ドウダンツツジ、タンポポ、ツツジ 2019年4月18日
帰宅途中で撮影 ドウダンツツジ、タンポポ、ツツジ 2019年4月18日
撮影機材・ガラケー docomo P01F
BGMは、フリー無料のBGM素材・音楽素材「甘茶の音楽工房」
より「故郷」
ドウダンツツジ、タンポポ、ツツジ 2019年4月18日
帰宅途中で撮影 ドウダンツツジ、タンポポ、ツツジ 2019年4月18日
撮影機材・ガラケー docomo P01F
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より「故郷」
奇跡 ― 事実か作り話か
ある男性は,通り過ぎた車のバンパーに張られたステッカーに注意を引き付けられました。
「奇跡は起きる ― 天使に聞いてみよ」と書かれていたのです。
この男性自身,信仰の厚い人でしたが,よく意味が分かりませんでした。運転手は奇跡を信じている,ということでしょうか。
それとも,奇跡も天使も信じていないことをおどけて述べているのでしょうか。
ドイツの著作家マンフレート・バルテルの述べた,「奇跡という言葉は,即座に読者を相反する二つの陣営に分極化させる」
という所見に,あなたも興味を持たれるかもしれません。奇跡を信じる人は,奇跡は起きると確信しており,よくあることかもしれないと考えます。
* 例えば近年ギリシャでは,奇跡を信じる人々が,ほぼ月に一度の割合で奇跡は起きると主張しているとのことです。
そのため,ギリシャ正教会のある主教は次のように忠告しました。「奇跡を信じる者は,神やマリアや聖人を人間化しがちである。度を超した見方をすべきではない」。
奇跡がそれほど広く信じられていない国もあります。
ドイツで2002年に公表されたアレンスバッハ世論調査によると,国民の71%は奇跡を事実ではなく作り話とみなしていました。
しかし,奇跡を信じる3分の1足らずの人々の中には,処女マリアから音信を授かったと主張する3人の女性がいます。
マリアが1羽の鳩と天使たちを伴ってそれらの女性に現われたとされてから数か月後,ドイツのウェストファーレンポスト紙はこう伝えました。
「現在までに,約5万人の巡礼者,いやしを求める人々,また好奇心をそそられた人たちが,女性たちの見た幻に深い関心を寄せている」。
さらに1万人がマリアの出現を自ら体験しようとその村に押し寄せる,と予想されました。
1858年にフランスのルルドで,また1917年にポルトガルのファティマでも,同じように処女マリアが現われたと言われています。
キリスト教以外の宗教はどうか
奇跡はほとんどの宗教で信じられています。
「宗教百科事典」(英語)は,仏教,キリスト教,イスラム教の創始者たちが奇跡に関して様々な見方を持っていたと
説明していますが,「これらの宗教のその後の歴史が明白に示しているように,奇跡および奇跡に関する物語は,人間の宗教生活の肝要な一部となってきた」
とも述べています。同じ資料には,「仏陀自身,時々奇跡を行なった」とあります。
後に「仏教が中国に移植された」時,「伝道師たちはしばしば奇跡的な力を見せた」ようです。
同百科事典は,奇跡とされている事例の幾つかに言及した後,結論としてこう述べています。
「信心深い伝記作家たちの語る,こうした奇跡に関する話をすべて受け入れる気にはならないかもしれない。
しかし,それらは仏陀の名を高めるという良い意図で創作されたに違いない。
仏陀は熱心な追随者たちにそのような奇跡的な力を授けることができた,と言われている」。さらに,イスラム教についてもこう述べられています。
「イスラム教信者の大半は,奇跡を期待することを決してやめない。
伝承(ハディース)の中でマホメットは,公衆の面前で幾度も奇跡を行なった人物として描写されている。
……聖人は死後にさえ自分の墓所で信徒たちのために奇跡を行なうと信じられており,聖人たちの執り成しが信心深く祈願される」。
キリスト教の奇跡についてはどうか
キリスト教を受け入れた人々の多くは,意見がまちまちです。
イエス・キリストや,キリスト以前の神の僕たちが行なった奇跡に関する聖書の記述を事実として受け入れる人もいます。
しかし,プロテスタントの宗教改革者マルティン・ルターに同意する人も少なくありません。
「宗教百科事典」はこう述べています。「ルターもカルバンも,奇跡の時代は終わったのであり,奇跡が起こることを期待すべきではない,と書いた」。
