お釈迦さまは方便話を「捨てよ!」とも「忘れるな!」とも言う
近頃はボランティア活動も慣れてきて要領(ノウハウ)を覚えたためか、かえってその都度の出かける際が億劫である。
そんな近頃は、再び初心に戻って何も考えず無心になって出かけようなどとも考える。
最初ボランティアを経験しだした頃は解からないことだらけであることが新鮮だった。
その新鮮さとはおそらくボランティアを経験した者しかわからないと思うが、行動前の不安や面倒さが行動アクションを起こすことにより一気に解消されていく快適さである。
だから最初の頃は、一度経験すれば嫌な億劫という気持ちは起こさずにその都度出かけることができたのだ。
それはその都度に思い浮かぶその日の失敗や危険リスクなスリルなどを自分なりにもどのように(HOW)してクリアしてこようかと考えるだけで、その不安に備えるチャレンジ心が味方してくれているようだ。
しかし、残念なことにこのような奇跡かのような日々は案の定そう長続きはしないものだ。
実はこの不思議と上手くいく心がけ(MIND)こそが「方便」であって、原理(WHY)に対する理論(HOW)なのだ。
お釈迦さまは真実なWHYだけを目指し、この途中の方便(ノウHOW)を捨てよ!とも忘れるな!とも教えているのである。
WHYの解答を得るためのカラクリはやはり「空」
重要な問題には頭を十分空にして掛かれという。
重要な答えとは真実の原理であり、その逆に方便とはそのために考えた架空な理論である。
事前に想定する理論(HOW)を考え付くことは原理(WHY)の解答を生じさせることよりもだんぜん容易い。
しかし、理論(ノウHOW)すべてを作り上げたり理解することはそれなりに沿った経験やとても長い時間が掛かるものであり、その成果として一つ一つの実験結果はそれらしきに反映されてくるのである。
そのようにHOW理論に沿った最初の経験ではすぐにも得れる結果が初心の功徳(初心パワー)であり、上手く好奇心を刺激すると共に、またその現実はすぐにも消えていくものなのである。
それに対し本来の原理、つまり真実は永遠不滅である。
この真実の原理とはある時ひょんなきっかけのWHYでのみ得れるのだ。
答えのないWHYだけでは動けない・・
ところで最初からWHYを考えながら行動を起こすには実はやはり何らか自分なりにもそのWHYの答えが見つかってなければ不安だ。
答えが出ないままの行動はやはりとりにくいだろう。
最低限の行動するための第一歩はどこへ、何のために、どうやって、つまりHOWが主流だ。
しかし、そのHOWを取り入れるのは最初の時だけで良いし、しばらく慣れて身に付いた頃には要らなくなるのがHOWなのだ。
であるなら、その先の本来の真実原理へ到達する行動アクションを更に起こすために用意しておくものはもはやHOWでもなければWHYでもない。
つまり、何も考えず「無」になることだけだ。
ただただ動かなければならず、惰性でそこへ行けさえすれば何等か成し得ると心に決めることで、考える知恵は後で付くことを信じるのだ。
ただただ無心の行動ノルマを実行することで面倒なためらいや余計な不安を捨て去って動けるようになることが何よりだ。
これが頭を空にして掛かるということであり、空ということは頭の中には特定のノウHOWやこだわりWHYが一つもない状態、つまり、これから起きるWHY(不思議)だけを自然に得れる状態だ。
この「無」こそ、新たなWHYを探しに行く一番合理的な態度であり、それが未知なWHYを得るために頭の中身を空にして挑むということだ。
身に付けば要らなくなるNOWHOW=お経・・・とってもNOWでしょ🙇