城名 |
近津長谷城 |
読み |
ちかつはせじょう |
別名 |
近長谷寺城(きんちょうこくじじょう) |
住所 |
多気町佐伯中・長谷
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築城年 |
南北朝時代 |
築城者 城主 |
度会家行 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、台状地、土塁、堀切、井戸3ヶ所 |
規模 |
150m×160m |
標高 290m 比高 195m |
歴史 |
貞和三年(正平二年・1347)8月、楠木正行(注1)の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行(注2)らが宮川で兵糧米・具足をととのえ11月26日にはこの城に構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。このように早くから南朝方の拠点となっていて、田丸城・一之瀬城と共に北軍を大いに悩ましたと考えられる。 |
書籍 |
日本城郭大系 三重の中世城館 多気町郷土史辞典 |
環境 |
重要文化財の資材帳(注3)と十一面観音立像で有名な近長谷寺(きんちょうこくじ)の北東山頂にある。 |
この城は、標高290mの城山に築かれ、北には櫛田川の中流域から遠くは伊勢湾を見渡せる。 |
南北朝時代から室町時代にかけて築かれた山城としての特徴がうかがわれて、交通の要所を見おろし麓との比高でいえば100~200mに築かれている。 |
現地 |
長さ45m、巾10m、高さ8mの台状地を中心とし、西側と北側の尾根は深い堀切で遮断している。周囲に平坦地、小台状地、土塁、堀切を組み合わせた複雑な構成を成している。 |
近長谷寺の南西200mの山頂には、斜面を階段状に切り込んだ曲輪群があり別の城と考えられる。 |
考察 |
この城より北東6.5Kmに位置する松阪市中万町の神山城と共に南北朝時代の城郭として残されている数少ない城の一つである。 |
感想 |
ここに南北朝時代の城があったことは現地の遺構をみれば何とか想像することができる。しかしここの場合はそれ以上に仁和元年(885)と古くからある近長谷寺の様子を垣間見ることができることがもっと驚くことである。 |
更に、御本尊の十一面観世音(重要文化財)は全国に約二百ヶ寺以上あるといわれる長谷型観音の一つでありながら右手に数珠をかけ錫杖(しゃくじょう)をそえる姿は日本唯一のものといわれている。 |
注1 |
楠木正行(くすのきまさつら) 正成の嫡男、貞和四年(正平三年・1348)に四条畷の戦いで敗北し弟正時と共に自害した。(23歳) |
注2 |
渡会家行(わたらいいえゆき) 外宮禰宜でありながら北畠親房を支援し、南伊勢地区の軍事的活動にも挺身した。後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力したほか、その神国思想は北畠親房の思想に大きく影響し、親房の師とされ、また他の南朝方にも影響を与えた。1256-1351(又は1362)と、90歳を超え長寿を全うしたらしい。 |
注3 |
資材帳には「実録近長谷寺堂舎並資材田地等事」と題して、諸堂や所有地のことなどが詳記されており、平安時代に於ける南伊勢の土地の様子を知るには無二の資料といわれている。 |
地図 |
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