丁寧に。
最近はヨガの練習中にこの言葉を何度も繰り返し心の中で唱えています。
そうすると、不思議なくらいすんなりと「今この瞬間」に意識が戻ってきます。
ヨガをやっていると「今、ここ」という言葉をよく見聞きします。
「今、ここ」。
この言葉の概念は、今この瞬間に自分の意識がしっかりと根付いていること、すなわち「集中」である、と私は理解しています。
私はこれがどうも苦手でした。
ヨガをする。見た目にはアーサナ(=ポーズ)を保っているように見えて、実は心の中では全然違うことを考えている。
例えば、座位のねじりのアーサナをしながら今夜の献立を考えていたりとかはしょっちゅうです。
私の意識は、ヨガの最中にあっても、夕飯の献立に始まり、昨日あったイヤなことや来週の予定、遠い昔の思い出まで、「今この瞬間」とは全く関係のない事柄を次から次に追いまわしてばかりいました。あるいは、周囲の人と自分を比べてみたり…。
先生の「意識を今ここに集中しましょう。」という言葉がけによって、なんとか我に返ることができていたという感じで、「せっかくヨガをやっているのに、なんだかあんまり集中できてないなぁ~」と軽く悩んでおりました。
3年ほど前にアシュタンガヨガに出会ってからは、そのダイナミックな動きについていくのが精一杯で、他の事を考える余地などはどこかへ吹っ飛んでいきました。
ところが、私の場合はそれも時間の問題。
良くも悪くも何事にも「慣れ」というのがあるもので、アシュタンガヨガも例に漏れず。次第に他の事を考えられる余裕が生まれてきてしまったのです。自宅で自主練習をする時などはことさらそうで、体の動きと意識がてんでバラバラ。
これでは心と体を結び付けるヨガの恩恵をほとんど受け取っていないことになります。
そんな折です、「丁寧に」という言葉がふと心をよぎったのは。
ちょうどヨガのクラスに参加している時のことでした。
「丁寧に」という言葉がまるで磁石か何かのようになって、どこかへ出かけていた意識を面白いくらいぴたーっと引き戻してくれた瞬間、「これだ!」と思いました。
「丁寧に」
それは、いつだったか、旧友の一人が新年を迎えるにあたり使っていたキーワード。友人はその年の初めに「今年は丁寧に過ごしてみようと思う。」と語っていたのでした。
また、「丁寧さ」というと、私は宇野千代さんや向田邦子さんの作品を思い出します。
今ほど便利でなかった分、どうしても手間暇をかけなくてはならなかった時代。
日常生活のさりげない所作のひとつひとつが本当に丁寧だなと感心させられたものです。
そこに込められた真心のようなものが、一瞬一瞬を豊かにするような言葉。
「今ここ」といくら言い聞かせても引き戻すことができなかった意識が、「丁寧に」と言い換えるだけで素直に言うことを聞いてくれるようになりました。
意識という名の馬を乗りこなすための大切な手綱。
もっと言えば、私にとっては、この言葉が「今ここ」へ繋がるマントラのようなものになっています。
そして、それはヨガに限らず、日常生活の様々な場面においても同じ。
自分に与えられた今この瞬間を大切にする気持ちを養う手助けになっています。
最近はヨガの練習中にこの言葉を何度も繰り返し心の中で唱えています。
そうすると、不思議なくらいすんなりと「今この瞬間」に意識が戻ってきます。
ヨガをやっていると「今、ここ」という言葉をよく見聞きします。
「今、ここ」。
この言葉の概念は、今この瞬間に自分の意識がしっかりと根付いていること、すなわち「集中」である、と私は理解しています。
私はこれがどうも苦手でした。
ヨガをする。見た目にはアーサナ(=ポーズ)を保っているように見えて、実は心の中では全然違うことを考えている。
例えば、座位のねじりのアーサナをしながら今夜の献立を考えていたりとかはしょっちゅうです。
私の意識は、ヨガの最中にあっても、夕飯の献立に始まり、昨日あったイヤなことや来週の予定、遠い昔の思い出まで、「今この瞬間」とは全く関係のない事柄を次から次に追いまわしてばかりいました。あるいは、周囲の人と自分を比べてみたり…。
先生の「意識を今ここに集中しましょう。」という言葉がけによって、なんとか我に返ることができていたという感じで、「せっかくヨガをやっているのに、なんだかあんまり集中できてないなぁ~」と軽く悩んでおりました。
3年ほど前にアシュタンガヨガに出会ってからは、そのダイナミックな動きについていくのが精一杯で、他の事を考える余地などはどこかへ吹っ飛んでいきました。
ところが、私の場合はそれも時間の問題。
良くも悪くも何事にも「慣れ」というのがあるもので、アシュタンガヨガも例に漏れず。次第に他の事を考えられる余裕が生まれてきてしまったのです。自宅で自主練習をする時などはことさらそうで、体の動きと意識がてんでバラバラ。
これでは心と体を結び付けるヨガの恩恵をほとんど受け取っていないことになります。
そんな折です、「丁寧に」という言葉がふと心をよぎったのは。
ちょうどヨガのクラスに参加している時のことでした。
「丁寧に」という言葉がまるで磁石か何かのようになって、どこかへ出かけていた意識を面白いくらいぴたーっと引き戻してくれた瞬間、「これだ!」と思いました。
「丁寧に」
それは、いつだったか、旧友の一人が新年を迎えるにあたり使っていたキーワード。友人はその年の初めに「今年は丁寧に過ごしてみようと思う。」と語っていたのでした。
また、「丁寧さ」というと、私は宇野千代さんや向田邦子さんの作品を思い出します。
今ほど便利でなかった分、どうしても手間暇をかけなくてはならなかった時代。
日常生活のさりげない所作のひとつひとつが本当に丁寧だなと感心させられたものです。
そこに込められた真心のようなものが、一瞬一瞬を豊かにするような言葉。
「今ここ」といくら言い聞かせても引き戻すことができなかった意識が、「丁寧に」と言い換えるだけで素直に言うことを聞いてくれるようになりました。
意識という名の馬を乗りこなすための大切な手綱。
もっと言えば、私にとっては、この言葉が「今ここ」へ繋がるマントラのようなものになっています。
そして、それはヨガに限らず、日常生活の様々な場面においても同じ。
自分に与えられた今この瞬間を大切にする気持ちを養う手助けになっています。
何か、今までと違う発見があったりしましたか?
心を込めて続けていく過程で、自分自身を知り、さらには、その成長に繋がるのであれば、
人がそれをヨガと呼ぼうが呼ぶまいが、横さんはヨガをやっている。
そして、その恩恵をたくさん受け取っている。
私はそう思うのですよ。
誰に習うもなく、ヨガの本来の恩恵など知らずにやっていましたが。
なるほど。
今ここ。
丁寧に。
そういう思いで身体と話しするとまた違うかもしれないかな。
意識して今朝からやってみます。