知覚力を訓練する
どうすれば正しいことと悪いことを見分ける能力を身につけられるでしょうか。
パウロが1世紀のヘブライ人のクリスチャンにあてた言葉にその答えがあります。こう書きました。
「乳にあずかっている者はみな義の言葉に通じておらず,その人は赤子なのです。一方,固い食物は,円熟した人々,すなわち,使うことによって自分の知覚力を訓練し,正しいことも悪いことも見分けられるようになった人々のものです」。
(ヘブライ 5:12~14)
パウロはここで「乳」,つまり前節で「神の神聖な宣言の基礎的な事柄」と描写したものを,「固い食物」と対比させています。
その食物は,「円熟した人々」,すなわち「自分の知覚力を訓練し,正しいことも悪いことも見分けられるようになった」人のものです。
これはまず,み言葉 聖書に収められている,神の規準についての正確な理解を得るよう励まなければならない,ということです。
わたしたちは,してよいことと悪いことを書き出した規則集を探しているのではありません。
聖書はそのような本ではありません。むしろ,パウロはこう説明しています。
「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」。
(テモテ第二 3:16,17)
その教え,戒め,訓育から益を得るには,知力と思考力を働かせなければなりません。
これには努力が要りますが,その結果として「十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となる」ことには,それだけの価値があります。
「さらに,理解力を叫び求め,識別力を求めて声を上げるなら,銀を求めるようにそれを求め続け,隠された宝を探すように探し続けるなら,その時,あなたは神への畏れを理解し,神についての知識を見つける。神(エホバ,ヤハウェ)ご自身が知恵を与えてくださるからである。神の口から知識と識別力が出る」。
(格言・箴言 2:3~6)
さらに,パウロが示しているとおり,円熟した人々は「自分の知覚力を訓練し,正しいことも悪いことも見分けられるようになって」います。
これが問題の核心です。「知覚力を訓練し」という表現は,字義的には,「感覚器官が(体育家のように)訓練されている」という意味です。
(王国行間逐語訳)訓練を積んだ体操選手は,つり輪であれ平均台であれ,自分の選んだ器具の上で早技を見事にこなし,重力その他の自然法則を乗り越えているかに見えます。
全身を常に完全に制御し,規定の演技を首尾よく果たすのにどんな動きが必要か,ほとんど直感的にとらえます。このすべては,厳しい訓練と不断の練習の成果です。
わたしたちも,常に適切な決定や選択をしようと望むなら,霊的な面で体操選手のように自分を訓練していなければなりません。自分の感覚や肢体をいつも完全に制御できることが必要です。
「そこで,もし右目があなたに罪を犯させているなら,えぐり出して捨て去りなさい。体の一部を失う方が,全身をゲヘナに投げ込まれるよりは,よいのです。 また,もし右手があなたに罪を犯させているなら,切り離して捨て去りなさい。体の一部を失う方が,全身がゲヘナに落ちるよりは,よいのです」。
(マタイ 5:29,30)
「ですから,性的不道徳,汚れ,奔放な性欲,有害な欲望,また貪欲つまり偶像崇拝に陥らないよう,地上の体の各部をいわば殺しなさい。そのような事柄のために神は憤りを表そうとしています。
皆さんも以前は,そうした事柄が伴う生き方をしていました。しかし今は,それらを全て捨て去らなければなりません。憤り,怒り,悪い行い,暴言,口から出る下品な言葉を捨て去りなさい。
互いにうそをついてはなりません。古い人格とそれに伴う習慣を脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けましょう。新しい人格は,それを与えてくださる神の性質に沿って,正確な知識によって新しくされていきます」。
(コロサイ 3:5~10)
例えば,不道徳な内容のものを見つめないように自分の目を鍛錬しますか。低俗な音楽や話を聴かないように自分の耳を鍛錬しますか。そうした不健全なものが周囲の至る所にあるのは事実です。
しかし,それを自分の心と思いに根づかせるかどうかはわたしたち次第です。
次のように述べた詩編作者に倣えます。
「わたしはどうしようもないものを目の前に置きません。わたしはそれて行く者たちの行ないを憎みました。それがわたしに取り付くことはありません。……偽りを語る者については,その者がわたしの目の前に堅く立てられることはありません」。
「私は無価値なものを目の前に置かない。正しいことからそれていく人たちの行いを憎む。その人たちとは関わらない」。
(詩編 101:3)
「人を欺く者が私の家に住むことはない。うそをつく人が私の前に立つことはない」。
(詩編 101:7)