(書評)
呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房)
呉智英はゴチエイと読んでもいい。ゴーチエではない。
有名なリュウメイの思想なるものは〈密教〉と呼ばれ、軽蔑されていた。
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仏教の流派の一つ。深遠で、凡夫にうかがいえない秘密の教え。
(『広辞苑』「密教」)
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逆に、褒めすぎでしょ。
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判断力に乏しい学生や教養の欠如した左翼論壇人たちは、吉本隆明への批判が出ないことを、あまりにも吉本が偉大であるが故に、既成の学者や言論人は手も足も出ず、自らの頭の悪さを恥じて顔を伏せていると、都合よく誤解したのである。それこそまさしく「共同幻想」であった。
(本書「第五章 『共同幻想論』」1)
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「判断力」は条件反射かもしれない。「教養」はお洒落かもしれない。
呉は「都合よく誤解し」ている。「既成の学者や言論人」による吉本批判はあった。だが、話が噛みあわなかった。吉本は吉本語を使うからだ。吉本語を知らないフーコーには完敗したが、日仏の言語の相違ということにして、吉本は逃げたようだ。通訳は大恥を掻いたろう。通訳の名前は……。まあ、いいや。喧嘩犬の谷沢永一が吉本に噛みついたが、喧嘩を買ってもらえなかった。だからか、彼は自分の大学の学生に対して吉本の本を禁書としたとか。
シラケ鳥、飛んでゆく、東の空へ、惨め、惨め。歌ったのは植木等の元付き人で、名前は……、まあ、いいや。
呉は嘘をついているかも。リュウメイという「共同幻想」は「判断力に乏しい学生や教養の欠如した左翼論壇人たち」だけに伝染していたのではない。まず、大手の出版社の編集者たちに伝染した。大手の出版社から出ているから、吉本は信用されたのだ。一番の責任は編集者にある。とりあえず、校閲の責任を問わねばならない。ただし、校閲が付箋を貼ったのに編集者がそれを勝手に剥がしたのなら、校閲は可哀想。
〈物書きは偉いという共同幻想〉を解体しないでおいて、誰の作文の内容がどうのこうのといくら言っても、どうにもならない。西洋には、〈演説家は偉いという共同幻想〉があるのだろう。リンカーンもいれば、ヒトラーもいる。
〔『夏目漱石を読むという虚栄』3331 「いや考えたんじゃない」夏目漱石を読むという虚栄 3330 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。
意味不明の文章を有難がる「共同幻想」は吉本に始まって終わったのではない。真名と仮名の併用、書き下し文、和魂漢才、和漢混交など、曖昧模糊とした文体を尊ぶ日本文化があって、近代の和魂洋才で危険水域に達する。
〔『夏目漱石を読むという虚栄』1443 井戸茶碗/2530 和魂洋才〕参照。
平成以降、というか冷戦終結後、日本語は絶滅危惧種だ。日本人同士でも英単語を使う方が通じやすい。たとえば、漢語の〈示唆〉より英語の〈ヒント〉の方が通じる。しかも、和語の〈仄めかし〉だと変な意味合いが生じて厄介だ。
文学に限れば、和漢洋混用の植民地風日本語の濫用は夏目に始まり、芥川、太宰と続き、吉本に至った。私のいう〈売れてらセブン〉はハイカラ出版業界が生んだ仇花だ。その後、アイドルが出現しないのは、書籍が飽きられたからだろう。
〔『夏目漱石を読むという虚栄』1131 浅い理由と深い理由/1441 昭和のいる〕参照。
夏目は”I love you”をわざと気障に訳していたらしい。
〔『夏目漱石を読むという虚栄』6222 「尋常の言葉」〕参照。
「あたしゃあんたにアイブラユー」と歌った人の名前がいつも思い出せない。イヤミのモデルで……。まあ、いいや。いや、よくないんだけど。
付け足す。大江健三郎や村上春樹はアイドルなのかもしれない。だが、私は彼らの作品をほとんど読んでいないので、その人気について何の考えもない。戦後の日本文学で、まあまあ読めたのは、阿部公房ぐらいだ。
隆明はたかあきなのにリュウメイと呼ばれ、本名はきみふさなのに作家はコウボウと読ませる。そんな日本文化の雑種性のせいで日本人の「判断力」や「教養」は怪しくなっている。そのことにゴチエイは気づいているか?
若い頃、私は、呉の『バカにつける薬』を読んで目から鱗が落ちるような思いをした。だが、彼の主義のようなものには、まったく興味がない。彼の長所は、その文体にある。喧嘩犬のド論破ではなく、理詰めで批判を展開するところだ。
偽善者は〈論破は駄目ですよ〉なんてことを呟く。とんでもない。そういう物言いもド論破の一種だよ! ド論破派と禁論破派は、同じ穴の貉。
密教的作文が放置されるのは、議論の文化が根付いていないからだ。「教養」が邪魔をする。また、漢文の暗記のせいで「判断力」が育たない。知識人は致死奇人。偉ぶっているから、議論どころか、普通の話し合いすら、ままならない。
〔『夏目漱石を読むという虚栄』5352 「何でも話し合える中」〕参照。
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論破スル 綿密なデータを示し、彼の説を論破した
弁駁スル 論敵の意見を鋭く弁駁する
遣り込める 屁理屈で遣り込める
言い負かす 妹と口喧嘩をして言い負かす
逆ねじ 逆ねじを食わせる
「遣り込める」「言い負かす」は、相手を反論できないまでに論じ詰めて黙らせてしまう意味。相手の説の誤りを指摘するよりも、むしろ相手を屈服させる意のほうが強い。
(『類語例解辞典』613-08から抜粋)
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論破に似た意味の言葉は、もっとある。
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①大声で他の言を説き破ること。
②邪説を排し真理を解き明かすこと。「本質を―する」
(『広辞苑』「喝破」)
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吉本はオウム真理教を支持した。最高綱領と最低綱領がどうのこうのってね。その件で、何とかって映画監督だったか誰かが困りながら怒っていた。結局、日本の知識人は優秀なディベーターの〈何でも上祐〉に負けた。勝ってたら、どうなってたかって? 聞くかなあ。口達者の信者に、信念も論理もない知識人が勝てるわけないよ。
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(明治10年代からdebateの訳語として用いるようになった)事理をたずねきわめて論ずること。
(『広辞苑』「討論」)
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『福翁自伝』によると……。もう、いい。止め。
「智に働けば角が立つ」(N『草枕』)なんて、負け犬の遠吠えだ。
〔『夏目漱石を読むという虚栄』4300 臭い『草枕』〕参照。
要するに、初歩からなってない。基本のキ。イロハのイ。バナナのバカ。バナナは耳栓かよ。『にほんごであそぼう』(ETV)なんて……。もう、いい。もう、いい! むかつくったら、ありゃしない。名言は耳栓だよ。
思い出した。
保育園かどこかで、女の子が男の子を叩いた。そこの保育士はなかなか出来た人で、きちんと女の子と話し合った。
「どうして、あなたはあの子を叩いたの?」
「いつまでもブランコに乗ってるから」
「あなたはブランコに乗りたかったのね」
「ううん」
「じゃあ、どうして」
「早く降りてほしかった」
「降りてどうするの」
「砂場で一緒に遊ぶの」
「叩く前に遊ぼうって言った?」
「ううん」
「じゃあ、言ってごらん」
「遊ぼう」
隣にいた男の子は「うん」と答え、二人は手を繋いで走り去った。
GOTO 〔『夏目漱石を読むという虚栄』1111 〈意味〉の意味〕
(終)