先日、ミャンマーの民主化運動指導者であるアウン・サン・スー・チーさんが自宅軟禁から解放されました。
およそ7年半ぶりの解放とのこと。
7年半もの長い歳月を自宅から一歩も出ることを許されずに過ごす。
私の想像力ではまるで及ばない大変なご苦労が伴ったであろうと思われます。
にもかかわらず、解放されたスー・チーさんの佇まいはあくまでも凛としていて、
その瞳の輝きは昔と変わらず健在です。
私はその姿を見て、同じ女性として憧れと尊敬の念を感じると共に、
「一体、彼女のこの強さはどこから来るのだろう?」と不思議でなりませんでした。
そんな折、とあるSNSを通して彼女の言葉が発信されてきます。
“I always consider myself free because my mind is free.”
直訳すると、
「私は常に自分自身を自由だとみなしている。なぜなら、私の心が自由だから。」
その一文は無条件に、一瞬にして私のハートのド真ん中に飛び込んで来ました。
私が今読んでいるヨガ哲学の古典「バガヴァッドギーター」の教えの中心がまさにそれ。
つまり、真実を正しく理解することによって、人は自由の本質を身につけることができるという教えです。
スー・チーさんがこの古典を読まれたことがあるのか否かを知る由はありませんが、
ヨガ的見地に基づいていうと、厳しい環境の中にありながらも自分に与えられた使命を全うし、
尚もその心は自由だと言える彼女は、まさしく正真正銘のヨギーであると私は考えます。
「バガヴァッドギーター」の「真実の知識」に感銘を受け、どうにか自分のものにしようと努めるものの、
活字の中に納められた真実は、私自身の未熟さゆえに、なかなか頭の理解を超えることができません。
そんな私にとって、この一文が発信されてきたのは実に良いタイミングでした。
スー・チーさんの生き方、佇まい、心の在り方のすべてがこの一文に凝縮され、
「真実の知識」を私の心に垣間見せてくれたかのようです。
それでも私は相変わらず、「あれがあるといいな」「こうなるといいな」と言う風に、
自分の自由や幸せに対して条件付けを必要としてしまいがちです。
書物の真実と己の現実とのギャップが縮まるのは一体いつになることやら分かりませんが、
スー・チーさんの言葉は私の行く手を照らす灯りのひとつになってくれそうな気がします。
ナマステ&シャローム
Nozomi
およそ7年半ぶりの解放とのこと。
7年半もの長い歳月を自宅から一歩も出ることを許されずに過ごす。
私の想像力ではまるで及ばない大変なご苦労が伴ったであろうと思われます。
にもかかわらず、解放されたスー・チーさんの佇まいはあくまでも凛としていて、
その瞳の輝きは昔と変わらず健在です。
私はその姿を見て、同じ女性として憧れと尊敬の念を感じると共に、
「一体、彼女のこの強さはどこから来るのだろう?」と不思議でなりませんでした。
そんな折、とあるSNSを通して彼女の言葉が発信されてきます。
“I always consider myself free because my mind is free.”
直訳すると、
「私は常に自分自身を自由だとみなしている。なぜなら、私の心が自由だから。」
その一文は無条件に、一瞬にして私のハートのド真ん中に飛び込んで来ました。
私が今読んでいるヨガ哲学の古典「バガヴァッドギーター」の教えの中心がまさにそれ。
つまり、真実を正しく理解することによって、人は自由の本質を身につけることができるという教えです。
スー・チーさんがこの古典を読まれたことがあるのか否かを知る由はありませんが、
ヨガ的見地に基づいていうと、厳しい環境の中にありながらも自分に与えられた使命を全うし、
尚もその心は自由だと言える彼女は、まさしく正真正銘のヨギーであると私は考えます。
「バガヴァッドギーター」の「真実の知識」に感銘を受け、どうにか自分のものにしようと努めるものの、
活字の中に納められた真実は、私自身の未熟さゆえに、なかなか頭の理解を超えることができません。
そんな私にとって、この一文が発信されてきたのは実に良いタイミングでした。
スー・チーさんの生き方、佇まい、心の在り方のすべてがこの一文に凝縮され、
「真実の知識」を私の心に垣間見せてくれたかのようです。
それでも私は相変わらず、「あれがあるといいな」「こうなるといいな」と言う風に、
自分の自由や幸せに対して条件付けを必要としてしまいがちです。
書物の真実と己の現実とのギャップが縮まるのは一体いつになることやら分かりませんが、
スー・チーさんの言葉は私の行く手を照らす灯りのひとつになってくれそうな気がします。
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