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「人は見かけに寄らぬ」パワーの出し方

2017年04月04日 09時16分50秒 | 生活・経済
 
潜在能力とは、人間に内在する、従来の能力よりも質的や量的に高い能力のことをいうらしいです。
一般に潜在パワーというと、その人自身が以前から秘かに隠していた狙いある力、つまりある意味では能ある鷹は爪隠すというふうにおかしな勘違いをしてしまってはいないでしょうか?
 
そこで、本当の潜在パワーの出し方とは、はっきり言って、過去世を活用して未知なる未来世の力を引き出すということだと考えてよいと思います。
つまり自身の未来世にこそ潜在能力は秘められているのです。
 
素直な気持ちが潜在能力を高めるそうですが、その素直さとは未知なることへ挑む確信された意志だと思います。その反対に頑固さとは過去の知っていることだけにこだわりを持つということですね。
 
しかし、必ずしも頑固さが悪いということではありません。
逆に自分自身の良い面を他者へ最大にアピールできるのはすでによく知っている過去の自分だからです。
しかし、頑固さアピールの自力だけでは自分として前進していけないのです。
 
昨年11月、トランプ大統領は就任直後、先ず「アメリカファースト」を唱えたそうですが、これは未来に生きようということです。
その未知なるチャレンジ精神に賭ける未来の力を引き出すためには、過去に対する自身の頑固さを自他共に認め、それを変えていこうとする力であります。
つまり、これは当然自身にとって習慣のない苦手なことにこそチャレンジしようということを意味します。
 
それが無心になるということなのです。
 
その目的のためには、先ずは自分を知って過去の自分に自信を持つことであり、そして過去の自分の存在こそを最大アピールすることが良いことであるのです。
なぜならば、その半面パワーこそが未来パワーを見逃さず知る最大なチャンスづくりに相違ないからなのです。
 
(ぶっけん成安田)
  
 










方便「理論」 と 真実「原理」

2016年07月09日 11時37分47秒 | 生活・経済

お釈迦さまは方便話を「捨てよ!」とも「忘れるな!」とも言う
  
 
近頃はボランティア活動も慣れてきて要領(ノウハウ)を覚えたためか、かえってその都度の出かける際が億劫である。
そんな近頃は、再び初心に戻って何も考えず無心になって出かけようなどとも考える。
  
最初ボランティアを経験しだした頃は解からないことだらけであることが新鮮だった。
その新鮮さとはおそらくボランティアを経験した者しかわからないと思うが、行動前の不安や面倒さが行動アクションを起こすことにより一気に解消されていく快適さである。
  
だから最初の頃は、一度経験すれば嫌な億劫という気持ちは起こさずにその都度出かけることができたのだ。
それはその都度に思い浮かぶその日の失敗や危険リスクなスリルなどを自分なりにもどのように(HOW)してクリアしてこようかと考えるだけで、その不安に備えるチャレンジ心が味方してくれているようだ。
  
しかし、残念なことにこのような奇跡かのような日々は案の定そう長続きはしないものだ。
実はこの不思議と上手くいく心がけ(MIND)こそが「方便」であって、原理(WHY)に対する理論(HOW)なのだ。
お釈迦さまは真実なWHYだけを目指し、この途中の方便(ノウHOW)を捨てよ!とも忘れるな!とも教えているのである。
  

  

WHYの解答を得るためのカラクリはやはり「空」
 
 
重要な問題には頭を十分空にして掛かれという。
重要な答えとは真実の原理であり、その逆に方便とはそのために考えた架空な理論である。
  
事前に想定する理論(HOW)を考え付くことは原理(WHY)の解答を生じさせることよりもだんぜん容易い。
しかし、理論(ノウHOW)すべてを作り上げたり理解することはそれなりに沿った経験やとても長い時間が掛かるものであり、その成果として一つ一つの実験結果はそれらしきに反映されてくるのである。
  
そのようにHOW理論に沿った最初の経験ではすぐにも得れる結果が初心の功徳(初心パワー)であり、上手く好奇心を刺激すると共に、またその現実はすぐにも消えていくものなのである。
それに対し本来の原理、つまり真実は永遠不滅である。

この真実の原理とはある時ひょんなきっかけのWHYでのみ得れるのだ。
  

  

答えのないWHYだけでは動けない・・
 
 
ところで最初からWHYを考えながら行動を起こすには実はやはり何らか自分なりにもそのWHYの答えが見つかってなければ不安だ。
答えが出ないままの行動はやはりとりにくいだろう。
最低限の行動するための第一歩はどこへ、何のために、どうやって、つまりHOWが主流だ。
しかし、そのHOWを取り入れるのは最初の時だけで良いし、しばらく慣れて身に付いた頃には要らなくなるのがHOWなのだ。
であるなら、その先の本来の真実原理へ到達する行動アクションを更に起こすために用意しておくものはもはやHOWでもなければWHYでもない。
   
