謙遜(Humility)
誇りや尊大さのないこと; へりくだった思い。それは弱さではなく,神(ヤハウェ,エホバ)を喜ばせる思いの状態です。
ヘブライ語聖書の中の「謙遜」という語は,「悩まされる; 低められる; 圧迫される」という意味の語根語(アーナー)から派生しています。
この語根から派生した幾つかの語は,「謙遜」,「柔和」,「悩み」などと様々に訳されています。「謙遜」と関連したヘブライ語の他の二つの動詞は,カーナ(字義,自分を従える)とシャーフェール(字義,低くある,
もしくは低くなる)です。
クリスチャン・ギリシャ語聖書では,タペイノフロシュネーという語が,「謙遜」および「へりくだった思い」と訳されています。
それは「低くする」を意味するタペイノオーと,「思い」を意味するフレーンという語から派生しています。
人は,聖書に略述されている,自分と神,および自分と仲間の人間との関係について推論し,次いで学んだ原則を実行することによって,謙遜の状態に達することができます。
「自分を低くする」と訳されているヘブライ語ヒトラッペースは,字義的には「自分を踏みつける」という意味です。
イエスは,人は子供のように神の前で謙遜になるべきであり,目立とうとするのではなく,自分の兄弟たちに仕える,もしくは奉仕するべきであると訓戒されました。
「それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです」。
(マタイ18:4)
「だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです」。
(マタイ23:12)
【神を喜ばせる】
謙遜は神の目に大きな価値があります。神は人に何も負ってはおられませんが,過分のご親切により,ご自分の前にへりくだる者たちに憐れみと恵みを快く示されます。
そのような人は,自分を信頼したり誇ったりせず,神(ヤハウェ,エホバ)を仰ぎ,そのご意志を行ないたいという願いを示します。霊感を受けたクリスチャンの筆者ヤコブとペテロが述べているとおり,
「神はごう慢な者に敵し,謙遜な者に過分のご親切を施される」のです。
(ヤコブ4:6,ペテロ第一5:5)
しかしイエスは,自分は義にかなっているのだと自負し,ほかの人たちを取るに足りない者と考えるある人々にも次の例えを話された。「二人の人が祈りをするため神殿に上りました。一人はパリサイ人,他の一人は収税人でした。パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています』。一方,収税人は離れたところに立って,目を天のほうに上げようともせず,胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました。あなた方に言いますが,この人は,先の人より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」。
(ルカ18:9~18:14)
またイエスは,自分こそ正しいと思って他人をさげすむ人々に次の例えを話した。 「2人の人が祈りをするために神殿に上りました。1人はパリサイ派の人,もう1人は徴税人でした。 パリサイ派の人は立って,心の中でこう祈り始めました。『神よ,私がほかの人々のように,脅し取る者,不正な者,姦淫をする者ではなく,この徴税人のようでもないことを感謝します。 私は週に2回断食をし,得る物全ての10分の1を納めています』。 一方,徴税人は離れた所に立って,天を見上げようともせず,悲しんで胸をたたきながら,『神よ,罪人の私に慈悲をお示しください』と言いました。 あなた方に言いますが,この人はパリサイ派の人より正しいことが明らかになり,家に帰っていきました+。高慢になる人は皆辱められますが,謙遜になる人は高く評価されるのです」。
(ルカ18:9~18:14)
謙虚(unassumingly)
「謙」は,「へりくだる」という意味で,「相手を敬い自分を控えめにする」。
「虚」は,「空っぽ」「悪い心を持たない」。
聖書は何と述べているか
「誇りは崩壊に先立ち、ごう慢な霊はつまずきに先立つ」。
(箴言 16:18)
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」。
(箴言 16:18)
それはどういう意味か。
野心や自負心を抱いても、それは本当の成功を収める助けにはなりません。
実際、「優良企業の上を目指す」(英語)という本には、長期にわたって成功を収めている企業経営者たちは
「驚くほど謙虚で、出しゃばらず、控えめな人であるのに対し、調査の対象となった企業の3分の2は、経営者個人のエゴが極めて強く、そのために会社が倒産したか何の発展もないままであった」と述べています。
教訓は、自分のことを考えすぎると、成功するよりも「失敗」する可能性が大きくなる、ということです。
どうしたらよいか。
「名声を求めるのではなく、謙虚さを身につけましょう」。
「朝に種をまき,夕方になるまで手を休めるな。あなたは,これがどこで成功するか,ここでかそこでか,あるいはそれが両方とも共によくなるか知らないからである」。
