義宣の叔父佐竹左衛門尉は、円通寺より称往上人を招き、第13世として寺の再興を図り、鹿の子よりこの地に移した。 
 敷地はもと府中6名家(金丸・弓削・税処・香丸・中宮部・健児所)のひとつ、金丸家の屋敷跡といわれている。

        天狗党名残の刀傷 (照光寺本堂の柱) 

               (石岡市民俗資料館蔵)

     常陸府中藩主松平家の墓所
 

 府中松平家は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼高を祖とする。 

 元禄13年(1700)頼高は、幕府から陸奥国岩瀬郡長沼など18箇村、常陸国新治郡府中など19箇村合計2万石を与えられ、「御連枝(ごれんし)」と呼ばれる水戸徳川家の分家4藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つとなった。 

 府中松平家は本家と同じく定府制であり、上屋敷は江戸小石川にあった。
 代々播磨守を世襲し、10代頼策(よりかず)のとき、明治維新を迎えた。 
 歴代藩主の墓は小石川宗慶寺にあったが、大正15年(1926)照光寺に移した。  
 

     天台宗 東耀寺 (石岡市若宮1丁目1番)

 寺号は高照山養願院東耀寺,宗派は天台宗山門派,本尊は阿弥陀如来である。

 東耀寺は寺院明細帳によると養老5年(721)に創建となっている。
  舎人親王(天武天皇の第3皇子)が常陸国を御巡回のおり、霞ヶ浦を船で渡られたが、その時、阿弥陀如来像が流れ着いたので親王はそれを拾い上げて当寺を建立したのが寺の始めであるという。

 また筑波山の中禅寺にいて、八郷の峰寺、岩瀬の月山寺などを創建した奈良法相宗の僧である徳一(藤原仲麻呂の子)が創建したといういい伝えもある。 天狗党が宿舎とした。

       石岡陣屋門跡  (石岡市総社1丁目)

 文政13(1828)年に建立された。
 江戸時代に代官、その他の役人が在住した屋敷や役宅は一般に陣屋あるいは陣屋敷と呼ばれた。 
 陣屋は天狗党の宿舎として使用した。 

 石岡の陣屋門は、本柱の上に妻破風の屋根がつき、本柱の控柱の上にも、本屋根と直交してそれぞれ別棟の小屋根をつけ、扉と控柱とを覆っている高麗門の形式である。 

 この門は、冠木と棟木間が土壁で閉ざされている高麗門に比べ、冠木が本柱を貫きとおし、また冠木と棟木間に格子を組み入れるなどの手法を見せている。 

         愛宕神社 (石岡市府中2丁目7番)

 祭神は迦具土命。多くの神々を生んだ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が最後に生んだ火の神。創建年代は不詳。
 愛宕神社は、幸町の古墳の上にあり、そこから移されたものだと伝えられている。

 近世になると旧暦の7月2日に愛宕の祭礼がおこなわれていた。
風流物は、「子供踊」「ほうさい念仏踊」「富田のササラ」「木之地のみろく」「土橋の大獅子」などであり、
また古記録によると、享保~天明年間 (1716~1788) に町内を神輿が巡幸していたとある。

 水戸天狗党の謀将薄井龍之が境内で私塾を開いていた。 

          金刀比羅神社 (石岡市国府6丁目2番) 

 祭神は大物主神。大物主神は、山と森と木という自然の生命を御神体とて鎮座することを特徴とする日本最古の歴史を有する神である。
 当神社の吉称である「森」「森木」「守木」は、神社・神木・神垣の意味があり、古来から由緒ある神域であったことを伝えている。
  また、常陸大掾平一族、府中藩主によって手厚い庇護を受けるなど多大な崇敬を寄せられていた。 

 文政10(1827)年、讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の御分霊を勧進請して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人の参詣を集めている。 
  

            常陸国分寺     
       
(石岡市府中5丁目1番) 

       (石岡市民俗資料館蔵)

  
       
    
 (上の写真をクリックすると拡大)     *
 
    
 
   写真中央の下部から中門跡。金堂跡、講堂跡の注記が見える。
 石柱「史蹟常陸国分寺跡」は、航空写真の「中門跡」にある。
常陸国分寺は天狗党が宿舎としたが、1908(明治41)年の国分町の大火で延焼、焼失した。 

 

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