グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第6章 蒸機:大平原から大海原へ (その8)

2005年07月01日 | Wood's Book翻訳
 1914年、GNはO-1ミカドの旅客用バージョンであるP-1クラス、マウンテン(4-8-2)を導入した。当初から、この機関車はきつい山岳部の勾配では旅客用としては遅すぎたので、早々とホワイトフィッシュ~トロイ間のゆるい勾配での貨物輸送に移されていった。9年後、Q-1クラス(2-10-2)が導入された直後に、GN工場はP-1クラス全てをQ-2クラス(2-10-2)に改造した。実際にはQ-2はQ-1より若干軽かったのだが、2つのクラスを別々のものとして扱うのは困難で負担となっていたため、両クラスともQ-2の牽引力である76,000ポンドとして扱われた。1923年ボールドウィン製のQ-1サンタフェは見栄えも良く、また、高い牽引能力で機関士たちにも好評だった。しかし、Qクラスは、線路に負担を与えるということで悪評もあり、結局、貨物列車を時速25から35マイルで牽引することにほとんどの生涯を費やした。ただし、第二次大戦後、Q-2は近代化され、最高スピードは時速45マイルに上昇した。GNは、1880年代にNPで5軸の機関車の問題となっていたことと同じ教訓を得ることとなった。それは、複雑なレシプロ機関は正しくバランスさせることが非常に難しいということである。しかし、Q-1は大き目の動輪でうまくバランスを取れていたこともあって、ディーゼルが登場し始めた1940年代には、GNは製造後25年もたった蒸気機関車にこれ以上改造を行うのは無駄な投資だと考えるようになっていた。
 Q-1が導入された1923年、P-2クラス、マウンテン4-8-2が、オリエンタルリミテッド、ファーストメイル、グレーシャーパークリミテッド、更にはエンパイアビルダーを牽引するためにボールドウィンから納入された。P-2は、他のGNの機関車と違ってベルペア火室でなく、通常のラジアル支持火室に戻っている。全体的には、Q-1と非常に良く似ているが、大きめの73インチ動輪、短めのボイラー、スムースな輪郭の火室が、貨物用蒸気機関車にはない滑らかさをP-2に与えていた。当初、このクラスはほぼ半分ずつ石炭焚と重油焚に分けられていた。このクラスは、ローラーベアリング、ブースターは装着されていなかった。しかし、第二次大戦中に約半数がローラーベアリングを装備することとなった。何両かにはブースターも取り付けられ、牽引力を55,000ポンドから70,000ポンド近くまで増大させた。ローラーベアリングとブースターの装着で、この機関車は、貨物用、旅客用両方の能力を持つ機関車となった。P-2は、No.27ファーストメイル(「世界でもっとも早い長距離列車」と宣伝されていた)、エンパイアビルダー、そして有名なシルクトレインの先頭に立って数多くの特筆すべき走りを見せた。1924年8月には、2517号機(the Marathon)はシアトル~セントポール間往復3,600マイルを、後々ディーゼルによって牽引されたウェスタンスターよりも2時間半も短い時間で走りきっている。セントポールでのたった8時間の保守で、燃料補給、点検、乗員交代の時間も含めて全体の平均速度は時速45マイルを上回る。この走行はスティーヴンズ峠の旧トンネルルートを使ったものである-新しいトンネルとゆるい東行き勾配を使ったのではない。カットバンク~ウィルストン間、ブレッケンリッジ・ウィルマー支部では、シルクスペシャルは1924年ではありえない平均時速50マイル以上で走っていた。
 しかし、通常の運行では、旅客と機関の双方を考慮して、P-2は最高速度時速60マイルに制限されていた。貨物用に使われても、また、第二次大戦後に貨物用に転用されたあとも、この機関車は貨物用に設計されていないにもかかわらず、非凡な成績を残した。重量・高速旅客列車牽引においてただひとつの欠点は、後のノーザンのようなボイラー能力がないという点であった。

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