先日三瀬谷へ行った。
北畠氏の歴史が刻まれているところだ。
先日のブログにあるように北畠具教(とものり)の館跡がある場所は山裾だが、この三瀬の砦跡はそこから数百メートル下の宮川沿いにある。三瀬とはこの地の豪族・三瀬氏のことである。
砦西方より東方を望む。正面は高さ3メートルの土塁であり外周を造っている。
詳しくは説明板の記述を留めよう。
三瀬砦跡は今から500年ほど前の室町時代~戦国時代に築かれた城砦である。城砦の範囲はおよそ2、500㎡、城塞の正面東側には田畑が広がり集落が一望でき、一方側面と背後は宮川の本流とその支流大谷川の合流点の、河岸段丘が岬状の断崖となる地の利を得た要害の地にある。城砦は大きく東西二つの郭の分かれ、さらに西に堀切で画された小郭がある。郭の周囲には高さ3メートルの土塁があり、東側の方形の郭は土塁の内側でおよそ20メートル×14メートルあり、井戸跡も残る。東の郭の東面と北面の一部には石垣や空堀があった。石垣は明治初期に取り外され、空掘も徐々に埋まってはいるが、保存状態は良好である。なお、城跡の内部には井戸があり、奥の土塁上の平坦な高台には武士の守護神でもある八幡社がまつられ、毎年3月には地元で祭事が行われている。
当地は城砦の北側を通る旧熊野街道の宿場で、宮川の渡しや舟運もあり、さらに湯谷・相津などの峠を越え飯高・一志・吉野の通じる交通の要衝の地でもあり軍事的にも経済的にも重要な場所であった。
この城の城主と伝えられる三瀬氏は北畠氏の家臣としてこの地を治め、永禄12年(1569)伊勢に侵攻した織田信長と北畠氏が戦った大河内城合戦でも奮戦し、北畠具教が織田軍と和睦し再起を秘めて当地の西方の上三瀬地区の三瀬館に隠棲したときも三瀬館守護の支柱となったと伝えられている。当城主の北方の慶雲寺は三瀬氏の菩提樹と伝えられ、三瀬氏の位牌や三瀬氏最後の武将とされる三瀬左京祐の木造が安置されている。
当城砦跡は、伝承の真偽ははともかく、室町時代から戦国時代の地侍層の城砦の面影よく残す貴重な例として県の史跡に指定され、大台町教育委員会・下三瀬区三瀬砦保存会が保存・管理している。
大台町教育委員会
下三瀬区三瀬砦保存会
鳥居から砦中に続く道は苔むしている。
東面の土塁上から西方を見る。現在は杉に覆われているが中央付近に井戸跡、後方奥に八幡社があり往時を偲ばせる。
北畠氏の歴史が刻まれているところだ。
先日のブログにあるように北畠具教(とものり)の館跡がある場所は山裾だが、この三瀬の砦跡はそこから数百メートル下の宮川沿いにある。三瀬とはこの地の豪族・三瀬氏のことである。
砦西方より東方を望む。正面は高さ3メートルの土塁であり外周を造っている。
詳しくは説明板の記述を留めよう。
三瀬砦跡は今から500年ほど前の室町時代~戦国時代に築かれた城砦である。城砦の範囲はおよそ2、500㎡、城塞の正面東側には田畑が広がり集落が一望でき、一方側面と背後は宮川の本流とその支流大谷川の合流点の、河岸段丘が岬状の断崖となる地の利を得た要害の地にある。城砦は大きく東西二つの郭の分かれ、さらに西に堀切で画された小郭がある。郭の周囲には高さ3メートルの土塁があり、東側の方形の郭は土塁の内側でおよそ20メートル×14メートルあり、井戸跡も残る。東の郭の東面と北面の一部には石垣や空堀があった。石垣は明治初期に取り外され、空掘も徐々に埋まってはいるが、保存状態は良好である。なお、城跡の内部には井戸があり、奥の土塁上の平坦な高台には武士の守護神でもある八幡社がまつられ、毎年3月には地元で祭事が行われている。
当地は城砦の北側を通る旧熊野街道の宿場で、宮川の渡しや舟運もあり、さらに湯谷・相津などの峠を越え飯高・一志・吉野の通じる交通の要衝の地でもあり軍事的にも経済的にも重要な場所であった。
この城の城主と伝えられる三瀬氏は北畠氏の家臣としてこの地を治め、永禄12年(1569)伊勢に侵攻した織田信長と北畠氏が戦った大河内城合戦でも奮戦し、北畠具教が織田軍と和睦し再起を秘めて当地の西方の上三瀬地区の三瀬館に隠棲したときも三瀬館守護の支柱となったと伝えられている。当城主の北方の慶雲寺は三瀬氏の菩提樹と伝えられ、三瀬氏の位牌や三瀬氏最後の武将とされる三瀬左京祐の木造が安置されている。
当城砦跡は、伝承の真偽ははともかく、室町時代から戦国時代の地侍層の城砦の面影よく残す貴重な例として県の史跡に指定され、大台町教育委員会・下三瀬区三瀬砦保存会が保存・管理している。
大台町教育委員会
下三瀬区三瀬砦保存会
鳥居から砦中に続く道は苔むしている。
東面の土塁上から西方を見る。現在は杉に覆われているが中央付近に井戸跡、後方奥に八幡社があり往時を偲ばせる。
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