二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

群盲象を評す

2022-07-19 08:28:00 | イスラム/スーフィズム

 群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)という有名な寓話があります。


 パーリー経典ウダーナなどに収められている説話で、ジャイナ教、仏教緒派、イスラム教、ヒンドゥー教などでも教訓として使われています。


 この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場します。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、それについて語り合います。しかし触った部位により意見が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まり、やがて互いにはげしく争うようになります。


 目には見えぬ像






 暗い小屋の中に、一頭の象がいた。見世物にしようと、インドの人達がはるばる連れて来たのだった。目で見ることは出来なかったので、暗がりの中、人々はそれぞれ自分の掌で象に触れ、感じる他は無かった。


 ある人は鼻に触れ、「象とは、まるで水道管のような生き物だ」と言った。別のある人は耳に触れ、「いやいや。象とは、まるで扇のような生き物だ」と言った。また別のある人は脚に触れ、「私は象を知っている。あれは柱のような生き物だ」と言い、また別のある人は背中に触れ、「誰も分かっちゃいない。本当のところ、象とは王座のような生き物だ」と言った。


 小屋から出て来た人は皆、口々に違う言葉で説明し合った。もしも彼ら一人ひとりが、その手に蝋燭の明かりを持っていたなら、言葉の相違など生じなかったことだろう。


  ルーミー「スーフィの寓話」33話



   

インド産の象は文久3(1863)年春、両国広小路で見世物とされました。この象は江戸中の評判になり、十数組の象錦絵が飛ぶように売れたといわれています。









時の宇宙

2022-07-18 19:39:00 | イスラム/スーフィズム
 時の宇宙  
  

ありとあらゆる瞬間に
あなたは死と再生を繰り返す。
預言者も言った通り、「この世はほんの一瞬に過ぎない」。
われらの思考は御方により、
御方の宙へ向かって放たれた矢。
どうして宙にとどまり続けていられようか?
どうして御方の許へと戻されずにいられようか?

ありとあらゆる瞬間に、世界は新たに創造される。
われらは、永久に繰り返されるこの変化を知らない。
生命の水が刻一刻、新たに注ぎ込まれれば、
肉体は河のように、連続する流れの痕跡を残す。

火花を素早く回転させれば、一筋につながる光の線に見える。

時も、時の経過も、絶え間なき神の御業のもたらす不思議の現われ。
巧みに回転させた松明の火が、ひとつの環に見えるかのように。
『精神的マスナヴィー』1-1142.


 旋火輪
 
旋火輪(せんかりん)は仏教およびインド哲学の術語。サンスクリット語アラータチャクラaltacakraの訳で、火のついた木片を勢いよく回すときに見える火の輪をいう。

 刹那生滅

 この詩でルーミーの言っているのは仏教でいう「刹那生滅」のことです。

 すべての事柄は瞬間的に生起して消滅する。 そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し消滅する、そしてそれが連続すると考える。私たちには持続して存在していると見えるものも、実はこのような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものなのである。ー このような考え方を、刹那生滅といいます。

 この刹那生滅に関して道元禅師は次のように言っています。
    

「おおよそ人が指を一度パチンと弾く間には65の刹那があって身体も意識もすべて常に生滅しているのだが、凡夫はかつてそれを自覚せず知らないままです。

 一日一夜のあいだには、

64億9万9千9百8十の刹那があって、身体や意識はすべてその刹那に生滅しています。しかしながら、凡夫はそれを知ることはないのです。知らないがゆえに菩提心を起こさないのです。

 仏法をしらず、仏法を信ぜざるものは、刹那の生滅がどのような道理なのか信じないのです。

 もし釈迦如来の仏法の正しい教えをあきらかにするには、かならずこの刹那生滅の道理を信じなければならないのです。」
   正法眼蔵「発菩提心」






ギリシャの絵描きと唐の絵描き

2022-07-18 06:06:00 | イスラム/スーフィズム
ギリシャの絵描きと唐の国の絵描き



 その昔、唐の国の絵描きが言うことには、「我らの技術に敵う者は無し」。
応えて、ギリシャの絵描きが言うことには、「我らはさらに優れている」。

「ならば双方、腕試しにひとつ描いてもらおう」、スルタンは言った。「果たしてどちらの言い分が正しいのか、その出来栄えを見て決めようではないか」。

 回廊を間に、扉と扉が向かい合う部屋の、片方を唐の国の絵描きが使い、もう片方をギリシャの絵描きが使うことになった。唐の国の絵描きはスルタンに、絵の具を百色、用意してくれるよう願い出た。そこでスルタンは、絵の具を調達するために自らの宝物倉を開けた。そしてそれ以降、唐の国の絵描きの部屋には、毎朝必ず絵の具が届けられた。

 ギリシャの絵描きは言った。「私どもの作品に、絵の具は必要ありませぬ。色彩を必要としておりませぬゆえ。きれいさっぱり、錆を落とすことー やらねばならぬ仕事はそれだけです」。彼らは扉を締め、部屋の中を磨き始めた。すっかり汚れの落ちた壁は、まるで晴れた空のように明るく輝いた。