同じ資料によれば,カトリック教会は奇跡を「知的に弁護しようとせずに」信じることに固執しました。
一方,「学理的なプロテスタント社会は,キリスト教の実践はおもに道徳の問題であり,神も霊の領域も現実の人間の生活に大きくかかわったり
影響を及ぼしたりはしない,と信じるに至った」ということです。
クリスチャンと唱える人々の中には,聖職者を含め,聖書に述べられている奇跡が実際に起きたことを疑問視する人もいます。
一例として,出エジプト記 3章1~5節にある,燃える茂みに関する記述を挙げることができます。
「聖書が実際に述べている事柄」(ドイツ語)という本の説明によると,ドイツの一部の神学者は,それを文字どおりの奇跡についての記述とはみなしていません。
代わりに,「良心のかしゃくや燃えるような痛みに対する,モーセの内なるかっとうの象徴」と解釈しています。
その本はさらに,「炎は,神の臨在に伴う陽光の中で一斉に咲いた花を表わす,とも考えられる」と述べています。
『モーセは,しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが,あるとき,その群れを荒れ野の奥へ追って行き,神の山ホレブに来た。
そのとき,柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると,見よ,柴は火に燃えているのに,柴は燃え尽きない。
モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」。
主(神)は,モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ,「モーセよ,モーセよ」と言われた。彼が,「はい」と答えると,
神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」』。
出エジプト記 3:1~5)
こうした説明には納得がいかないと思われるでしょうか。では,あなたは何を信じますか。奇跡が起きたと信じるのは現実的でしょうか。
現代における奇跡はどうでしょうか。“天使に聞く”ことができないのであれば,だれに聞けばいいのでしょうか。
聖書の見方
昔,神がときおり介入して,人間には不可能な事柄を行なった,と聖書が述べていることは,だれも否定できません。神についてこう書かれています。
「あなたはしるしと,奇跡と,強いみ手と,伸ばされた腕と,大いなる恐ろしさとをもって,ご自分の民イスラエルをエジプトの地から携え出されました」。
(エレミヤ 32:21)
想像してください。
その当時最も強大だった国家が,初子の死を含む,神からの十の災厄によって屈服させられたのです。まさに奇跡です。
「第一の血の災禍,第二の蛙の災禍,第三のぶよの災禍,第四のあぶの災禍,第五の疫病の災禍
第六の腫れものの災禍,第七の雹の災禍,第八のイナゴの災禍,第九の闇の災禍,第10の初子(ういご)の災禍」。
出エジプト記 7~14章。
幾世紀も後に,4人の福音書筆者は,イエスの行なった35ほどの奇跡を書き記しました。
実のところ,イエスが行なった超自然的な業の数はそれら筆者たちが記した数より多かったことが示唆されています。
そうした記録は事実でしょうか。それとも作り話でしょうか。
「それからイエスはすべての都市や村を回る旅に出かけて,人々の会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え,あらゆる疾患とあらゆる病を治された」。
(マタイ 9:35)
「しかし,群衆はそれを知って,彼について来た。イエスは彼らを迎え入れ,神の王国について語られた。また彼は,いやしを必要としている者たちをいやされた」。
(ルカ 9:11)
もし聖書がその主張どおり神の真理の言葉であるならば,聖書に記述されている奇跡を信じられる明確な理由があります。
聖書は過去に奇跡が起きたことをはっきりと述べています。
奇跡的ないやしや復活などです。しかし,そうした奇跡がもはや起きないということも,同じようにはっきりと説明しています。
では,聖書を事実として受け入れている人々も,現代における奇跡は信じないということなのでしょうか。
*この記事で言う「奇跡」とは,聖書辞典の次の定義に基づいています。
「人間もしくは自然界のあらゆる既知の力を超越した物質界の作用で,またそれゆえにその原因が超自然的な働きに帰せられる作用」。