つまり、何も考えず「無」になることだけだ。
ただただ動かなければならず、惰性でそこへ行けさえすれば何等か成し得ると心に決めることで、考える知恵は後で付くことを信じるのだ。
ただただ無心の行動ノルマを実行することで面倒なためらいや余計な不安を捨て去って動けるようになることが何よりだ。
  
これが頭を空にして掛かるということであり、空ということは頭の中には特定のノウHOWやこだわりWHYが一つもない状態、つまり、これから起きるWHY(不思議)だけを自然に得れる状態だ。
この「無」こそ、新たなWHYを探しに行く一番合理的な態度であり、それが未知なWHYを得るために頭の中身を空にして挑むということだ。
 
 
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『地方創生はじゅ文パズルのようなのもの』

2015年11月10日 14時37分46秒 | 生活・経済

地方創生は呪文パズル合わせのようなもので、元々その場所なりの古い時代に、その方法は既に存在したのです。
簡単に説明すれば、地域の宝さがしですね。新たに気付くということは、その宝の付近、或いはその発見時期が近づいてきたということでしょうね。
 
地域的な社会福祉などには、とかく自分らしさや地域での生き甲斐が問われています。
ところで、その人としての自分らしさや生き甲斐というものがどこに隠れているかと言えば、その人の住んでいる所、若しくはそこからさほど遠くない付近当たりに、自分自身のその宝の在り処の可能性としては一番強いと言えるのです。
 
ですから先ず近くから解決ということですが、そう簡単には見つからないということが世の定めでしょうから、それまでの土地に根差して残るというより、別な幸福な天地を追い求めて引っ越す場合も多いことでしょう。
なお、かと言って、同じ居住地内付近で、ちょっと土地の場所を変えて、思い切り住み替えるという決断は、かなりの勇気と覚悟を要しますね。
 
ちょっとした、ひょんなことですが、そういうことを考えだすことが、人生の大事な宝さがしであるように思えます。
日常のことを、常に考えることが、そのまま常の状況ではなくなって行く・・、よって、思い立ったが吉日とばかりに行動をとるより、その際、吉とばかりに問わられず、きっかけとは、ややもすれば切欠と漢字で書く人も多いように「吉欠」と書いてみたら、ひょんなことでも意味が繋がるのかなぁと思います。

戦争という超巨大地震の余波を忘れてはならない

2015年06月26日 09時14分06秒 | 生活・経済
1945年に終結した世界戦争は既に70年を経過したわけだが、人類の引き起こした最終的な世界巨大地震だったと言っても良いだろう。
このような私たち地球上に生じた特別な衝撃や大異変は、ほんの70年の歳月程度でその影響余波が完全に終わるものではない。70年どころか今後、少なくとも200年、300年くらいは引き続き何らかの異変や影響を残し、包まれていくのである。
 
世界的に私たちの戦後70年は、闇雲にもハードの構築だけに終始明け暮れただけだったと言っても過言ではない。
それだけにソフト構築が遅れに遅れ、今後、ソフト再編プログラムの改変作業が重要となるのは必須である。
今更にハードに執着するから1歩も先へ進むことができなくなるのである。
 
決して世界巻き込んだ戦争という地球に与えた超巨大地震の痛感の痛手を忘れてはならないのである。
戦争後の長引く余波作業とは、再現をさせない改善の知恵を得る手直し作業のことである。

経と法の関係◇◇属累品第二十二その2

2015年06月21日 23時36分49秒 | 生活・経済
経と法の関係をたとえれば、真理と真実、原理と現実、つまり、理と実の関係であるということができるのではないでしょうか。
   
ところで、仏・法・僧の3つのことを三宝といいます。
仏とは佛さまであり、法とは阿耨多羅三藐三菩提などの法、僧とは僧侶のことです。
この3つの宝は、その意味が何であるかをとりあえず詳しく知らなくとも、宝石のようにただ持っていたり、接しているだけで、ほんのそれだけでも大きな効果があるらしいのです。
   
ですから、修行を積むと阿耨多羅三藐三菩提を得れると書いてありますが、阿耨多羅三藐三菩提の意味が解からなくても得ることができるものだという解釈ができると思います。
   
実は、この三宝の中には経、即ち、経宝はありません。
経はしっかり修学を積んで理解しないことにはその真理を得ることができないから、身に及ぶ大きな効果も生じないのでしょう。
ですから、佛法の宝とは、ある一体の徳を三つに分けて三宝としたといわれますが、その一体の徳というものが経の正体なのではないでしょうか?

第2-22日 Vol.50  是の如く三たび作す  【属累品第二十二】 (四行~八行)