 色彩を多く取り入れれば取り入れるほど、鮮やかさは失われ薄暗くなることがままある。色彩が雲ならば、無彩は月だ。たとえ雲がどのような色に染まろうとも、たとえ雲が輝いて見えようとも、その色も光も、雲ではなく雲を照らす星や月、太陽から来るものであると知らねばならぬ。

 仕事を終えると、唐の国の絵描きは太鼓を打ち鳴らしてその出来栄えを喜んだ。完成した絵画を見ようと、スルタンは部屋に入ったが、描かれた絵画の素晴らしさに、ただ唖然とするばかりであった。

 心ゆくまで堪能してから、今度はギリシャの絵描きの部屋を訪れた。ギリシアの絵描きが、唐の国の絵描きの部屋と、彼らの部屋の間を遮っていた緞帳を引き上げた。するとどうだろう、唐の国の絵描きの描いた景色が浮かび上がったー それは彼らが磨いた壁に、反射して映し出された鏡像であった。先ほど見たばかりの絵画が、より美しく、輝いて見えた。それはまさしく眼を奪うような光景であった。

 このギリシャの絵描き達を、スーフィーと呼んでも間違いではなかろう。学問も無ければ書物も読まず、また博識というのでもない。しかし心がある。嫉妬や憎悪、貪欲や強欲を、回を重ねて何度でもたゆまず拭い去ることにより、磨きに磨かれた純正な心がある。

 純正な心というものは、磨き抜かれてくもり一つ無く、従って疑う余地も無い鏡である。その鏡は無数の、ありとあらゆる種類のヴィジョンを受け取って映し出す。精神におけるムーサーの胸とはいつもそうしたもの。彼の心の鏡には、不可視の領域から送り届けられる無数のヴィジョンが映し出されているのである。
  『スーフィーの寓話』第9話
     画:トルコの細密画





四人の男と金貨

2022-07-17 19:52:00 | イスラム/スーフィズム
トルコ 1978年 200リラ プルーフ銀貨 ジャラール・ウッディーン・ルーミー没後705周年記念コイン
   

 四人の男と金貨

 四人の男が金貨を一枚与えられた。一人めのペルシア人が言った。「この金貨で、アングールを買うとしよう」

 二人めのアラブ人が言った。「いやいや、私はアイナブが欲しい。アイナブを買おう」

 三人めのトルコ人が言った。「アイナブなんてやめてくれ。私はウズュムを買いたい」

 四人めのギリシア人が言った。「私はスタフィルを買いたいのだが」

 それぞれの呼び名の背後に何が控えているのかも知らず、四人の男は喧嘩を始めた。情報だけが先走りし、肝心の知識を得ていなかったためである。

 そこへ賢い仲介者が現れ、四人を和解させた。仲介者は言った。

「あなた方四人全員の必要を満たして差し上げましょう。私を信頼して、一枚の金貨を預けて下さい。四つのものを、一つにして差し上げましょう」

 賢い仲介者は、それぞれの呼び名の背後に控えているものについて知っていた。一枚の金貨で葡萄を買い、四人に与えた。それで初めて、四人は自分達が欲していたものが全く同一であったことを知った。
精神的マスナヴィー』2巻「四人の男と金貨」より



 

踊れ/音楽の記憶

2022-07-17 06:59:00 | イスラム/スーフィズム
ルーミーの思想の一つに、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という神秘体験の実行が挙げられる。ルーミーの没後、コンヤのルーミー廟を拠点とする彼の弟子たちによって、コマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なメヴレヴィー教団が形成された。メヴレヴィー教団では同教団の始祖と仰がれている。

 

 踊れ

苦行のために、
欲望という傷をむき出しにするために、踊れ。

聖者たちは魂の戦場で、
くるくる回りながら踊る。
彼らは血まみれになりながら踊る。

自我の束縛から解放されると、彼らは手をたたく。
自分自身の不完全さから脱すると、彼らは踊る。

楽師たちは恍惚として心の底から太鼓をたたき、手は砕けて泡となる。

葉の触れあう音は見えない。肉体にある耳ではなく、魂の耳で聞かなければならない。

輝かしい魂の国を見るために、冗談や嘘には耳を貸すな。
 ルーミーの詩/創元社「スーフィー」p5






 音楽の記憶 

 ある人は言う、私たちの耳を心地良くくすぐるナイもリュートも、突き詰めればその旋律は、回転し続ける宇宙より受け取るのだと。

 だが信じる者は、あらゆる定理と推論とを軽々と跳躍してしまう、そして宇宙に響く音という音を、甘くするものは何なのかを知る。

 私たちアダムの末裔は、かつて彼と共に天使たちの音楽を聴いた。今となっては、はるか昔の遠い記憶もほころび破けているものの、それでも耳の奥底に残っている、地上の何ものとも無縁の残響が。

 ああ、音楽こそは聖なる晩餐、愛する者全ての血となり肉となる。音楽が鳴り響けば、魂は天上の記憶を恋い焦がれて高みを目指す。

 灰という灰は光り輝き、魂の奥底に不可視の炎が火の粉を散らす。私たちは音楽に耳を傾け、歓喜と平安をその舌に味わって満ちる。

  「精神的マスナビー」より


 スーフィーの回旋舞踊