私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌
パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。
*私が用いる聖句は,新世界訳,新共同訳,新改訳,口語訳,回復訳(新約聖書のみ)
神様にしてみたい3つの質問
2 「なぜ宗教は偽善に満ちているのですか」
そう尋ねたくなる理由:
「もし神が誠実さを高く評価されるのなら,神を崇拝すると言う人たちの間
にこれほど多くの偽善が見られることはないはずだ」と考える人もいます。
考えてみてください: 息子が父親によるきちんとしたしつけを拒んで家を飛び出し,
身を持ち崩すとしましょう。父親は,息子の行動を良いと思っているわけではありませんが,
息子がそのような道を選ぶのを許します。
では,その後,息子と出会った人たちが,「父親が悪い」と決めつけたり,
「父親がいない」とまで言ったりするのは正しいことでしょうか。もちろん,正しくありません。
同様に,宗教に見られる偽善は,人が自分の歩みを自分で決めるのを神が許していることの証拠にすぎません。
聖書が述べていること: 神は宗教上の偽善を憎んでいます。
『「お前の長い髪を切り,それを捨てよ。裸の山々で哀歌をうたえ。主(神)を怒らせたこの世代を,主(神)は退け,見捨てられた」。
まことに,ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った,と主(神)は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に,彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。
彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子,娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく,心に思い浮かべたこともない』。
(エレミヤ 7:29~31)
「その上,彼らはヒンノムの子の谷にあるバアルの高き所を築いた。自分たちの息子や娘をモレクにささげて,火の中を通らせるためであった。
そのようなことをわたしは彼らに命じもしなかった。また,ユダに罪を犯させるためにこの忌むべきことを行なうことは,わたしの心に上りもしなかった」。
(エレミヤ 32:35)
その一方で,人が自由意志を行使するのを許しています。
神を信じると主張する多くの人は,人間が作った教えや独自の倫理に従うことを選んでいます。
『偽善者よ! イザヤはあなたがたのことを適切に預言して言っている,「この民は,口先ではわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。
彼らは人の戒めを教えとして教えながら,むなしくわたしを礼拝している」』。
(マタイ 15:7~9)
それとは対照的に,神の是認する宗教は偽善的ではありません。
イエスはこう述べました。
「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。
(ヨハネ 13:35)
この愛は「偽善のないもの」でなければなりません。
「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け,善には親しみ結び」
(ローマ 12:9)
大半の宗教は,この規準を満たしていません。
一例として,1994年にルワンダで集団虐殺が起きた時,何万という人たちが,
単に自分と違う部族の人だという理由で,同じ宗教に属する人を殺害しました。
それに対して,エホバの証人はその大虐殺に加わらず,多くの証人たちが仲間の信者だけでなく他の人々も守りました。
時には命の危険を冒してまでそうしたのです。
そうした利他的な行ないは,偽善のない宗教が存在し得ることの証拠です。
「なぜ人は存在しているのですか」へ続く>>>>