(伝道の書・コヘレトの言葉11:6)
種をまいた後は,種が芽を出して成長するのを待たなければなりません。状況が整っていれば,やがて芽が地面に顔を出し,成長して穂を付けるようになります。
時たつうちに,畑は収穫するばかりになります。成長の奇跡を目の当たりにするのは,本当に感動的な経験です。
また,この成長をもたらしている方について知ると,非常に謙虚な気持ちにさせられます。人間は種を育て,水を注いで成長を助けることはできます。
しかし,成長させることができるのは,神だけです。
聖書にも、「取るに足りない者であるのに、自分は相当な者であると考える人がいるなら、その人は自分の思いを欺いているのです」と述べられています。
(ガラテア 6:3)
「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。
(ガラテア 6:3)
「謙遜と神(ヤハウェ,エホバ)への恐れからもたらされる結果は,富と栄光と命である」。
(箴言22:4)
「謙遜と,主(神)を恐れることの報いは,富と誉れといのちである」。
(箴言22:4)
【良い名は豊かな富に勝る】
良い名つまり良い評判はたいへん貴重なので,それを法律で保護している国もあります。
そうした国では,名誉毀損や誹謗中傷(人の評判を落とすような事柄を口頭,文章,インターネットなどで広めること)を禁じる法律が定められています。
このことは,古代の次の格言を思い起こさせます。
「名は豊かな富にも勝って選ばれるべきもの。恵みは銀や金にも勝る」。
(箴言 22:1)
どうすれば,良い名と敬意を勝ち得ることができるでしょうか。聖書には素晴らしいヒントが載せられています。
例えば,聖書の詩編 15編で,「だれが神の天幕の客となるのでしょうか」という質問に対して,詩編作者はこう答えています。
「それは,完全な道を歩き,正しいことを行う人。心には真実の言葉があり,舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず,親しい人を嘲らない人。
主の目にかなわないものは退け,主を畏れる人を尊び,悪事をしないとの誓いを守る人。
金を貸しても利息を取らず,賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は,とこしえに揺らぐことがないでしょう」。
(詩編 15:1~15:5)
こうした素晴らしい行動指針に従って生きる人は,尊敬に値するのではありませんか。
謙遜さも敬意を得るのに役立ちます。
箴言 15章33節には,「栄光の前には謙遜がある」とあります。
謙遜な人は,自分の改善点を見つけ,それに取り組みます。また,だれかにいやな思いをさせた場合は,進んで謝ります。
「わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人であり,全身を御することができます」。
(ヤコブ 3:2)
逆に,高慢な人はすぐに感情を害します。
箴言 16章18節には,「誇りは崩壊に先立ち,ごう慢な霊はつまずきに先立つ」とあります。
では,だれかから中傷された場合は,怒りに燃えて性急に反応するべきでしょうか。
「自分の名誉を守ろうとすると,かえって逆効果にならないだろうか」と自問してみましょう。
法律に訴えるのがふさわしい場合もありますが,聖書は賢明にも,「性急に訴訟を起こそうとして出て行ってはならない」とアドバイスしています。
むしろ,「あなた自身の言い分をあなたの仲間の者に対して弁護し」ましょう。
(箴言 25:8,9)
慎重で穏やかな取り組み方をするなら,高価な訴訟費用をかけずに済むかもしれません。
聖書は,単なる宗教の本ではなく,頼れる人生のガイドブックです。
その知恵を役立てる人は皆,良い特質を伸ばし,深い敬意や良い評判を勝ち得ることができます。
個人間の問題の解決に関する聖書の指針は,マタイ 5章23,24節; 18章15‐17節にもあります。
「だから,あなたが祭壇に供え物を献げようとし,兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら,
その供え物を祭壇の前に置き,まず行って兄弟と仲直りをし,それから帰って来て,供え物を献げなさい」。
(マタイ5:23.24)
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら,行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら,兄弟を得たことになる。
聞き入れなければ,ほかに一人か二人,一緒に連れて行きなさい。すべてのことが,二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
それでも聞き入れなければ,教会(会衆)に申し出なさい。教会(会衆)の言うことも聞き入れないなら,その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。
(マタイ18:15~18:17)