寺院名 |
大倉山地蔵院跡 |
読み |
おおくらさんじぞういんあと |
住所 |
松阪市上蛸路町 |
築年 |
15世紀中頃か |
形式 |
山岳寺院 |
遺構 |
削平地、櫓台、標柱石 |
規模 |
本堂跡 40m×40m |
宗派 |
天台真盛宗(注1) |
標高 148m 比高 真生寺の標高63mから85m |
経緯と歴史 |
「松阪市の指定文化財案内」78ページに記載されているNo,69-135虚空蔵菩薩坐像の一文に気になるところがあった。 |
真生寺にある木造虚空蔵菩薩坐像(市指定文化財)は底に康生3年(1457)の墨書銘があるという。 |
この真生寺は天台真盛宗に属し、大倉山地蔵院を称し、もとは南西1.2Kmの大倉山中腹にあったが永禄12年(1569)の織田信長の大河内城攻めのとき兵火にかかり、寛永2年(1625)頃、現在地へ移ったという寺伝が残されている。 |
本堂は宝永2年(1705)に建築されたとある。 |
書籍 |
松阪市の指定文化財案内 |
気になったのは、「織田信長の大河内城攻め、、、、、兵火にかかり、、、、」という行(くだり)で、この近辺にある山城の顛末に参考になるのではないかという気がしたからである。 |
環境 |
松阪市蛸路町と阿波曽町の間にある標高200m~230mの東西に延びる山塊の北側中腹にある。 |
従ってこの寺院の正面は上蛸路町と考えられる。町から徒歩で1Km程度の山道で、井戸跡や石像があるといわれる大倉道があったというが今は所々寸断されており、重機で切り開いた道に沿って行くのが無難である。 |
現地 |
最初にたどり着いたのは小さな尾根の先端であった。そこには周辺のロケーションにそぐわない遺構が散在している。 |
1.2m×2m、高さ50Cm程の石組の基壇が2基、方向を斜に構えた特異な配置で据えられている。周辺には祭壇への階段跡や低い石垣跡がる。東側の斜面には竪堀や、切通しが見られるが確定するには調査が必要と思われる。林の中には削平地と切岸がある。 |
ここは寺院の入り口・山門跡かも知れない。この尾根の背辺りには本堂へ続く道があったと考えられるが重機によって切り開かれているのでかなり改変したと思う。 |
小さい池を二つ右に見て谷川に沿うように重機によって切り開かれた道を行くと、その道は上の池の奥辺りで行き止まりとなる。 |
その先は、谷川に沿って左(東側)へ向かうけもの道となる。谷の奥の行き止まりを左手斜面に取りつくとすぐに削平地に出る。 |
40m四方の削平地の西の端、境内の先端には約1m程の一段高い櫓台と思える高台がある。現在は山の神が祀られているがその様子から山の神は後世のものと判断できる。 |
考察 |
境内の外縁には石柱標識が数本見られた。頂部の平面には「寺」と刻まれたもの、「國」と刻まれたものが確認できた。おそらく寺院の領域を示したものと思われるが当時の物とするよりは製作などの質感から後世の物と考えた方がよいだろう。 |
「國」は国であろう。射和の豪商「国分」家の國だとすると設置されたのは江戸時代以降になるのかも知れない。 |
それにしてもここは寺院跡ということ、境界石柱標識は寺の領域を表していることは間違いなさそうである。 |
先述のここから北250mの山門跡と思われるところも含めて、ここは櫓台を持つ大倉山地蔵院跡といって間違いないと思われる。 |
感想 |
織田信長が大河内城攻めをおこなったとき、松阪周辺の寺院は軒並み兵火にかかっている。そのことから周辺にある城や砦は壊滅状態だったと思われる。 |
この寺院に近い矢倉山城、阿波曽、庄、本郷の各城も攻撃され破壊されただろう。 |
庄においては北畠の侍六騎が織田勢に襲われ櫛田川の淵で全滅したという謂れが残り血なまぐさい臭いがある。今もその場所に建つ「南無阿弥陀仏」の名号石は櫛田川を向いて鎮魂している。 |
櫛田川流域ではそこかしこで織田軍と小競り合いをしたというが、今回大倉山地蔵院跡を訪ねてそのことが一層色濃くなった気がする。 |
次回は上蛸路の麓より大倉道をたどり井戸跡や石仏を比定しながら当時の本道を探したい。焼失以前の様子が見えてきたら遺構の価値は一層上がることになる。 |
注1 |
真盛上人 |
地図 |
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